#22 "彼女"を選んで


 「少しでいいから、お話しできるかな……?」


 その言葉が雨の降る通路で、嫌になるほどにハッキリと耳に届いた。

 でも俺はすぐ答えることができず、辺りには雨の降り続く音だけが淡白に聞こえてくるだけである。

 そして先に口を開いたのは、沈黙を嫌がったような綾沙の方だった。


「どうしても、言わなきゃいけないことがあって」


 水音だけが支配するこの場では、彼女の台詞がやけに重々しいものに聞こえる。そう思ったのは俺だけではなかったようで、綾沙も言ってから目線を地面に向ける。

 またもや沈黙が訪れたが、今度のそれを破ったのは俺の言葉だった。


「話したいことって……?」


 自然と小さくなってしまった声が、彼女の耳に届いたのかは分からない。

 だけど綾沙はその声にしどろもどろになって、答えにならない答えを口にした。


「いっぱい、話したいことがあって……」


 そう口にする彼女の瞳は、微かに潤んでいるように見える。どういった心情で涙目になったのかは分からないが、今まであまり見たことのない表情に思わず冷や汗が出た。

 でも彼女は涙目を気にする様子もなく、言葉を続ける。


「……どこか、話せる場所に行けないかな?」


 随分と控えめな上目遣いと共にそんなことを聞かれる。その仕草が自分のかわいさを高めるものではなく、謙遜する意味のものだとすぐに分かった。

 そんな彼女に、俺は自然と否定の言葉を述べようとする。


「いや……」


 行くも何も、俺は話すとは言っていない。

 だけど、その言葉は綴り終える前に途切れてしまう。


 こんな寒い中、雨に濡れながらも俺を待っていた彼女のことを考えると、ここで断るのはあまりにむごいと思えた。

 それに、彼女が寒そうに体を震わせているのを黙って見ていられるほど、俺の性根は腐り切っていなかった。

 聞こえないような小声で「あーもう……」と呟いて、俺は手のひらに握られた鍵を鍵穴に差し込む。


「……入ってくれ。あと、傘は濡れるから外に置いておいてくれ」


 そうやって扉を開けて、中に入るよう促す。


 別に部屋になんて通したくなかった。

 ただ、他の所に移動するにしても、この雨ではどうしようもなかったからだ。



 ○○○



 勢いよく家を飛び出した私は、生憎の霙に見舞われていた。


 軽快な足取りで濡れる歩道を歩いていくと、知らぬ間に雨が霙へと変わっている。

 傘から滴る雨水を眺めていると、ふとそんなことに気がついた。


 私は信号機の青色を眺めて進みながら、あまりの寒さに体を震わせる。

 一応右手のビニール袋には、先ほどコンビニで買ったカイロやらホットミルクやらが入っている。正直、今すぐにコーヒーを飲みたい気分ではあるが、せんぱいの分もあるから二人で飲むことにしよう。


 なんて、せんぱいとの楽しいひと時を想像していると、元々早かった歩みが更に加速していく。半ば急ぎ足でここまで来たが、今の歩き方はそんなのよりも遥かに早かった。


 おかげで靴底はずぶ濡れで、靴下にも気持ちの悪い感触が広がっている。まあ、せんぱいの部屋なら裸足でも許してくれるだろう。


 楽観的な考えのもと、私は淡々と歩みを進める。

 すると間も無く、私が何日も居座り続けたアパートが見えてくる。

 雨に打ちつけられるあのアパートの中にせんぱいがいると思うと、なんだか胸がポカポカしてくる。おかしいな、カイロは使ってないのだけれど。


 私は、霙を降らせる迷惑な黒雲を見上げて少し思う。

 もしもこの天気がよかったら、せんぱいと色んなところへお出かけできたかもしれないのに、と。


 だけどそんな私の呑気な考えは、次の瞬間ですぐさま消えていった。

 

 せんぱいの部屋に、女性らしき姿が入っていくのが見えたのだ。


 その瞬間、様々なことが頭に浮かんでくる。

 澄香ちゃん、せんぱいのお母さん、西ノ瀬さん。

 援交、パパ活、デリヘル、出会い系。


 でも一番確率の高いのは、やはりあの人・綾沙さんだろう。


 …………。


 そんな光景を目の当たりにして、私は思わず固唾を飲む。

 そしてそっと、ポケットから合鍵を取り出して、手のひらのそれを見つめた。



 ○○○



 ここが自分の部屋なのか疑うほどに、部屋の中は静まり返っていた。


 「…………」

 「…………」


 部屋では二人の関係を持たない男女が無言を演じている。

 秒針の進む音が周期的に聞こえ、雨水の流れる音と相まって沈黙を強調している。

 さすがに歯切れが悪くなってきた。

 でもどうにも、自分から言葉を発するのは気が進まなかった。


「たーくんは、怒ってる……?」


 ふと沈黙の中にそんな言葉が投げかけられた。

 反応の仕方が分からず、数秒の間を開けてから答えを返す。


「いや、怒ってない……」


 その答えを機に、またもや沈黙が降りる。

 その沈黙は先ほどのそれとは異なり、言葉を探しているような気配を感じさせた。


「信じてもらえるか、分からないけど」


 すると綾沙が重々しい口を開き、自信のなさ気な前置きを口にした。

 そして、


「私、浮気してないよ」

「…………」


 俺はその言葉に対しても、変わらず沈黙を貫くだけだった。

 驚くこともなく、ただ先を促す間を作り出すだけ。

 彼女の言葉に大して驚かなかったのは、その言葉を心のどこかで待ち望み、密かに想定していたからだ。

 綾沙は口ぶりの重い様子で話し出す。


「たーくんは、私がクリスマスの夜に他の人と過ごしたかったから、別れのメッセージを送ったと思ってる、よね?」

「……ああ」


 でも、それが間違いであると指摘するように、綾沙は語気を強めて言った。


「それ、全部違うの」


 訂正と言うよりは信じを乞うような話ぶりの彼女に、自然と俺は耳を傾けられる。

 その先の話を聞いて、有耶無耶になっている俺の考えを確かなものにしたかったのだ。


「あの日、私がサークルの飲み会に行ったのは知ってるよね。そこで私は帰ったんだけど、一人が私に言い寄ってきて……」

「……賀代ってやつか」


 途端、神妙な面持ちだけを浮かべていた綾沙の顔が、喫驚を思わせるものに変わった。俺が賀代を知っていたことに驚いたようだ。


「そ、そう賀代くん。その人がね、つい最近失恋したって言ってきて、可哀想だったから飲み会で一緒に飲んであげて。そしたら、家に付いて来て……」


 ――抱きつかれた


 彼女がその言葉を言い切る前に、この後聞くことになるであろう台詞を口の中で呟く。

 そして、


「……突然、抱きつかれて」

「……ああ」


 俺はそんな答えとも呼べないぼやきを返すだけ。

 綾沙の言葉が真実なら、それは俺にとって大変喜ぶべき情報であるだろう。

 実際その言葉の真偽は、事前に俺が推測・憶測を重ねて出てきた結果と同じく、真実である可能性が限りなく大きかった。

 だけど。いや、だから。

 

 だからその言葉が、事実であってはならないのだ。


 その思いを晴らすべく、俺は彼女に追及する。


「ならどうして、連絡が途絶えたんだ?」


 思ってもいない、薄々察している質問をする。俺はその答えを、すでに半分くらいは知っている。知ってしまっている。

 だけど最後の悪あがきとして、その質問をせずにはいられなかったのだ。

 

「賀代くんを家に返した後に、連絡しようとしたの。だけど、いつの間にかたーくんの連絡先が消えてて……」


 しどろもどろになっていく彼女の言葉が、紛れもない事実であることを否応無しに告げてくる。


「後で飲み会のみんなから聞いたんだけど、賀代くんが私のスマホを勝手に触っていたって。その間に色々されてて……」


 通常、ラインからアカウントを削除しても、相手からメッセージが届けばまた復元することは容易にできる。

 だけど、たった二つの手順を挟むことだけで、新しく友達になるまでは復元不可能となる。


 その手順とは、トークルームの削除とアカウントのブロックである。


 これらの二つを行ってから削除すればアカウントは完全に削除され、もう一度追加するまでは一切連絡が取れなくなる。


 どうしてこんなことを知っているのか。


 昨晩、白鈴がシャワーを浴びている間に調べたのだ。

 ネットの浅い俺が見つけられたのだから、賀代というやつがそれを知っていても何らおかしなことではない。

 だけど、


「俺のアカウントが賀代って奴に消されたのは分かった。でも、だったらどうして直接来なかったんだ? そこまで遠くないだろう」


 ここが唯一、俺の見当がつかない点である。


 俺の目撃した浮気現場は粉雪と夜闇で見えづらかったが、抱き合っていたのではなく、抱きつかれていたと分かった。

 連絡がつかなくなったのも、賀代という男が悪知恵を働かせた結果だと分かった。


 いや、事前に分かっていた。


 だけど、まだ信じられないのだ。綾沙が浮気していない事実が。


 だから最後に、悪あがきに重ねた悪あがきをするしかなかったのだ。


「他の人から俺のアカウントを聞けばいい。……いや、それは無理か」


 指摘するつもりで口にした言葉が無茶苦茶であるとすぐに気づく。

 俺とラインを交換している奴なんて、本当に少ないからだ。


「家に来てくれればよかっただろう」

「いっぱい来たよ!」


 俺が言い終えると同時に、食い気味な様子で綾沙は反論した。その様子には気迫が溢れており、俺も少し気圧される。

 すると綾沙も取り乱したことに気づいたらしく、前のめりになった体を戻しながら「ごめん」と口にした。


「本当に来たんだよ。でもその度にたーくんがいなくて……」

「…………」


 この段階では答えを出すことが難しく、俺は沈黙を守ることしかできない。

 そんな心の内を読み取ったように、綾沙は話を続ける。


「クリスマス翌日の夜も、その翌日の朝にも来たけどたーくんがいなくて。だから大学とかカフェとか、たーくんと来た場所にも行ってみたけど、やっぱりいなくて」


 綾沙の声が微かに震えて、涙声に変わっていることに気づく。俯いて顔は見えないが、涙を浮かべていてもおかしくないほどに彼女は身を震わせている。


「毎年、たーくんは初詣とかに行かないから、元日の朝にも家に行って……」


 するとその言葉が途切れる。

 そして次の瞬間、彼女の目から涙が流れ落ちた。


「そしたら知らない子が出てきて、可愛い子だったから新しい彼女なのかなって思って……それで……」


 流れて止まらない涙を裾で拭いながら、嗚咽した言葉を必死に紡ごうとする。

 涙に邪魔されて聞こえにくい言葉が、確かに俺の耳に届く。


「もう新しい彼女さん見つけたのかなって、だけどどうしても仲直りしたくて……。あの子は新しい彼女じゃないって言い聞かせてたーくんを探して……」


 せっかく拭った涙が止まることなく溢れてくる。目元はすっかり赤くなっていて、意味がないのに彼女は一生懸命に目元を拭い続ける。

 その姿をつい痛痛しく感じて、俺の胸もつられて苦しくなる。


「だから信じて、たーくんを探したの。去年私と行った商店街に来るかと思って、ずっと待ってた。そしてたーくんは来たけど、その隣にはあの子がいて……」


 綾沙は一旦息を落ち着かせると、区切りをつけて真っ直ぐにこちらへ問いかけた。


「新しい彼女さんなの?」


 その言葉の後に、また涙が頬を伝う。もはや濡れ過ぎた裾でそれを拭きながらも、その目はこちらを見ている。


 でも俺は、そんな綾沙の目を見つめ返すことが出来なかった。

 彼女を見ていると、俺が本当に酷い人間に見えたから。


 俺は振られてからの数週間、慰めてくれる人がいた。

 いつも隣で笑っていて、励ましてくれるそんな後輩が。


 だけど綾沙の場合はただ一人、不安の中で復縁を目指すことしかできなかったのだ。


 だから、こんな表情を見せる綾沙に、俺の感情が揺れ動かないわけがなかった。


「いや、彼女じゃない。ただの後輩だ」


 無理やり綾沙と目を合わせて、その言葉を口にする。

 すると彼女は食い気味な様子で身を乗り出した。


「だったら!」

「また俺と、付き合ってくれ」


 綾沙が言うはずだった言葉を、俺が途中で奪い取った。


 面食らった表情を見せる綾沙をよそに、俺はすぐさま立ち上がって彼女の横に膝を着く。

 間近で見る綾沙の顔は、やはり目尻が赤く腫れている。


「虫がいいのは分かってる。だけどもう一度、あの関係に戻りたいんだ」


 俺は彼女から送られてきたメッセージを、まんまと信じてしまった。

 今まであれほど関係を積み重ねて来たのに、別れ話を疑いもしなかった。


 そして何より俺は、綾沙の浮気説を全く疑わなかった。

 俺は、彼女を信じられていなかったのだ。


 だからそんな真相は信じられるはずがなかった。

 冷たい態度や彼女へのお門違いな想像、勝手に被害者面をしていたこと。

 もしそれが本当なら、俺のした行動や態度は到底許されないものだ。

 

 彼女は俺よりも、辛いはずだったのに。


「俺から伝えるのがおかしいとは分かってる。だけど絶対に、俺から言わなきゃいけないんだ」


 言葉を区切り、意を決してその言葉を伝える。


「好きだ。付き合ってくれ」


 答えはなかった。

 その代わり綾沙は何も言わず、俺の胸に泣きついて来た。



 ○○○

 

 盗み聞きをするつもりは、毛頭なかった。


 だけど1Kの部屋にはキッチンと洋室を区切る扉がある。

 だからつい、聞き耳を立ててしまったのだ。


 扉の向こうは静かで、いろいろな会話が聞こえた。

 私がいつしか辿り着いた真相と、ほぼ同じの答え合わせ。

 泣きじゃくる女性の声。


 想いを伝えるせんぱいの言葉。


 自分で盗み聞きをしたのに、そのせいで泣いている私は大馬鹿者だ。



 ○○○



 扉を開くと、床が濡れていた。


 雨漏りではないことは容易にわかる。その跡は明らかに足跡だった。

 綾沙はまだ部屋にいる。俺も洋室から出た覚えはない。


 思考を巡らせているとあることに気がついた。


 ドアノブにコンビニの袋がかかっている。


 寄ってそれを見てみると、中にはよく見かける普通のカイロと、すっかり冷え切ったミルクコーヒーが二本。

 それと、小さな合鍵だった。


 その鍵を手にした瞬間、俺は様々なことが頭に過ぎる。

 同時に、身が縮んでいくのを感じた。


「綾沙悪い! 少し留守番しててくれ!」


 まだ乾いていない靴に急いで足を通して、玄関の扉を勢いよく開け放った。

 背後からは綾沙の声が聞こえてくるが、今だけはそれに構っている余裕はなかった。

 ポケットには種類の違う二つの合鍵がしっかりと入っている。


 粉雪が満天に舞う東京の街へ、傘もささずに勢いよく駆け出した。

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