第54話偽りの記憶
抑えつけられていた。
我慢していた。
だけどもう無理だった。
我慢していたのに返ってくるのは失意の嘆息。自分の役割を果たそうとしているのに何一つとして努力は実らず、傷ばかりが体に刻まれていく。
だから、耳元で囁かれた声に我慢が出来なくなっていた。
空腹、喉の渇き、そして周りに広がる獲物。
あの時、あの場所で結城えりは吸血鬼となっていた。
肉を歯で咀嚼した感覚が残っている。1人1人の血の味を覚えている。それを甘美に思う自分により嫌悪した。
こんな記憶、全て無くなってしまったらいいのに。そう思ったことは何度あっただろう。
夢でうなされた時はずっと恩人が傍にいてくれた。不安を取り除いてくれた。温盛を与えてくれたことで人として生きられるようになった。失敗作でもここにいて良いと思えるようになった。
だが、罪の意識が消えた訳ではない。それは一生消えない。
傷口が開く。癒えたはずなのに、再び傷口がザックリと開いていく。
「おねがい。もう、やめて——」
記憶の奥底に封じ込められていたトラウマ。
人の血肉の味。喉を潤す感覚。肉が喉を通っていく感触。
全てが鮮明に再現される。これを忘れることは出来ない。克服することは出来ない。
「助けてッ恭也さん」
もう見たくないと目を背けても意味はない。永遠に、ずっと繰り返される。
子供のように泣きじゃくる。
「(良い具合だな)」
それを観察するのは結城の記憶に介入したラクシャサだ。
ラクシャサの異能に人を操る力はない。記憶を改竄して絶対的な忠誠を向けるようにしているだけだ。
お前達は俺の奴隷。俺を守ることを至上とし、そのためならば命も惜しまない兵士。
そのように全員に幼き頃から自分に仕えてきた偽りの記憶を植え付ける。
記憶は人の人格を作り上げる大事な要因だ。経験した出来事によって性格も変わってしまうことだってある。
そうやってレジスタンスの隊員達は記憶を消され、新たな記憶を刷り込まれ、吸血鬼の傀儡と化したのだ。
レジスタンスの隊員達のように記憶を改竄し、従順な僕に帰るのならば記憶を書き換えるだけでいい。
だが、ラクシャサは結城に酷い怒りと屈辱を与えられた。だから、僕にするのはやめる。心を壊す。泣かせる。恐怖させる。後悔させる。
そのためにはこの程度では足りないと、笑みを浮かべる。
「(記憶は蘇らせた。なら次は記憶の改竄だ)」
まだコイツは壊れていない。まだ追い詰められる余裕を残している。
徹底的に、徹底的に壊して受けた屈辱を倍にして返す。
今も心の支えになっている恩人に否定されたら、この娘はどうなるだろうかと予想し、記憶を改竄した。
結城の頭の中に偽りの記憶が流れ始める。
助けてくれる者はおらず、全ての者に否定される記憶。
亀裂が走る。
吸血鬼として認定され、追われる記憶。
亀裂が走る。
表を満足に歩くこともできず、腹を空かせ、裏通りを汚れた姿で歩き回る。
亀裂が走る。
死んだ仲間が吸血鬼となり、恨みを晴らすために追いかけて来る。
亀裂が走る。
「嫌だ。嫌だ、イヤだッ」
ボロボロだった。限界だった。
風が吹けば崩れ落ちても可笑しくはないバラバラのパーツを繋ぎ合わせただけのガラス細工のように結城の精神は脆くなっていた。
それでも何とか保っていたのは自分を救ってくれた恩人——石上恭也の存在があったからだ。まだ、そこだけは何にも侵されていなかった。
まだそこだけが結城の中で輝かしい光を放っている。
誘蛾灯に誘われる虫のようにその光に縋りながら、ギリギリ今の精神状態を保っていた。
しかし、瞳を合わせることで記憶を自由に覗き込み、改竄できるラクシャサが何の理由もなく支えとなるものを残しておくはずがない。
そんなもの、わざと残してあるに決まっている。
ラクシャサが結城に刷り込んだ最後の記憶が再生される。
歩いていたのは人目に付かない路地裏。
ビルの隙間にできたこの通りは、レジスタンスにも居場所がなくなり、街の人々から嫌われている結城が顔を隠さずに歩ける場所だ。
朧げな目で表に視線をやる。そこから見えるのは家族連れが楽しく帰路についている姿。覚束ない足取りの子供を助けるように親が手を引いている。
自分にもあんな過去があったら良かったのに。そう思って視線を切ろうとし、次に入って来た光景を見て思わず駆けだしていた。
結城の視線に映ったのは恩人たる石上恭也。
裏路地に転がるゴミやがらくたに足を取られ、転ぶように石上の前に飛び出る。
「恭也さ——……ん」
顔を上げて恩人の顔を見る。
久しく見る石上に結城の顔に笑顔が戻る——が、石上の表情を見て凍り付いた。
目にしたのは、懐かしい顔を見て喜んでいる訳ではない。そして、侮蔑でも嫌悪を抱く者がする表情でもなかった。
ただ、純粋に——目の前にいるのが誰かも分からずに困惑する者がいた。
「————」
亀裂が走る。
支えにしていたものが何の価値もなかったと打ち捨てられた気分だった。
隣には腕を絡めた金髪の女性がいる。彼の後ろには足元に隠れる子供の姿があった。
止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、茫然と虚ろな目をして記憶を見る。抜け殻同然にまでなりかけた結城。
それを見てラクシャサは笑い出す。
「ハッ——ハハハハハ!! 良い!! 我ながら良い作品だった!! これは帰って記録せねばな!!」
一頻り笑い、目端の涙を拭う。
まだ終わりではない。これで終わらせるつもりはない。後一言、後一言追加をしてこの作品は終了となる。
結城に決定的な一言を告げる記憶を再生する。
その光景を満足気にして——————————
「ダラッッッッッッッッシャアアァアアアァアア!!!!!!!!」
横から介入してきた雑音に顔を顰めた。
時間を少し遡る。
結城がラクシャサに記憶を改竄される少し前。北條が結城を援護するために死地へと踏み込んで直ぐの事だ。
目の前で繰り広げられる超高速戦闘に北條は当然ながらついていけなかった。粉砕されて落ちてきた瓦礫に身を潜め、戦いの余波で死なないようにするのが精一杯。
「(おぉッ!? 掠った。ねぇ今掠った!?)」
『掠ったな。もっと頭を低くしろ。そうだ。移動する時はそれを心掛けろ』
吸血鬼が蹴り飛ばした瓦礫が散乱し、辺り一面を襲う。常人ならざる脚力で飛ばされた石礫は散弾銃よりも質が悪い。なんせ銃弾よりもデカいのだ。
当たればデカい穴が体に空くことは間違いない。
格好をつけて飛び出して来た北條もすぐに返りたくなってしまう。
冷や汗を流しながら、被弾しないようにと瓦礫から顔を出す。
「(やばいな。全然補足できない。動体予測も当てにならないとかどんだけだよ)」
情報識別機に取り付けた演算機能で相手の動きを割り出そうとするも、動きが速すぎて機械が付いていけずにエラーを吐き出している。
肉眼で捉えようとしても北條の目に映るのは残像だけだ。
「(クソッ。やっぱり、吸血鬼の力が必要か)」
『そうか。ではどうする? 下級でも狩りに行くか?』
「(そんな時間はないし、1人で行動すると死にかねない)」
ルスヴンの力の蓄えは辻斬りの一件で底をついている。
食事をしなければ力を補充することもできない。だが、その肝心な食事をする対象が周辺にはいなかった。
目の前の戦いは苛烈になっていた。
『では、どうする?』
「(ルスヴン。知恵を貸してくれ)」
『良いだろう』
異能の力もない。自分の力で援護することもできない。ならば北條にできるのは頭を下げることだけだ。
ルスヴンが景気良く返事をして、ただし——と続けた。
『彼奴は余の食事とする』
「(つまり、俺は手の届く範囲まで近づかなきゃいけない訳か)」
『そうなるな』
下級ならば兎も角、中級吸血鬼に近づくことなど自殺行為に過ぎない。今の北條には異能の力もないのだ。
死ぬ危険の方が高い。いつもならばルスヴンもこんなことは言ったりしない。だが、今回ばかりはこの危険な橋を渡って貰うと決めていた。
「(分かった。何をすれば良い?)」
尤もそれで北條が迷うことはない。
自分ができることなどたかが知れている。自分が持つ力の小ささを知っているのだ。
力が無ければ取れる手段が少ないことも知っている。ハイリスクハイリターンで、殆どが勝負で負ける可能性があったとしても、何も返ってこないことは証明されている訳ではない。
ならば、やるべきだ。そこに命を懸けて全員が生き延びる可能性があるのならば、迷えるはずがない。
覚悟を決めた北條にルスヴンが軽く笑う。
『安心するが良い。余が付いているのだ。ハイリスクハイリターンの賭けだってノーリスクハイリターンになるのは間違いなし』
「(はいはい。そういうのはいいから作戦作戦)」
『…………お主、流すことを覚えおったな』
姿が見えていればジト目を向けていただろう。不服そうな声色を出していたが、まぁ良いと切り替えてようやく作戦を口にした。
『何簡単なことだ。ちょっとお主死んで来い』
まるで買い物でもして来いというようにルスヴンは軽く告げた。
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