#fin 失恋で新たな恋は始まらない


 涙が溢れて仕方なかった。


 すっかり浸水した靴底は不快感を煽り、絶え間なく宙を舞う粉雪は大きく視界を遮る。

 先ほど失恋したばかりの私に、この仕打ちはあんまりだろう。


 もうすぐ家に着くというのに、私の気持ちは全くもって晴れる気配を見せない。この天気と同じように。


 ふと信号機に足止めをされて、その赤を見上げることになる。うんざりしてため息が溢れると、それは白い吐息となって空気中に消えていく。

 傘から少しはみ出したリュックはもうずぶ濡れになっている上に、雪すら積もっている。

 その中に頑張って詰め込んだ着替えやパジャマはもはや意味を持たず、ただ私の空虚な感覚と喪失感を増幅させるだけだった。


「もう……」


 そんなことを思うとまた涙が出て来た。

 お泊まりだ、なんて想定して家を出た私が馬鹿らしくて仕方がない。私は『ただの後輩』なのに、何をそこまで思い上がっていたのだろうか。


 彼は、私を選ばなかった。


 いや、選ばなかったなんて言うのもおこがましい。そもそも土俵にすら上がっていなかった。私は彼に、告白すらしていないから。


 だから私が悲しむのはお門違いだと分かっている。

 分かっているけど、悲しみがこみ上げて来て止まらないのだ。

 

 彼に会いたい。会って想いを伝えたい。


 だけど目の前に佇む信号機は青に変わり、無慈悲にも家に帰れと告げてくる。

 後悔虚しく後ろを見ると、私の通って来た足跡が薄く残っている。でも彼のアパートは白色のカーテンに遮られていて見ることはできない。


 何故私は泣いているのだろう。


 チャンスは十分過ぎるほどに訪れたのに、それを生かしきれなかった私が悪いのだ。

 正直言って、今までのどの場面で告白してもおかしくはなかった。なのに私はへこたれて何も言えなかった。


 それに加えて私は、色んなずるい事をした。

 綾沙さんが訪ねて来たのを黙っていたり、仲を引き裂こうとひどく突き放したり。

 そんなことをした私が綾沙さんに文句を付けるのはおかしいことだと分かってる。


 だけど彼には、私を選んで欲しかった。


 煮え切らない想いを胸に、私は潔く青信号を進むことにする。足下に降り積もる雪を、水浸しとなった靴で踏み鳴らしていく。

 降り続く粉雪の隙間から私のアパートが見える。

 本来なら一刻も家に着きたいところではあるが、生憎私の足取りは重く、歩いても中々家に近づくことはない。


 ふと空を見上げると、いつか訪れたクリスマスの夜に見たような、純白の粉雪たちが私を非現実的な感覚へ誘う。

 ひらひらと軽やかに宙を舞うそれらは、私の重い心情を嘲笑うかのように綺麗に降り続ける。


 もう彼のことは諦めるべきだと、空を見上げてふと思った。


 世の中は彼以外の異性で溢れかえっている。何も彼だけが男じゃないのだ。

 多くの男性は、失恋したての女の子に寄ってくる習性がある。それに私は自分で言うのも恥ずかしいが、結構可愛いのだ。恋人だってすぐできるに決まっている。


 新しい恋人ができたら一緒に笑い転げたり、愚痴を垂れたり、イチャイチャしたり、色んなことをしたいな。

 そして、「失恋したこともあったね」なんて、過去を美化する台詞を吐いてみたい。


 そんなことをひたすらに考えていると、私はいつの間にか玄関の前に辿り着いていた。

 涙はいつの間にか止まっていた。枯れてしまったのかもしれないし、昂っていた感情が収まったからかもしれない。


 悴んで震える手をポケットに入れて、部屋の鍵を取り出す。

 なんとかそれを鍵穴に差し込んで、冷え切ったドアノブを引く。


 部屋の中は薄暗くて、薄ら寒かった。

 照明や暖房をつけようとするが、生憎それは何の反応も示さない。

 そう言えば出発する際にブレーカーを落としていたのだった。


 …………。


 自然と、出発する前の呑気だった私を思い出してしまった。何の危機感もなく、能天気に彼の下へ行こうとする私を。


 あの頃に戻りたい。まだ彼が、私から離れて行ってないあの頃に。

 あの頃に戻って、この想いを叫びたい。今からでは遅過ぎるこの想いを。


 でもそれが叶わないと知っているから、私の目からは涙が溢れて止まらなかった。



 ○○○



 粉雪が宙を舞い、大して人のいない歩道を、俺は全力疾走で駆け抜けていた。

 鮮やかにライトアップされたイルミネーションも、クリスマスケーキを売るサンタたちも、そんなものは何一つなかった。

 唯一あるのは、俺のポケットに入った鍵。いや、俺のポケットに入った、合鍵だった。


『好きだ。付き合ってくれ』


 先ほど綾沙に言った言葉を未だに覚えている。

 そして、それを白鈴がどう感じたのかも分かる。


 白鈴は、俺のことが好きだ。


 酔い潰れた夜の告白、静まりかえった暗闇での一言。

 それらを思い出した今ならそう分かるのだ。


 だから、俺は白鈴の下に行かなければいけない。

 彼女はきっと、ひどく落ち込んでいる。

 

 想い人が違う人を好きと言っている場面に遭遇したら、それは絶対に切ない。胸を打たれたような痛みが走り、一気に絶望が身を包む。

 そしてそれは、俺が何よりもよく知っていることだ。


 だから今、絶対に彼女のところへ行かなければならない。


「…………着いた」


 昨晩を過ごしたアパートに、肩で息をしながら到着した。頭や服は雪を被らせ、靴底は言うまでもなく冠水している。


 クリスマスを過ぎて用済みになったにも関わらず、無神経な空は変わらず雪を降らし続ける。

 傘を持たなかった俺を恨みながら、ふと空を見上げる。

 だがそんな意思とは裏腹に、俺の目線は彼女の部屋の前で止まった。


 ドアが閉まっていくところが見えた。


 こんな風に呑気にしている暇はないのだと自分を律して、止めた足をまた無理やり動かす。

 息切れも足の疲労も辛くて、思わず止まりたくなる。

 だけど彼女はこんな俺よりも辛いと知っているから、歯を食いしばって進み続ける。


 滑りそうな階段を、手すりに頼りながら一気に駆け上がっていく。階段に溜まった水が大きく跳ねるが、すでにボロボロの俺には関係ない。


 階段を登り切って彼女の部屋が間近に迫る。走りながらポケットの中にある鍵を取り出して、そのドアノブにしがみつく。


 やはりドアには鍵が閉まっていた。

 だから俺は、使うことのないと思っていた合鍵を迷うことなく差し込む。


 白鈴の目に涙がないことを信じて、俺は大きくドアを開いた。



 ○○○



 「白鈴!」


 いきなりドアが開け放たれると、叫ぶように私の名前が呼ばれた。

 

 ベッドに腰掛けて嗚咽していた私が、そちらを向いたのは必然だった。

 暗い部屋の中からでも雰囲気と声だけで、その人物が誰であるかは瞬時に分かる。

 

 せんぱいだ。


 肩は大きく上下し、白い息が絶え間なく浮かび上がっている。

 走って駆けつけてくれたことが容易に想像できた。


 お互いがしばらく固まり、微かに雪の降る音だけが聞こえる間が訪れる。

 けどその間は少しも続くことなく、せんぱいがこちらに駆け寄って来たことで途切れた。


 私は慌てて涙を拭って、いつも通りの笑顔を見せる。


「せ、せんぱい、こんにちは! どうしましたか? 忘れ物ですか?」


 でもせんぱいは何も言わずに、私の方へ近づいてくる。

 そして、勢いよく私を抱きしめた。


「白鈴、ごめん。本当にごめん」


 それはせんぱいらしくない、本当に申し訳なさそうな声音。

 普段は私に決して見せることのない感情的な言葉が私の心に響かないはずがなく、一気に涙腺を燻られる。


 でもここで泣き出してはいけないのだ。

 それはまさしく悲劇のヒロインがとる行動。そしてそんなヒロインになったら、私の未来は悲劇に決まってしまう気がした。

 つまり、せんぱいにとっての負けヒロインになってしまう気がしたのだ。


「せ、せんぱい。どうしたんですか?」


 とぼけて普段の私を意識する。

 だけどせんぱいの態度に変化はなかった。

 いや、むしろ


「頼むから、こんな時まで気を使わないでくれ。本音が聞きたいんだ」


 私を抱きしめる力が強くなったのを感じる。

 それと同時に、私の涙腺が崩れていくのを感じた。


 ダメだ、泣いたらダメなんだ。

 

 そうやって自分に言い聞かせるが、返す私の言葉は隠せないほどに涙声になっていた。


「いや、別に……。本音……」


 でも限界だった。

 私の目からは涙が溢れた。

 それは帰り道に流したものよりも重く、止まる気配を見せなかった。


「せ、せんぱいのばか! なんで謝ったりするのっ!」


 せんぱいは何も悪いことをしていない。

 悪いのは私なのに、せんぱいが謝るのはおかしいのだ。


「別にせんぱいのことなんて好きじゃないし! せんぱいが誰を好きでも、私には関係ない!」


 私は心にもない言葉で泣きべそを隠すことしかできない。

 せんぱいの胸の中で泣きつくことしかできない。


「私だったらすぐに恋人も作れるの! いっぱいデートしたりイチャついたり、なんだってできるの!」


 幾度となくひどい言葉を重ねる。自分の傷が少しでも和らぐように、言い訳のようなことを口走っていく。


 だけどせんぱいは静かに抱きしめるだけ。

 大して傷つく様子も見せず、ただ変わらずに私へ寄り添う。

 そして、


「白鈴なら、きっとすぐにできるよ」


 その言葉で私は黙りこくってしまう。

 もしかしたらせんぱいの気が変わって、思い直してくれるかと思った。

 だけど、実際は優しく私を送り出す言葉が返ってくるだけだった。


 だから私はつい、今まで言えなかった告白を口にすることとなってしまう。


「……でもやっぱり、せんぱいじゃないといや……」


 言うはずのなかった言葉が漏れてしまうと、続けて色んな言葉が溢れてくる。


「せんぱいとじゃないと、ダメなの……」


 この言葉がせんぱいを苦しめるものだと分かっている。

 彼は決断して綾沙さんを選んだのだ。今更その決断を揺るがすような台詞を吐いてはいけないと分かっている。

 だけど、伝えたくて仕方ないのだ。


「二人でデートや旅行に行ったり、お泊まりしてイチャついたりしたい。でもそれは、せんぱいじゃないと意味がないの……」


 綾沙さんに比べたら全然少ないけど、私だって彼と思い出を重ねて来たのだ。

 二人で飲んだくれたり、初詣に行ったり、ベッドで抱きついたり、朝ごはんを作ったり。

 そしてこれからもその思い出を重ねていきたいのだ。

 でも、


「それはできない。ごめん」


 冷たいはずなのに優しい台詞が返ってきた。

 だから私は、子供のように駄々をこねることしかできない。


「なんでっ! 私だって本気なのに、どうしてっ! なら、なんで抱きしめてるのっ!」

「……俺は、白鈴に慰めてもらったから。失恋したての白鈴を放っておけなくて……」


 その台詞で私は気づいてしまう。


 クリスマスの夜に失恋したてのせんぱいを、私が励ましてあげたこと。

 今はその正反対の構図となっている。


「失恋は新しい恋の始まりだ、白鈴。だから悪い、俺とは無理なんだ」


 大学のカフェで私が口にした言葉を、今回はせんぱいが口にした。

 でも今なら分かる。分かってしまう。それが間違いであると。

 失恋した今でも、私の恋心は変わっていないから。


「すぐに新しい恋人もできる。白鈴は可愛いんだから」


 そんな優しい言葉をかけないで。涙が止まらないのだから。


「俺は白鈴の笑顔が好きなんだ。お願いだから、そんなに泣かないでくれ」


 泣かせた本人がそんな甘いことを言う。でもそんなのは逆効果で、涙は更にこみ上げる。


「別に白鈴と過ごした思い出が消えるわけじゃない。だから、涙を拭いてくれ」

「……本当に?」


 優しい声につられて、私はその泣きじゃくった顔を上げてしまう。

 そして私は驚いた。


「……せんぱい、泣いてるの?」

「え?」


 せんぱいは自分の目に指を触れさせると、途端に驚いた様子を見せた。

 続けて、誤魔化すような笑みを浮かべながら不甲斐なさそうに言った。


「あんまり、見られたくなかったな」


 ああ、なんて不器用な人なんだろう。

 初めからそんな表情を見せられたら、私は何も言えなくなったというのに。


 私の心情は一気に変わった。

 せんぱいが本当に必死の思いで私を慰めようとしていたことに、心が大きく揺れ動いたのだ。


「せんぱい、泣き虫ですね」

「否定はできないな」


 ようやく敬語に戻った私の言葉に、せんぱいは涙を浮かべた苦笑いで答える。

 その表情が妙に面白くて、私は素の自分を見せて笑みを浮かべる。


 何年も想い続けて来たこの人を諦めることはできない。

 だけど、必死になって励まそうとするせんぱいを見ていると、そんな感情は今においてはどうでもよくなった。


「せんぱい、これからもよろしく頼みますよ?」


 あざとい表情は作れなかった。代わりにありのままの笑顔でその台詞を口にする。


 だけどせんぱいは、いつもより嬉しそうな笑顔で言葉を返してくれた。


「こちらこそ、よろしく白鈴」


 目元に涙を浮かべながら、初恋の彼はそう口にする。

 そんな彼にまたもや心を奪われるが、私はもう泣きじゃくったりはしない。

 やっとこうして、失恋を潔く受け止められるようになった。

 

 ――失恋したての私を、初恋のせんぱいが必死に励ましてくれるから

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失恋したての俺を、あざとい後輩が必死に励ましてくれます シノノメさん @shino3sea

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