第53話過去と嘆願書
怒りは冷静さを奪うだけではない。視界を狭くし、体の筋肉を強張らせ、無駄な体力を使わせると同時に相手に動きを予想されやすくなる。
相対する敵にとってそれ以上にやりやすいことはない。
罠を張るにしても、反撃を狙うにしても容易だからだ。
これまではそのアドバンテージが結城にはあった。しかし、それは結城の声を聞いたラクシャサは途端に怒りを上回る悦に頬を緩ませた。
その表情を見て察する。
——自分は何かを間違えた。
追い詰められている者の表情ではない。愉しむ者の笑みだ。
吸血鬼の表情は変わらない。
足を捩じ切ろうとも、上に首を断つために投擲用の武器があっても何一つとして変わらず、結城を見ていた。
極限の集中力によってゆっくりと周囲が動いている最中、吸血鬼の口が動いた。
「No.086」
「————」
ぞわり——と寒気が走った。
耳に届いたのはもう聞くことはないだろうと思っていた単語。かつての名前。
何故、それが今ここで吸血鬼が口にしているのか。そんなことを考える暇などなかった。
たった一つ。たった一つの単語を耳にしただけで連鎖的に過去の記憶が脳内に溢れ出す。
体の動きを止めるには十分すぎた。
吸血鬼が念力を振りほどき、上から降って来た投擲用の武器を破壊し、距離を詰める。反応が遅く、後ろに下がることもできなかった。
目元をすっぽりと覆っていた情報識別機を破壊し、万力の如き力で顔を掴まれる。
視線を逸らすことも塞ぐこともできない。
「よう、近距離戦は苦手か?」
結城の体が宙に浮く。
胴体に蹴りを入れても、腕を殴りつけてもビクともしない。
ラクシャサと結城の眼が合った。
「今度こそ、お前を壊してやる。全部思い出させてやる。安心しろ。壊れたって生きていけるさ」
その方が操りやすい。そう続けてラクシャサは異能を発動した。
それを止める術は結城にはなかった。
「————」
思考が停止し、瞳に魅入られる。
精神が過去を遡り、かつてのトラウマの元に誘う。
気が付けば、たった一つの照明しかない狭い部屋にいた。
暗い部屋だ。狭い部屋だ。
縦幅2メートル。横幅4メートル。簡易ベットが1つにトイレが1つ。部屋を照らすために申し訳程度にあったのが蝋燭1つ。
それ以外は何にもない。それが物心ついたころに住んでいた部屋だった。
この部屋が嫌いだった。という訳ではない。
むしろ、好きな方だった。だって外に出た時の方が怖いから。
父が誰なのかも分からない。母は最後に産んだお前が殺したと姉から聞いた。
どちらの姉だったか。そう、確か2番目の姉だったはず。いきなり姉だと言われて実感はなかったけど。
でも、もういない。もう半月も出会っていない。この部屋から出てすぐ隣がその姉の部屋だった。なのに今はもう別の誰かが入っている。
彼は一体誰だっただろう。強そうだ。男の子だった。だから、一緒の大部屋に行くことになったら大変そうだな。
そんなことを考えながら、扉の前でジッとしていた。
部屋の扉が開く。通路はこの部屋よりも明るかったけど、所々が雨漏れしていて濡れている。隙間風も吹いていて寒かった。
男の人が入って来る。
男が私の名前を言う。No.086——そう、それが私の名前。
付けられた理由は86番目に生まれたかららしい。
ビクリッと体が無意識に動く。
部屋の扉が空いて、この名前が口に出された時が一日の始まり。
おはようの挨拶も何もない。冷たい一日の始まり。でも、仕方がない。
今日も訓練だ。
人類の未来は君達に掛かっている。
君達だけが頼りだ。
どうか人類を助けてくれ。
そう言って、対して困ってもいなさそうなのに助けを求めてくる男の人を見て私は頷く。
怖いけど、仕方がない。困っていなさそうだけど仕方がない。だって、外には困っている人がたくさんいると聞いていたから。
貪欲で、醜くて、怖くて、惨めで、哀れな吸血鬼達が人間を食べているらしい。そんな吸血鬼から人間を守るために私達が生まれてきた。
なら、役割は果たさないと。
怖いけど。痛いのは嫌だけど。これは私の役割だから行かなくちゃいけない。
大部屋に着く。
そこから先は覚えてない。
帰りは血塗れ。全部自分の血だ。
背中から失意の溜息を受けながら、体を引き摺って帰っていく。
永遠に、ずっとそれが続いていく。
褒めても貰えないのにずっと続ける。
今日はまた溜息をつかれた。今日は嫌な視線を受けた。
今日は同じくらいの子に笑われた。今日は食事の回数を減らされて訓練が増えた。
今日はもう駄目だと言われた。今日は扉が空かなかった。
今日はもっと厳しい訓練になった。
今日は説教があった。厳しい訓練に逃げ出した人がいたらしい。その人達は全員死んだようだった。罰として全員の食事が制限された。
今日はほんの少しだけ異能が強くなった。ご褒美を貰った。だけど、嫌な子達に全部それを取られてしまった。
今日は昨日のことを話した。そしたら嘘つきだと大人は言って罰を与えてきた。
今日はまだ罰が続いた。訓練がもっともっと厳しくなった。
今日は————。
何時しか私は兄弟姉妹を殺していた。ほんの少し、ほんの少し嘲笑うような表情をする
血を啜っていた。酷く喉が渇いていた。飢えていた。美味しかった。楽しかった。食べたかった。遊びたかった。もっとしたかった。もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと—————タベサセテ?
ピシリ——と亀裂が走った。
日本首都東京が陥落し、約300年。異能保持者は減少の一途を辿っている。
現在レジスタンスに在籍している異能保持者は10名——
・朝霧友梨
・石上恭也
・真原治
・大宮宗次
・結城アリサ
・大谷信栄
・茨藤次
・真希凛々子
・獅子郷蓮司
・藤堂道之
——のみである。
全盛期には100名をも超える異能保持者がいたにも拘わらず、ここまで数が減ってしまったのは単に死亡数が開発数を上回っただけである。
過去の文献を調べれば、かつては異能技術科とも呼ばれる軍の部隊があったとか。そこでは1日に数名の異能保持者を開発していたようである。1年に異能保持者を開発できるかどうかの現状とは大違いだ。
異能開発局と称してはいるものの、かつての経歴を見れば技術力に雲泥の差があることは間違いない。
しかし、現状これ以上の向上が見込めていないのは事実。
よって私は異能保持者達を交わらせることで、子供に異能を受け継がせる計画——異能保持者増産計画を提言する。
これまで、吸血鬼に生殖器はあっても生殖能力は皆無だと考えられてきた。
だが去年、■■■■が■■■■■■■に襲われ■■■■■■■。この説は荒唐無稽であることが判明。
■■■■を調べた所、異能を保持していることも確認している。
■■と保有する異能が違うことから血によって異能は定まらないことも判明し、多種多様な異能の発現も見込めるだろう。
対吸血鬼用装備で吸血鬼を掃討できないことは十分承知のはず。異能による戦いこそが吸血鬼を倒すには最も近道であることも。
つきましては予算、設備、人的資源を用意して頂きたい。
全ては太陽をこの手に取り戻すため。
賢明なるご判断をお願い申し上げる。
異能開発局 局長 矢切宗一郎
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