山下のおっさん。

へろ。

山下のおっさん。

 山下のおっさんがどうして山下のおっさんと呼ばれていたのか、僕には分からない。

 僕の住んでいた街にあった大きな山の下、その入り口付近を住処にしていたから山下のおっさんとあだ名されていたのか、単純に名字が『山下』だったから山下のおっさんと呼ばれていたのか、今となってはもう分からない。


 山下のおっさんは僕が小学二年生から五年生の時までは街でよく見かけたりしていたけど、その後はとんと見なくなってしまった。

 とりあえず言えることは、よく家にやってきては僕が玄関先で飼っていたカブトムシのゼリーを食べてしまうおじさんだった。



 朝、庭いじりをしている父さんが、昆虫ゼリーを盗み喰う山下のおっさんを発見する度に、「またかテメェッ喰うんじゃねーッそんなもんッ」と怒鳴りつける声を聞きながら朝食を取るのが我が家での夏の恒例行事となっていた。

 山下のおっさんは駿足で、父が怒鳴り追いかければ「ウケケ」と癖のある笑い声を上げ必ず逃げおおせた。

 ぜぇぜぇと息を荒げ帰ってくる父を、母は不安気に顔を強張らせながら玄関先で出迎える。


「ハァハァ、ちくしょう、なんでアイツあんな早いんだよ」

「また逃げられたんですか?」

「ああ。」

「もうあまり追わない方が……。一度警察に相談しましょうよ」

「なんて言うんだよ、警察に。家で飼ってるカブトムシのゼリー盗み食うオヤジをなんとかしてくれとでも言うのか?」

「……。」

「真面目に聞いてくんねーだろ、そんなんじゃ」

「でも気味が悪いでしょう」

「……おい正樹、もうお前カブトムシ自分の部屋で飼え」

 そう僕に父は言うが、僕はパンをかじりながら首を横に振る。

「やだよ。夜、五月蠅いんだカブトムシは」

「じゃあ、リビングで飼うか」

「それは……アリが家の中にたかっちゃうので……」

 そう母がばつの悪そうな顔で言えば、父は一度大きな溜め息を吐く。

「まったく、なんであんなもん食うんだろうな。言ってくれれば米くらい分けてやんのに」


 そんな父の山下のおっさんに対するお情けの言葉で、玄関先での朝のやりとりはいつも終わっていた。



 そんな山下のおっさんに僕は一度だけどうして昆虫ゼリーを食べるのか尋ねた事があった。

 それは2年生の時分の夕暮れ時だった。

 母が買い物へ出ていて、家で留守番をしていた僕は、一人庭先で昆虫かごの掃除をしていた。

 ふと、影が僕を飲み込む。

 振り向けば、僕の背後に山下のおっさんが立っていた。

 指をくわえて昆虫かごを見詰める山下のおっさんに、僕は無言で昆虫ゼリーを一つ手渡した。

 山下のおっさんは表情を明るくさせ、受け取った昆虫ゼリーを一息で食べていた。

 その時だった。

 僕は美味しそうに昆虫ゼリーを啜る山下のおっさんに聞いたのだ。

「おいしいの、昆虫ゼリー」と。

 山下のおっさんは首を横に振る。

「うまかねーな。でも癖になんだよ。なんかバナナの風味つーか、臭みみてーのがさ、なんか癖になんだよ」

「おいしくないのに食べるの?」

「でもカブトムシ食うよりはマシだろ?」

「うん。」

「・・・・・・」

「……お父さんが、」

「ん?」

「お父さんが朝怒ってるよ、なんであんなもん食うんだって。だから人はこのゼリー食べちゃいけないんだよ」

「……でもさ、ぼくちゃんが飼ってるカブトムシをおじさんが食べたら、悲しいだろ?」

「……うん。」

「だからおじさんは昆虫ゼリーを食べるんだ」

「お父さんが……」

「うん?」

「お父さんがちゃんと頼ってくれたら、お米くらい分けてやれるのにって言ってたよ」

 そう僕が言ったときだった。

 山下のおっさんはボロボロと涙を流していた。

「お腹、痛くなっちゃった?」

「違うんだよ、イタいのは心なんだよ」

「……。」

「うっうぅ。」

「救急車呼ぶ?」

「いや、いい。それよりさ……」

「うん?」

「昆虫ゼリーもう一個くんねーか?」


 僕は家にあるだけの昆虫ゼリーを山下のおっさんにあげた。

山下のおっさんは何度も、「ありがとな」と言って、山に帰っていった。

 家に帰ってきた母が昆虫ゼリーが無くなっていることに気付き、「どこやったの?」と聞かれた僕は、「食べた。」と応えた。

 母はめっちゃ泣いていて、やっぱり昆虫ゼリーは人の食い物では無いのだと再認識する。


 それからも山下のおっさんは毎年昆虫ゼリーを盗み食いにきていたけど、父に追いかけられる山下のおっさんはどこか嬉しそうで、そんな山下のおっさんを見るために僕は玄関先で毎年カブトムシを飼っていた気がする。 

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山下のおっさん。 へろ。 @herookaherosuke

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