第2話 悲しむ悪魔の本当の願い
「救う? このあたしを?」
馬鹿にしたような言い方をするレイミア。両肩の触手がけたたましく動く。
「俺はマルデルの涙を使い、この世界を変える。完全とは言えずとも、絶対的な理不尽のない世界を、救いのある世界を作ろう。お前のような、理不尽な目に遭う者が二度とないように」
「そうかい……じゃあ聞くよ。あんたにとって『救い』とはなんだい? 相手の『今』を助けることか、相手の『未来』を助けることか。相手の理想に従うことか、それとも、自分の理想に従わせることか?」
レイミアは若干の嫌味を込めて、男に問う。男は少しの沈黙ののち、答える。
「相手の『本当の』願いを叶えることだ。俺はそう思う」
「ひっ、ひひひっ……」
再び、レイミアが奇妙な笑い声をあげる。レイミアの『尻尾』の部分が、痙攣するようにびたびたと暴れまわる。
「言っただろう? あたしの『本当の』願いは、この世の全てを殺すこと。そして、一番最初に殺すのは――」
レイミアが攻撃の予備動作を見せる。男はそれを察知し、剣を抜いた。
「あんただ!」
「ふんっ!」
レイミアの肩から伸びる触手が、男に向かって一直線に飛び掛かる。男はそれを回避すると、素早く剣を振り下ろす。ぼとっ。触手は地面に落ちると、しばらくの間動き続け、やがて止まった。
「いや、違う。お前が本当に願っているのは、『幸福』だろう。殺すことは、その手段のひとつでしかないはずだ!」
「固いだけじゃなく、曲げることも出来ないんだねえ、あんたという男は。もういいよ……ファーボ・アーノ」
レイミアが杖を掲げ、唱える。すると、男は苦しそうに胸を押さえ、地面にしゃがみ込んだ。
「それは毒の呪いだよ。この世のどんな毒蛇に噛まれるよりも苦しいはずさ」
地面に落ちた触手は泥のように溶けて形を失っていた。しかし、肩に残っている方の触手は今も元気に動き回り、断面も少しずつ再生している様子だ。
「確かに、あたしはただ人間だった頃のように、何もかも忘れて眠りたいだけさ。だが、あたしは不眠、そして不死だよ? そんなあたしが安らぐには、神々も人間も殺しつくして、この世を静かにするほか無いだろう!」
「レイ、ミア……」
「それとも、あんたにあたしを殺せるっていうのかい? ただの人間が、不死のあたしを!」
レイミアの叫びが、洞窟内に反響する。ぴしっ。その振動に刺激されたかのように、石碑が音を立てる。
「ううっ……」
男が苦痛に呻きながらも立ち上がり、剣を構える。
「懲りない奴だねえ。これならどうだい!」
レイミアが触手を伸ばす。一本は真っ直ぐに、もう一本は回り込むように。六本の触手は、男を惑わすように様々な動きを見せる。男は触手に捕まらないよう、器用に回避を続けるが、ここは湖の中心にある小島。すぐに追い詰められてしまった。
「これで、終わりだねえ……」
「ぐっ」
触手が男の両腕を捕らえる。続いて、両足首にも絡みつき、その動きを封じる。
「安心しな。あんたのことは一瞬で殺してやる。これでもあたしは――」
残りの二本が男の首を絞める。触手は蛇のように脈打ちながら、徐々に力を増してゆく。
「あんたのことを、悪くは思ってないんだよ」
レイミアは少し小さな声で、そう言った。触手は男の首をアーマーもろとも歪めてゆく。男は薄れてゆく意識の中、レイミアの瞳の奥に、底知れない嘆きを感じる――
「う……うおおっ!」
「熱いっ」
触手が男から離れる。男の全身は淡い黄金色の光で覆われていた。
「まさか……あんたに魔法の素質があったとはね」
レイミアは石碑にはめ込まれているマルデルの涙を見る。そして、その力がまだ発動していないことを確認し、男を覆う光は男の持つ本来の力によるものだと判断した。
「レイミア。お前の願い、俺が、叶える!」
男がレイミアに剣の先を向けて突進する。男が一歩進むたび、全身から溢れる魔力が空間を揺らすのが分かる。レイミアは焦った様子で、後ろに退こうとするが。
「はっ」
地面に縛り付けられているかのように、動くことができない。レイミアは魔法を唱えようとするが、その言霊は編み物を解くように、するすると消えてしまう。――ぱりん。何かが割れる音がした。
「う、ううっ」
ざくっ。男の剣は、思ったよりもあっさりと突き刺さった。一方レイミアは、しばらく呆然としたように立ち尽くしたかと思えば、そのままゆっくりと前へ崩れ落ち――死んだ。
「レイミア……死んだ、のか?」
男は不死であるはずの悪魔、レイミアが、あっけなく死んだことに若干の違和感を覚える。だが、その死体が溶けるように土へ還る様子を見て、感覚的に、もう
「レイミア。安らかに、眠れ」
男は指を額に当て、祈るようなしぐさを見せる。そしてマルデルの涙を取ろうと、石碑の方を見るが。
「ん? ……そうか、そういうことか」
男はそのまま立ち去った。
マルデルの涙は、もう割れていた。
* * *
――ぱりん。何かが割れる音がした。
すると突然、思考が分断されるような感覚に陥る。全ての行動が中止される。何が起きたのだろう。脳内が疑問符で満たされている。
『何か』が視界の中心にある。あれは何だろう。認識しようとするが、脳内の疑問符がそれを阻害する。
『何か』はあたしの視界を支配してゆく。こういう時はどうすればよいのか。知っているはずの事が分からない。そうしている間にも、『何か』はあたしの視界の大部分を占める。
本能が何かを伝えようとしているが、疑問符に覆い隠され、肝心な部分が見えないでいた。
ざくっ。音が聞こえる。音は『何か』の方から聞こえてきた。音は左耳から脳内へ入り、疑問符の海を通って出ていった。こういう時はどうすれば――
そう思いかけたところで、あたしの疑問符は弾け飛んだ。
小さな空白。先ほどまで視界の大部分を占めていた『何か』は小さくなっていた。どうしたんだろうと思ったとき、いつもと違う感覚を覚える。その感覚に導かれるように、視線は下に移動する。
――あたしの胸に、何かが生えている。
脳内は晴れていた。疑問符の海が消えた今、状況の認識は容易いはず。ここにある物は何だろう。思考することは出来る。しかし今度は本能が、それを認めてはならないと言っている。
なぜ、どうして。どうしてこの剣のようなものはあたしの胸に生えているのか。
徐々に力が抜けて行き、視界が急激に降下する。立つ力が無くなったのか。今は疑問符でも本能でもないものが、あたしの思考を抑制している。
それは、あたしに無いはずの死を差し伸べる、この『静寂』だ。体が熱を失ってゆくのが分かる。視界が黒から白へ変わる。そんな異常な現象があたしを蝕んでゆく。
しかし気分は良かった。徐々に思考が消えてゆき、あたしを制限する枷が外れてゆく。それは心地よい草原で味わう微睡のような安らぎを与えてくれた。あたしがずっと願っていたものだ。
あたしがどうなったかなど、もうどうでもいい。過去や未来などいらない。今がずっと続いてほしい。思えば、あのお方に愛された時から、意味の分からないことばかりだった。
でも、ひとつだけ分かることがある――
これで、あたしは――自由!
憐れな悪魔に救済を 植木 浄 @seraph36
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