第89話門の上に住む吸血鬼
常夜街第5区、第6区。その間に存在する第1区に繋がる門。
その上部には邸宅が存在する。門の上に家。何とも奇妙なデザインで、見る者が見れば眉を顰めかねないものだが、ここでは誰もそれを指摘しない。
というよりも、指摘するほどその建造物を見る者がいないと言った方が正しい。
その家に明かりが灯されることはない。まるで無人。生活をしている者がいるとは到底思えない静けさに支配されている。
しかし、そう見えるだけでちゃんとその家で生活している者はいる。
この家の周囲には光源は少ないため、家の中は常夜街を覆う帳のように暗い。それでもこの家の主には関係なかった。
「…………」
伸びて長くなった爪。ボサボサの髪。荒れた肌。不健康そのものを体現したような姿をしている吸血鬼。この吸血鬼こそ、第一の門を守り続け、長くレジスタンスの侵攻を阻み続けた壁。ジドレーである。
彼は何をするのでもなく、ただジッと部屋の隅で膝を抱えていた。
彼の足元には子猫が1匹。甘えているのではなく、本能すら麻痺する程恐怖から動けなくなっていた。
瞳孔は開き、部屋のあちこちに視線を巡らせる。
ガチャ——と部屋の扉が開かれた。
ジドレーの目が瞬時に扉へ向けられる。そこにいたのは1人の少年だ。まだ年齢は10もいっていない男の子が、部屋に入って来る。
瞬きすらしない吸血鬼の眼光に怯え、体を震わせながら1歩1歩中へと踏み出してくる。少年はジドレーの方を見ない。視線が行きそうになるが、全力で首を固定させて自分の役割だけに集中する。
少年はこの家で吸血鬼の世話をしている者の1人だ。彼と同じような境遇にいる者達は多く、今は下の居間で食事の用意をしている。
少年の体には幾度にも噛まれた傷があった。これは全てジドレーによるものだ。少年と同じようにこの家で今働いている者達には必ずあるもの。
気に入った食事を食べきるのを惜しむ様に、特に幼い子供を保存しているのだ。
この家に生存している生物は全てジドレーの手つきだった。
部屋の机の上にある子猫だったものを片付ける。悪臭が酷く、咽そうになるのをグッと我慢して呼吸を止めて片付ける。ガチガチとなりそうな歯を顎に力を入れることで音立てないようにする。
ずっと背中には視線が刺さっている。それを感じながらも少年は手を止めない。早くこの部屋から出たいからだ。
「————ッ」
布が擦れる音。床が軋む音が少年の耳に届く。
ビクリッと体を震わせた。
足音が少年の所まで来る。
今、背後にジドレーがいる。それが分かってしまう。人間では出せない物々しい気配は少年でも敏感に感じ取れた。
大量の汗が流れる。顎に力を入れることも忘れ、歯は小さく音を立てる。
少年の手は、止まっていた。
「ニャー」
猫の鳴き声が響いた。
咄嗟に少年はその鳴き声がした方へと目を向ける。ジドレーも同じだ。
少年は自分では扉をしっかり閉めたつもりだった。だが、実際には扉を閉められていなかった。
音を立てることを恐れていたため、最後まで閉じられていなかった。そのせいでその猫はこの部屋に入って来てしまった。
「シャー‼」
「ぁ————」
その猫が部屋に入って来た理由は簡単だ。この部屋にいる子猫達の親だからである。親が子を心配するのは当然のこと。時に母親はこのためならば強大な相手にすら立ち向かうことだってある。
この猫も当然のことをした。
この亡骸を、動けなくなっている姿を見て、その元凶に向けて鋭い牙を見せる。
少年が小さく声を漏らす。それをしてしまったら、ここでは生きていけないと分かっているから。
影が動いた。
悲鳴はなかった。上げる暇もなく殺された。
少年は見ていた。母猫が臓物を散らして死ぬ姿を。
躊躇なく猫に手をかけた吸血鬼は少年に向かって命令を下す。
「片付けておけ」
ガラガラの声。聞き取ることが難しい肉声。少年の返事を待つことなくジドレーは下へと降りていく。
少年が廊下に出る。
そこには母猫だったものがある。近くに吸血鬼の姿はなかった。
「アッ——アァッ」
膝を付き、空気を大きく吸う。
生き残った。この猫のおかげで生き残った。この猫が来てくれなければこうなっていたのは自分だった。けれど、猫は死んでしまった。自分よりも長くこの家にいて、本能であの怪物には近づかなかったはずなのに。子供のために命を投げた。
少年が手を動かす。
そうしなければ、どうなるのか恐ろしくて考えられなかった。
無意識に体を動かし、吸血鬼に命令された通りに片付ける。だが、長く続いた生きるか死ぬかの瀬戸際の時間は少年の精神を蝕み、今回のことで限界を迎えた。
「助けて」
小さく呟いた声。
その言葉はずっと胸に秘めていた言葉。誰にも言えず、言っても意味のなかった言葉。少年は思わず、その言葉を口にしてしまった。
「助けてやろうか?」
「——え?」
返ってくるとは思わなかった返事。
それが後ろから聞こえたことで少年は後ろを振り返る。そこにいたのは黒髪で長身の美しい女性。
少年はその姿に見惚れた。言葉も出せない程。
何故、ここにいるのか。何時入って来たのか。誰なのか。
疑問が出るはずなのに、その美しさに見惚れたせいで全てが吹っ飛んだ。
「望みを言え。叶えてやる」
美女の言葉に少年は素直に答えた。そうしなければ失礼だと思ってしまった。
限界だった所もあってその美女が救いに見えたこともあるのだろう。少年は答える。ここから逃げたい——と。
そんな少年に向かって女性は淡泊な口調で答える。
「良いだろう。その時が来たら逃がしてやる。それまで待っていろ」
そんなこと出来るはずがない。そう少年は思う。が、それを口にすることは出来なかった。女性の美しさ。突然助けの手を伸ばしてくれた存在に対しての思い。
それが正体不明の女性を神秘的なものへと昇華していく。
まるで神にお告げを告げられた神父のように。少年は頷いていた。
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