関東で初めて天皇陵が出来た地
井上みなと
第1話 関東で初めて天皇陵が出来た地
中央線の終着駅・高尾。
高尾山にほど近いこの駅は、かつては『
明治時代に浅川駅だった頃、この場所は高尾山薬王院有喜寺の門前町として発達した。
その後、高尾山以外にも名所が出来て、浅川はより賑やかな場所になった。
高尾山以外の名所とは何か。
それは大正天皇陛下の
多摩陵は関東で初めて出来た天皇陛下の
即位後から
だが、大正天皇陛下からは、陵が東京近郊に作られることになった。
この決まりを作ったのは、大正五年、伊藤博文の腹心であった
皇室に関する規則は、大日本帝国憲法と共に発布された
その後、伊藤博文が創設した『帝室制度調査局』により増補されたが、まだ
伊東は皇室関連で足りないものがないか再調査し、他の皇室令と共に『皇室陵墓令』を定めた。
『皇室陵墓令』第二十一条
『将来ノ陵墓営建スへキ地域ハ東京府及之ニ隣接スル県ニ在ル御料地内ニ就キ之ヲ勅定ス』
「これから陵墓を作るときは東京かその近県にある
陵墓令でそう定められ、場所の選定が始まった。
天皇陛下の御陵墓になるならば、それにふさわしい由緒ある地が良い。
関東でも古代より由緒ある場所はないかということになり、武蔵野は万葉集にも載る
「武蔵野の草は諸向きかもかくも君がまにまに吾は寄りにしも」
万葉集十四巻に読み人知らずの武蔵野の歌が載っている。
「武蔵野の草が あちらにこちらにそれぞれ靡くように 君の心のままに 私も寄り添ったのに」
そういう意味の歌だ。
他にも「武蔵野に占ヘ
また、多摩の丘陵地横山村には、巨龍の伝説があった。
龍が天に昇り、その後に豊穣なる地が残ったという伝説が残っている。
蛍の名所としても有名で、多摩横山も万葉の歌に残る地であった。
候補に挙がった武蔵野の地は、地盤が調査された。
ただ、由緒あるというだけでなく、科学的な面でも相応しいか審査されたのだ。
その結果、武蔵野は地震にも強いと良き地と判断された。
武蔵野はこうして関東の『聖地』として選ばれた。
昭和二年、宮内大臣が武蔵野を皇室の御陵墓地とし、武蔵陵墓地と称する旨を公布。
一月に日枝神社宮司による陵所地鎮祭が行われた。
同時に大正天皇陛下の棺を運ぶため、皇室専用の駅『東浅川駅』が建設された。
東浅川駅は社殿造の珍しい駅舎であった。
二月には新宿御苑において大正天皇陛下の『
『斂葬の儀』とは葬儀・告別式にあたる儀式である。
儀式が終わると、大正天皇陛下の棺は鉄道で運ばれ、新築された東浅川駅に降り、武蔵陵墓地にある多摩陵に埋葬された。
一般の参詣が許されるようになると、多くの参拝者が多摩陵に詰めかけた。
初めて関東に天皇陛下の陵が出来たのである。
関東の人々にとっては、とても喜ばしい出来事だった。
それまで京都まで行かないと見ることが出来なかった陵が、東京から約一時間半で見に行くことが出来るのである。
参拝客の数は驚くべきほどで、昭和六年には御陵線という参拝のための路線が出来るほどだった。
春には武蔵陵墓地を彩る薄紅の桜が、秋には七百本を超える銀杏が参道を黄金色に染め、人々を楽しませた。
武蔵野は東京に出来た『聖地』として栄えたのである。
なお、御陵線は昭和二十年に『不要不急路線』と休止し、沿線の各駅も同時に休止となり、後に廃止される。
また、社殿造の駅舎であった東浅川駅は駅の廃止後に『陵南会館』という八王子市所有の集会施設となったが、平成二年、爆弾テロにより焼失してしまった。
平成二年は上皇陛下の即位の礼が挙行された年であり、即位に反対する思想団体が、日本各地でテロを何度も起こしていた。
それまで皇室テロの対象は、天皇陛下や皇族方を祭神とする神社や、現在も皇室に関わりのある施設が主であったが、過去の皇室関連施設まで標的となり、人々を驚かせた。
今、武蔵野の地には大正天皇陛下、貞明皇后陛下、昭和天皇陛下、香淳皇后陛下が眠られている。
東京で初めて『聖地』となったこの地が、これからも末永く栄えていくことを祈りたい。
関東で初めて天皇陵が出来た地 井上みなと @inoueminato
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