3.月と掌

(ねぎのはなし)


 かあかあと烏が泣いている。ものほしそうに、こつこつと黒い嘴で窓を叩いている。

 その窓に背を向けるようにして、一人の青年が寝台の上、頭を枕へ沈めていた。死んだように身じろぎ一つせず、その横顔は不健康なほど青白い。右手がピクリと動き、その瞼が開いた。外はまだ薄暗く月明りさえない。本来ならこんな時間に目が覚めることはないのに目が覚めたねぎは、どうして目が覚めたのだろうと疑問に思った。そうして、右腕に痛みを感じて思い出した。

 心臓が大きく鼓動した。昨日、罪穢れの少女に触れた時に感じた痺れを思い出した。あの時、地下牢で少女の手当てをしている際にかすかに触れた時におかしな痺れを感じたのだ。同時に、頭の中に鮮烈によみがえった一つの情景――。

 右腕が痛い。ねぎは身体をおこすと袖を捲って右腕を見た。そこには紫色の痣が、蜘蛛の巣のように不気味に広がっていた。掌をはみだすほどに大きい。ねぎは不快げに顔をしかめると、袖を元に戻し隠した。罪穢れに感染したことを苦々しく思った。今まで、罪穢れがあるものたちと何度か接してきたけれど、自分が感染したのは初めてだった。あの少女の罪穢れが昨日異様に熱を帯びて、広がっていたことと関係があるのだろう。

この痣をむき出しにしたまま生活することはできない。ねぎは、棚の引き出しから包帯を取り出してその痣の部分に巻き付けておいた。

罪穢れに感染したのがばれたらいくらかまずいことになってしまう。少なくとも今の仕事を続けることはできなくなるだろうし、皮肉なことに自分が牢屋の中に入れられるかもしれない。だから当分は何もなかったような顔でこの痣のことは隠し通すしかない。

しかし、と思う。感染したことを隠していて、後からばれた時の方が、罪は重くなるというのも事実だ。だいだいの主は決していい顔をしないだろう。牢屋に入れられるだけでは済まないかもしれない。その時のことを考えると、背筋がぞくりと寒くなった。

いいやでも、とねぎは寝台の上、座りながらまた考えなおした。今すぐに報告するのはいくらなんでも馬鹿正直すぎないだろうか。普段通りにしていれば罪穢れは小さくなって消滅するだろう。うつし世の記憶について、あれこれと思いめぐらさなければ、罪穢れは自然と消えていくはずだ。おそらく三日ほどもあれば、落とせるだろう。

だから少し様子を見よう。

ねぎはそう結論付けた。窓の外を見る。まだ外は暗い。自然と思考はあの記憶のことへと移った。腕に痺れを感じた時、一つの情景を思い出した。そのことを考えると、胸がちくちくと痛んだ。あれが――あんなものがうつし世の記憶なのか、と思った。記憶の中の、自分はただ孤独だった。胸に惨めな気持ちをいっぱい抱えていて、息を詰まらせていた。それから自分の方へ駆けてくる明るい瞳の少女を見た時は、胸の内に別の感情が入り込んで、苦しくなった。自分は「ねえ大丈夫?」と自分を心配してくれるその少女を拒絶して、ますます孤独な気持ちを募らせて――

うつし世での自分は嫌なやつだったのだと思った。暗くて、陰気で、惨めで。

今までは、うつし世での自分はどんな人間だったのだろう、という思いを密かに、ひっそりと抱いてきた。思い出せれば、この胸にぽっかり空いた穴を埋められるのではないかと思っていた。

そんなのは馬鹿げた考えだったのだ。うつし世でのことなど思い出してもいいことは何もない。あの記憶のことは忘れよう。なにも思い出さなかったことにしよう。

しばらくそんなことをぼんやりと考えながら暗い部屋で一人、座っていた。窓の外が少しずつ白く、夜が明けていくのを見ていた。こんこんと扉を叩く音がした。こんな時間に誰が、といぶかしく思う。

扉を開くと、ねぎの腰の辺りの高さに黒いフードが見えた。なんだ小鬼か、とねぎはほっとした。小鬼は、フードの下からねぎを見上げると、黄色い歯を見せてにっと笑った。目からは蛆虫が覗いている。その腐乱した顔を見て、顔をそむけたくなるのをこらえて、ねぎは小鬼が差し出した紙きれを受け取った。ねぎが礼を言うと、小鬼は軽く頭を下げた。そしてまたねぎを見てにっと笑うと、背を向けて去っていた。

ねぎは手の中の紙切れを見た。そこには、黄金の間に来るようにとの言葉が書かれていた。


城の最上階、むせかえりそうなほどの輝きにあふれた黄金の間で、二人の人影が膝をつき、うなだれている。その二人の前では、太陽のお面を背にした、だいだいの主が肘掛に頬杖をついて、二人を冷ややかな目で見降ろしている。

だいだいの主――金髪の少女が口を開いた。

「お前たち二人に罪穢れのものの処遇を任せていたはずだが」

 突き刺すような冷たい声が響いた。

「貨物列車から盗まれた宝石はどう関係している」

 二人の人影は顔を上げず、依然、頭を垂れている。

「全てがお前たちの責任だとは思わないが、深く失望したとだけ言っておこう。なにか言いたいことはあるか?」

 二つの人影のうちの一人、月見は青白い顔を少女の方へ向けた。

「もちろん、これらはわたくしたちの失態です。しかし、罪穢れのあの少女の処分を先延ばしにしていたことが原因の一つではないでしょうか。その判断は、わたしではなくねぎの判断です。宝石の盗難については、分かり次第ご報告します」

 少女は、それを不機嫌そうな顔で訊くと、もう一人の頭を垂れた青年に言葉をかけた。青年は依然として頭を垂れている。

「ねぎ、お前は何か言うことがあるか」

 少女に促されて、ねぎはようやく顔を上げた。少女の責めるような視線を受けて、彼は話し始めた。

「あの少女はこの土地に来たばかりの身です。更生の余地がある限り、処分することはこれまでのやり方に反します」

 少女は片方の眉をぐいと吊り上げた。

「それだけか?」

 ねぎは口を開く。

「罪穢れが広がった原因については出来る限りの調査をし、分かり次第、すぐにお伝えします」

 少女は、「つまらん答えだ」と言って、金色の髪を指先にくるくると巻き付けたかと思うと、そのうちの一本をぷつんと抜いた。絨毯の上に落ちた髪の毛はまたたくまに膨れ上がり金色の蛇となる。少女は、その蛇の頭を愛おしそうに撫でた。

「お前たちがあんまり役立たずだと、こいつの腹の足しにしたほうがよっぽどこの土地のためになりそうだ」

 珍しくふざけた様子もなく、少女はただ冷ややかにそう言った。ねぎには、隣の月見の顔がはっきりと強張るのが分かった。そして、何がおかしいというのか、主のわきに仕えている小鬼たちは肩を震わせてくすくすと笑っている。

 もう行け、という少女の言葉に月見は立ち上がった。ねぎもそのあとについて部屋を出る。意識は自然と無意識に、右腕の罪穢れのことへと移る。今、このタイミングで罪穢れに感染したことが知られたら、ただではすまされないだろう。早急に落とす方法を調べなければならない。

 しかし、と思う。罪穢れの落とし方を城の誰かに聞いたりしたら、不審に思われるに決まっている。城の者たちに見つからない場所で調べなくてはならない。地下街なら城の者はまず寄り付かない。――地下街の書物屋を少し探してみようか。

「あの罪穢れの少女の扱いは、あなたが担当していたでしょう」

 黄金の間から廊下に出たところで、月見が振り向き言った。考え事をしていたねぎは、すぐには言葉を返せなかった。月見が続ける。

「近頃のあなたのやり方は生ぬるいと思っていたけれど、こんな失敗をしでかすとはね。最近給仕の娘におかしなことを吹き込んでいたのも知っているのよ。うつし世のことを思い出すことはあるかとか、ね」

 ねぎは蛍の見える橋の上、給仕の娘と話したことを思い出した。確かにあの会話はまずかった。顔をしかめそうになるのをこらえ、淡々と答える。

「おかしな勘繰りはやめてください。あれはただの意味のない雑談です」

 月見は美しい口元をふっとほころばせた。冷ややかに笑って、言う。

「どちらが本物の忠誠心を持っているか――主も今にわかるでしょう」

月見が背を向けた時、隣に仕えていた小鬼の一人がねぎを見てくすくすと肩を震わせた。その小鬼が、ちょうど右腕の痣を凝視していたように思えたのは、考えすぎだろうか。ねぎはまた独り考え事にふけりながら、暗い階段を降りていった。 


 罪穢れの少女を収容している部屋を訪れると、少女は、昨日よりも容体が悪化しているようで、意識を失っていた。ねぎは小鬼たちに銘じて、彼女を別の部屋へと隔離した。

 あの罪穢れが落ち着くまでは、彼女をここよりももっと他の囚人たちから隔離された部屋に移しておかなくてはならない。それで、罪穢れの様子が落ち着き、意識がはっきりしてから、彼女になぜ罪穢れが広がったのかの事情を聴けばいい。それまでの生意気な態度からして、素直に口を割るとは思えなかったけれど、それ以外にこれといった原因究明の方法は思いつかなかった。

ねぎは空っぽになった部屋の中、鉄格子の向こう、花が落ちているのが見えた。それから、その花の周りをどうしてかぐるぐると回っている一匹の鼠を見た。

 ねぎは鼠を無視して、花を手に取った。

 罪穢れがいきなり広がった原因は何だろう。まさかこの鼠が、この花が関係あるわけはないだろうが。しかし、どうしてこんなところにこんなものが。細い枝に、深い赤色の葉がいくつかついていて、その中心にぱっと散るように小さな白い花が咲いている。見たことはあるが、名前は分からない花だった。

 ねぎはぐるぐると同じところを回り続ける鼠に、得体のしれない不気味なものを感じつつ立ち去った。捨てるのももったいない気がして、右手に花を持ったまま廊下を歩いて、事務机のある部屋まで戻っていた。


 ◇


 赤い暖簾がふわりと揺れた。にっこりと満面の笑みの男が一人、店の中に入って来る。その顔は、目は三日月形、口角は耳たぶの辺りまでぐいと上がっている。男はその奇妙な笑顔のままつかつかと店の奥まで歩いていくと一番奥のカウンター席にドサと座った。顔に反して、身体はひどく疲れているようでぐったりしている。

 男はお面を外した。その下からしょぼついた目の憂いのある顔が現れた。しょぼついた目の男は店主に、おすすめを頼むと簡潔な注文をした。拉麺屋の店主は、そんなぐったりした様子の男を一瞥して、一言「あいよ」と答えた。

 客は少なかった。その男以外に、もう二人ほどいたがどちらも黙々と麺を口に運ぶだけで何も言葉を発しない。時間が時間だからだろう。もうすぐ零時なのだから客が少ないのは当たり前だ。

 あまり待たないうちに、拉麺がとんと目の前に置かれた。葱や緑の野菜に紛れて、蛙の形をした肉が二つプカリと浮いている。今にも背泳ぎして動きだしそうな躍動感ある形で固まった蛙を見て男の眉がぴくりと動いた。男は割り箸をぱきりと折り、麺を口の中へと運んだ。その汁が舌の上に落ちた途端、ビリリと電流が走ったような衝撃に男は、はっとした。夢中で啜る。しっかりした旨味はあるのに、麺は喉をするりと通り抜け、しつこい感じは全くない。気が付けば「うまい!」と言葉を発していた。

 恐らくその日一日たちっぱなしで肉体的にその男が疲れていたからだろう。つい思っていたことが口から洩れてしまった。しんとした店内に、男の発した「うまい!」が変に響いた。

 店主が男を振り向いた。男はそこで初めてその店主の顔をはっきりと見た。頭には白いタオルがぐるりとまかれ、顔の下半分は白いひげがもじゃもじゃと生えている。背丈は二メートルに近く、恰幅がよい。頭に浮かんだ言葉は雪男だった。

「うまいか、そうかそりゃよかった」

 店主がにっこりと笑った。男はつい発してしまった「うまい!」に気まずさを感じていたため、雪男のような店主が話しかけてきてくれたことを嬉しく思いつつ「ええ、とても」と言葉を返した。

 それから気まずい間を置かずに雪男じみた店主は言葉をかけ続けた。男は話好きのおっさんだなあ、と思いつつ会話の内容にはあまり気を払わず、適当にほどほどに愛想のよい返事をして流していた。

「なあ、お前さん。なんでも願い事をかなえてくれる山向こうの仙人の話を知ってるか?」

「ん、ああ」

 男は適当に聞き流そうと気のない相槌をうった。

「つい昨日よ。またその仙人に会って来たっていう子が店に来てよ」

「はあ」

 この蛙をどこから食そうか、と箸でつまんだ蛙をひっくり返しながら、男は相槌をうつ。

「その子、前会った時はそれなりに可愛らしい顔の子だったのにさ、昨日会った時には、もう見違えるようにげっそりしちゃってよ」

 足から食うか、頭から食うか。

「泣き出しそうっていうわけでもないんだが、とり憑かれたような表情で、月のお面について何か知らないかって俺にきくんだよ。ああ、そりゃ姫様が持っている太陽のお面と対になるお面のことだろうけど、もうほとんど存在さえ忘れられているような代物だろ。なんでも城のどこかに隠されてるらしいから見つけないといけないってその子は言うんだよ。月のお面を手に入れれば、その仙人が自分の願いを聞き入れてくれるんだとさ。俺には何だかその子が質の悪い詐欺師に騙されているようにしか思えなくてね。見ていてあまりにも痛々しくってやりきれなかったよ」

 男の意識はやはり蛙に向けられていた。最後に口に含むのが頭か足か、で考えれば先に頭を食べてしまった方が、後味がすっきりするだろうか、と考えていた。店主は構わず続ける。

「あの仙人とやらに会ったやつはたいていどこかおかしくなって帰って来る。仙人というよりは、魔女とか悪魔に近い存在なんじゃないかと俺は思ってるよ。それでもそいつに会いに行く人が後を絶たないのは、よほどその、何でも願い事をかなえてくれる、っていう謳い文句が魅力的なんだろうなあ」

 よし頭から食おう。男は決意した。

「兄ちゃんには、そういうどうしても叶えたいことってあるか」

 蛙をつまんでいた箸の動きを男はぴたりと止めた。どうしても叶えたいこと、という言葉の響きに興味をそそられた。少し考えて、言う。

「いや、どうしてもっていうほどのことはないかなあ。その……願い事っていうのは何でも叶えられるのか」

「まあ仙人にはそういう力があるっていうのが噂さ」

 男はそうだなあ、とまた考えた。それほど強い願い事が自分にはあるだろうか。

「なんだ兄ちゃん、その蛙そんな気に入ったなら、お代わりしていいぜ。今日仕入れたのがたくさん余っててよ」

 店主の背後を見れば、床の上に置かれたバケツになにやら蛙がどっさり積まれている、時折、その足がぴくぴく動いているのは気のせいだろうか。男は店主に曖昧に笑みを返して、それから思い切って蛙を頭から咀嚼した。男が咀嚼する間も、店主は相変わらず、「どうしてやめとけって言うのにみんなほいほい行っちまうかなあ」と先ほどの話を続けている。男は舌の上に、肉汁がじわりと広がるのを感じつつ、適当に相槌をうちつつ店主の話を聞き流す。

夜は更ける。時刻は零時を回る。千里眼のお時は、一日の仕事を終え、大切な商売道具を白い布で丁寧に磨いている。大切な商売道具――二つの眼が突き出たそのお面は、その眼を気持ちよさそうにうっとりとさせながら、大人しく、素直に磨かれている。

零時を回る頃に、家に帰る者もいれば、その反対に働き始める者もいる。

 梟は輝く鉱石を勘定するのを終えると、運転席に乗り込んだ。そうしてレバーをぐいとひいて、車輪をゴトリゴトリと回す。骨と鉱石を積み込んだ貨物列車が真っ暗闇の穴の中へと吸い込まれていく。

 列車が抜け出た先にある地下牢の最も暗い部屋で、腕に大きな痣のある少女が死んだように眠っている。その夢の中である人のことを思っている。プラットフォームで手を差し伸べてくれた男の子の夢を見ている。

 城の裏手の池にかかる橋の上では、物憂げな顔をした青年がじっと水面を見つめている。右腕の痣をさすりながら、水面の上で飛び交う蛍を見つめている。うつし世のことを考えないようにするにはどうすればいいだろうと思っている。

 夜は更ける。真ん丸の月は西に傾き始める。


 ◇


月が西に傾き始めた時刻の地下牢。

血がぽたぽたと垂れている。くしゃりと首を折ったある罪人が、ぽたぽたと血を垂らしながら襟をつかまれ引きずられている。篝火がぼんやりと照らす薄暗い地下の廊下を、気絶した罪人がずるずると引きずられている。血は道標のようにぽたぽたと続く。

罪人を引きずる黒い大男は、血が石の床を汚すのも厭わず、ずんずんと進んでいく。その大男の首の上には、大きな嘴のついた黒い顔がのっている。大きな眼は血走り、太い眉はぐいと吊りあがっている。ただの天狗ではない、漆黒の翼をもつ黒天狗。背中には大きな黒い翼、右手には大きな鉄の刺股を持っている。

右手に刺股を、左手に気絶した男をひきずりながら黒天狗は地下牢をずんずんと進んでいく。真四角な部屋に真四角な扉が並ぶ陰気な廊下をずんずんと進んでいく。その胸の内には爆発しそうなむしゃくしゃしたものを抱えていた。もう一人罪人がいたのに、捕え損ねたのだ。この地下牢をもっと罪人で一杯にしてやりたいのに。全く今日はついていない。黒天狗は肩をいからせどしどし歩く。

角を何回が曲がり、拘置部屋に続く廊下へやって来た。黒天狗は、右手に引きずる男をそこに投げ込んでやろうとずんずん進んだ。

「おい、捕まえろ!」

声が聞こえて、歩みを止めた。視線を声がした先の方へと向ける。人影が現れた。小柄な少年がこちらに向かって走ってくる。その後から赤天狗が二人、小さい天狗と大きい天狗が、少年を追いかけている。

「そいつを捕まえろ! 罪人だ!」

罪人という言葉に心に火がついた。

逃げ場を失った少年は、黒天狗がいるにもかかわらず、その脇をさっと身をかがめながら走り過ぎようとした。黒天狗は、目にも止まらない素早さで右手の刺又で少年の胴をとらえて、壁に押し付けた。ゴンと石壁に少年が頭をぶつける鈍い音が響いた。

少年は刺股の持ち手を掴んで押し返そうと抵抗するそぶりを見せるがその力は弱い。その腕は女のように細い。

ガツンと黒天狗は股間に衝撃を感じて思わずうずくまった。少年がするりと逃げる。黒天狗は手を伸ばしその服を乱暴に掴み、力任せに少年を押し倒した。

背を床に押し付けられた少年は、子供のように手足をばたばたさせている。黒天狗は思った。これは少年か? 確かに服は男物だが、丸みを帯びた額、眼元、頬、華奢な体――少女のように見える。まだ、はなせはなせとじたばたするのをやめないから、首を掴む手を強くすると、罪人の動きが弱まった。腕がくたりとなる。顔色が変わり始める。さすがに殺すのはまずいから、手の力を少し弱めた。

「全く頭のいかれた小僧め。てこずらせやがって」

気が付けば追いかけていた天狗二人が追い付いていた。驚くことに、そのうちの一人、小さい方の天狗の鼻は欠けていた。根元からぽきりと折れたように鼻があるはずのところがぺしゃんこだった。

「罪状は?」

 黒天狗は訊ねる。

「武器庫を漁ってたんだよ。怪しいなと思って声を掛けたら暴れて逃げ出した。給仕係のふりして城に侵入したらしい」

「その上、ぼくの鼻をへし折ったんだ!」

 鼻をへし折られた天狗が、細長い赤い棒――へし折られた鼻の残骸だろう――を握りしめて、その場で地団太を踏む。

「侵入罪と、暴行罪だ。拘置部屋に入れておけばいいだろう」

「ぼくの鼻をへし折ったんだ!」

 小さい天狗が繰り返した。なるほど、と黒天狗は少年か少女か分からない罪人を見下ろした。罪人は瞼を半分閉じており、力なくぐったりとしている。

「ちょうどいい。俺が連れていこう」

 黒天狗は新たな罪人を肩に担ぐと、それまで連れていた罪人を左手に、右手に刺又を持って歩き始めた。ずんずんと進んでいく。また石の床にぽたぽたと血の道標ができる。


 ◇


 ねぎは暗い廊下を歩きながら、半泣きになっていた天狗の顔を苦笑交じりに思い出した。鼻がぽっきりと根元から折れていたその顔は正面から見ると滑稽で笑ってしまいそうだった。

「ひどく凶悪なんです! 頭がいかれているんです!」

 鼻欠けの赤天狗はそう繰り返してねぎに訴えた。鼻を折った相手を処罰してほしい、ということらしい。なんでもその人物は武器庫を漁っていて、ちょっと様子が怪しかったから声を掛けたら逃げ出したという。天狗が追いかけていると、目の前で扉をぴしゃりと閉められ、その際に鼻が折れたのだという。鼻欠け天狗は、まるで親の形見のように、へし折られた残骸を手に握りしめて、今にも泣きだしそうな声で「ぼくの鼻をへし折ったんです! あいつを罰してください!」を繰り返した。

 ねぎは眠い眼を擦った。右手に灯をともしたカンテラを下げて歩いていた。本来ならもうとっくに仕事を終えているはずの時間だというのに、このしょうもない事態のせいで帰れずにいるのだ。ただの盗人だ。金目のものを目当てで城に侵入する者はそう珍しくはない。ただの盗人であって、それ以上でもそれ以下でもないだろう。さくっと事情を聴いて終わりにしよう。

 ねぎがもっと差し迫って対処しなければならないと考えているのは、罪穢れの少女の処遇をどうするかということと、その罪穢れが広がった原因の究明だった。明日になれば、いったいあれはどうなったのかと月見や主からちくちくと急かされるだろう。今日はこれと言って進展がなかったから、そのことを思うと気が重くなる。

 鼻欠け天狗に言われた場所の部屋まで来ると、ねぎは立ち止まった。篝火とカンテラの光がぼんやりと照らす中、部屋を覗き込む。小さくうずくまった人影がいた。こちらに背を向けている。身に付けた男物の作業着はところどころ汚れ、破けている。ねぎは目線の高さを合わせるために、しゃがんだ。

「君、名前は?」

 ねぎの声に、罪人はわずかに肩を震わせた。首をこちらへと少し回した。短い黒髪の向こうから、丸い頬に、小さな鼻の頭、目の角が現れる。大部分は影に覆われて表情が見えない。

「武器庫を漁っていたそうだね。こちらを向けるかい?」

 ねぎがそう言うと、罪人は床に手をついて身体の向きをゆっくりと変えた。こちらを向いて、また膝を抱える。小さな顔を依然としてうつむかせている。ねぎは罪人に問いかけた。

「名前を聞いてもいいかな」

 罪人は何も答えない。ねぎは辛抱強く質問を繰り返した。

「君の名前を教えてくれるかい」

「――ゆかりです」

 掠れるような声だった。うつむいている為、その表情はまだ影に覆われている。ねぎはもどかしいものを感じながらも、とりあえず仕事を終わらせようと会話をつづけた。

「黒天狗が君をとらえた際に、少々乱暴を働いてすまなかったね。怪我はない?」

「ありません」

「君を最初に見つけた天狗から武器庫を漁っていたときいたけど、どうして?」

「月のお面を、探していました」

 ねぎは眉をひそめる。月のお面? 冗談だろうと思った。追及せずに次の質問に移る。

「それから天狗の一人が君のことを訴えている。君が暴力を働いたと言ってね。暴力というか、お面に対するちょっとした損傷だけれど」

 ねぎは鼻が欠けたことを遠回しの言い方で伝えた。

「はい、そうです。わたしがやりました」

罪人は弁解する気も抵抗する気もないらしい。ねぎはそれから一応義務として、簡単な質問をいくつか投げかけたけれど、罪人はただ沈んだ調子で自分の罪を認めるだけだった。天狗の鼻を折っただけではなく、変装用の服を奪うために、城から使いに出ていたものを一人襲ったこと。そうしてその人の服を着て、日が落ちた頃に忍び込んだこと。武器庫以外にも炊事場なども覗いてみたこと。

これほど素直に罪を認めるものも珍しい。ねぎは少し呆気にとられた。

「君の罪は決して軽いものではないけれど、ここで大人しく問題を起こさずにしてくれていれば一月ほどで出してあげられるよ。暇な時間はこれを読んでおいてくれればいい」

 ねぎは悔い改めるために全ての罪人に読ませている書物を取り出して、鉄格子の隙間から罪人に渡した。表紙に金文字で《平和》と刻まれている、平和の書。

うつむいていた罪人の顔が少し上がる。その丸みを帯びた眉と目がはっきりと見えた。男物の服を着ていたから少年だと思っていたが、その顔を見て少女であることに気が付く。

なぜか既視感を覚えた。深い考えもなく尋ねる。

「どこかで君と会ったことがあるかな」

 書物を手にした罪人は、またわずかに顔を上げて、ねぎを見た。目が合う。黒目の大きな瞳。しかし白目が痛々しい程に充血している。こけた頬の血色は悪く、その表情には諦めのような、疲れのようなものが滲んでいる。

少女が口を開いた。

「うつし世のことを、思い出されたのですか」

 急に、空気がひやりと冷たくなった。ねぎは呆然としてその顔を見つめた。その言葉の意味が理解できないまま、奇妙な感覚に襲われていた。足から感覚が消え、周囲の篝火の光、薄暗い廊下が遠くの方へと消える。そうして世界から切り離され、目の前の少女と二人きりで闇の中を漂っているような、おかしな感覚に頭がぐらぐらと揺さぶられる。

 ねぎは稲妻に打たれたように呆然として固まっていた。やがて頭の中に、一つの疑問が大きく、首をもたげる。――この少女は、いったい誰だ。

 手元の報告書に目を落とした。右腕の紫色の痣を無意識にさする。そうして気が付いた。既視感の正体に気が付いた。うつし世のことを思い出したのか、という言葉の意味が理解できた。喉がからからに乾いた。咳払いをした。最後に伝えるべき項目を言わなくてはいけない。「それで、ここでの生活についてだけれど」と言い始めた声は、まるで自分の声とは思えなかった。

 少女は一度上げた顔をすぐに伏せた。黒い目が見えなくなる。「食事はいつも決まった時間に」と勝手に口が動く。そうだ、あの黒い瞳を自分は覚えている。知っている。ねえねえ大丈夫と心配そうに自分を覗き込んだあの瞳。記憶の中の少女と印象が随分と違うような気がするのは、長かった黒髪をばっさりと切っているからだろうか。

 ねぎは暗記したものを何の感情も乗せずに伝えるように口を動かして、最後にいつもの習慣の一つでこうきいた。「君の方からなにか聞きたいことはあるかな」と聞いた。

聞いてから、先ほど少女が発した、うつし世のことを思い出したのか、という問いかけを自分は無視をしたことに気が付く。でもその質問には答えられない。――自分はいったいどれだけの人に、うつし世のことは忘れなさい、と口にしてきたことだろう。それはただ機械的に口にする言葉に過ぎなかったけれど、そういう態度が体に染みついてしまっている。

 少女は黙ってうつ向いている。ねぎの足が地にくっついたかのようだった。膝は石化したように動かなくなった。ねぎはただ少女が顔を上げるのを待っていた。

「うつし世は、憎いですか」

 小さな沈んだ声。

「いや」とねぎはこたえた。

「ほとんど、覚えていないから。憎いとも何とも」

「うつし世に戻りたいと思うことはありますか」

 少女の黒い瞳を見た。あちこち破けた衣服に、ひっかいたような傷跡のある手の甲を見た。冷たい床に触れている、土で汚れた、小さなむき出しの足――。

ねぎは暗い井戸の底から言葉を探すような間を置いて、言った。

「そういう考えは、口にしてはいけないよ」

 少女の黒い瞳が揺れた。また顔を伏せた。ねぎは、ただうつし世のことは忘れなさいとさとさなければいけない。けれど、その痛々しい様子に、なぜか少女の前から立ち去ることができない。

 音のない時間が過ぎた。数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。遠くから聞こえてきた誰かの歩く音に、ねぎはようやく足の感覚を取り戻した。立ち上がり、去ろうとする。しかし少女の様子があまりにも哀れだったからだろうか、まだ少し言葉を交わしていたくなった。

「うつし世は、どんなところだった?」

 それはぽっかりと胸に空いた穴を埋めるための問いかけ。聞くべきではないと知っているのに――最近どうも自制することができない。少女は顔を上げた。

「うつし世は」と話し始めた声は、それまで彼女が発していた声とは違って、確かな力がこもっていた。

「とても寂しいところです」

 少女はそう言った。顔を上げて、ねぎの瞳を見た。少女は、泣いているような笑っているような不思議な表情をした。

ふいにまたあの情景が五官をとらえる。学校の廊下、自分は銀色の洗面台の縁に手をついて立っている。胸の内の苦しいものを吐き出せずに固まっている。周りに学生の楽しそうな笑い声が響いている。そこは自分のことなど誰も気に留めていない孤独な世界だった。廊下から走ってきた一人の少女だけが自分に親し気に話しかける。黄色いチケットをひらひらさせて一緒に行こうよと誘っている。自分は彼女さえも拒絶して、さらに奥深く、厚い殻を作って、閉じこもる。

 ぱち、と篝火の薪の爆ぜる音がした。目の前に広がる鉛色の石壁と、冷たい鉄の格子。深い穴底のような暗い空間に戻ってきた。ねぎは暗い空間の空気を胸の中、吸い込む。――ここが自分のいるべき場所だった。

 背を向けた。暗い廊下を歩く。カンテラがつくる影だけをぼんやりと見つめた。


 ◇

 

 ねぎは仕事がひと段落つくと、こっそりと城を抜け出して、地下市場の書物屋に来ていた。

 その異様な空間は薄暗く、細長く、古い書物の匂いで満ちている。右を見ても左を見ても、目に映るのは装丁の禿かかった本がずらりと並ぶさま。その列が頭上よりもずっと高くまで続いている。落ち着かないものを感じつつも、そのうちの一つを手に取って、開いてみた。目当てのものでないとわかると、閉じて、棚に戻す。

書物屋に来るのは初めてではない。何度か来たことがある。それは買い物のためではなく、うつし世から持ち込まれた書物を押収し、それを売る者を罰する為だった。つまり検閲のためだ。うつし世の書物は発見され次第、その所有者を罪人とみなすと都の掟で定められている。

地下の書物屋ほどうつし世の匂いが感じられる場所はない。ここにある本の多くは、都でしかるべき人が書き検閲を通り過ぎたものだが、それに紛れて、稀にうつし世から持ち込まれた書物もある。

 ねぎはなるべく人の目を避けるようにして狭い通路を移動しながら、あるものを探していた。探しているのは罪穢れに関するもの。罪穢れに感染した場合の適切な対処法、罪穢れが大きくなる原因について。


 ねぎはずらりと並ぶ背表紙を眺めながら、あの少女のことを考えた。うつし世のことを覚えているのか、と問いかけた少女。うつし世は寂しいところだと教えてくれた少女。祟られたかのように、その少女の大きな黒い瞳が頭から離れない。

 ふと《平和》と書かれた背表紙が目について、ねぎは手に取った。それは都が発行して、この土地の者に配っている手引書のようなものだった。通称、『平和の書』と呼ばれている。地下牢の罪人にも皆配ることが義務付けられている。ねぎは罪人にその内容を解く必要があったため、ほとんど中の文章を暗記してしまっている。

書物屋で見つけたこの『平和の書』は、ねぎがそれまで見てきたものと表紙が異なっていた。色褪せた感じや、紙のよれ具合から見て、今都が発行しているものよりかなり古いものなのだろう。書かれている内容は同じなのだろうか、と中を開いた。内容を暗記しているから、ざっと目を通せば違いがすぐに分かるはずだった。

まず初めに書かれているのは、この土地の成り立ちについて。ねぎはそこに、月のお面という言葉を見つけて、その記述を呼んでみた。


光を放つ太陽のお面は昼の王者、光を吸う月のお面は夜の王者としてこの土地に君臨するべし。太陽のお面が大地を支配し、月のお面が時空を支配する。太陽のお面は光を発し、月のお面は光を吸い込む。天から舞い降りた双子の一人が大地を創造し、もう一人が時を廻した。


そう書いてある。首をひねる。この記述は今都が発行しているものとは、大きく違っている。

今使っている『平和の書』には、双子の記述などない。月のお面についても一言も触れられていない。ただ太陽のお面が大地を創造した、とあるだけだ。

 あの少女は月のお面を探していると言っていた。それを聞いたときは、盗人の戯言だと思って聞き流してしまったけれど。

 ねぎはその頁だけをちぎると、畳んで懐にしまった。そうした後で、本屋の店主に罪悪感のようなものを感じ――ふと目に留まった、背表紙に何も書かれていない深紅の装丁の詩集を手に取って、銀貨二枚を店主に渡して店を後にした。


それから城に帰って、いくつかやるべきことをこなしたあとでねぎはまた外に出た。ひっそりとした暗闇の中、左右に深い緑を感じる。頭上には濃紺の空が広がり、足の下には暗い水面が静かに佇んでいる。ねぎは、いつもの橋の上、欄干に肘を置いて、池の上を舞う蛍の尻を眺めていた。ひっそりとしたこの空間がねぎは好きだった。暗い水面の上、気ままに軌跡を描く淡い光を見ていると、頭の中のもやもやしたものが溶けだしていくような気持になる。

ねぎは数日前にここで小夜という給仕に、切ない告白をされたことを思い出した。未だに死にたいという感情に囚われて怖くてたまらないのだと彼女は言っていた。うつし世のことなど早く忘れてしまいたいのだと彼女は言っていた。その時自分はまるで共感できなかった。正直、彼女をうらやましいとさえ思った。感情の波を持っている彼女をうらやましいと思ったのだ。その時、自分は空っぽの器だったから。毎日、胸に空いた虚ろな穴から目を背けて毎日をやり過ごしていた。

それがつい先日のことではなく、ずっと昔のことのように思える。今ではうつし世のことを考えると胸がちくりと痛む。右腕に、蜘蛛の巣のように不気味に広がった呪いを無意識にさする。どう形容すればいいのか分からない感情が胸の内にじんわりと広がる。

黄緑色の光の軌跡を眺めながら、考える。あの大きな黒い瞳の少女はいったい誰なのだろう。うつし世では自分と親しい関係だったのだろうか。思い出した記憶の中の彼女は元気と若さにあふれた目つきと喋り方で自分に話しかけていた。ねえ大丈夫? と自分を心配してくれていた。それなのに、と思う。それなのに、昨晩地下牢で見た彼女からはそれらがすっかり失われていた。眼の中の光は弱く、去り際に見たその笑みは吹けば消えてしまいそうだった。――いったい何があれば人の印象はあんなにも変わるのだろう。彼女の身に何が起きたのだろう。

尻を光らせた昆虫は人の気も知らず呑気に舞っている。ねぎは、奥深く、自分の胸の中を覗き来んだ。心の中にわだかまる一番大きな感情は後悔だった。昨晩、あの少女に素っ気ない態度をとったことで、自分は彼女を傷つけたのではないだろうか。そう考えると、胸が苦しくなった。この土地に来てから刷り込まれ、積み上げてきた、うつし世を嫌悪する気持ちと彼女に対する感情にどう始末をつければいいのかわからなかった。

どうしてもあの少女の様子が気にかかった。そうする義務があったわけでもないのに、城の地下へと向かった。

角を曲がって二つ目の部屋で彼女は膝を抱えていた。目線を合わせる為、ねぎはしゃがんだ。

「ここのご飯は口に合うかい?」

 声をかけた。少女は静かに顔を上げた。短い黒髪に、大きな黒い瞳。昨夜に比べると目の充血はいくらか目立たなくなっている。彼女は頷くように首を少し動かした。ねぎは彼女と向かい合っても、昨日に比べると自身の心が落ち着いているのを感じた。

「何か困ったことはある?」

 少女は首を振った。短い黒髪が頬のあたりで揺れる。勢いでやって来たはいいものの、特にかけるべき言葉は用意していなかった。とりあえず当たり障りのないことを言う。

「昨晩君に渡した、『平和の書』は読んだ?」

「はい……少しだけ」

ねぎは普段、囚人と雑談などしない。だからどう雑談を続ければいいのか分からない。しかし、もう少しこの少女と話しをしてみたかった。ふと、話の種を思いつく。彼女が昨日言っていた月のお面のこと。

「昨夜、君は月のお面を探していたと言ったよね?」

 少女は戸惑ったような表情をした。ねぎは重ねて聞いた。

「月のお面のことを誰に聞いた? なぜ、それを探していた?」

 戸惑ったような瞳のまま少女は口を開く。

「いえ、あのことは……何でもないんです。忘れて下さい」

「昨日聞いた時は、何でもないなんていう感じはしなかったけれど」

「……価値のあるものだと聞いたので。売ったらお金になるかなって思って」

 少女は絞り出すような小さな声で言った。視線は下を向いている。嘘を吐くのが上手ではないらしい。

「別に返答次第で君を罰しようと思って聞いているわけじゃない。昨日おかしな資料を見つけてね。『平和の書』なのだけれど、今都で発行しているものより旧いものなんだ」

 ねぎは懐から書物屋でちぎりとった紙切れを取り出した。

「それに月のお面についての記述が載っていた。天から舞い降りた双子の一人が太陽のお面で大地を創造し、もう一人が月(、)の(、)お面(、、)で(、)時(、)を(、)廻した(、、、)ってね。この箇所は今都で発行しているものからは削除されている。それが少し気になってね」

 ねぎはちらりと少女の反応を見た。

「わたしは……わたしは、ある人にそれを探すように言われただけなんです。それがどういうものなのかは、何も知りません」

少女は相変わらず沈んだ調子で口数は少なかった。ねぎは紙をたたんで懐にしまった。このことに、それほど興味を示すだろうと思ったわけではなく、会話の糸口にしようと思っていたくらいだった。

ねぎは思った。思い出したあの記憶の中の彼女は明るい瞳をしていたことを。明るい瞳で自分を元気づけようとしてくれていたことを。

そう考えてみると、今の彼女は別人のようだった。あまりに痛々しくて、かわいそうだった。彼女からあの明るさを奪ったものはいったい何なのだろうとという思いがぐるぐると頭の中で回る。何か彼女が元気になるような言葉をかけてあげたい。しかしそれがどんな言葉なのか全く分からなかった。この土地に来てから、落ち込んだ人に元気づけるような言葉をかけたことがあっただろうか。空っぽな自分の胸には、何の言葉も浮かんでこない。

ねぎは、普段自分が囚人にかけるような機械的な言葉をいくつか口にすると、その場を後にした。昨夜のように、去り際、少女がねぎに笑いかけることもなかった。

これでいいのだろうか、という気持ちを抱えたまま、自室に戻った。寝台と箪笥しかない陰気な部屋だった。衣服を着替えて、寝台の上に座る。深紅の装丁の詩集を手に取る。深い考えもなく、訪れた義理として書物屋で買ったものだ。全く興味がなかったと言えば、嘘になるけれど。

ねぎは、表紙をめくった。シェリィという異国の人の名が記されている。ねぎは、そこに綴られた文字たちをぼんやりと頭に流し込みながら、うとうととしていた。


 忘却の呪文はとても甘美で深かった

  私の人生がこの眠りの前に

 今想像するように<天国>であったか、<地獄>か


 意識は闇の中に溶けていった――。


 空は青く澄んでいた。太陽からみなぎる白い光が、隅々にまで溶けだしているような青く澄みきった空だった。下を見れば空がそのまま落ちてきているような、青く、静かな流れの川がある。その中に丸い影がある。じっと見ていると、それは自分の顔だと分かった。幼い自分の顔だった。渋面を作ってみると、その幼い顔も渋面になった。川の静かな流れが渋面の真ん中をゆらゆらと歪めて、奇妙な顔になった。おかしいの、と思った。

 顔を上げると、川の対岸では同じくらいの年の子が二人、足を水につけてばしゃばしゃと遊んでいる。そこから少し離れたところで、女の人が硬い顔で子供たち二人を見ている。自分は何となく彼らに近寄りがたいものを感じた。彼らはここに一緒に来た人たちだった。最近同じ家で暮らすようになった人たちだった。でも、どうしてだろう、近寄りがたい感じがした。それなのに、仲よくしなきゃいけないと変に急かすような気持がある。

 後ろを見ると、一面に草原が広がっていた。草原の中、ぽつぽつとテントが張られている。一つのテントの前で、男の人が一人、うなだれて頭を抱えていた。ちょうど座れるような形の岩に腰かけている。父だ。心配になって、自分は父に近づいた。「大丈夫?」と声をかける。疲れた顔の父は「ああ、少し疲れているだけだよ」と答えた。彼は、顔を上げて、「新しい家族とはうまくやれてるか」と問いかけた。自分は安心させるために、うん、と頷いた。

「お前の新しい母さんはな、いろいろと不幸を経験してきた人なんだ」と彼は話し始めた。

「彼女の二人の子供もお前よりずっとやんちゃでな。女手一人で育てるのは、大変だっただろう。時々いっぱいいっぱいで、お前にあたることもあるかもしれない」

 そう言って父は、疲れた顔でため息を吐いた。自分は、そんなことない、大丈夫だよ、と言った。

「お前はテストの点数もいいし、先生からもよく褒められる。父さんはな、お前のことが自慢だよ」

 自分はなんだか恥ずかしくなって、下を向いた。

「でもな、厳しいことを言うようだけれど、そういうことだけでは駄目なんだよ。お前、新しい母さんのことを、ちゃんと『母さん』と呼べるようになったか?」

 『母さん』という言葉に、急に胸が締め付けられたように苦しくなった。

「もう一緒に住むようになって何カ月だ?」と言って、疲れた顔の父はまたため息を吐い

た。どうしようもなくふがいないような気持になって、目の奥から熱いものがこみ上げて

きそうになって、ぐっと我慢をした。

「母さんが大変そうにしていたら、お前が進んで手伝ってあげるんだぞ。お前は一番お兄ちゃんだからな。初めは、少し難しく感じるかもしれないが」

「いいな?」と顔を覗き込まれるように言われて、自分は顔を上げた。語りかける人の顔をじっと見た。額には深いしわがあり、頭には黒髪と同じくらい白髪がある。

「少し嫌なことがあっても我慢しなきゃいけない。お前は男だし、長男だからな」

 我慢しなきゃいけない、と声に出さずに心の中で繰り返した。だって男だし、長男だから。

「人に優しくすれば、相手は必ずそれに応えてくれるものだ。お前がいい子にしていたら、母さんだってお前の思いに応えてくれる。それでお前が母さんを支えて、幸せにしてやるんだ」

 人に優しくすれば、相手は必ず――

お前が母さんを支えて、幸せにしてやるんだ。

自分は暗記するように、その言葉を心の中で繰り返した。

 父は、苦笑するように顔をゆがませて、無骨な手を伸ばし、くしゃくしゃと自分の頭を撫でてくれた。――その掌の感触に、緊張がいくらかとけていく。

「今まで父さんと二人きりでお前には寂しい思いをさせてきたから、新しいお母さんと上手くやってほしいんだ。それが父さんの願いなんだよ」

温かい風が吹いて、頬を撫でた。

 自分は、心配いらないよ、と力強く頷いた。父は、立ち上がると、「じゃあ魚でも釣ってみんなで食べようか」と言って、笑いかけた。自分は、笑みを返して、うん、と頷いた。幼い自分はその人のことを尊敬していた。がっかりさせたくなかった。胸の内で、今聞いた言葉を何度も何度も繰り返した。日の光は温かく、水面は涼しく、足元の草は心地よかった。自分よりずっと背の高い父は、もう疲れた表情をしていなかった。彼は釣り竿を数本持って、川辺に向かって歩き始めた。自分は、小さな胸に明るい空気をいっぱいに吸い込んで、その人の影を踏むようにして、後をついていった。


 目が覚めた。

ぼんやりした頭で袖を捲る。

相変わらず右腕には呪いの跡が広がっていて、昨日よりもいくらか大きくなっているようだった。地下で拾ったあのおかしな詩集を読んだせいだろうか。それでもまだ隠せないほどではない。ねぎは、包帯を巻きながら、なにか夢を見ていたような気がするなと思った。どんな夢だっただろう。疲れた顔の人が自分に何かを語りかけていたようだった。あれが父親だろうか。思い出そうとすると夢は急速に色あせていった。あとは、ただ明るい太陽の下にいたような感覚だけが残った。

 包帯を巻きなおすと、袖で包帯を隠した。地下へと向かう前にねぎはだいだいの主から呼び出された。なんとなく、嫌な予感が胸のうちで疼いた。


 陽の光が燦々と注ぎ、二十畳ほどの一間はむせかえりそうなほど黄金色の光で溢れている。東西南北全ての方角に設置された窓からさし込む日の光が、金箔で飾られた柱と、黄金の絨毯を照らしている。そうして最も光のあたる場所に玉座を据えて、少女が頬杖をついている。その両隣に下僕のように小鬼が二匹立っている。ねぎを見て、にやにやと笑っている。

「余には実に忠実な僕がおる。この城に、この都、地下街の者、皆余に忠誠を尽くしている」

 少女は静かに語りかけた。光を吸って輝く金色の髪が肩から背にふわりと流れている。その髪はいつもより落ち着いていて、その一つ一つが蛇に変身しそうな気配は微塵もない。ねぎは、少女から十分な距離を保ったまま、その後の言葉を待っていた。

「余は、お前もその一人だと思っている。今でもそう思っておる」

主の頭上で照り輝いている太陽のお面は、無慈悲に見下ろしている。光にあふれる部屋の中においても、一際大きな輝きを放ちながら、冷たい眼で見下ろしている。

「右腕の袖を、捲れ」

 ねぎは、想像していたほどの動揺を感じなかったことに驚きつつ、そっと袖を捲った。包帯を取る。現れるのは蜘蛛の巣のように禍々しく広がった、うつし世の呪い。

「どうして隠していた。何か弁解はあるか」

 ねぎは虚ろな目を主へとむけた。恐れていた通りの状況になったというのに、なぜか心は空虚だった。

「二、三日で落ちるものと思っていたので、わざわざ口にすることで、主を煩わせることではないと判断しました。深い考えはありません」

「しかし、うつし世のことを少し思い出したのだろう」

「はい。ですがとるに足りない、つまらぬ思い出です」

「だが、まだそれほどに罪穢れが広がっているということは、お前の心は、そのうつし世の、取るに足らないつまらぬこととやらに、むしばまれているということだろう」

 ねぎは、一呼吸、間を置いた。張り詰めた空気を感じた。

「動揺したのは、確かです。罪穢れに感染するなど、初めてのことだったので」

「あの罪穢れの少女から感染したのだろう。とすると、感染してからもう三日も経つか。お前は先ほど、二、三日で落ちるだろうと思ったと言ったな? どうして罪穢れは縮まるどころかそれほどまでに広がっている」

 少女は苛立たし気に、こんこんと指で肘影を叩いた。

「なぜそれを、余に隠す必要がある」

「それは」

 口を開きながら、上手い言い訳を考えようと頭の中、言葉を探す。こんな時になって、なぜか昨日読んだ詩の一節が脳裏をよぎった。――私の人生がこの眠りの前に今想像するように<天国>であったか、<地獄>か。

主は、片方の眉を吊り上げて、こちらをじっと見ている。何か言わなければならない。しかし思い出すのは、あの少女のこと。「うつし世のことを思い出したのですか」という禁忌の問い。向かい合ってその問いを投げられた時に全身を包んだ奇妙な感覚。これは二人だけの秘密にしなければいけないという胸を圧迫するような、奇妙な、感覚――上手い言い訳など一つも思いつかなかった。自分は確かに、主の教えに背いていた。

「もうよい」

 足元に何かが触れて下を見た。黄金色の鱗を全身にまとった木の幹ほども太い胴体が床の上に長く這っていた。緑の目と赤い舌を持つ金色の大蛇。それがねぎの脛を味見しようとでもいうように首をもたげていた。身の危険を感じ、さすがに全身が強張る。

「お前の嘘など見分けられる。たわけが」

 声は一段と冷ややかになる。

「余は余の力を最大限に尽くしてこの土地を平和にしようと努めている。うつし世のような煩わしさを出来る限り排除してきた。それでもお前が汚いうつし世のことが好きだというなら、仕方がない。余の世界に、お前は必要ない」

 足に激痛が走った。下を見れば、白い衣にぞっとするような赤いものが滲んでいる。さっと首を動かした大蛇の口が血で真っ赤に濡れている。ふっと意識が遠のき、気が付けば膝をついていた。足が痙攣しているかのように言うことをきかない。目の前が明滅する。

「余はお前のそれまでの働きぶりを評価している。お前は仕事が丁寧だし、面倒くさい愚痴も言わないからな。だからお前には挽回する機会をやろう」

 大蛇はするすると地を這って、主の方へと帰っていく。主が白い手を伸ばし、大蛇に触れると、黄金色の巨体はすっと消えた。代わりにその命は、主の髪に宿る。ねぎは倒れたまま、足から痛みが消えていくのを感じていた。代わりに何か別の得体のしれない感覚が足から、腹をつたって、胸までのぼって来る。

「その蛇の毒は、三日経つと身体から抜くことができなくなる。その後は、じわりじわりと身体を腐らせ、太陽が昇って沈むのを三〇回繰り返すころには、足のすべてが腐る。五〇回繰り返すころには胸まで腐る。一〇〇回繰り返すころには頭のてっぺんまで腐った小鬼になっていることよ」

 主はくすくすと笑った。

「怒るなよ、ねぎ。お前でなければ、毒を一気に入れて、すぐにでも頭のてっぺんまで腐らせていたところだ」

 ねぎは右足に違和感を覚えつつも、立ち上がった。顔から血の気が引いているのが分かる。足元がふらつく。

「三日やろう。今日を含めて、日が二回沈んで、三回目に昇る時、またここで、お前の様子を見よう。その時に、罪穢れが落ちていたら、解毒剤をやろう」

 主の笑みは、深く、凄惨さを増す。

「しかししその時に、まだ罪穢れが広がっていたなら、その場で蛇に丸飲みにされるか、じわじわと脳みそまで腐らせるかのどちらかだ。お前が好きな方を選べ」

 主の顔からは微笑みが絶えない。ねぎは足から腐り始めていることに、恐ろしさを感じつつも、どこか冷淡にこの状況を俯瞰していた。いつかはこうなるだろうと分かっていたような気がする。こうなる運命を、自覚していたような気がする。

 黄金の間から外の廊下に出る。扉を閉じながら、頭の中にまたあの詩の一節が鳴り響いた。永い眠りにつく前の、私の人生が――<天国>であったか、<地獄>か。

 深く息を吐いて、暗い廊下を歩き始めた。


 時々思い出したように蛇に噛まれた左足が痙攣した。足の裏が地を踏んでいるような感じがせず、ねぎはおぼつかない足取りで歩いていた。城の地下へ降りると、薄闇の中、あの鼻の欠けた天狗がぬっとあらわれた。ねぎの姿を見つけるなり、鼻欠け天狗はぎゃあぎゃあと喚くようにして声をかけてきた。

「ねぎさま! 見て下さい! これを見て皆からかうんです!」

 見れば、天狗は鼻が欠けた所に、大きな絆創膏を貼っていた。ねぎはそれをちらりと見ると、あまりに滑稽なその姿に、思わず笑ってしまいそうだったのですぐに視線を逸らした。

「こんなんじゃあ、仕事なんてできないですう!」

 天狗は、絆創膏を手で隠すようにして、うわああんとわめいてうずくまった。まったく感情の操作ができていない。こんな姿を外の通りでさらしたら、それこそ逮捕の対象となるだろう。ねぎは呆れた目で見つめると、今日一日休んでいいからお面は早く修理に出すようにと告げた。絆創膏天狗はぐずつきながらものそのそと去っていった。

 それからはまた機械のような態度で淡々と目の前の作業を片付けた。新しく入ってきた囚人に関する報告書をまとめ、いつも通り地下牢の見廻りを行った。罪穢れの少女の様子を担当の天狗から聞いて、主に報告するための簡単な文書をつくった。一通り片付けると、椅子の背もたれに身体を預けて、背伸びをした。

主は「三日やろう」とねぎに言った。だから、その三日間でどうにかして罪穢れを落とさなければいけない。うつし世のことを考えるのをきっぱりとやめなければならない。帰ったらあの詩集は捨ててしまおう。どうしてあんなものを買ってしまったのか。罪穢れに感染したことでよほど調子がくるっていたらしい。帰ったらすぐ捨てよう。あれはうつし世の匂いがするからよくない。だから、今日もおかしな、うつし世の夢を見た。

ねぎは頬杖をつき、花瓶に刺した赤い葉を持つ白い花をぼんやりと見つめた。分かっている。それだけでは足りない。詩集がどうのこうのという話ではない。本当に問題なのはあの少女の存在だった。何をしていてもあの少女のことが頭をちらつく。鉄格子の向こう心細そうに膝を抱える姿。打ちひしがれ、光を失った、大きな、あの黒い瞳。

しかし、これ以上彼女のことをあれこれ考えていては、罪穢れは広がっていく一方だ。このままぼんやり流されていては、自分は三日後に蛇に丸呑みにされるか、脳みそまで腐った小鬼になるかのどちらかを選ばなければならない。どちらかを選ぶことになったら、自分は丸呑みにされることを選ぶだろう。腐っても生きながらえるよりは、その方がいいに決まっている。奇妙に落ち着いた心でそんなことを考える。もちろん恐怖を一切感じていないわけではないけれど。

心のどこかで、それでもいいんじゃないかと笑っている自分がいる。胸にぽっかりと空いた穴と向き合いながら生きるよりも、その方が自分らしくていいんじゃないか、と。

いくつか事務的な仕事を終えると、再び囚人たちの様子を見るために、巡回を始めた。ねぎは灯をともしたカンテラを手にもって立ち上がった。


最初に向かったのは、罪穢れの少女の部屋だった。あの一件以来、ずっと彼女を隔離しているが、一日に数回は様子を見るようにしている。

ねぎは扉を開けた。天狗たちには決して扉を開けないよう厳重に言い聞かせていたが、自分は既に感染している身だから、感染を気に病む必要もない。

彼女はまだ気を失っていた。罪穢れの痣は小さくも大きくもならず、ただそのままの大きさで止まっている。痣の様子と、少女の意識が返りそうもないことを確認する。ふと、ねぎは何かの気配を感じて下を見た。視界の端に何かが横ぎった。その動きを目で追いかける。灰色の小さな動物――鼠だった。

あの時もいた。ねぎは思い出す。彼女をそれまでいた鉄格子の部屋から運び出す際にもこの鼠はいた。どこから入ってきたのだろうと思って、扉の方を見れば、一カ所だけ不自然なへこみがあった。がりがりと何か削ったように下にへこんでいて、扉の下に鼠が入り込めるほどの隙間ができていた。この鼠が削ったのだろうか。

「君はいったい、どうしてここにいる」

 ねぎは自分でもおかしいと思いつつも、この得体のしれない鼠に声をかけた。鼠はとまり、ねぎを見上げ、ふるふると髭を震わせた。ちゅうちゅうという声がした。まるで、ねぎの言葉は分かるけれど、言葉を発することができずに困っているように見えた。

「この少女の知りあいなのかい」

 馬鹿げているとは思いつつも、どうしてもこの鼠が、ただの鼠とは思えず、言葉をかけた。鼠は頷くように頭を動かした。

 ねぎはしばらく、その鼠と意識を失った少女の関係を考えようとして見た。この少女の罪穢れが広がった原因はそこにあるだろうかと考えた。

 しばらく本気で考えていたが、ふと正気に戻って、何を考えているのだろうと呆れた。頭が疲れているのかもしれない。ねぎは部屋を出た。振り返れば、鼠は少女に寄り添うようにして丸くなっていた。追い出す気にもならず、ねぎはそのままにしておいた。


それからいくつかの部屋を回り、角を曲がって二つ目、あの部屋の手前で少し立ち止まる。深呼吸して、問題ないと言い聞かせる。囚人の一人として、うつし世と関係づけないようにして接すればいいだけだ。ねぎは部屋の前に来ると、しゃがんで鉄格子の向こうを覗き込んだ。

相変わらず、あの少女は元気がなく沈んでいるようだった。ねぎに気が付いても、ぼんやりとした表情で、何も言わない。ねぎはその短い黒髪と、大きな黒目を見た。頬は昨日よりこけたようだった。

 ねぎは彼女の心理的な状態を確かめる事務的な質問をいくつか投げかけた。そのあと身体的に不都合はないかということも、義務的な口調で確かめた。

 妙に意識した結果か、かえって声音が不自然なくらい固くなる。少女も、ねぎのそんな様子に影響されたのか、必要最低限の言葉しか発しなかった。

ねぎは最低限の質問を終えた後で、少女の様子を見た。やはり元気がない。昨日よりも一昨日よりも元気がないように見える。こんなところに閉じ込められて気が滅入っているのだろう。当たり前だ。

 ねぎは口調を少し柔らかいものへと変えた。

「心配することはないよ。君の罪はそれほど重くないから。あとひと月もすればまた明るい地上へ出られる」

 少女はわずかに、弱々しい笑みを見せた。

少しでも元気づけてあげたいという気持ちが泡のようにふつふつと底から湧いてくる。うつし世と関係ない話であれば、問題ないんじゃないか。そう考えて、思いついたのは、今朝見た天狗の顔だった。

「君、天狗の鼻をへし折っただろう?」

 ふと思いついてねぎは言った。少女の表情が硬くなるのを見てあわてていった。

「いや、違うよ。君を責めるつもりじゃない。鼻が欠けたあの顔がやたらとおかしくてね。見る度に笑ってしまうんだ。だから君にお礼を言おうと思って。ほら、君が扉をぴしゃりと閉めた時に鼻が折れたと聞いたから」

 思い出しながら、ねぎは少女に笑いかけた。実際、それは本心だった。笑えるようなことはこの暗い陰気な空間でほとんど起きることがない。あの鼻の欠けた顔を見る度に、おかしいな、と笑いがこみ上げてくることが嬉しいと感じるほどだった。

 もちろんこんなことを言ったのは、彼女を少しでも元気づけるためだけれど。苦し紛れにこんな言葉しか出なかった。ねぎは少女の反応を見た。

 少女は予想外の反応を見せた。眼を大きく開いて、呆然としたような表情をしている。

「あ、いや、ごめん。だから責めるつもりじゃなくて」

 出来れば少女にもくすりと笑ってほしかったのだけれど、上手くいかなかったらしい。少女は、ねぎの視線から逃げるように、さっと顔を伏せた。

「あの顔を真正面から見れば、君もきっと笑うと思うんだけど。今日なんか鼻の欠けた場所に絆創膏を貼っていてね」

 ねぎはいったい自分は何を言っているんだろうと思いつつも、場を持たせようと口を動かした。ちらりと見れば、顔を伏せた少女の表情は影に覆われている。どんな表情をしているのだろう。

「気を悪くしたかい?」

「違います」と小さな声が返る。ねぎは黙って、少女の言葉を待っていた。

少女の華奢な肩がかすかに震えている。それから少女は、まったくねぎが予想していなかったような言葉を言った。

「あなたがまた――笑いかけてくれるなんて、思ってなかったから」

彼女は目元を手で覆いながら、小さな声でそう言った。光るものが少女の頬を伝って下へと落ちる。――彼女は泣いていた。


 日が暮れた頃、ねぎは欄干に寄りかかり、蛍の尻を眺めながら、少女の言葉の意味を考えていた。彼女はなぜ泣いたのかを考えていた。なぜ自分が笑っただけで彼女の心がそれほど動いたのか、考えても答えはまるで浮かんでこなかった。

いったい彼女と自分は、うつし世でどういう関係だったのだろう。少し仲のいい友達という以上の関係だったのだろうか。あの情景意外に彼女のことを思い出せないことがもどかしかった。

 足の爪先は腐り始め、右腕からはじわじわ罪穢れが広がっている。これ以上、あの少女のことを考えていては、三日もしないうちに身体は使い物にならなくなるかもしれなかった。主に叱られた直後は、切り捨てるべきなのはうつし世への気持ちなのだと考えた。けれど、と考える。それでいいのだろうか。ねぎは懐からまたあの紙きれを取り出した。


光を放つ太陽のお面は昼の王者、光を吸う月のお面は夜の王者としてこの土地に君臨するべし。太陽のお面が大地を支配し、月のお面が時空を支配する。太陽のお面は光を発し、月のお面は光を吸い込む。天から舞い降りた双子の一人が大地を創造し、もう一人が時を廻した。


 何の意味もない戯言かもしれなかった。しかし、この何でもないように思える記述が、現在都で発行されている『平和の書』からは削除されている。そのことに何か意味があるようにしか思えなかった。

 同じ文章を何度も繰り返し読む。初めてあの少女にあった時、彼女は「月のお面を探していた」と言った。そして、次の日には「あのことは忘れて下さい」と言った。どうしてもその「忘れて下さい」は本心からの言葉には思えなかった。彼女は月のお面を欲しているのだ。月のお面が手に入らないことが彼女から明るさを奪った原因なのかもしれない、とねぎは考えた。それならば、月のお面があれば、彼女は再び明るさを取り戻すのかもしれない。ねぎはいたたまれなくなって再び地下牢を訪れた。


 左右を見て近くに天狗がいないことを確認して、ねぎはたずねた。昨日一度たずねた質問を再び投げかける。

「月のお面を探すように君に言ったのは誰?」

 少女は真夜中の突然の訪問に驚き、目を丸くしている。ねぎがじっと答えを待っていると、やがて口を開いた。

「東の果てに住む、仙人です」

「……仙人か。噂は、聞いたことがある。でもその人は、山の向こう、かなり辺鄙なところに住んでいると聞いたけれど」

 少女は眠そうな瞼を擦った。ねぎの雰囲気にそれまでよりもくだけたものを感じ取ったのか、幾分彼女も話しやすそうだった。

「はい、少し遠いですが二日ほど歩けば行ける距離です」

「わたしが聞いた話によれば、その道のりには狼とか人食い植物が出ると聞いたけれど」

「狼には、会いませんでした。人食い植物は倒しました」

「そんなに危険な道のりなのに、どうして仙人に会いに行ったの?」

「それは」

 沈黙が落ちる。ねぎは質問を変えた。

「仙人はどうして月のお面を欲しているのか知ってるかい?」

「いえ……知りません。ただこう言っていました。月のお面を、妹に奪われたと。妹というのは、この城の主の姫様のことだそうです」

 ねぎは懐から紙を取り出す。その記述を再び読む。


太陽のお面が大地を支配し、月のお面が時空を支配する。太陽のお面は光を発し、月のお面は光を吸い込む。天から舞い降りた双子の一人が大地を創造し、もう一人が時を廻した。


 ねぎは推理をした。つまり、

「じゃあその仙人が、本来の月のお面の所有者ということになる。で、この城の主に奪われたというなら、城のどこかに隠されているはず。……この『光を放つ』というところと『光を吸う』に何か意味があるように思うんだけれど、どう思う?」

 ねぎは意見を求めて、少女を見た。少女は感心するでもなく、思案を巡らす様子もなく、ただ驚いた顔をしていた。

「どうしてそれほど月のお面に興味を示されるのですか」

 もっともな質問だと思った。答える。

「君は初め、月のお面を探していると言ったね」

 少女は黙ってうなずく。

「次に聞いた時は、あれはどうでもいいから忘れてくれ、と言ったね」

 少女はまた黙ってうなずく。

「でも本当はそれをまだ欲しているだろう?」

 少女は丸い瞳を、ぱちぱちとさせた。ねぎは何と言おうか迷って少しの間言葉を探していたが、結局、正直に思ったままを話すことにした。

「だから、それを、月のお面を見つけて、君に渡せば、君が少しは元気を取り戻してくれるかなと思った」

 少女は驚いたように目を見開き、黙ったまま、ぴしりと固まった。これは――悲しんでいるのだろうか、喜んでいるのだろうか。ねぎは戸惑いつつ、あわあわと言葉を付け足した。

「えっと、必ず見つけられるという保証はないけれど。でも探してみるよ」

ここで「悲しむ」理由を思いつかないから、きっと少女の反応は「喜び」を表している思いたいが、どうも喜んでいるようには見えない。

「そんなものを探したら――あなたは危険な目に合うのではないですか」と少女は言った。

 少女の先ほどのぴしりと石のように固まった反応は、どうやら戸惑いと、ねぎの身を案じている心配からきているようだった。

「危険? 大丈夫、危険が及ばない程度に探すさ」

ねぎは少女を安心させようと微笑んだ。さらに会話をつづける。

「うつし世でのことを話してはいけないと君に言ったことを悪かったと思っている。本当のことを言うと、あれは何ていうか……建前なんだ。わたしは立場上、そういうのを取り締まらないといけないから」

 ねぎはそう言って、右腕の袖をぐいと捲った。少女が息をのむ音が聞こえた。

「罪穢れに感染した時に、少しだけうつし世のことを思い出したんだ。実を言うと、君のことも少し思い出したんだ。黙っていてごめん」

「いえ、謝るようなことでは」

 少女は心配そうに眉をひそめて、罪穢れを見ている。ねぎは袖を伸ばしてまた痣を隠した。足が爪先から腐りかけていることや罪穢れが落ちなければ蛇の餌にすると主に脅されたことは黙っておこうと思った。

 うつし世での記憶の一部が蘇ってから、心の振り子は右に左にぐらぐらと揺れていた。うつし世のことは忘れよう。罪穢れを早く落とそう。けれど、この少女のことが気にかかる。もっといろいろ思い出したい。思いは定まらず行ったり来たりを繰り返していた。しかし、ついさっき振り切れてしまった。

 このまま空虚な胸を抱えて屍のように過ごすのならば、最後に一度だけでいいから、自分の願望に忠実になろう。この少女の明るい瞳を曇らせたものを吹き飛ばしてあげよう。

 今となっては、うつし世のことを口にするためらいも減っていた。

「うつし世でのわたしは、どんなだった?」

 少女はその問いに驚いたように、何度か目をしばたいた。

「あなたは、わたしにとって」と言って言葉を切った。ねぎが「君にとって?」と促すと、静かに、昔に思いをはせるように、ゆっくりと続きを口にした。

「あなたは優しい兄のような存在でした」

「兄?」

「はい、兄弟ではありませんが、わたしはあなたのことを幼いころから、知っていました。あなたは何でも器用にこなして、誰にでも優しくて、怒ったりすることがなくて、スーパーマンのようでした。わたしはあなたのようになりたいといつも思っていました」

 ねぎは苦笑した。そんな人物は、自分とは随分とかけ離れている気がした。つい最近までは空っぽな器だった。思い出したあの記憶の中では、暗くて、陰鬱で、孤独だった。

「君はいい面ばかり見てくれたんだね」

「いえ、本当のことです。わたしにとってあなたはそういう人でした。ただ」

「ただ?」

「あなたは人に、あまり弱みを見せない人でした」

 少女の大きな黒い瞳に、どこか寂しそうな色が浮かぶ。

「弱み?」

「あなたはわたしにとってスーパーマンだったから。だからわたしはあなたが抱えている痛みに気が付けなかった」

 少女は目を伏せた。記憶があまりに不足しているために、ねぎは上手く言葉を返せなかった。痛みとは何のことだろう。少し間をおいて言う。

「もっといろいろ思い出せればいいのだけれど。そうすれば君が言うことも、きっと分かるのだろうけど」

「でも全てを思い出したら、あなたはきっとわたしのことを軽蔑します」

「そんなことはないさ。どうしてそんなことを言う?」

少女は何も語らなかった。ねぎの頭の中でまた疑問がぐるぐると回り始める。いったい自分と彼女の間には何があったというのだろう。


 ◇


 次の日、目が覚めると、足の小指の形が崩れていた。それから足首まで変色はしていたが、まだ歩けないほどではない。右腕の袖を捲れば、当然だけれど、罪穢れは小さくなるどころか大きくなっていた。あと残り二日か、とぼんやりと他人事のように思った。

 今まではあの罪人の少女の言うことは耳を貸してはいけないと言い聞かせていた。しかし、今では主の言うことこそが下らない絵空事のように思えた。恋は罪悪だ。恋は人を狂わせる。お面で表情を隠し、機械のように規則正しく呼吸していればいい。それで生きていると言えるだろうか。

 ねぎはあの少女の言葉と資料から読み取ったこととを自分なりに確かめようと考えていた。月のお面を、主が奪ったというならば、彼女はそれを誰にもとられないようなところに隠しているはずだ。

思いついた所から順に調べた。仕事のいくつかを天狗に割り振って、自由な時間を作った。まずは、二階の武器庫を覗いた。三階の破風の間にある隠し扉を開けた。四階に上り、五階に上り、怪しげなところは全て覗いた。灯台下暗しかと思い、地下に眠る得体のしれない棺の蓋も開けてみた。探し物は見つからなかった。目を皿にして城をぐるぐると歩き、他にも思いつくところを調べた。なるべく怪しまれないよう、仕事の一環を装って調べた。一度、竈の中をのぞかせている時に、後ろからやってきた給仕係に何しているのかと問いかけられた。うつし世の匂いがすると小鬼から報告があって調べに来たのだ、と適当に言って逃げた。月のお面は見つからないまま、日はあっさりと暮れた。

 夜空の下、ねぎは欄干に寄りかかり、橋の下を見ていた。水面の上を舞う蛍の尻を見ながら、ぐるぐると回る頭を冷ましていた。月のお面を探しているなどと知られたら、自分の首はすぐさま飛ぶだろう。しかし、どうせ腐りかけた身体だ。明日死のうが、二日後に死のうが変わりはない。

 蛍の尻を見ながら思いついたのは、最上階の一つ下の六階に位置している備品庫だった。この備品庫は、名ばかりでほとんど誰も利用しない。何が置かれているのかさえほとんどの者は知らない。誰が管理しているのかも知らない。管理しているのは、だいだいの主だろうと皆勝手に考えている。

 ねぎはどうして今まで思いつかなかったのだろうと思った。あるとしたら、あそこではないか。

 まだ一日ある。もう少ししたら東から太陽が昇る。その太陽が西に沈み、代わりにまた東から月が浮かぶ。その月が沈むまでが、残された時間だ。

ねぎはへとへとに疲れた体で、今からでもそこへ行かなくては、と考えた。時間がない。蛇に呑まれるか、脳みそまで腐らせるか、明日で決まるのだ。そうなる前に、どうにかして月のお面をあの少女の手に握らせてあげたい。あの大きな黒い瞳に、また明るい光が宿るところが、どうしても見たい。

 ねぎはもう少しだけ、蛍の光を見て、頭を落ち着けると城に戻った。しんとした城内の階段を、足を引きずるようにして上った。

 六階に着いて、その備品庫の前に立って見れば、その扉には鍵穴も何もなかった。ただ鉄板が貼られた厚い扉がどっしりと構えていた。引くのか、押すのかも分からない。巨人でもなければ、開けることができないのではないだろうか。

 階段をのぼりながら、鍵をどうしようかと考えていたのだが、鍵でどうこうできる扉ではなさそうだった。ねぎは鉄の扉を見ながら途方に暮れた。ちくたくと時を刻む音が聞こえてくる。砂時計からはさらさらと砂が落ちる。時は止まらない。

 鉄の扉に触れた。冷たくざらざらとした感触を指先に感じる。両手で押してみた。当たり前だがびくともしない。開かずの扉なのだろうか。ねぎは鉄の感触を感じながら、何か引っかかりはないだろうかと扉を上から下まで舐めるように見た。左下、穴が空いている。とんがった靴でけ破られたかのような小さな三角形の穴が空いている。

 ねぎは頭を床の位置までさげて、その穴の向こうを見た。暗くて何も見えない。指を入れてみると、確かにその穴は扉を貫通していることだけは分かった。

 それだけだった。ねぎは扉の前をうろうろと落ち着かなげに歩いて、どうしたら開くだろうかと考えた。金槌でも持ってきて、壊せばいいのだろうか。それでは鉄と鉄がぶつかる音が響いて、上の階の主がすぐに気が付くだろう。

 やがて窓の外が白くなり始める。夜が明けようとしている。じきに城の者たちが起きだして、働き始める。六階から降りていくのを誰かに見られるのはまずい。ねぎは足早に階段を降りた。自室には戻らず、地下まで降りた。一度眠って、頭を冷やした方がよいのかもしれなかったけれど、とても眠れそうになかった。

 全く集中できない頭で仕事に手を付けた。数日前にやるべきことの多くを片付けてしまったから、特にやることはなかった。ねぎは新しく収容された囚人の様子を天狗から上の空できいていた。

カンテラをさげながら、ねぎは暗い地下牢を歩いていた。ふと、脳裏にある情景が浮かんだ。鉄の扉の、小さな穴を蛇がするすると這って行く情景だ。主は、自らの大蛇を大きくすることも小さくすることもできる。――あの足元の小さな穴はきっと蛇が出入りするための穴だ。

 それが鍵の代わりになっているとしたら。

 ねぎは日が暮れて、場内がひっそりとするまで待った。あの少女とは、また少し会話を交わした。彼女は昨日よりは少し元気になっているように見えた。

 ねぎは日が完全に暮れると、ある場所へ向かった。あの罪穢れの少女がいる隔離された部屋だ。そこに人の言葉を解するかに思える不思議な鼠がいる。ねぎはそっとその鼠を呼び寄せると、懐にしまった。それから、人気がないことを確認しながら六階に向かった。考えがあった。

ねぎは懐を温めていた鼠を手のひらに載せた。掌の上、鼠はきょとんとした顔でねぎを見上げた。

「扉を開けてくれるかい」と小声で伝えると、鼠を床に下ろした。人の言葉を解す賢い鼠は、三角の穴からするりと身体を中へ滑り込ませた。

 ねぎはじっと待っていた。一〇を数えても鼠は戻って来なかった。十三まで数えたところで、穴から尖った鼻が見えた。出てきた鼠は、ねぎを見上げて髭をふるふると震わせた。「開けたよ」と言っているように見えた。やはり、鍵は内側からしか開けられないようになっていたのだ。

 ためしに扉を押してみた。わずかに動いた。もう一度力をこめると、軋むような音を立てて扉が開いた。鉄のさびたような匂いが鼻腔を侵す。ねぎは足元の鼠を掌に載せると、「ありがとう」と礼を言って、また懐にしまった。

 そこは小さな四角い部屋だった。真夜中だったが、誰かに見られてはまずいため、扉をもとのように閉める。やはり、扉の内側の足元に簡単な仕掛けがあり、それが鍵の代わりになっているようだった。ねぎは念のためその鍵も閉めておいて、それから部屋の中に向き直った。

 部屋の中は、中央から吊るされた小さな裸電球のみで照らされていた。十分な明かりとは言えなかったけれど、それらしきものが見つかれば分かるだろう。

 壁に沿って棚が三つあり、そこにごちゃごちゃといろいろなものが置かれていた。箱に入っていたり、ただぞんざいに置かれていたり。一つ一つ手に取って、明かりに照らした。人の顔を模した黄金の指輪。髑髏形の黄金の冠。般若のような形相の猫を模した黄金のお面。

 どれも貴重な品なのだろう。ねぎは一つ目の棚を探し終えて、二つ目の棚に移った。そこにも同じようなものが並ぶばかりだった。三つ目の棚に移る頃には、貴重な品なのかもしれないが、どれもこれもがらくたにしか見えなくなっていた。

 全て見尽くした後で、この中のどれかが月のお面なのだろうか、と考えた。明らかにこれらのものは主の所有物であるし、大切な品なのだろう。月のお面がここにないのならば、他にどこにあるというのか。ねぎは、見落としをしたかもしれないと考えた。もう一度右の棚から一つ一つ丁寧に見れば、月のお面が見つかるかもしれないと考えた。

 ねぎは急いでもう一度、三つの棚を調べ上げた。一つ目の棚にはなかった。二つ目にもなかった。縋るような思いで三つ目の棚のものを一つ一つ光にかざして調べた。結局、月のお面は見つからなかった。ねぎは失望したような、放心したような気持で、懐の中で鼠がもぞもぞと動くのを感じていた。何か他に考えはないか、と頭を回転させようとしたが、上手く回らなかった。やがてしゃがみこむと、足元の扉の鍵を開けた。耳を澄まして外に誰かいないか確認する。物音はしない。ねぎは扉をそっと開けて、外に出た。

 窓の外は暗い。まだ夜が明けていないことに安堵する。ねぎは閉じた鉄の扉に背を持たせて、一息吐いた。次に探す場所のあては、

「お目当てのものは見つかってたのかしら」

 冷ややかな声がした。見れば、暗闇の中、すらりとした人影があった。上に続く階段の柱に寄りかかるようにして誰か立っている。その人影のすぐ隣に小鬼が仕えている。その声と、小鬼で人影が誰だか考えなくても分かった。

「月見さん、こんな時間にどうされたのですか。まだ夜は明けていませんが」

 一呼吸おいて、暗闇から声が返る。

「よくも私にそのような白々しい口がきけたものね」

 静かに足音を立て人影が近づいてくる。かすかな光に照らされて、眼元を彩る紫色の蝶の飾りが見えた。二つの穴の奥、目じりがすっと上に切れた眼と目が合った。

 月見はあと一歩進めば身体が触れそうなほど近付くと、衣の上からねぎの右手にそっと指を這わせた。

「呪いの調子はいかが」

 密告したのが、この人以外に誰がいるだろうと思ってはいたけれど。ねぎは皮肉の笑みを浮かべた。

「おかげ様で」

「私の小鬼はとても鼻がきくの。罪穢れがあればすぐに分かる」

 耳元で、月見が囁いた。

「こんな夜中にこそこそと何をしていたのかしら。最近のあなたの様子がおかしいことに気が付いていないとでも思って?」

 冷たい目がすっと細められた。帯に手を挟み、素早く何かを取り出した。暗闇の中、ピカリと鋭いものがほのめいた。ねぎの耳のすぐ横で刃が突き立てられる音がする。

「今ここで白状しなさい。でなければあなたが謀反を起こしたとして、告発します」

 ねぎは努めて冷静な声を出した。

「わたしはただ備品庫の整理をしていただけです。おかしな勘繰りはやめてください」

「こんな時間に? あなたの独断で?」

「誰かに命じられていたとしてもあなたに教える義務はありません」

 月見は不愉快そうに眉を八の字にしたが、すぐに取り繕って、口元に笑みを浮かべた。

「ねえ、あなたはどうして罪穢れのことを隠していたの?」

「あなたがたまたま罪穢れに感染したら、そのことを誰かに言いふらしますか?」

 ねぎはこれ以上ここで足止めをくらうことをもどかしく感じた。砂時計の砂はこうしている間にもさらさらと零れている。

「その物騒なものを仕舞ってくれますか」

「ここを通してほしければ、あなたが謀反を起こしていないと証明しなさい」

 今にも耳元に突き立てた刃で首を切りつけそうな剣幕だった。小鬼になるでもなく、蛇に呑まれるのでもなく、ここで彼女に殺されることになるとは予想外だった。

 ねぎは静かに息を吐いた。落ち着け、と言い聞かせる。彼女もねぎが謀反を起こしている――月のお面を探しているという確証がつかめない限り、殺すことはないはず。隙を作って逃げるしかない。

「前から気になっていましたが、月見さんはどうしてそれほどうつし世を憎むのですか」

「気が狂ったのね。そんな罰当たりなことを口にするなんて」

「うつし世のことをまだ覚えているのでしょう? 忘れていたらそれほど憎いと思うはずがない」

「黙りなさい」

 怒りを押し殺した静かな声。懐に隠した鼠が震えているのが振動で伝わってきた。月見がちらりとそちらに目を向けた気がした。ねぎは続けた。

「月見さんはこの土地の景色を見て、空虚な気持ちを抱えることはないのですか」

「何を、馬鹿なことを」

「どうして木は枯れないのか。花が散らないのか、考えたことが本当にないのですか」

「ここは、あの方が私たちのためにつくってくださった楽園だ。これ以上ふざけたことを口にすれば」

「誰かに恋心を向けられることを、本当におぞましいと思うのですか。それを禁じることが正しいと考えるのですか」

 鉄の扉に突き立てた刃が目の前でひらりと動いた。ねぎはその切っ先から逃れるため、咄嗟にしゃがみこんだ。勢いで、懐から鼠が転がり落ちる。ねぎは階段を下り逃げようと体を起こそうとしたが、頬にさっと痛みが走って体の動きが止まった。手を触れてみればべっとりと血がついている。前方の床に短刀がつきささっている。

 小鬼が耳障りな叫び声を上げた。振り返れば、暗闇の中、鼠がちょろちょろと小鬼を追いかけ回している。小鬼は狂ったように叫び声をあげ、鼠から逃げ回っている。ねぎはそのおかしな光景を呆然と見つめていた。小鬼の背後で月見が帯に手を入れるのが見えた。

 彼女の右手に二つ目の短刀が握られたその時、鼠に追い立てられた小鬼が月見を後ろに突き飛ばした。その背後には階段がある。月見の目が大きく見開かれた。咄嗟に助けを求めるように左手が伸ばされる。ねぎはその手を掴んで、ぐいと身体を引き寄せた。

 月見の身体はそのまま力を失って、ぺたんと座り込んだ。放心したようにうつむき、胸に手をあてている。

 ねぎは間接的に命を救ってくれた鼠にお礼を言おうと思ったが、気が付けばもう鼠は消えていた。首を廻して探すと、ちょろちょろと階段を降りていく様子が見えた。どこか行くあてがあるのだというように、迷いのない動きだった。あの罪穢れの少女の元へと帰るのだろう。

 ねぎは座り込んでいる月見に向き直った。死にかけた衝撃で、ねぎに対する殺意は消えたのか、月見は悄然とした様子で口を開かない。

「私は夜が明けたら、主のもとに向かいます。罪穢れを落とすことができなかったから、蛇に丸呑みにされるか小鬼になるかを選ばなければなりません」

 ねぎは、下の衣をまくった。蛇にかまれた跡と、その周りの変色した部分があらわになる。

「主の蛇に噛まれた足もこんな状態だから、今更逃げることもできません。死ぬのを待つだけの身です。それなのに、ここであなたを見殺しにするのは後味が悪い」

 月見はねぎが打ちあけた境遇をどうとらえたのか、乾いた笑い声をあげた。

「うつし世に執着するあまり死を選ぶなんて狂気の沙汰ね。同情すると思ったら大間違い」

「同情など求めていません。おかしいのは自覚しています」

「うつし世の毒が身を亡ぼすといういい事例だわ。一度うつし世に裏切られたのに、学ばないなんて、まったく愚かな魂」

「確かにうつし世はそれほどいいところではないでしょう」

 ねぎは一呼吸の間をおいて、言った。以前からくすぶっていた思いを口にする。

「わたしは、ただ、自分がどんな人間だったのかを知りたいだけです」

 月見はおもしろくなさそうに鼻をふんと鳴らした。小さな声で「とんだ酔狂」と言うのが聞こえた。ねぎは窓の外を見た。その闇の色はまだ深い。しかしいったいどれだけの時間が残されている。頭の中、さらさらと砂がこぼれ落ちる。ねぎは身をひるがえし階段を駆け下りた。その背に、月見の声が投げかけられる。「月が沈むまでのわずかな時をせいぜい楽しみなさい」という言葉が通告のように鼓膜に響いた。

 外に出ると、月は西の空に浮いていた。じわじわと胸の内で、諦めろという声がささやきだす。精いっぱいやったじゃないか。それでも見つけれなかったんだ。仕方がない。こういう運命だ。最後の最後に、機械人形をやめて自分の意志で動いただけでもあんたは立派だよ。

 それでもねぎはもう少しだけあがきたかった。あの少女に、月のお面を渡したら、どんな表情を見せてくれただろう、と考えるとやり切れない。ぱっと顔を輝かせてくれるだろうか。また昔のように、親し気に自分の名を呼んでくれただろうか。あの瞳に再び光を宿して、自分に対する絶対的な信頼を持って無邪気なわがままを口にして――

 記憶を封じていた厚い壁がぽろぽろと崩れていくような感覚を覚える。火照ったように頭が熱くなった。一度冷静になろうと、ねぎはいつものあの場所に向かった。深い緑に囲まれた、橋の上。ひっそりとした空気の中、淡い光が待っている。以前、機械のように感情を押し殺していた時も、この場所に来た時だけは不思議と生きた心地がしたものだった。

ねぎはもう一度懐からあの紙きれを取り出した。


太陽のお面が大地を支配し、月のお面が時空を支配する。太陽のお面は光を発し、月のお面は光を吸い込む。


この文章が謎かけだとでもいうように、何度も繰り返し読んだ。月のお面は光を吸い込む。ただの比喩に過ぎないであろうその表現が妙に引っかかる。

眼下では、蛍が呑気に舞っている。蛍の尻は淡く光っている。そう言えば、ここで小夜にあった時に彼女は言った。「この土地に来てから、蛍を見るのは初めてです」と。

考えてみれば、この水面の上には舞っている蛍の数は尋常でない。まるでこの城の周りにいる蛍が皆、この場所に吸い寄せられているかのようにぶんぶんと大勢舞っている。ただ幻想的な光景だと思っていたが、冷静に見てみればその様は、異様かもしれなかった。まるで死体に群がる蠅のよう。蛍の群れは橋のすぐ下から始まり、川の上流の丘の方まで長く続いている。

何かを考える前に、ねぎの足は動いていた。橋を降り、蛍の舞に吸い寄せられるように、草むらをかき分けて、川沿いを歩いた。苔むした斜面を登って、川の上流を辿る。登った先は、開けた丘になっていた。丘の真ん中に、丸い池がある。鏡のようにひっそりとした、水たまり。その水たまりの上、死体に群がる蠅のように、蛍が舞っている。


 ――光を吸う月のお面は夜の王者――


草むらを踏む。丸い鏡のような池に近づく。ねぎの影から逃げるように蛍たちがぱっと散って、道を作る。ねぎはそっと膝をついて、水面を覗きこんだ。空を写したように水面は濃紺で、周りの草木が黒い影を落とし込んでいる。その中央にぼんやりと丸く光るものがある。空に移る月が映り込んでいるというように。

ねぎは空を仰いだ。そこには、どこまでも続く濃紺の大海原があった。無数の星がはかなげに瞬いている。しかし、月は――月は見えない。

ねぎは立ち上がって首を巡らして、西を見た。丸い月は沈みかけていた。西の空、水平線の近く、沈みつつある。丸い形のその下の端はすでに建物の影に埋もれている。心臓がドクンと鳴った。再び、水面に目を走らせる。ひっそりと鏡のように静かな池の真ん中、そこに浮かぶぼんやりと丸く光るものを見た。――あれは空の月を反射しているのではない。

無数の蛍がぶんぶんと、水面を突き破っていこうとするかのように水面に沈む月の上、気が狂ったように舞っている。

やっと見つけた。池の底だ。ねぎははやる気持ちを抑えて、どうすればいいのかと考えた。飛び込もうか。時間がない。何かすくい上げるような道具はないだろうか。藁にもすがる思いで、ぐるりと周囲を見回す。ただ草木が死んだように静かに生い茂っている。心臓の鼓動がうるさく鳴る。うるさい鼓動の音が早くしろとせかしてくる。

池の水の端に根を生やした大きな枯れ木が一つ、倒れかかっている。その枝を池に沈めようとしているかのように大きく傾いていた。ねぎはその枯れ木に手をかけ、上に乗った。綱渡りをしようとでもいうようにそろそろと池の中央に向かって足を踏み出した。落ちる前に少しでも進もうとして幹の上を駆けた。幹が細くなり、足で踏めなくなる所へ来ると、思い切って飛んだ。手を伸ばせば水面に浮かぶ月に手が届きそうな距離。

ジャボンと音がする。全身を刺すような水の冷たさに心臓が止まるかと思う。水の中、眼を開く。暗い闇の中、淡い光が幾筋か煙のように揺れている。水面から水の底へとその煙が続いている。水底に沈む何かが、水面で舞う蛍の光を、吸っている。まるで生きるために酸素を取り込もうとしているかのように、静かに、人知れず、水底のそれは光を吸っている。

あれが――月のお面。

手で水をかき分け、底に近づいた。思ったより深さがある。二度、三度水をかき分け、身体を沈める。手を伸ばし、底へと伸ばす。指先を砂利がかすめた。水に交じって、ざらざらとした砂の感触が頬に当たる。視界が濁る中、光が吸い込まれるその場所を見極める。指先に、コツンと硬いものが触れた。二つの指で挟み込むようにして感触を確かめる。硬くて平たい。ぐいと指先に力を込めて、水底から引き揚げた。まるで引力で縛り付けられているかのように重たいそれを渾身の力で引き揚げた。息が持たない。苦しくなる。鎖が切れるかのような手ごたえを感じて、ふっとそれは軽くなった。落とさないようにしっかりと掴むと、あとはひたすら一心に水面を目指した。ぼんやりと蛍の淡い光が見え始める。

 水面から顔を出すと、大きく酸素を吸い込んだ。月が落ちかけている濃紺の空の下に戻ってきた。右手に掴んだものの感触を確かめつつ、あの枯れ木を目指して泳いだ。枯れ木につかまると、それを浮き輪がわりに呼吸を整える。額に張り付き視界を遮る髪をかきあげる。何とか助かった、と息をつく。しかしぐずぐずしてはいられない。池の端まで泳ぎ、草むらの中、腰を下ろした。水を吸った衣服をぎゅうとしぼる。それから右手の戦利品を空に掲げるようにして、見た。

 鈍く光る銀色の丸い円盤。これが月のお面だとして見ると、少し拍子抜けだった。お面と言われなければ、お面だとも思われないような代物だった。ねぎが腰を下ろした草むらへ、蛍が群れをなしてやって来る。光に群れる蛾のように、ぶんぶんと銀色の円盤に集まってくる。蛍の光を吸い込んで、月のお面はわずかに輝く。

ねぎは立ち上がった。小高い丘の上から、西の空を見おろした。本物の月はもう落ちようとしている。じきに反対の空から、太陽が昇ってくる。その身を燃やそうと息まく、灼熱の光を持った太陽が。

 ねぎは歩き始めた。月のお面を、あの少女のもとへ届けよう。


 地下の廊下に着く。月のお面は袂に隠していた。刺股を手にした夜晩の黒天狗が、ずぶぬれで歩いてくるねぎを見つけて驚いたように固まった。ねぎは、ごくろうさまと手で軽く合図だけすると、黒天狗には何も言わず通り過ぎた。ずぶ濡れの上、ねぎは、左足を引きずるようにして歩いていた。さぞ不審に見えたことだろう。けれど、もうそんなことを気にする必要はない。

 角を曲がって、二つ目の部屋だった。ねぎは、しゃがんで少女に話しかけた。

「思ったよりてこずったよ」と言って、笑いかけた。

 少女はねぎの姿を見て、そのずぶ濡れの姿にやはり驚いたのか言葉を失っていた。ねぎは袂から、さっと月のお面を取り出した。銀色の円盤が篝火の光を受けて鈍く光る。

 少女の目が大きく見開かれる。ねぎは近くに天狗がいないことを確かめると、牢屋の鍵を取り出した。ガチャリと鉄格子の扉を開ける。

「これを東の仙人のところへ持っていくのだろう」とねぎは言った。少女は放心したように、信じられないものを目にしたように、固まっている。

「出来るところまで、わたしも一緒に行こう」とねぎは言った。少女は腰が抜けたように、まだ動かないでいる。ねぎは手を差し出した。

「おいで、ゆかり」

 無意識に、初めて彼女の名を口にした。少女は、おずおずと手を伸ばした。そうしてねぎが差し出した手を取った。

「君は、わたしのことをうつし世でなんと呼んでいた?」

 少女は少しためらいながら、言った。コウチャン。

 ねぎは笑いかけた。

「それなら、その名で呼んでくれて構わない」

 少女はまだ少しためらっていた。そんなことをしたら、それが周りに知られたら、あなたは困ったことになる、と言った。

「大丈夫だよ。行こう」

 ねぎは手を引いた。少女の大きな黒い瞳に以前のような光が見えた気がした。ねぎが歩き始めると、少女も歩き始めた。ねぎは、天狗が見張りをしていない通路を慎重に選び、そうして外に出た。

東の空が白くなり始めていた。太陽の光が、もうじき。


 ◇


 鼠がちょろちょろと、薄暗い廊下を走る。階段をいくつも降り、ぐるぐると廻り、そうしてひんやりとした地下に着いた。ちょろちょろと地下牢の廊下を歩く。

 ある部屋の前まで行くと、自らが掘った穴の中からするりと抜けて、入った。中では一人の少女が横たわっている。鼠はその少女の懐のあたりに近づくと、身を丸くした。

 やがて大きな振動が城郭を、大地を揺るがし始める。鼠は、いったい何事だと驚き、ふるふると髭を震わせる。振動に、傍らの少女の睫毛が震え――ぱちりと目が開いた。

 ぐらぐらと揺れている。立っていれば、きっと倒れてしまうほどの揺れだった。かなめは思わず、胸の辺りで丸くなっている鼠を抱きしめる。温かくて、やわらかい感触に安心感を覚える。

 随分と長い間、気を失っていた気がする。思い出すのは、正義という少年が、まさにヒーローのように現れ、助け出そうとしてくれたこと。

 胸元の鼠を見た。鼠はなぜが抱きすくめられたままじっとしている。

 周囲では揺れに驚いて起き出して来たのか、天狗たちがぎゃあぎゃあと騒いでいる。かなめの心には不思議と恐怖心が湧いてこなかった。ずっと疼くような鈍い痛みを持っていた右腕の罪穢れから、気が付けば痛みが引いている。袖を捲って見てみれば、きれいに消えていた。

 何かが変わろうとしているらしい。かなめは鼠を抱きしめながら思った。


 ◇

 

 ゆかりは目の前に突然現れた救世主のあとを、夢見心地で歩いていた。なぜか救世主は頭から足先までびしょ濡れだった。頬には赤く血の滲んでいる切り傷があった。そして、左足を引きずるようにして歩いていた。そのすぐ後ろをついて歩くと、大好きだった幼なじみの匂いを感じた。

彼は、昔のようにゆかりと名を呼んでくれた。

 いっそこのままこの土地で、彼と一緒に生きていければそれはすごく幸せなことではないかと思った。記憶も、名前も、立場も全ては関係ない気がした、彼こそが、私がこの世で一番大切に思っているその人なのだから。

 ゆかりは晃太朗の影にくっついて歩きながら、月のお面のことを考えた。晃ちゃんはいったいどうやってこれを手に入れたのだろう。びしょ濡れのことと関係あるのだろう。頬の傷や左足を引きずっていることとも関係あるのだろう。きっと晃ちゃんはまた無理をしたのだろう。――黙って無理をするところは、昔と同じままなんだ。

 夜と朝の狭間の時を歩く。緑に囲まれた城の敷地内、人気はないに等しかった。もう少し歩けば、城から城下街へと出る木の橋が見えてくるだろう。東の果ての仙人は、ずっと先、山の向こう、灰色の世界と、荒野を抜けた先にいる。

そういえば、あの悪魔のような仙人はこう言っていた。月のお面を光にかざせ、と。

「コウチャン」と後ろから呼びかけた。その名を呼ぶのが久しぶり過ぎて、それは名前でなく奇妙な音のように響いた。

 白み始めた空の下、晃太朗は立ち止まり、振り返った。曙光の中、久しぶりに明るいところで目を合わせたから、ゆかりは息をするのも忘れそうになる。記憶にある通り、彼のまなざしは優し気で頼もしかった。

ゆかりは一呼吸すると、彼が右手に持っている月のお面を指さした。

「仙人は、それを光にかざせすようにって」

「かざす? 光に?」

 ゆかりは頷いた。晃太朗は少し悩み、すぐに納得したように言った。

「ああ、光を吸わせろということか。池でも蛍の光を吸っていた。きっと光がこのお面の養分になっているんだろう」

「ようぶん?」

「そう」

 ゆかりは首を傾げた。晃太朗は目を細めて、東の方角を見つめている。

「もうすぐ日が昇るね」と彼は呟いた。ゆかりは晃太朗のその姿と、昇り始める太陽を、白い光に照らされ始める城と石垣と、草花を、心に焼き付けるように見ていた。

 もうすぐ、日が昇る。

 目の前に、いくつもの白い光の筋が出来た。光の筋は、晃太朗の持つ、銀色の円盤に向かって収縮していった。銀色の円盤は、脈を打つかのように、その身を震わせた。吸い込まれていく光の筋が太く、大きくなる。銀色の円盤は、晃太朗の手から離れて宙に浮いた。宙に浮いてくるくると廻り始めた。

 地面が揺れた。ぐらぐらと大きく揺れた。ゆかりは立っていられずに、倒れ込んだ。空が暗くなったり、白くなったりを繰り返した。頬に水の雫が当たった。雨かと思って、頬に触れるころには、空から降るものが白い雪に変わっていた。目の前を、ちらちらと白いものが舞ったかと思うと、吹雪になり、また空は暗くなった。ごろごろと雷の音がきこえた。足元の草が次々に枯れていく。少し離れたところの木々の蕾が一斉に開花して桃色の花びらを持つ桜がずらりと白い城壁を飾った。

ぐるぐると廻る。時が、景色が、ぐるぐると廻っている。

桜の花びらが散ったかと思うと、目の前が見えなくなるほど、あたりが真っ白い光に覆われた。ゆかりはまぶしくて目を閉じた。

 目を開けると、空は暗かった。ただくるくると廻った銀色の円盤の周辺だけが光っている。その光の下、枯れた草の上にそれまではなかった木の椅子がある。丸みを帯びた背もたれにゆったりと背中を預けて、男の子が座っている。その男の子は、口元にふてぶてしい笑みを浮かべ、右手に煙管を持っている。そして、その頭からは、禍々しい山羊の角が突き出していて。

 晃ちゃんは? ゆかりははっとして、暗がりの中、彼の姿を探した。いない。いなくなってしまった。心臓が早鐘を打つ。目の前の悪魔が連れ去ったのか。

 くるくると廻っていた円盤の回転が止まる。男の子が手を伸ばすと、円盤は一直線にその方へ飛んでいき、パシッという音と共に、その手元に収まった。

「晃ちゃんは?」

 声が震えた。身体もガタガタと震えそうになる。以前、この悪魔と対峙した時の恐怖が蘇る。心臓を握りしめられたかのような恐怖が蘇る。でも負けちゃいけない。

「晃ちゃんをどこにやったの?」

 クックという笑い声が聞こえる。

「そんなに怯えるな。余は礼を言いに来た」

「礼?」とかすれる声でゆかりは聞き返した。

「そう、お前と、そこの坊やにな。それがお前の想い人か。なるほどお前の相手にしてはちと男前すぎるな」

 悪魔が煙管を持った手を斜め下の方へ、クイクイと動かした。見れば、晃太朗がうつぶせに、倒れている。月のお面が発する淡い光に照らされてかろうじてその姿が見えた。ゆかりは、地を這うようにして身体を動かし近くまで行くと、彼の身体を抱き寄せた。ぐったりといている。

「晃ちゃんに何をしたの」

「直接は何もしていない。余は、この世界の時の流れを少しいじっているだけよ。心配するな、すぐに目を醒ます」

 何が面白いのか、悪魔は相変わらずクックと笑っている。

「月のお面を取り返せ、とは冗談で言ったようなものだったが、冗談でも言ってみるものだな」

 銀色に輝く月のお面は、悪魔の手の中で、静かに存在感を誇っていた。光を吸い込む前には感じることのなかった、得体のしれない圧迫感のようなものを放ちながら。

「まあ、そう硬くなるな。あの時、虐めたことは謝ろう。余も退屈のあまり、むしゃくしゃしていたからな」

ゆかりは首筋をこわばらせながら、悪魔の言葉を聞いていた。この悪魔のいうことを鵜呑みにしては、いけない。

「しかし、月のお面を取り返してくれたことには素直に感謝しよう。おかげでこの世界をリセットすることができる」

「リセット?」

「そう、一から作り変える。恋愛のない世など退屈で仕方がない。妹も馬鹿げた世界を作ったものだ。やつの好き放題にはもう我慢ならん」

「ここにいる人たちは、どうなるの」

「一度、皆、うつし世に返ってもらおう」

「うつし世に、本当に?」

 ゆかりが疑わし気な瞳で悪魔を見ると、そいつは笑った。

「なに案ずるな。余は妹と違って、それなりの道徳心を持っておる」

 悪魔は、煙管を吸い、ふうと煙を吐きだした。ゆかりは心を落ち着けようと、深呼吸をした。声が震えないように、力をこめる。

「月のお面を取り返したなら、あなたは願いを聞き入れてくれると言った」

「ああ、言ったかもしれん。お前の望みは何だったかな」

「わたしは――やり直したい。この土地に来てから感じたことを忘れないで、それで、やり直したい」

 悪魔はにやりと笑った。

「いいだろう。お前の望みとやらを特別、叶えてやろう」

 悪魔はまた、銀色の円盤を宙にはなった。円盤はくるくると廻り始める。ゆかりが最後に見たのは、パチンと悪魔が指をならす姿だった。

 世界が崩れ始める。意識が闇へと引っ張られていく。ゆかりは、晃太朗の身体を離さないよう、ぎゅっと抱きしめた。




 頬の下にやわらかい感触がある。部屋はむっとするほど暑い。瞼をあげると、テレビの画面がちらちらと光る様子が見えた。毛布を首元まで三枚も重ねている。ゆかりは居間のソファに横になっていた。

 奇天烈な不快感に顔を歪めた。喉がひりひりと痛い。風邪をひいているらしい。――風邪?

 ゆかりは、ばっと体を起こした。首を廻すと、テーブル、テレビ、掛け時計、染みのついたベージュの絨毯が目に入る。暖房がききすぎている。いつも通りの居間だった。

 それなのにどうして違和感なんて覚えるのだろう。なぜか、すごく、すごく久しぶりの感じがする。ゆかりは無意識に自らの髪に手を伸ばした。すっと手を櫛のようにして髪に触れる。耳の下を通りすぎて、肩の下に届くほどに髪が長い。髪は、ばっさりと切り落としてしまったはずなのに。どうして。

 急に、頭がぐらぐらした。頭の中に、様々な情景が入り乱れる。にっこり笑ったお面の人たち、立派な石垣の大きなお城、天狗のお面の偉そうな人たち、襲い掛かってきた人食い植物、悪魔のようなおそろしいことを言う男の子、そして、閉じ込められた暗い穴ぐらのような地下牢。

 思い出す。彼は言った。手を差し伸べて、招いてくれた。ゆかりと名を呼んでくれた。その手に月のお面を持って。見るからにぼろぼろの身体を引きずって。

 今まで感じたことのないほどの大きな感情が腹の底からこみあげて来て、ゆかりは泣きそうになった。瞼をぎゅっと閉じる。それから、そう。あの悪魔みたいな子が最後に現れて、言ったのだ。――「お前の望みとやらを特別に叶えてやろう」と。

 喉が痛い。風邪をひいている。ということは、今日はもしかしたらあの日ではないだろうか。ゆかりは立ち上がって、テーブルの上に置いてある新聞を手に取った。日付を確認する。そしてゆかりは時計を見た。

 一〇時九分。

 もう少しすれば、母親が帰って来る。そうして電話に出て、受話器を置き、蒼い顔で言うのだ。「晃太朗くんが、昨日から家に帰って来てないんだって」と。

 喉の痛みなど吹き飛んだ。体が怠かったことなど嘘のように、頭の先からつま先まで妙な力がみなぎってきた。

 ゆかりは悪魔にあの時、言った。やり直したいのだと言った。どうやり直そうか、という考えが今、いっぺんに頭の中で固まった。ゆかりは部屋着を脱いで、出かける準備をした。肩にかかる髪を一つに結った。

 何を着ていこうか少し迷った。けれど結局、あの日着たちょっと野暮ったいダッフルコートを着ていくことにした。そうして玄関に出たところで、母が帰ってきた。

 母はゆかりを見て、目を丸くする。

「あんた、こんな時間からどこに行くの」

「もう風邪の具合、よくなったから。ちょっと買い物行ってくる」

 母は眉をひそめて、何買うの、と聞いた。ゆかりは甘いものを食べたい気分だからと適当なことを言って、母をするりとかわした。「早く帰って来なさいよ」という言葉を背に受けて、外に出る。ひんやりと冷たい外気が身を包んだ。

ゆかりは、マフラーで口元を隠すようにして歩いた。駅近くのあの広場までは歩いて十五分くらいだ。あの時より、早くに家を出たから、まだ彼らはあの場所にいないかもしれない。それなら――それなら待っていればいい。来ることは分かっているんだから。

あの奇妙な夢のような、あまりに長すぎる夢のような、悪夢のような土地であまりにいろいろなことを経験したためだろうか。今まで味わったことがないくらい、肝が据わっていた。目的地へと歩き続ける。

住宅街を抜け、賑やかな市街地に出る。クリスマス前で、街はイルミネーションに溢れていた。赤に黄色に緑にきらきらと光るそれらがまぶしすぎて、ゆかりは暗い空を仰いだ。

視界いっぱいに広がる濃紺の空の中、不思議な形の月が浮いていた。ぱくりと喰われたように大部分が欠けている――三日月だ。ゆかりの目は吸い寄せられるようにその三日月をじっと見つめた。三日月を見るなんて、いったいいつぶりだろうか。

時の進まないあの場所では、いつ見ても、月は丸かった。

胸のうちがなんと形容すればいいのか分からない気持ちで塞がれ、欠けた月から目線を落とした。ただ足を動かして、先に進んだ。

駅の手前、左に折れたところにその広場はあった。まるい広場の奥に、石段があって、その石段一つ一つに電灯がついていて、そこだけが暗闇の中、ぼんやりと明るくなっているのだ。

女の人の声が聞こえる。

「ねえ、晃太朗の家ってあのちょっと豪邸っぽいところなんでしょ」

「豪邸? 来栖くんってお金持ちなの? お坊ちゃん?」

 二人の女の人の笑い声が聞こえる。

「お坊ちゃんぽいとこあるもんねえ。てか、だれか煙草もう一箱買ってきてくんない?」

 そんな会話が聞こえてくる。石段に座った四人の人影が見えた。話しているのは、大学生らしき三人ばかりで、晃太朗は口数少なくうつ向いている。ゆかりは、立ち止まらずにずかずかとその四人のところに近づいていった。

 晃太朗の隣に座った茶髪の女性がこちらにちらと目を向けた。ゆかりは彼女を無視して、晃太朗の目の前で止まった。制服の上に見慣れないコートを着ている。

「晃ちゃん」と名前を呼んだ。

 そこで初めて晃太朗がわずかに顔を上げる。右手にお酒の缶を持っている。ゆかりはお酒など飲んだことがないから、それがアルコールの強いものなのかとかそういうことは全然分からない。

 三人はずかずかと入ってきた侵入者に、少し気圧された様子で黙っていた。晃太朗は、ぼんやりした瞳でゆかりを一度見上げて、それからまた眼を伏せて、「なに」とだけ言った。

あの時は、こんな晃太朗の様子を見て――ちょっと嫌な感じのする大人たちとこうして一緒にいて、手にお酒を持っている様子を見て、彼は変わってしまったのだと思った。それから冷たい言葉をかけられて、わたしのことなんてどうでもいいと思うようになったのだと被害妄想を膨らませた。けれど今ならわかる。――こんなのはただの自暴自棄だと。

 ゆかりは、晃太朗の手から缶を取り上げた。それで、彼の手をとって「うちに帰るよ」と言った。晃太朗は特に抵抗もしない代わりに、腰も上げない。ゆかりは、さらに手をぐいと引っ張った。

 見かねたのか、隣に座っていた茶髪の女の人が立って「晃太朗いやがってんでしょ。勝手に入って来ないでよ」と怒った顔で言った。ゆかりはその女の人を見た。

 記憶の通り、整った綺麗な顔をしている。すらっとしてモデルのようなスタイルだった。けれど、それだけだった。何の感情もわいてこない。羨ましいとすら思わない。

「でも、彼の家の人が心配してるので。それに、わたしたちまだ高校生だから、お酒とか、勧めないでください」

 女の人は、なにいってんだこいつ、というように眉を吊り上げた。

 もう一人の女の人と男の人は、特に何するでもなく、顔を見合わせてにやにやしていた。

 女の人がゆかりのことを邪険につきとばそうとでもいうかのようなそぶりを見せたところで、それを見ていたのか、たまたまか分からないけれど、晃太朗がのろのろと立ち上がった。

「いいよ。帰る」とぽつりと言った。

 女の人は晃太朗をきっと睨むように見たけれど、すぐ座り込み、「なんだよ、お前友達いねえんじゃなかったのかよ」と吐き捨てるように言った。そして、急に興味を失ったようにまた二人の大学生の方に向き直った。それからは、もう特に絡んでこなくなった。

 ゆかりは左手に取り上げたお酒の缶を持って、右手で晃太朗の手を引いて、夜道を歩いていた。一〇分ほど無言で歩いていた。駅から離れた住宅街へと入る。やがて、晃太朗が言った。

「じゃあ、おれの家こっちだから」

 晃太朗の家がどこかくらい、言われなくても知っている。ゆかりは振り向いた。

「今日うちに泊まっていってよ」とゆかりは言った。晃太朗は足を止めたまま動かない。静かな声で、こちらを見ないまま、

「それって何のつもりなの」と言った。

「話したいことがあるから」と返す。

 晃太朗は黙っている。目線を下に、その表情は影になっていて見えない。

「晃ちゃん、なんでこんな時間に外でお酒なんかのんでるの」

 掴んだ右手から、晃太朗の身体が強張るのが伝わってきた。

「そんなの、関係ないだろ」

「関係なくない」

ゆかりは、右手をはなし、晃太朗の方へと身体を近づけると、その胸元を思いきりぐいと掴んだ。目の前に彼の胸がある。ふいに大きな衝動が胸のうちで渦巻く。彼の胸に耳を当て、彼の心臓の鼓動の音をききたい。赤い血が脈を打ってそこに流れていることを感じたい。手を伸ばせば触れることのできる距離にいてくれるということが、いったいどれだけ特別なことか。

 耳元に、彼の吐息を感じた。ゆかりは、ただ低い声で「どうしても話したいことがあるから、今すぐうちに来てよ」と凄むように言った。


 ゆかりは晃太朗を自分の家まで引っ張っていった。母親は目を丸くしたが、「晃太朗が昨日から帰って来ていない」という電話を受けた後だったのだろう。ゆかりが連れている様子を見て、安堵したような表情を見せた。それから時間が時間だったから、ゆかりは晃太朗にほとんど無理やりお風呂に入ってもらった。風呂からあがったら彼が着るものとして、たまたま持っていた一回り大きい、普段着ることのないジャージを用意して置いた。


 少し強引すぎたかな、と台所に立って、ご飯を用意しながらゆかりは思う。お腹がどれくらいすいているか分からなかったけれど、なんとなくあの様子じゃ、ちゃんとしたものを食べていないんじゃないかなと思った。

 温かい器を両手で持ちながら、二階の自室に戻ると、風呂からあがった晃太朗は悄然とした様子で床の上に座っていた。ゆかりは晃太朗を冷たい床ではなく、ベッドの上に座るよう促した。先程、ゆかりが勢いで凄んでしまったせいか、晃太朗は抵抗する気力も失ったかのように、ただぼんやりとゆかりに促されるままになっていた。

 明るい照明の下で改めて見て、少しどきりとした。いつもより長く伸びた前髪は、目にかかるほどで、下を向いている為、表情が見えず、その頬は風呂上りとは思えないほど青白い。紺色のジャージを着たその姿は、いつも一緒にいた幼馴染みとも違う気がするし、地下牢にいた彼とも違う、誰か知らない子のように見えた。

 ゆかりは小さなテーブルの上に、器とお箸を置いた。晃太朗はちらと見たけれど、手をつけようとはしない。ゆかりは立ったまま、言葉を探した。

「人参少し入れ過ぎちゃった。冷蔵庫にたくさんあったから……」

 晃太朗は聞こえているのかいないのか視線を落として、黙っている。ゆかりはなんとか透明な膜を破ろうと、言葉を続けた。

「お腹すいてないなら食べなくても大丈夫だよ。わたしが夜食として食べるからさ」

 ゆかりがそう言うと、晃太朗は小さな声で

「こんなことしなくていいのに」と言った。相変わらずゆかりのことを見ようとしない。

 ゆかりは床に座り、晃太朗より目線を低くすると「ねえ、晃ちゃん」と口を開いた。長く伸びた前髪の奥、光のない瞳と目が合う。

「わたしはずっと、晃ちゃんにわがまま言ってきたね」

「わがまま?」と小さな声で晃太朗がきいた。

「昔から、晃ちゃんにわがままばっかり言って困らせたよね」

 ゆかりがそう言うと、晃太朗の瞳に戸惑いの色が見えた。

「そんなの、ずっと、昔のことだろ」

「昔のことだって、わたしは覚えてるよ。ねえ、晃ちゃん、あのパズル覚えてる?」

 ゆかりは、背後に窓の横に飾られている大きなパズルを指さす。それはシンデレラ城を背景に、南瓜の場所と、魔女が描かれているパズルだった。晃太朗が昔、完成させるのを手伝ってくれたパズルだった。

「あのパズルの、真ん中の南瓜の馬車のピースがね、へこんでるでしょ。あれ、ベッドの足の下に引っかかってたのを、晃ちゃんが見つけ出してくれたピースだよ」

 晃太朗は、よく分からない、という顔で聞いている。

「まだ小学生の時、最後のピースが見つからないってただ泣いてるわたしの横で、晃ちゃんは一言も文句を言わずに、そのピースが見つかるまで探してくれたんだよ。たぶん一時間くらい、あちこち探してくれたんだよ」

 晃太朗は、黙って、表情に乏しい顔つきでパズルを見上げている。ゆかりは続ける。

「一緒に料理しようって、晃ちゃんの家に行った時、わたしが光弘くんのおもちゃ勝手にいじって壊したこと覚えてる? あの時、わたしは、ばれなきゃいいやって思ってごまかそうとした。でも晃ちゃんはそんなわたしのこと一言も責めなかった。行きの道も、帰りの道も、重いおもちゃもずっと晃ちゃんに持たせっぱなしだったのにね」

 晃太朗は、そんなこともあったかな、というぼんやりとした顔つきで、静かな声で「何だよ、そんな昔のこと」と言った。

「他にもいっぱいあるよ。昔一緒にトランプやってた時は、いつもわたしが得意なゲームにばかり付き合ってくれた。小学校でやる劇の練習に朝から夕方まで付き合ってくれたこともあったの覚えてる? それに、勉強もいっぱい教えてくれた。わたしが勉強に飽きたって言ったら、晃ちゃんはわたしにいつも自分の分のおかしをくれた。晃ちゃんが好きなレモンケーキも私の方がいつもたくさん食べてたよね」

 ゆかりの続く言葉に、晃太郎はまだ表情を動かさない。「いいって、そんなこと。今になって」と言うその声には、ただ戸惑いが見えた。

「わたしはそういうのを、当たり前と思ってた。当たり前と思って、ずっとお礼も言ってなかった」

 視線をぼんやりと床に落としていた晃太朗が少し顔を上げる。ゆかりの目を見る。

 思い出す。彼が命を絶ったと知った時に、囚われた感情を。底のない闇に吸い込まれていくような、息もできない絶望感。

「晃ちゃん、わたしは頼りないかもしれないけど。頭も良くないし、言わないように気を付けたって、きっとまたわがまま言って迷惑かけるんだろうけど」

 息を吸い込んで、「わたしは」――胸の内から吐きだすように言った。

「わたしはもっと晃ちゃんにわがままを言ってほしいと思ってる。わたしに迷惑をかけてほしいと思ってる。何でもいいから愚痴とかこぼしたり、わたしのこと適当にぱしったりしてさ。頑張るし、やれるだけやるから。それで――今までわたしがたくさん貯めてきた借りを、少しずつ返させてよ」

 晃太朗が瞬きをして、ゆかりを見た。ゆかりは晃太朗の隣、肩と肩が触れ合うほどの近い距離に座ると、自らの掌を、晃太郎の手の上に重ねた。体温を感じながら言う。

「晃ちゃん、一緒に」

 口が勝手に開く。ずっとずっと貯めていた言葉がこぼれ落ちていく。

「一緒に――生きよう」

 晃太郎が瞬きをした。その瞳の奥で感情が動いている。

少しの間をおいて、「ゆかり」と小さな声で言う。

「何かあった?」

そういう彼の瞳には戸惑いと、それからこちらを気遣うような色が見えた。――その表情にゆかりは思う。やっぱり昔と変わらないんだなと気付く。目の前の彼は、幼いころから知っている、いつも一緒に遊んでくれた晃ちゃんで、月のお面を探して奔走してくれた地下牢の彼と同じなんだなと思う。

「え? 別に。なんとなくだよ」

 ゆかりはじっと見つめられ、急に気恥ずかしさを感じ始めた。頬が赤くなる。

「なんとなく?」

 晃太朗が目をしばたかせた。

「うん。最近、晃ちゃんとあんまり話してなかったから、それでなんとなく」

 ゆかりが急につっけんどんな口調になって、「なんとなく」と繰り返したことがおかしかったのか、晃太朗は笑った。目尻と頬に優し気な皴がくしゃりと寄った。そうすると彼の印象はがらりと変わる。大人びた顔が一気に少年のようになる。久々に見るその笑顔に、ゆかりの胸のうちは熱くなる。その笑顔をたくさん見ることができるのは、幼馴染のわたしの特権だった。

 晃太朗は、箸を手に取ると、まだかろうじて湯気の立ち上る、うどんに手を付けた。ゆかりはその様子を見ながら、最初は手を付けようとしなかったのに、意外と掻き込むようにして食べているその姿を見ながら、晃ちゃんはやっぱり意地っ張りだなあと思った。

 晃太朗は、「ごちそうさま」と器を置いた。器の中の麺も具材も綺麗に完食されていた。

「ねえ、晃ちゃん。明日、久しぶりに一緒に学校に行こうよ」

 ゆかりのその言葉に晃太朗は、答えない。顔を下に向けている。ゆかりは続けた。

「あ、あとね、学食の新しいパンが凄くおいしいんだけど、すぐ売り切れちゃうんだ。だからそれ買えたら、明日晃ちゃんのとこ持ってくね」

晃太朗は黙ってうつ向いている。器を置いたきり、ずっと顔を伏せている。

「ねえ、晃ちゃん。きいてる?」

晃太朗はまだ顔を伏せている。心配になって、彼を覗き込むように見た。ふいっと晃太朗が顔をそむけた。その目の縁が赤くなっていた。

「泣いてるの?」

 ゆかりはあまりに驚いて、そう口にしてしまった。泣いているところなんて今まで見たことがなかった。

「泣いてない」

「うどん、不味かった?」

「違う。泣いてない。うどんはおいしかった」

 泣いてないと突っぱねる態度が子供じみていておかしくて、ゆかりはにやにやした。それを見て、晃太朗は少しバツが悪そうにしていたけれど、やがてつられたのか、開き直ったのか、ゆかりに笑いかけた。


「晃ちゃん、前髪伸びたね」

 晃太朗は、そうかな、と言ってゆかりを見た。

「そうだよ。それじゃ前が見づらくて危ないよ」

「確かに、少し伸びたかな」

「切りに行かないの」

「いくよ。そのうち」

「明日行こうか? 一緒に学校さぼって」

「さぼっては、いかないよ」と言って、小さく笑う。

「いいじゃん、一日くらい」

「学校さぼって髪切りに行くやつがどこにいるんだよ」

「わたしもさぼって、髪きりに行くから、一緒に行こうよ」

「本気で言ってる?」


久しぶりの会話はぽつりぽつりと紡がれていく。


「ゆかり、その髪型」

 晃太朗が言葉を探すように間を開けて、言う。

「――髪結ってるの、珍しいね」

 ゆかりはにっこり笑って、返す。

「似合う?」

「うん。似合うよ」

「どう似合ってる?」

「どうって……少し雰囲気変わるかな」

「どんな雰囲気?」

 晃太朗は少し首を傾け、考え、言った。

「大人っぽく見えるよ」

 ゆかりは、またにっこりと笑った。拍子に人懐っこい八重歯がぴょこんと覗いた。


 窓の外、遥かなる空には、ぱっくりと欠けた月が輝いている。細い月の光が小さな窓を通じて六畳の小部屋の時を静かに廻している。

 そうして時は前へと進む。もう止めることも引き戻すこともできない。だから少女は思う。ノートに綴るように、一つ一つ、丁寧に、見たこと、聞いたこと、感じたことを胸にたたみ込もう。――いつか必要な時に取り出せるように。


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欠けた月の夢を見る 未定 @akino88

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