#21 会うはずのなかった二人


 「白鈴ありがとな、またいつか来るよ」

 「なんなら毎日居てもいいですよ!」

 「……それは遠慮しておくかな」


 白鈴の家の玄関先で靴紐を結んでいると、彼女から見送りの言葉を受ける。


 朝から調子の変わらない白鈴を背に、悴んだ指で靴紐を結んでいく。


「せんぱい、この後雪が降るらしいので気をつけてくださいね」

「おう、さんきゅーな」


 開け放たれたドアからは確かに灰色の雲がよく見える。

 だけど、雨じゃなくて良かったと言うのが本音だ。

 雪ならばずぶ濡れにならないので、雨より苦ではない。


 靴紐を結び終えて立ち上がると、腰をよく伸ばす。

 昨晩は白鈴とおかしな体制で寝たため、肩こりと腰痛が酷く残っていたのだ。

 そんな俺を見て、白鈴も言葉を発する。


「昨夜はお楽しみでしたね! せんぱい!」


 別にローラ姫と宿屋に入った思い出はないのだが、白鈴は嬉しそうに言う。

 そんな微笑ましい彼女を見て、俺もつられて笑顔を向ける。


「はいはいそうだな、お楽しみだったな」

「なんですかそれ? 照れ隠しですか?」

「まあ半分くらいはそうだな」


 白鈴の軽口を軽口で返すと、俺はかかとを靴に合わせて歩き出す。

 

「じゃあな白鈴、色々ありがとな」


 今にも天候が崩れそうな黒雲の下、再度白鈴に別れを告げる。


「また来てくださいね!」


 乾いた空気の中に、白鈴の元気な声が聞こえた。





 

 寒気に凍える手のひらに息を吹きかけて、動かなくなったそれを解凍していく。


 クリスマスの夜に走り抜けた街の中を、ろくに前も向かないで歩いていく。

 当時はロマンチックに彩られていた店や、イルミネーションを架けられた街路樹は見る影もなく消え去っていて、めでたく祝うべき紅白の色合いへと変わっていた。


 あれ以来一度も通ったことのない道はあまりにも様変わりしていて、やはりこの道はあそこへ向かう以外に通らないのだと再認識する。


 あそこ、つまりは綾沙の家である。


 別に俺が今から、彼女の家に押しかけるつもりではない。

 ただ、昨日の田嶋や西森との話し合いが、俺の頭に深く残っていたのだ。


 だから俺は今、あの日必死になっていたこの道をゆっくりと進んで彼女の家に向かっているのである。


 からっ風が吹き抜けると手が悴んでしまい、手袋を持ってこなかった自分を深く恨む。

 仕方がないのでポーチから使い捨てカイロを取り出して、ポケットの中に忍ばせることにする。


 と、そこでポーチを開けてあることに気がつく。

 昨晩から身に付けていた腕時計がなくなっているのだ。


 どこで忘れたのか思い出してみるが、すぐに見当がつく。

 たぶん白鈴の家である。

 シャワーを浴びる前に脱衣所に置いたままだったのだ。


 だが別に、わざわざ戻って取ってくる必要もないと思う。白鈴の家から出発して、まあまあの時間が経っていたからだ。

 なんなら白鈴のことだから家まで届けてくれそうである。

 そしてどうせ、「届けて疲れたので、泊めてください!」とでも言うのだろう。


 そんな見当という名の妄想に浸っていると、目的地に着いた。久しぶりにやってきた、綾沙のアパートである。


 元々薄暗かった辺りが、一段と暗くなった気がした。

 おそらく濃い雲が太陽を遮ったのだと分かるのだが、どうしても俺は空を見上げる気にはなれない。


 見上げればもしかすると、あの日と同じような風景を目の当たりにしてしまうかもと思ったのだ。

 そんなことありえないと分かっているのに、あの瞬間が脳裏に焼き付いてどうにもならない。


 だから俺は、見直す必要がないように目を見開いて上を見上げた。


 …………。


 そこには何も見えなかった。


 もっとも、辺りが夜のように暗くて、粉雪が視界を邪魔していたのなら、見間違いの一つくらいはしていたかもしれない。



 ○○○



 せんぱいが帰った後のこの時間は、案外私のお気に入りのひと時である。


 ベッドに仰向けにありながら、私はそのことを実感していた。


 せんぱいの匂いがうっすらと残っていたり、整っていない掛け布団が生々しかったり。

 色々なところで、せんぱいが家に来たという事実を感じられる。


 思えば、あの合コンから約3年が経とうとしていた。


 当時の私からは想像もつかなかっただろうが、今やっとここまで来た。

 頑張ってコミュ障を治して、髪型も変えたりして、眼鏡から慣れないコンタクトにもした。

 得意とは言えない勉強をして同じ大学に入って、人付き合いが苦手なのにサークルにも入って、とにかく色んなことをした。


 そしてせんぱいが別れた今、これは思ってもいなかったチャンスなのだ。


 正直私は、せんぱいの失恋を喜んでしまった。

 

 私の日頃の行いが実り、降って湧いた僥倖であると思ってしまった。

 これが性格の悪いことだとは分かっているけれど、喜んでしまって仕方がないのだ。


「はぁ……」


 いつの間にかもの想いにふけていると、窓の外を雨粒が叩き始めた。

 冬にはあまり見かけることのない雨が、こんなセンチメンタルな心境の時に限って降り始める。憂鬱な気持ちはその天候に比例して、晴れることなく更に曇っていく。


 せんぱいは濡れてないのかな?


 そんなことがふと頭に浮かぶ。いつの間にかせんぱいのことを考えてしまうのは、最近よくあることである。

 何をしてるのかな、何を考えているのかな、なんてことを無意識のうちに考えてしまい、その度答えが出ずにモヤモヤだけが残ってしまうのだ。

 

 浮かない気持ちを抱えて、私はベッドから重い体を起こす。私もせんぱいと同じく体に痛みを感じたが、昨夜のことを思い出せば、なんの苦でもなかった。

 むしろ、あんなに気持ちいいことの代償が、ただ体が痛くなるだけであれば安いものだ。


 ふと洗面所に足を運ばせて、なんとなく鏡の前に立ってみる。

 そこに映るのはここ数年で随分と可愛らしくなった私の姿。


 コンタクトに変えてパッチリとした目。

 自信のないような猫背はきちんと伸びきっていて、なよなよしい姿は見る影もない。

 滅多に上がることのなかった口角は当然のように上がっていて、明るい印象と共に好意的なものを感じる。


 当時、まだせんぱいと出逢ってなかった頃の私が見たら、赤の他人と見間違えるに違いない。

 それほどまでに私は、外見に関して大きな成長を見せていた。


 だけど、内面に関してはまるで変わっていなくてうんざりする。


 彼への気持ちを伝えられないのは、出逢った時からまるで変わっていなかったからだ。



 ○○○



 雨が降ってきた。

 

 コンビニでビニール傘を買って外へ出ると、横なぶりになった雨が俺のことを出迎える。

 自然と、出発する前に白鈴が教えてくれたことが頭に過ぎる。


 この後は雨が雪に変わると思うと、なんだか感慨深いものを感じる。


 というのもあのクリスマス以来、この東京に雪は降っていない。

 だからふと雪を見たら、失恋したての気持ちが蒸し返してくるのではないかと疑ってしまうのだ。


「……いや、ないな」


 傘を広げて足を進め出しながら、口の中で自分の考えを否定する。

 

 今日に至るまでの何日もの間、可愛い後輩が俺を慰めてくれたのだ。それなのに俺がまた落ち込むなんて、あってはならないことであると思う。


 白鈴と過ごした時間は本当に楽しくて、失恋を忘れてしまうことも少なくなかった。


 大学のカフェに駆けつけてくれたクリスマス。無理やり連れて行かれた合コン。彼女の様子がおかしかった初詣。手料理の朝ごはんをご馳走になった元日の朝。二人で悪知恵を働かせた商店街と、仲良くカニを囲んだその日の夕食。壁越しに話し合った近所の銭湯。


 たった数週間の歳月しか経っていない思い出なのに、それが掛け替えのないものだということは確かに分かる。


 柄にもない考え事をしていると、いつの間にか家の近くの信号に捕まっていた。靴底が濡れているので一刻も早く家に着きたかったのだが、そんなことで交通ルールを破るわけにもいかないので雨が降る空を見上げる。


 先ほどから降っていた雨は、いつの間にか霙に移り変わっていた。

 でもきっと、俺のように空を見上げなければ、雨が霙になったなんて誰も気づかないのだろう。

 大半の人間にとって、霙と雨なんてほぼ同じなのである。

 降れば濡れる。見た目や呼び方が違うだけで、結果としては結局のところそれだけなのだ。


 だけど俺は、その二つを明確に差別化して区別するべきだと思う。いや、思うようになった。


 雨が降ったのなら雨と、霙が降ったのなら霙と。


 抱き合っていたのなら、抱き合っていたと。

 抱きしめのなら、抱きしめと。


 そう表現するべきだと思うようになった。


 そんな思考を巡らせて、やっと着いたアパートの階段を登っていく。足元に雨水を跳ねらせて、その一段一段を噛み締めるように上がる。

 ちらほらと足元にも、霙と思われる粒が見える。


 雨の降り続く音を耳にしながら、ポケットから鍵を取り出す。とうとうこのずぶ濡れになった靴を脱げると思うと、俺の歩みは自然に加速していく。


 だけど、その足は一瞬にして止まることとなった。


「あ、たーくん……。急にごめんね、えっと……」


 どれくらいここで待っていたのだろうか。

 声の主の半身は雨に打たれて濡れていて、なんとも痛々しい印象を受ける。

 申し訳なさそうに顔を俯かせる仕草も相まってかわいそうな気持ちにまでなってしまった。


 するとその彼女は、泳がせていた目線を真っ直ぐに向けてこう聞いてきた。


「少しでいいから、お話しできるかな……?」


 俺の部屋の前で、今井綾沙が帰りを待っていたのだ。



 ○○○


 あれ? これなんだろう?


 美容意識で朝シャワーを浴びた私は、洗濯機の上に置かれた腕時計に気づいた。


 高くも安くもなさそうな、至って普通の腕時計。


 まじまじと見なくてもすぐ分かる。これはせんぱいのものだ。


 ということはである。

 せんぱいがこれを忘れていったのなら、私が届けてに行ってもおかしなことではないのである。

 むしろ優しくて、気が利いて、できる後輩の行動だと称賛されるべきであるのだ。


 …………。


 下着しか身につけていない体でクローゼットに向かい、中から着替えや下着を取り出す。

 暖房やテレビを切って、ついでにブレーカーも落としておく。長旅の際にはブレーカーは落としておくのが好ましいだろう。


 荷物を詰めたリュックを持って、私は勢いよく雨の降る外に出た。もちろん、本題の腕時計も忘れずに持った。


 せんぱい待っててください、今から私が届けに行きますよ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る