2.仙人と恋の脈

(真嶋ゆかりのはなし)


 わたしは、ぱちん、と白い石を打った。向かいに座る男の子は少し悩み、ぱちん、と黒い石を打った。わたしは悩むことなく、ぱちん、と白い石を打ち返した。わたしはにんまりして白に挟まれた黒い石のいくつかをくるくると返した。わたしたちはオセロをしていた。今のところ、黒よりも白の方が多かった。だから、わたしは機嫌がよかった。

 盤が半分以上石で埋まったところで、わたしは形勢が逆転したのを知った。白よりも黒の方が多い。わたしはこのままでは負けることを悟った。

「オセロってつまんない」

 わたしは文句を言い始めた。ポテチを口に運びつつ、寝転がっている。膝を折って上に向けた足をぶらぶらさせている。お母さんが見たら、「ゆかり、もう少し行儀よくしなさい」と呆れて注意しただろう。そして「晃太朗くん、いつもごめんなさいね」と向かいに座る男の子に気を使っただろう。でも、今ここに、お母さんはいない。だから、わがままし放題だ。

男の子は、わたしのように寝っ転がったりせず、床の上に足を組んで座っている。ほっそりとした大人びた顔立ちに、優しそうな切れ長の眼を持つ男の子だ。

わたしはいつもその男の子のことを晃ちゃんと呼んでいた。

「そう?」と言いながら、晃ちゃんは、ぱちん、と黒い石を打った。白い石がたくさんひっくり返された。わたしはむっとした顔をした。

「これって、最初にじゃんけんで買った方が勝つようにできてるんだよ。だってその方が絶対有利だもん」とわたしは適当に思いついたいちゃもんをつけた。

「そうかもね」と晃ちゃんは涼しい顔でわたしのいちゃもんを聞き流した。

わたしは、盤をにらんで、どうやったら形成を逆転できるだろうかと考えていた。考えつつ、右手を伸ばし、がさこそとポテチの袋の中を探っていた。どう頑張っても、今から逆転はできそうになかった。でも負けるのは嫌だった。

盤を睨んで固まっているわたしを見て「飽きた?」と晃ちゃんがきいた。わたしは、ポテチをごっくんと飲み込むと、「うん、なんかつまんない」と答えた。晃ちゃんは仕方なさそうに苦笑した。

「じゃあ、トランプでもやる?」と晃ちゃんがきく。わたしは「うん」と頷いた。オセロは中途半端なまま放り出され、代わりにトランプをやることになった。

わたしは晃ちゃんの白くて細い指が、トランプを上手に切るのを眺めていた。晃ちゃんはわたしより何だって器用にできる。トランプを切る動作さえ私よりずっと上手に見えた。それだから、トランプを切ったりするのは全部晃ちゃんに任せていた。


わたしと晃ちゃんは、初めて会ったのがいつかも思い出せないくらい幼いころからの知りあいだった。晃ちゃんのお父さんはわたしのお母さんの従妹で、わたしと晃ちゃん遠い親戚だったからだ。また従妹とかいうらしい。

 それで晃ちゃんとわたしの家は歩いて五分くらいしかかからないくらい近かったから、本当に幼いころからよく一緒に遊んでいた。わたしは一人っ子だったけれど寂しいと思ったことは一度もない。

晃ちゃんはわたしがいうことにはたいてい何でも付き合ってくれた。六畳に満たないわたしの部屋でよく、トランプをしたりボードゲームをしたりした。部屋の窓くらいに大きなパズルを両親から買ってもらった時は、二週間くらいずっとそのパズルを完成させることにつき合わせた。「ピースが足りない」とわたしがぐずついた時は、辛抱強く、最後のピースを探すのを手伝ってくれた。完成したそれは今でも本棚の横の白い壁に飾ってある。学校の催し物で劇をすると決まった時に、丸一日わたしの台詞の練習に付き合ってもらったこともある。晃ちゃんが参加しない劇の練習を、丸一日ずっとだ。わたしが逆の立場だったら到底付き合いきれない。晃ちゃんは不思議なくらい辛抱強くて、優しい男の子だった。


晃ちゃんのお父さんは、国の重要な機関――なんとか省とかいう感じのところ――で働いているらしく、お金持ちだった。屋敷、と言うと少し大げさかもしれないけれど、このあたりでは一番立派な家に住んでいた。広さは少なくとも、わたしが住む家の二倍はあったし、玄関に入ると、まず金色の額に入れられた大きな滝の絵が目に入り、その横には怖い顔をした大きな鷲の剥製が飾ってあった。時々遊びに行くと、その家の雰囲気に何となく落ち着かないものを感じたことを覚えている。

晃ちゃんには、昔からどこか大人びたところがあったように思う。みんながはまった妖怪キャラクターのシールを夢中で集めたりしなかったし、あれがほしいこれがほしいとスーパーで駄々をこねる姿なんて想像もできない。

もしかしたら、晃ちゃんの家庭がちょっと複雑だったことが関係しているかもしれない。晃ちゃんのお父さんとお母さんは、晃ちゃんが二歳の時に離婚した。そして、晃ちゃんが五歳の時に、家に新しいお母さんがやって来たのだ。綺麗な人だった。美行さんという名前だった。

美行さんには二人の息子がいた。晃ちゃんと同い年の光弘くんと、二つ年下の佑人くんだ。晃ちゃんとは血のつながりがないから、義理の兄弟ということになるらしい。佑人くんはおとなしい子だったけれど、光弘君は怒ると時々ひどい癇癪を起した。

わたしが晃ちゃんの家に遊びに行くと美行さんはいつも笑顔で出迎えてくれた。そして、わたしの家にはないような高そうなお菓子とかをたくさん出してくれた。

わたしは初め、晃ちゃんの新しいお母さんはお洒落で綺麗でいいなあと思った。新しい家族に馴染むのは大変だろうと思ったけれど、晃ちゃんが新しい家族のことを悪く言っているのを聞いたことがない。だから、きっと上手くいっているのだろうと思っていた。


 あの出来事があったのは、たぶん小学校の四年生、夏の日のことだったと思う。


わたしは晃ちゃんの家にお邪魔していた。

次の家庭科の授業で鶏肉のマーマレード焼きをつくらなければならなかった。先生は、家で一度練習していくといいでしょう、と言った。だから、一緒にその練習をしよう、とわたしは晃ちゃんを誘ったのだ。

鶏肉のマーマレード焼きをどうやってつくるか、そんなことをここに書くつもりはない。ここに書くのは、わたしが救いようのないヘマをやらかしたこと。それと、そのあとの少し不自然な晃ちゃんの様子と、わたしがいかにわがままなガキだったかということ。


晃ちゃんが、居間とキッチンを片付けている間――二階にいたわたしは、光弘君の玩具を落として壊したのだ。どうしてそんなことになったのか。本当、思い返しても、自分の馬鹿さ加減に呆れかえる。

 晃ちゃんの部屋と光弘くんの部屋は二階にあって、隣同士になっている。晃ちゃんの部屋が奥にあるから、廊下を歩く時光弘くんの部屋の中が少し見えたのだ。わたしは、光弘くんの部屋の中に、わたしがどうしても欲しいと思っていた玩具があるのを見つけた。

 そこからはいたって単純な話で、阿呆なわたしはどうしてもその玩具をいじってみたくて、こっそりと光弘くんの部屋に忍び込んで――光弘くんも佑人くんも美行さんもお出かけしていていなかった――その玩具をいじった。

 どんな玩具だったか、確か、最新のラジコンのようなものだったと思う。コントローラーを操作すると、ヘリコプターのような形の玩具が空を飛ぶのだ。

 前々から気になっていたものだったから、近くで見てみたいと思っただけだった。しかしいざ目の前にすると、ちょっとコントローラーを触ってみたいという気持になった。それでわたしは操作の仕方もよく分からないのに、それをいじってしまった。

 それでどうなったのかは、先ほど書いた通りだ。わたしはその玩具を飛ばすことさえできなかった。機体はぶぶぶぶとおかしな音を立てて、机の上を揺れた後に、おかしな動きをして机から落ちてしまった。その拍子に、機体の上についている、ぐるぐる回る羽の一つがぐにゃりと折れてしまった。手で治そうとしても、一度折れ曲がったあとは消せなかった。

わたしはこの時ほど、やってしまった、という強い焦りを感じたことはない。目の前が一瞬にして暗くなり、息をするのも苦しくなったほどだ。

とにかく頭の中に湧いてきた思考は、ばれたらただごとでは済まないぞ、ということだった。光弘君は怒るに違いない。どうやって隠ぺいしようか、そんな考えで一杯になった。

これが晃ちゃんの玩具だったら、素直に謝っただろう。晃ちゃんは優しいから絶対に許しくれる。わたしは、お母さんに謝って、もちろん弁償するけれど、それで終わりだ。

 わたしは機体とコントローラーをもとあった位置に戻して、そっと部屋を出た。

それから晃ちゃんの部屋に戻って、わたしは漫画を開きながら、漫画は読まず、ただどうしようどうしようと考えていた。考えてみれば、羽は欠けてしまったというわけではなく少し折れてしまっただけだ。別に、機能の方には何の支障もないかもしれない。もしかしたら、光弘くんは気が付かないかもしれない。

でも正直に言わなきゃ、人の玩具を壊したんだから――正直に言わなきゃ。

部屋でそんな思いをぐるぐる巡らしていたところへ、「ゆかり、片づけ終わったよ」と晃ちゃんが呼びに来た。そして「エプロンとレシピもってきた?」とわたしに持ち物チェックを始めた。しかし、わたしの頭はレシピでのエプロンだの、それどころではなかった。口数少ないわたしのおかしな様子に晃ちゃんが気付いた。

「どうかした?」

 わたしの頭はまだぐるぐると渦巻いていた。大丈夫だ。きっとばれない。ちょっと折れただけで目立つようなものじゃない。まじまじと改まって見つめたりしない限り、すぐ気づかれることはないはずだ。だから言わない方がいい。黙っておいた方がいい。無駄に光弘くんの癇癪を破裂させる必要はない。

「ううん、大丈夫。なんでもない」

 わたしがそう言葉を返したところで、階段の下で玄関の扉が開く音がした。「光弘かな」と晃ちゃんが言った。少しして階段を上がってくる足音がする。そのどんどんという足音から、見なくても光弘くんだとわかる。わたしは胃が引きつったような感覚を覚えた。

 光弘くんは、「ただいま」と挨拶することもなく、まっすぐ自分の部屋に入った。すぐに隣の部屋から大きな声がきこえた。ちゃんとした言葉になっていない、ただ大きな感情任せの声だった。光弘くんのその声を聞いて、晃ちゃんの頬が強張るのが見えた。「ごめん、ゆかりちょっと待ってて」というと、晃ちゃんは部屋を出ていった。

 隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてくる。

「お前ふざけんなよ! 絶対いじるなって言っただろ!」

 晃ちゃんは戸惑ったように「とりあえず落ち着けよ」などと言葉を返している。

「お前がやったんだろ! 何とかしろ! 今すぐ!」

 投げたものが壁に当たる鈍い音がした。しばらく光弘くんの怒鳴り声と、壁を蹴るような音だけが響いていた。

 再び玄関の開く音。誰か帰ってきたのだ。話している声がするから美行さんと佑人くんの二人だろう。

 隣の部屋でまだ光弘くんは怒鳴っている。わたしは早く部屋から出て謝りに行かなくてはと思うのだけれど、怒鳴り声と物を投げる音に身体が委縮してしまって動けずにいた。

 美行さんが階段を駆け上がって来る音がする。わたしは、美行さんが場をおさめてくれるだろうか、という期待を持った。

「いい加減にしなさい!」

 ドアを勢いよくばん、と開けるとともに、怒鳴り声がした。美行さんのそんな怒鳴り声を聞いたのは初めてだった。

 それから光弘君が大声で何か言った。次いで、ぱしん、とはたかれるような音がした。――叩かれた? 誰が誰を? わたしは自分が頬をはたかれたような衝撃を感じてくらくらした。

「ぼうっと突っ立ってないで!」

 美行さんが再び怒声をあげはじめたのをきいて、わたしはあわてて部屋から飛び出した。

 わたしは「ごめんなさい」と言って、三人の前に深くうなだれた。うなだれる前に、目にしたのは、般若のような怒り顔から一転、ばつの悪そうな顔になる美行さんの表情の変化だった。


 美行さんは怒っていたのが嘘かと思えるくらい、すました表情で「あら、そうだったのね」という表情でわたしの話を聞いた。

 光弘君も、壊した犯人がわたしだと怒るに怒れないらしく、ぷいと不貞腐れたような表情でどこかへ行ってしまった。

 そして結局、その日はそれから、わたしは晃ちゃんと一緒にその玩具を直しに行くことになった。


わたしは玩具屋に向かう道で、ずっとぐずぐずと泣いていた。情けなさと申し訳なさでぐずぐずと。そんなんだから、晃ちゃんはまったくわたしを責めるようなことは言わず、むしろ明るく振舞っていたように思う。「よくあることだよ、気にしなくていい」とか「光弘もあんなに怒ることないのにな」だのわたしを慰めるような言葉をかけていた。

 美行さんが部屋に入ってから響いた、ぱしん、という叩くような音。わたしはあの時、美行さんが叩いたのは、光弘君ではなく晃ちゃんの方ではないかと思った。だって叩かれたのが光弘君だったら、もっと騒いでいただろうし。それに、なんとなく――美行さんが光弘君を叩く姿は想像できなかったから。

 けれども晃ちゃんは、その騒ぎの後もいたって何事もなかったような顔をしていたから、わたしはそこを突っ込んで訊く気になれなかった。晃ちゃんが平気そうにしているから心配するほどのことはなかったのだろうと思った。

 でも今思い返すと、その時の晃ちゃんの様子は、少し不自然に明るく振舞いすぎていたかもしれない。何か見せたくないものを隠すように。


 玩具ははたして治った。保証期間内だったために、無料で治してもらえた。わたしがあんなに焦ったことも、光弘君が癇癪を起したことも馬鹿みたいと思えるくらいに、あっさりと治った。

 しかし、本当に情けないことに――その玩具屋さんからの帰り道、わたしはぐずぐず泣くのを通り越して、なぜかいじけはじめていた。たぶん、自分のあまりの不格好さが情けなくて、恥ずかしくなったのだと思う。だからといっていじけていい理由には全くないけれど――本当に私は、幼い子供だったのだ。

 わたしはどうしようもなく、どじで間抜けだなと思った。人のものを勝手にいじって、壊すなんて。しかもそれがばれなければいいと思って、隠そうとするなんて。

 それに比べて晃ちゃんはなんて立派なんだろうと思った。いつもどうして何があっても、怒ったり、泣いたりしないのだろうと思った。わたしは晃ちゃんのようには決してなれない。

 足元の石ころを蹴飛ばしながら歩いていた。

 歩き疲れて足の裏はひりひりと痛かった。暑さで服がぐっしょりしていたのも嫌だった。それで、あーあ、と思って足元の石ころを蹴飛ばして歩いていた。晃ちゃんの半歩後ろを歩いていた。わたしが訳も分からずいじけているから、わたしたちはしばらく無言で歩いていた。

「ゆかり、大丈夫?」

 晃ちゃんが振り返って、きいた。わたしは顔を上げた。その時初めて、晃ちゃんの目元に疲れが滲んでいるのを見た気がした。目が合うと晃ちゃんはすぐに目を逸らした。わたしは、晃ちゃんの後姿を見て、今更ながら、玩具の入った紙袋をずっと持たせたままであることに、気が付いた。

夏の日差しの中、手ぶらで歩いていたわたしがこんなに疲れているのに。晃ちゃん一人に重いものをずっと持たせっぱなしだった。――不機嫌になっていいのは、わたしではなく晃ちゃんの方だ。いつもわたしは自分のことばっかりだ。 

わたしは急に自分の子供っぽさが恥ずかしくなり、コンビニが見えると、晃ちゃんに「ちょっと待ってて」と言うと、駆けていった。財布に入っているありったけのお金をだして、買えるだけのアイスをいくつか買ってきた。

 コンビニの外、戸惑ったような瞳で待っていた晃ちゃんに話しかけた。

「はい。汗かいたから、晃ちゃん、アイスクリーム食べたいかなと思って」

 わたしが袋を広げると、そこにはアイスクリームがごろごろと入っていた。それがわたしなりの「ごめんね」の気持ちだった。

晃ちゃんはアイスクリームを見ると、おかしそうに笑った。「こんなに食べきれないだろ」と言って笑った。晃ちゃんは笑うと、上下の睫毛が触れそうなくらいすっと目を細くする。目尻と頬に優しげな皴をくしゃりと寄せる。そうするとその大人びた顔は、一気に少年っぽくなる。わたしはその印象ががらりと変わる瞬間が好きだった。その瞬間をたくさん見ることができるのは、幼なじみのわたしの特権だった。

わたしと晃ちゃんは、行儀わるくアイスクリームを食べながら歩き始めた。晃ちゃんが持っていた紙袋をわたしが持ったり、半分ずつ持ったりして歩いた。じゃあね、と手を振る頃には、わたしの胸にあったおかしなもやもやも晃ちゃんの疲れたような表情もなくなっていた。アイスクリームと一緒に溶けてどこかに行っていた。

 わたしはこの時のことを思うと、今でも恥ずかしいなと思う。光弘くんの玩具を勝手にいじったことも、落としたことを隠そうか迷ったことも、その後にいじけたような態度をとったことも、すべてあまりに子供じみていた。

思い返してみると、晃ちゃんはわたしを責めるようなことを一つも言っていない。わたしが悪いことをしたなんて思っていないように、全く責めることをしなかった。それどころか、わたしのことを気遣うような態度をとるくらいだった。

晃ちゃんは昔からそういう子供だった。人の痛みばかりを気にして、自分の痛みに蓋をする。強がりとも、意地っ張りともいえるくらいに、平気なふりをする子供だった。

真嶋ゆかりは手帳をぱたんと閉じると、リュック・サックにしまった。リュック・サックに入っているものを確認する。――鈍く光る短剣、黒い瓦斯マスク、それに小さな黄金色の羅針盤、厚手のコート、それに包帯や塗り薬など細かい物がいくつか。必要なものは全て揃っている。

ゆかりは大きなリュック・サックを背負うと『ふなだや』を後にした。これから旅に出るのだ。もうこの宿に戻ることもないかもしれない。

歩きながら考えた。あの少年は、正義という素敵な名前を持つ少年は上手くやれているだろうか。城に向かう貨物列車に無事に乗れただろうか。あの不気味な梟の運転手に驚いたことだろう――どうしても彼のことを、自分と同じ経緯でこの土地に迷い込んだ彼のことを、自分のことのように心配してしまう。

 人の身を案じていられるほど、呑気な身分でもないのに。

 ゆかりは深く息を吸った。お面で顔を隠して道を歩く人たちを空虚な瞳で見つめる。自分は、彼らとは違う。自分には、とある目的があるのだ。

これから向かう目的地は、――どんな願いでもかなえてくれる、全てをひっくり返すことのできるという噂を持つ仙人が住むところ。その人は、山を越え、灰の降る荒野を抜け、さらに狼や人食い植物がいる砂漠を抜けた先に住んでいるという。

もうずっと、その人のところを訪ねるためにいろいろと準備を続けてきた。必要なものは全てそろえるために、泥臭い仕事をしたり、うつし世のものを売りさばいたりしてお金を貯めた。――そしてついに必要なものは全て揃った。

なかなか旅立つ勇気が出ずにぐずぐずと出発を先延ばしにしていたが、ようやく決心がついた。正義という少年の背中を押したことで、自分の背中も同時におしたのだ。彼が助けるために行くというなら、その背中を押した自分も旅立たなくてはいけない。

 ゆかりがこれから会いに行こうとしている人物――すべてをひっくり返すことのできる仙人の存在を知ったのは、この土地に来てからもうだいぶたったころのことだった。

 偶然、地下街のとある拉麺屋の店主と客の話を聞いた。

うつし世のものを地下の闇市に売りさばいた後の家路、たまたまその拉麺屋の前を通りかかった。ぼんやりとした黄色い外灯に照らされて、赤い暖簾が揺れていた。立ち止まったのは、その暖簾の奥から気になる言葉が聞こえたからだ。

「なんでも願いをかなえてくれるって?」

「ああ、そういう魔女が東の果てに住んでるんだってよ」

 ――願いを、叶えるだって? ゆかりは暖簾の下から、店内を覗き見た。頭に白いタオルをぐるぐるにまき、白いひげをもじゃもじゃと生やした恰幅の好い店主が見えた。その店主が客の若い男に話している。

「魔女? 俺が聞いたことがあるのは、その東には仙人がいるっていう噂だったが」

「いや、仙人でもいいけどよ。とにかく、そいつに会ったっていうやつとこの前話してよ」

「へえ、それで?」

「ああ、それがさ、なんかやばい感じなんだよ」

 店主の声が低くなる。ゆかりは耳をすました。

「もともと知っている奴だったんだけど、帰ってきたときにはもうすっかり人が変わったみたいになってて」

 ゆかりはなんとなく興味をそそられた。東の果てか西の果てか忘れたけれど、でっかい不気味な屋敷に住んでいるおっかない奴がいる、というのは確かに聞いたことがあった。

「その仙人に何をされたんだって俺がきいても絶対に口を割らないんだよ。ただうつむいて頭を抱えて、会いに行ったのは間違いだったってうわごとのように繰り返すんだ」

「はあ? なんだよそれ」

 若い男は鼻で笑うように言った。

「お前は、そいつの様子を見てないからそんなことが言えるんだよ。あれは本当になんていうか、やばい経験したやつの面さ」

「そもそもそいつは何で会いに行ったんだ? そんな変な噂がある奴のところに」

「なんでも時間を戻してほしいっていう願いがあったそうだよ」

 それを聞いた若い男は声を上げて笑った。「夢見るガキがいるもんだなあ」というと、それまで真面目に話していた方の店主もつられて少し笑い、それからその笑い声は小さくなっていった。

 ゆかりがまた覗いてみると、若い男は立ち上がり、支払いを済ませようとしていた。話はそれで終わってしまった。

別の日に客としてその店を訪れることにした。仙人だか魔女だかの話をもっと詳しく聞きたいと思った。

赤い暖簾をくぐると、ちょうどあの話をしていたひげもじゃの店主が出迎えてくれた。

「いらっしゃい。ご注文は?」

 ゆかりの目の前に、食べきれないほどの量の拉麺が置かれる。鳴門巻きがない代わりに、なぜか一匹の死んだ蛙がプカリと浮いている。蛙をよけ、麺をすすりながら、ゆかりは話の切り出し方を考えていた。幸運なことに、店主はこちらから聞く前に、あの話を切り出してきた。

「おい、お客さん知ってるか。東の果ての魔女の話」

 若い男にしていた先日の会話を繰り返しているようっだ。誰にでもしている話しなのかもしれない。ゆかりはその話を聞くと、冗談めかして言った。

「おれもその人に会いに行ってみようかなと思ってます」

 店主は案の定冗談だと思ったらしく、おかしそうに笑った。

「行けるもんなら行ってみればいい。まあそんな華奢な体じゃ、山を越えたあたりでへばっちまうだろうな。しかもその山を越えたところには、狼だか人食い鬼だかがうろついてるって話だし」

 ゆかりは、「これでも毎日鍛えているから意外と体力がありますよ」と言い返した。店主はまだ笑いの残った顔で、

「いやいや、そもそも命を懸けて行くほどの価値があるところじゃあないさ」と言った。

 ゆかりは食い下がった。

「もし無事に帰ってきたら、おっちゃんに一番に話しますよ。そうしたら、おっちゃんがお客さんに話すネタも増えて一石二鳥でしょう」

 適当に思いついていった言葉だったけれど、意外にも店主はその言葉にひかれたらしかった。

「まあなあ」とぽつりと言って、ゆかりのことをじっと見つめた。

「坊主は何か困ったことがあるのか」と言った。

 ゆかりは急に心を見透かされたような気がして、顔が引きつるのが分かった。

「え? いや、おれは、単純に興味本位で」

「まあ坊主の個人的なことに関しては口出ししねえさ。でもあんまり期待するなよ」

 店主は笑いを引っ込めて、厳しい顔つきになった。

「俺はその魔女とやらの話を聞いたのは何も先日のやつが初めてじゃない。その前にも何回かきいたことがある。皆、ある種の望みを抱えていくんだよ。それなりに目をきらつかせてな。それが帰ってくると、まるで抜け殻みてえになってる。それで何があったのかに関しては何も話さねえ」

 ゆかりは何か言おうと思った。しかし言葉が見つからなかった。

「おい坊主。気になるなら、もっと詳しく教えてやってもいいが、どんなことになっても責任はとれねえ」

 普通の人ならこんな胡散臭い話に耳を傾けないだろう。しかし、ゆかりはそんな話に飛びついてしまうほどに、失うべきものなど何もない状況だった。こんなばかげた話にすがってしまうほどに、この訳の分からない土地で途方に暮れていた。

 この土地では、とにかくなにをしても八方塞がりなのだ。自分にほとほと嫌気がさして、肩の下まで伸びていた髪は、つい先日ばっさりと短く切った。ふと思いついて一人称を『おれ』に変えてみた。服も男物の服を着るようにした。――それまでの自分を捨てて別人になりたかったのかもしれない。

 拉麺屋の店主から話を聞きおえると、礼を言って、支払いを済ませた。暖簾をくぐって外に出ると、それまでより世界が明るく見えるようになった気がした。


 その仙人とやらに会いに行こう。その新しい目標が前に進むための目印となった。生きているのか、死んでいるのか分からないこの土地での目標となった。

 拉麺屋の店主の話を聞いた数日後、道端で犬を見かけた。この土地にも、犬がいるんだな、とぼんやりと思った。それから、ゆかりは、そう言えば自分もうつし世で昔、幼いころに犬を飼っていたことがある気がするなと思った。色は、色は確か白だったかな。名前は何だっただろう。思い出せなかった。

考えてみれば、犬だけじゃない。クラスメイトの名前も顔もぼんやりとしか思い出せない。このままでは、いずれは、うつし世の記憶を全て忘れるのではないかと思った。――現に偶然、思いがけない形で再会したとき、彼はわたしのことを忘れていたではないか。

もし自分までが、彼のことを忘れてしまったら、自分がこの土地に招かれた意味がまるでなくなってしまう。いったいなんのために自分は存在しているのか。

 それから、ゆかりはうつし世の記憶を留めるために、毎日少しずつ手帳に覚えていることを書き連ねていくことにした。時々読み返すと――自分の筆跡でつづられたその必死の文章を読んでいると、胸に湧き上がってくるものがある。昔の感情が湧き上がってくる。この手帳は、感情の記録だった。だから、ずっと大切に持っている。自分を見失いそうになったら、読み返して、うつし世での感情を思い出す道具にした。

 それが、正義が少しぱらりとめくったと言っていた手帳である。今は、リュック・サックにしまってある。


 地下から地上に出て、都とは反対の方向へとしばらく歩く。そうすると、鬱蒼とした森が見えてくる。ゆかりは、その森の中にようやく足を踏み入れた。夜明け前に、宿を後にして、もうどのくらいの時間がたっただろう。たいして歩いてはいないのだけれど、少し疲れたように感じるのは、いつもは持ち歩かないリュック・サックを背負っているからだろう。この森――森というより、こんもりしているそれは、山とも言えるかもしれない。この山には何度か来たことがあった。だから、少しは勝手がわかる。木の太い幹につけられた赤い紐を目印にして歩けばいいのだ。それは、ゆかりより先に山を制覇した前任者がつけてくれたものだった。赤い紐の擦り切れ具合を見ると、その前任者はもうずっと前に山を制覇したようだった。もうずっと、ずっとずっと前に。全てをひっくり返すことのできる仙人をたずねて、山を登ったのだ。

仙人のもとを訪れた人はいったいどれくらいいるのだろう。本当に願いをかなえてもらった人はいるのだろうか。――ゆかりは額の汗をぬぐった。

黙々と歩く。

 この山とその奥に続く荒野と砂漠を越えた先に、その仙人がいる。ゆかりの頭の中にあるのは、そのことだけだった。ある人は、古の賢者といい、またある人は時空を操る魔女だといった。どれが本当なのか知らない。どれも嘘っぱちかもしれないし、どれも本当かもしれない。会ってみなければわからない。ただ何かしらの力があるからこそ、そういうおかしな名前で呼ばれることになったに違いない。だからゆかりはその人に望みを託して、黙々と足を動かした。

 もしかしたら無駄骨に終わるかもしれない。そんなことは承知の上だった。自分には失うものなど何もないのだから、恐れるものだって何もない。だから、少しでも望みがあるのならば、足を前へと動かすべきだった。

 道のりが険しくなる。足元がごつごつした岩だらけになる。以前来た時よりも、斜面が急になったように感じる。手をかけ、転ばないように進む。リュック・サックが邪魔だった。荷物が何かに引っかからないように気を遣いながら、手を使い、ごつごつした斜面を登った。

斜面を登り切った上には、大木が見える。その木には赤い紐が三重になって巻き付いている。結び目からだらりと垂れた赤い紐が、風にそよそよと揺れてまるでゆかりを誘っているかのように見えた。

 登り切って、ゆかりは膝に手をついて一息ついた。ちょっと疲れたなと思って、荷物を脇に置いて、座り心地の良さそうな平らな岩の上に座った。少し休む。荷物の中から、水筒を出して少し口に含んだ。まだ半分も来ていないのに、考えていたより疲れてしまった。荷物が重いせいだ。

 正義は無事にやれているだろうか。しばらく宿で待っていたが、宿に戻って来なかったということは、貨物列車に乗り込むことには成功したということだろう。あの貨物列車が、城の地下に繋がっている唯一の列車だときいた。

正義には、貨物列車のものを何かポケットに入れておくように言った。そうすれば、城のものに見つかったとしても、ただの盗人扱いされるだろう。

盗人としてなら捕まったとしても、それほど問題にはならない。ゆかりは一度、盗みを犯して捕まったことがあるから知っている。地下牢に入っても、一か月ほどで地上に出てこられる。

 ゆかりは目を細めて、西の空を眺めた。太陽はじりじりと南に近づいている。もう少しだけ休んでから腰を上げようと思った。荷物の中から手垢にまみれた手帳を取り出した。ぱらりとめくる。

 わたしが人生で一番調子に乗っていたのは、中学二年の時だろうか。なぜか陸上部の先輩に告白されたのだ。「付き合ってほしい」と。特にそれまで意識したこともなかったし、格好良いと思ったわけでもなかったのに、わたしは「はいお願いします」と返事をした。ただ告白されたことが衝撃的で、告白された事実がうれしくて「はいお願いします」と返事をしたのだ。

その先輩とは時々一緒に帰った。二日に一回はメールをした。会話はあまり盛り上がらなかった。手を繋ごうか、と相手が時々様子をうかがっているのが分かった。別れ際に一度キスをした。歯と歯をぶつけるようなキスだった。痛かった。相変わらず会話はあまり盛り上がらなかった。

そうして、たった二か月で別れた。

別れた原因は覚えていない。特に喧嘩はしなかった。喧嘩をするほど仲良くもならなかった。ただ別れを切り出したのは向こうだったから、わたしが相手を幻滅させたのだろう。相手が思っていたほどの可愛らしい女の子じゃなかったのだろう。がさつでわがままなところがばれたのかもしれない。とにかく別れた。その時は、ふうん、なんだ恋愛ってこんなものか、と思った。傷心するわけでもなく、自分が周りの子よりも少し大人になったんじゃないかという優越感に浸った。だって、キスだってしたし、一応。と思っていた。

あんなもの、恋とは到底言えないと今では思う。

しかし、どういうわけか、あほなわたしは調子に乗ってしまった。クラスメイトが使っている化粧品を真似して買った。肩まで伸びた髪を毎朝一生懸命巻いた。鏡を見ると見返す女の子は、まあそんなに美人というわけではなかったけれど、でもまあそこそこいけてるんじゃないかなと思った。

それでも他の同い年の子に比べるとどうも子供っぽい容姿が好きじゃなかった。赤くて真ん丸の頬、それに笑うとぴょんと出る八重歯が子供っぽい原因だと決めつけた。大人になったら、お金を貯めてこの八重歯を矯正しようと思った。

せめて振る舞いだけは大人っぽくしようと、小学生の時みたいに、子供じみた行動は辞めることにした。授業が始まる前の時間に、澄ました顔で文庫本を広げたりした。読んでいる文庫本は、「何読んでるの」ときかれた時に、「すごい!」と言ってもらいたくて買っただけの本で、面白くもなんともなかった。今になって思い返すと、少し恥ずかしい。

 晃ちゃんは、そんなわたしをどんなふうに思っていただろう。わたしよりも周りが、物事がよく見えている晃ちゃんのことだから、すべてお見通しだったかもしれない。わがまま娘が、色気づいて背伸びをしている様を、おかしく思って見ていたかもしれない。

 晃ちゃんとわたしは中学生になっても、時々二人でいつもの六畳の空間で過ごした。そうして一緒に時間を過ごすのは、惰性みたいなものだったと思う。小学生の時に比べると、一緒にいる時間はいくらか減っていた。それでも晃ちゃんと一緒にいる時間は、他の子と一緒にいる時とは全く別のとびきりの安心感があった。

夏休みに入る前くらいの暑い日だった。わたしは晃ちゃんから数学を教えてもらっていた。晃ちゃんはわたしのノートに色ペンで丁寧に書きこんでくれた。わたしは六畳の真ん中の折り畳みテーブルに頬杖をついて、晃ちゃんの流れるようにすらすらと続いていく字と、その細い、すらっとした指を見ていた。時々、頬杖をついたまま横を見て、晃ちゃんの横顔をじっと見つめた。わたしがじっと顔を見ていると、どうかした、というように晃ちゃんは少し眉を動かした。わたしは、またノートの上を走る、流れるように続く字と細い指に目を落した。やはり、晃ちゃんといる時はとびきりの安心感だなと思った。

 わたしは中学校では、大人びた自分を演じることにはまっていたが、晃ちゃんの前では、本来のわがままな姿を惜しげもなくさらした。「だって甘い物食べると、頭の回転良くなるんだよ」とか言って、勉強を放り出してお菓子を食べたり、「晃ちゃんが解いたやつの答え、あとで写させてよ」と言って漫画本をぱらぱらめくったりした。晃ちゃんはそういう時、「ちゃんと自分で解いて」と言って、漫画本を取り上げた。晃ちゃんの優しさは、時に先生みたいな厳しい優しさだった。

晃ちゃんは横目で、わたしをちらと見ると、「これ食べていいから、漫画は宿題終わってから」と言って、まだ手を付けていなかった自分のレモンケーキをわたしにくれた。晃ちゃんはわたしの扱い方をよく心得ている。わたしは、遠慮なくレモンケーキを頬張りながら、ペンを手に取って、問題の続きにとりかかるのだった。

 勉強がひと段落ついた頃に、晃ちゃんがわたしの本棚を見て、「懐かしい」と言った。わたしが「何が」ときくと、晃ちゃんは、本棚の右端にある白い冊子を指さした。

「あれ、小学校の時にゆかりが劇で使ったやつだろ」

「あ、ほんとだ」

わたしはその白い冊子を本棚から抜き出した。そう言われるまで、そこに、その台本を置いていたことなどすっかり忘れていた。それは、ずっと本棚に放ったままにしていた割にはぼろぼろで、ページの端はよれていたし、ところどころ紙が黄ばんでいた。中を開くと、五年くらい前に必死で覚えたはずの台詞が並んでいた。今ではなんとなく見覚えがある程度だ。朝から夕方までこの六畳の部屋に二人でこもって、覚える必要もない台詞まで、ほぼ全ての台詞を覚えようとしたことを思い出した。

「劇の内容、もうすっかり忘れちゃった」

 わたしは晃ちゃんに台本を渡した。晃ちゃんは、ぱらぱらとめくった。

「久々に、ゆかりなにか台詞読んでみてよ。聞いてるから」

「いいよ」

 わたしは適当に開いたページの台詞を読み上げた。

「大切なツボを割ったのはあなただそうですね。あなたなんか嫌いです。大嫌いです。いっそ、沼の人食いガエルに丸飲みにされてしまえばいいのに」

 声に出してから、びっくりした。子ども用の劇とは思えないほど、激しい台詞だった。当時はこれを読んで何も思わなかったのだろうか。たぶん思わなかったんだろう。特に何も考えずに、ただ台詞を暗記していたような気がする。

わたしは、声に出すのが面白くなってきて一人芝居を続けた。

召使い「はい、あなたが望むなら、わたしは沼に行って人食いガエルに丸飲みにされましょう」

お姫様「何を言ってるんです。冗談に決まっているじゃないですか。どうして、いつもいつもあなたはわたしを困らせることを言うの」

召使い「あなたのことを愛しているからです」

お姫様「愛しているとはどういうこと。わたしに分かるように説明なさい」

召使い「わたしはあなたの奴隷です」

 そこで、わたしは止まった。その召使いの台詞に驚いた。小学生のやる演劇に奴隷という言葉は過激すぎないだろうか。

「ねえ、晃ちゃんこの劇おかしいよ。よくこんなの小学生にやらせたね」

「おれは、当時から変な芝居だなと思ってたよ」

「うそだ。晃ちゃん練習してるとき、おかしいなんて言ってなかったよ」

「ゆかりがあんまり熱心に練習するから、言いにくくて」

わたしは怒ったような顔をして晃ちゃんを見た。晃ちゃんは苦笑いでごまかした。

「晃ちゃんも続きの台詞言ってよ。次はわたしがきいてるから」と言って、晃ちゃんに開いたページを見せた。「いいよ。おれは聞く方の専門だから」と晃ちゃんは断った。

「そんな専門ないよ。ほら次はここから」とわたしは台詞を指さして促した。

「いいって」

晃ちゃんは迷惑そうに押し戻した。わたしは、晃ちゃんの勉強を邪魔しようとでもいうように開いた台本を彼の教科書の上に広げた。無言で押し返された。だからわたしも無言で置き戻した。また返された。また置いた。意味のない押し問答をつづけた。

晃ちゃんが押し戻すのをやめ、代わりに白い冊子をわたしの手からさっと取りあげた。晃ちゃんの上へと伸ばされた右腕の先、白い冊子は頭上で人質のように掲げられた。わたしがしまったという顔をすると、晃ちゃんは一本取ったと言いたげに笑った。わたしは、返してよと言いつつ、手を上に伸ばした。晃ちゃんが右手に掲げた白い冊子をひょいと後ろの方、わたしから離れた方へと動かした。返してよと座りつつ跳ねそうな勢いで、わたしは手を伸ばして、白い冊子を追いかけた。晃ちゃんは、頭上で白い冊子を猫じゃらしのようにひょいひょいと揺らしている。わたしはその動きに釣られた。気が付けば、身体を近づけていた。晃ちゃんの肩に顔をうずめようとでもしているかのように近づいていた。ああ駄目だ、この体勢じゃ届かないな。そりゃ届くはずがない、座っているんだし。わたし、いったいなにしてるんだろ。白い冊子から目線を少し落とすと、長い睫毛の奥の瞳と鉢合わせした。視線を正面に向ければ、白い喉元が見える。その下、白いシャツの向こうから覗く鎖骨の陰影にどきりとした。――鼻腔をくすぐる、少し汗ばんだ首筋の匂い。

 唐突に思い出したのは、陸上部の先輩が目を閉じ、顔を近づけてくる直前、わたしの頭に閃いたのは、その目の前の先輩のことではなく、晃ちゃんはどんな女の子とどんなキスをするんだろうかということで、

 顔に火照りを感じて、あわてて身体を離した。不自然な離れ方に、しまったと思う。わたしは視線をふらつかせたまま、おかしな空気をなんとかしようと口を開いた。そうだ、暑いから窓でも開けようか、と視線を窓の方に向け、晃ちゃんが身体を少しかがめたのが見えたかと思うと、唇にほんの一瞬、やわらかいものを感じた。ほんの一瞬だった。離れてから、今のは、と気が付いた。

 頭の中を小人たちがどんどんぱふぱふ楽器を打ち鳴らして大行進した。

 晃ちゃんを見れば、なぜか何事もなかったかのようにすまし顔で、教科書に眼を落していた。なんだかその様子がおかしくて、わたしはにやけた。「晃ちゃん、いま」とわたしが言うと、晃ちゃんは、ちらとわたしを見た。そして、ふいっと窓の方を向いた。その耳と首筋が――心なしか赤くなっていた。

 窓の外、子供たちの声が聞こえた。ボール遊びでもしているらしい。失敗したらしい子が、「ごめーん」と叫びながら駆ける音がする。「これ、下ろしてくる」と晃ちゃんがわきによけていた食器を持ってそそくさと立ち上がった。そうして、部屋のドアをきぃと開けて、とんとんと階段を降りていった。立ち上がった時も晃ちゃんの耳はまだ少し赤かった。その耳の赤さが、どこかぎこちないドアの開け方が、なんだかわたしの目に焼き付くようだった。

わたしはそっと唇に指で触れた。ほんの一瞬なのに、不思議とその優しい感触が残っている。半年ほど前に少しだけ付き合った陸上部の先輩がしたキスとは全然違った。そのときキスは全然いいものだとは思わなかった。晃ちゃんのキスは、それに比べて一瞬で、なのにすごく優しくて、余韻の残るキスだった。

 それ以前にも、晃ちゃんとキスをすることをぼんやりと空想したことくらいはあったような気がする。けれど、それは実際に起こる問題として考えたわけじゃなかった。なんとなく空想しただけだ。

空想の中で二人の間にキスが起きるとしたら、それはわたしの方からするキスしかあり得なかった。つんと澄ました晃ちゃんに対して、わたしがふざけてするようなキスしかありえなかった。それで晃ちゃんが少しでも照れてくれればいいけれど、まあ、実際照れることもないだろうな、と思っていた。わたしは晃ちゃんにとって、ただのわがままな妹のようなものだと思っていた。晃ちゃんはもっと大人っぽい、きれいな女性が好きなんだろうと勝手に思っていた。だから、この時のキスは全くの不意打だった。わたしの心はくらくらと動いた。

 けれども、その一度きりのキスは、幼いころからの遊びの延長線にあるようなものだと片づけるしかなかった。わたしたちは「付き合おう」とか「好きです」とかそんな告白をするには、距離が近すぎた。幼いころから知り過ぎた。今更そんなことを言うのは、恥ずかしいを通り越して滑稽な感じになってしまうに違いなかった。だから、わたしたちが付き合うことはなかった。少なくとも、公に「付き合ってます」なんていうことはなかった。


中学三年生の新学期が始まってすぐの頃だっただろうか。

晃ちゃんは目の下に大きな絆創膏を貼って登校してきた。わたしがびっくりして、「どうしたの」ときくと、晃ちゃんは「机の角にぶつけたんだ」と笑いながら言った。

晃ちゃんの様子がおかしくなったと感じ始めたのはその頃からだと思う。中学校生活が終わりに近づくにつれ、おかしいなと感じることがぽつぽつと増えていった。

 その頃から、晃ちゃんは、授業中時々居眠りをして注意されるようになった。宿題を続けてやって来なくて、担任に呼び出されたこともあった。テストの点数も、がくんと下がったようだった。それまで志望していた高校は難しいだろうと担任から告げられていた。以前の成績なら、余裕で受かるような高校だった。

それまでの晃ちゃんを知らなければ、別に騒ぐようなことではないと思う。けれど、わたしは晃ちゃんのことを幼いころから知っている。晃ちゃんは、いつも真面目で優秀な生徒だった。不真面目な生徒からすると鬱陶しいと感じるくらいに。

いつだって綺麗にノートをとっていた。テストの前は必ず勉強して、良い点を取った。先生がどんなに甘い人だろうと、宿題は忘れず提出した。それが晃ちゃんにとって当たり前で自然なことだった。だから、中学生活の後半の晃ちゃんの様子は、ちょっとではなく、だいぶ様子がおかしかったのだ。

それに、おかしいなと思ったことは思い返してみれば、他にもある。光弘くんの名前も、佑人くんの名前も、晃ちゃんの口から洩れることは滅多になかった。わたしが自分の母や父の話をしている時も、晃ちゃんは黙って聞くだけで、自分の家族について何も話そうとしなかった。わたしの話を聞いて、少し寂しそうな顔で笑うだけだった。


 わたしは自分を弁護するつもりはないけれど、晃ちゃんは、そういったところ以外は、それまで通りに見えた。休み時間はクラスの友人たちと下らない話で笑っていた。放課後は休まず部活――晃ちゃんは剣道部だった――に行っていた。「お前らどう見たって付き合ってんじゃん」という友人のからかいに、「うるせえよ、バーカ」という時の耳は相変わらず少し赤くなった。

 そんなんだから、注意してみなければ、晃ちゃんの『いたって平気』という表の皮に綻びを見つけることはできなかったかもしれない。でもわたしは気づくべきだった。その時わたしが持っていた小さな想像力を精いっぱい働かせて、晃ちゃんの家で何かしら問題が起きているのではないかと疑うべきだった。あるいは、昔から晃ちゃんの家庭が抱えていた問題が無視できないほどに大きくなっているのではないかと考えるべきだった。

 能天気なわたしは晃ちゃんの『いたって平気』の上っ面を都合よく信じた。そうして、彼が授業中に居眠りで注意されても、「晃ちゃんも高校受験を控えて疲れているんだな」くらいに呑気に考えたものだった。

ゆかりは水筒の水をもう一度だけ口に含むと、袋の中にしまった。この先どうなるかなんて考えてもきりがなかった。神のみぞ知るとはこのことだ。また、歩き始める。日はまだ西にある。南に移動する前に、この山は越えてしまいたいと思った。木の幹の赤い紐を道標に、ただただ歩いた。

 ゆかりは、そうして歩き始めてまたとりとめもなく考えた。幼なじみのことをぐるぐると考えた。

 山の半分を超えたころから、空の色が変わり始めた。空気も変わり始めた。ぎらぎらした青色の空に、濁りが見え始めた。空気はひんやりとして乾いたものに変わった。少し不吉な予感がした。でも、大丈夫だ、とゆかりは自分に言い聞かせた。水筒の水も半分以上残っているし、疲れも、それほどたまっていない。

 太陽が南に上り切る前にもう一度休んだ。水筒の水をちびちびと飲んだ。胃袋の中に少し物を入れた。また歩き始めてしばらくすると、いよいよ空気ががらりと変わり始めた。風が強くなる。冷たい風が身体を突き刺すように吹いた。足元の茶色い地面が、ところどころ濁った色のもので覆われ始める。遠目に見ると、雪のように見えないこともなかった。かがんで近くで見ると、指で触れてみると、乾いているそれは、灰と形容する以外にどう言えばいいかわからないものだった。

 山はもうすこしで終わる。休んでもまだ足の裏が痛い。冷たい風の中を歩いたのに、衣服に汗がにじんでいる。喉がひりつくような感じがした。鬱蒼とした木々が少なくなり、まばらになっていく。視界が開けていく。そうして目の前に徐々に広がっていくのは、灰の世界だった。空と空気と地面の境界線がない。どこもかしこも灰色の世界。灰は風に舞い上がり、大気を覆いつくし、空の青さも雲も見えない。

ゆかりは、最初に地面の灰を見つけた段階で、背に負ったリュック・サックから頭全体を覆うあるものをとりだしていた。ごつごつした黒いマスクである。目の部分は昆虫の目のように大きくくり抜かれてガラスがはめ込まれている。口元は、円形に出っ張っていて、その先には穴がポポポポといくつも空いている。さらに、頬の辺りには左右に一つずつ、車のタイヤみたいな形のものがボコリボコリとついている。決して上品とは言えない、それは瓦斯(がす)マスクだった。

それからもう一つのものをリュック・サックから取り出す。黄金色の縁の方位磁石。右の掌の上に載せて、振り子のように動く針がとまるのを待った。目指すのは北北東だった。

瓦斯マスクを装着すると息苦しさを感じた。マスクの重みで、頭が少しくらくらする。

ゆかりは灰の世界に足を踏み入れた。

この灰の正体がなんなのか知らなかった。こういった気候の変化のことや必要な装備については、あの拉麺屋の店主が全て教えてくれたのだ。だからゆかりは、この瓦斯マスクを地下の市場で見つけた時に買って備えることができた。

足元の灰は少しずつ高くなり、少し歩くと、足首をすっぽりと覆うまでになる。ずぽりずぽりと歩を進める。時々、掌を上に向けて、その上の方位磁石の針が止まるのを待った。歩を進めるほどに、灰が濃くなる。風が強くなる。足元の灰が高くなる。先が見えない、どこを見回してもただ灰色の空気と灰色の地面しか見えない。恐怖が心の中に少しずつたまっていく。

それでも心のどこかは、乾いている。なんだこれくらい。どうってことないと思っている、身体は疲れているのに、踏み出す一歩も重く感じるのに、こんなのどうってことないと冷たく笑っている自分がいる。こんなものが試練だとしたら、なんて生ぬるい。

北北東。ずぽりずぽりと歩を進める。こんな遅い歩みで視界が晴れる日は来るのだろうか。景色が一向に変わらない。灰の世界は永遠に続いていくんじゃないかと思えてくる。ひときわ強い風が吹いて、ゆかりは手をついた。拍子に灰がふわりと舞い上がる。灰の海から手をひいて、立ち上がろうとして、右斜め、後方に何か黒いものが見えた。本能的に恐怖を感じて振り向いた。目を凝らす。よく見えないが少し黒いものが動いている気がした。

拉麺屋の店主は言っていた。山向こうでは狼が出るぞ、と。

心臓が早鐘を打ち始める。狼なんかと出くわしたら、勝てる自信がない。ゆかりはずぽりずぽりと逃げるように足を動かした。背中を向けていることに恐怖を覚える。もう一度、首をねじってちらりと後方を見た。ただひらひらと灰が舞っていた。瓦斯マスクのせいで視界が万全でなく、ゆかりは思い切って、マスクを外した。なるべく息をしないようにしつつ、じっと見つめ――気のせいか、と思って前を向いた。

小さな子供が立っていた。寒そうに黒いマントを身体に巻きつけ、うつむいている。小さな痩せっぽちの、黒い子供。なんだ狼じゃない。子供か。

首筋が強張った。足に根が生えたように動けなくなった。――だって、こんな辺鄙なところに子供がいるわけない。

足を一歩後ろに踏み出した。踏み出すと同時に、前方の子供がさっと視界から消えた。右腕に激痛が走って、見れば黒い子供が噛みついていた。むき出しにされた黄色い歯が目についた。ゆかりは悲鳴を上げることもできず、その場に倒れた。マスクを落とした。全身が心臓になったかのようだった。息をしたら、灰が口の中に入ってむせた。右腕の激痛が強くなる。左手に握りしめていた方位磁石を、右腕にしゃぶりついている子供の頭に叩き付けた。奇妙にぐしゃりという感触がする。もう一度叩き付けた。ぐしゃりという感触と共に、子供の動きが止まった。右腕にかみついたまま、その体からだらんと力が抜けている。ゆかりは、そっと右腕を引き抜いた。子供が腕から離れて灰の中に仰向けに倒れた。黒いフードの下から現れたのは、腐った死体のような顔だった。その頭の上に小さな角が二本生えている。――小鬼だ。

ゆかりは全身を震わせながら、その場に座り込んでしばらく呆然としていた。風が舞って灰が顔にはたはたと当たった。ゆかりはあわてて、瓦斯マスクを再び装着した。右腕を動かすと痛みが走り、ふと思いついて、リュック・サックから消毒液とガーゼを取り出した。傷はそこまで深くなく、歯型に血がぽつぽつと滲んでいるくらいだった。小鬼とは素早くても力は弱いものらしい。そうして、ガーゼを巻き終わっても、しばらく足に力が入らなかった。疲労は吹き飛んで、ただ恐怖の余韻に浸ってがたがたと震えていた。方位磁石を見れば、黒いフードの上から叩き付けたため、幸い血とかそういうものはついていない。小鬼に血が流れているかどうかは分からないけれど。ゆかりは、ちらりと死体に目をやった。殺したという罪悪感を覚えるのは、曲がりなりにも人の形をしているからだろうか。噛みつかれたから殺すしかなかったとはいえ、こんなに弱い生き物だったとは知らなかった。方位磁石で二回ぶっただけで頭がひしゃげてしまった。

ゆかりはリュック・サックから短剣をとりだして、右腕に握りしめた。次、襲ってくる小鬼はもっと強いかもしれない。頭を叩いただけじゃ死なないかもしれない。歩き始めた。瓦斯マスクがぐらぐらと揺れる。視界に張り付いた灰を手ではらった。北北東。ただ針の指し示すほうに歩いていく。そうしてまた、彼のことを考え始める。

晃ちゃんとの一度きりのキスの余韻は消えることなくわたしの胸の内でくすぶっていた。

 おふざけのキスにしてはそのあとの晃ちゃんは照れすぎだったし、何より晃ちゃんはふざけてキスをするような性格ではなかった。だからわたしはぐるぐる考えた。あのキスの意味をぐるぐると考えた。学校の他の男子たちなんて晃ちゃんに比べたら全然魅力的に思えなかった。その後、わたしに告白してくるようなもの好きが現れることもなく、わたしはあのキスを密かに大事に胸にしまっていた。

冬がおわり、暖かな春が来た。わたしと晃ちゃんは同じ高校に通うことになった。わたしは、その高校に通うことになったのは、晃ちゃんにとっていくらか不本意なはずだと知っていた。晃ちゃんの成績が落ちる前ならもっと上のところにいけたはずだったのだ。それでも晃ちゃんは、不平らしいことは特に何も言わなかった。不満げな表情も見せなかった。入学式の帰り道、わたしたちは一緒に桜並木を歩いた。中学の時とは違うグレーのブレザー姿が新鮮で、わたしは晃ちゃんの隣を歩けることを幸せに感じた。

 晃ちゃんはいつだってわたしより先を歩いていた。わたしより多くのことを知っていた。晃ちゃんは心にブレーキをかけるのが上手だった。わたしみたいにすぐ泣いたり、怒ったりしない。感情の扱い方が上手なのだ。だから、晃ちゃんは強い人間なのだと、心のどこかで常に感じていた。幼いころからずっと積み上げてきたその印象は、晃ちゃんの様子が少し変わったからといって簡単に壊れるものではなかった。晃ちゃんはわたしより先を歩いている、わたしはそのあとを少し遅れてついていく、そう思っていた。


 この後のことは、本当はあまり書きたくない。それでもここから後のことが、一番覚えていないといけないことだと思うから書くことにする。

 晃ちゃんは中学生活の後半から少し様子はおかしかった。高校生活が始まると、それに拍車がかかっていくようだった。

 晃ちゃんは高校に通い始めて、中学と同じ剣道部に入ったかと思うと、一か月も経たないうちに辞めた。そうしてアルバイトを始めた。配達関係の簡単な仕事らしかった。暇があれば、放課後も土日もその仕事に向かっているようだった。どうしていきなりアルバイトを始めたのか問うと、晃ちゃんは言葉少なに、家計が厳しいから、というようなことを言った。わたしは晃ちゃんのお父さんが立派な仕事についていて、それに見合った大きな家に住んでいることを知っていた。それなのに、家計が厳しいから、と言うのはおかしいと感じた。でも追及はできなかった。


全て終わった後で、晃ちゃんの家庭がどんなものだったか、ぽろぽろときくことがあった。断片的に、いろいろな話を聞いた。そこで初めて、晃ちゃんの家庭は、わたしが想像していたよりも、ずっと息のつまる場所だったのだと知った。

晃ちゃんのお父さんと美行さんは度々喧嘩をするようだった。晃ちゃんのお父さんの外泊が多くなったり、帰りが遅くなったりすると、きまって家の中に金切り声と怒鳴り声が響いた。喧嘩の頻度は二人の子供が成長するにつれ増えていった。喧嘩以外にも美行さんには、光弘くんの素行の悪さや佑人くんの進学のことなど心配事が常に沢山あった。美行さんは不幸な人だった。どうしてわたしばかりが苦しい思いをするのだろうという思いをどんどん膨らませていった。

いつからか二人の口論には、離婚という単語が混じるようになった。美行さんはますます追い詰められた。晃ちゃんのお父さんは問題から目を背けるように家を留守にすることが多くなった。仕事という口実で家を留守にして、問題をただ膨らませる一方にした。

美行さんには何か捌け口が必要だった。ストレスを外に出すための捌け口が必要だった。捌け口で不幸を吐き出さなければ彼女自身がおかしくなってしまうところまで追い詰められていた。そして彼女にとっては運のよいことに、近くには捌け口にできる対象がいた。大人しく口答えしない、夫の連れ子がいた。

それははっきりとした悪意から始まったものではないのだと思う。ただ、美行さんは坂道を転がる過程で、晃ちゃんを道連れとして引っ張り込んだのだ。そうして晃ちゃんをただ道具のように扱ったのだ。

晃ちゃんはきっと幼いころから自覚していた。美行さんと反りが合わないことを自覚し、そのことで度々悩んでいた。晃ちゃんはそういう時、美行さんではなく自分自身を責めるような子供だった。美行さんの言葉や態度がどんどんひどいものに変わっていっても、晃ちゃんは美行さんを悪者だと指さすことができなかった。ただ板挟みになって立ちすくんだ。

美行さんは、わたしたちの喧嘩の原因はお前にあるんだからね、というようなことを晃ちゃんに度々言った。だから少しでも反省する気持ちがあるなら、家庭を助けるためにアルバイトをしなさいと言った。それで晃ちゃんは美行さんに言われる通り、アルバイトを始めた。それまで大切にしていた勉強する時間や部活に行く時間は捨ててしまった。それで家庭が少しでも上手くいくなら、という気持ちがそこにあったのかどうかは分からない。美行さんは筋道の通った話し方はしないのに、人をねじ伏せるような恐ろしい剣幕を時に見せる人で、だから晃ちゃんは逆らえなかったのかもしれない。

晃ちゃんは昔から優秀な子供だった。学業においては周りの生徒から抜きんでているくらいだった。それなのに美行さんは三人の息子のうち、晃ちゃんにだけきついことを度々言った。晃ちゃんが一桁の順位の試験結果を持って帰ってきても、美行さんは褒めるどころか、偉そうな顔をするな、というようなことを口にした。勉強している暇があるなら、家のことをもう少し手伝ったらどうだ、となじるように言うのだった。

これらの多くは佑人くんから聞きだした。

美行さんは晃ちゃんに、お金を盗んだだろうという言いがかりをつけることがあった。右手に晃ちゃんのアルバイトの給料の封筒を持って、ここからお金を抜き取ったでしょう、と怒鳴るように言うのだった。そうしてうずくまる晃ちゃんの頭をはたいた。謝りなさいと怒鳴りつけ、晃ちゃんの頭を何度もはたいた。晃ちゃんは、お金を盗んだのは光弘くんだと知っていても、反論することをしなかった。そんなことを言っても美行さんの怒りが収まらないのを知っていた。嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、延々と頭をはたかれて、謝りなさい謝りなさい謝りなさいと怒鳴りつけられることに耐えていた。見かねた晃ちゃんのお父さんが仲裁に入ることがあっても、美行さんの怒りは収まらなかった。美行さんは、あなたは関係ないでしょうと晃ちゃんのお父さんを撥ねつけた。そうしてさらに怒りを燃え上がらせた。わたしが一番大変なのにどうして味方をしてくれないのと金切り声で言った。あなたの息子でしょう、あなたがちゃんと躾けないからこうなったんでしょうと、怒りの温度を高くして、矛先を弱いものへと戻した。また晃ちゃんに向かって、あんたのせいだからねあんたのせいでこうなってるんだから、とすべての不幸の原因を擦り付けるようなことを言った。晃ちゃんは泣くことができない子供だった。平気な顔をしたがる子供だった。だから平気だと思ったのだろうか――晃ちゃんのお父さんまでも最終的には美行さんの味方をすることが多かったという。

そうすることで彼女自身の不幸がどうにかなるとでもいうように、美行さんは晃ちゃんの心をいたぶった。自尊心を叩いてぼろぼろにした。晃ちゃんの心の形が分からなくなるくらいまで虐めつくした。

こういうことを、わたしは取り返しがつかないことが起きてから、初めて知った。当時のわたしは知らなかった。だから晃ちゃんに元気がない様子を見ても、アルバイトをしているから疲れているのだろうと思っていた。特進クラスに入れなかったことで少し落ち込んでいるのかもしれないくらいに思っていた。わたしには想像力が欠けていた。わたしはひたすら能天気で、どうしようもなく馬鹿でお気楽な娘だった。

 高校生活も数か月がたつと、周りの子たちが打ち解けてクラスが賑やかになってくる。晃ちゃんはそれに反比例するようにどんどん無口になっていった。笑うことも少なくなった。わたしが教室を通り過ぎるとたいてい机に突っ伏して黒いセーターの袖に顔をうずめていた。日の光を拒絶するかのように、周囲の音から耳をふさごうとするかのように、ただ顔をうずめてじっとしていた。

 男子生徒が晃ちゃんに対して、陰口と言うほどではないけれど、「あいつって暗いよな」「何考えてるんだろう」というようなことを言うことがあった。確かに晃ちゃんはその頃、自分から誰かに話しかけることもなく、一人でいることが多かった。それで、わたしは休み時間に教室の外からわざと大声で晃ちゃんの名前を呼んだりした。すれ違った時も、特に用もないのに、一緒に歩いて、どうでもいい話を持ち掛けたりした。晃ちゃんを遊びに誘おうと、あれこれ用事をこしらえて言葉をかけた。晃ちゃんはそんなわたしを見ると、少しだけ笑みを見せた。

 それでも次第に晃ちゃんはわたしを避けるような態度を示した。誘いも、アルバイトがあるから、とほとんど断られた。露骨にではなくて、晃ちゃん自身が、無意識に遠ざけているように感じた。晃ちゃんは常にどこか疲れているようだった。担任に呼び出されて、説教をされている時も心ここにあらずと言った様子で、ただうなだれていた。バスの待ち時間に前の方にいた晃ちゃんを見つけて、手を振って一緒に帰ろうと合図しても、バスから降りると晃ちゃんが先にすたすたと歩いて帰ってしまうことがあった。

 わたしは閉め出されたように感じた。そうして徐々に壁が出来ていった。わたしは他の大勢の子たちと同様のものとしてやんわりと壁の外に押し出された。夏休みが終わり、秋になる頃には、晃ちゃんを遊びに誘ったりすることはなくなった。冬になる頃には、すれ違っても手を振らないことさえあった。わたしは、どうしたんだろうと思いつつも晃ちゃんをちらちらと見るだけしかできなくなっていた。目の前には毎日小テストやら宿題やらがあったし、クラスの女子生徒との会話についていくためには、テレビや雑誌もチェックしないといけなかった。わたしと晃ちゃんの間の溝はどんどん広がっていった。

 それでもわたしの心には妙な奢りがあった。晃ちゃんに元気がなくて、わたしを避けているようでもわたしたちの間には他の人にはない強い結びつきがある。だから晃ちゃんが元気を取り戻したときには、わたしたちはまた昔のような、気の置けない関係に戻れる。そう思っていた。あの一度だけのキスは相変わらず、もやもやと胸の内にくすぶっていた。

 

冬休みに入る少し前のことだった。

わたしはその日、風邪をこじらせて早退していた。居間のソファで毛布に包まって横になり、テレビを見つつただ夜になるのを待って過ごしていた。時計の針は一一時を回り、そろそろ寝ようかと考えていた頃だった。視界の隅で母が電話の受話器を耳に当て深刻そうな表情で話をしている。電話口の相手は、美行さんだと知っていた。電話が切れると、母が蒼白い顔をわたしへ向けた。

「晃太朗くんが、昨日から家に帰って来てないんだって。うちに来てるんじゃないかっていうけど……ゆかり、あんた何か知らない?」

 風邪で少しだるいのなんてどうでもよくなって、わたしは出かけるために着替えた。一番温かい、中学時代から着ていた、少し野暮ったいダッフルコートを着て、マフラーで口元までぐるぐる巻きにした。下はスウェットに、ぺたんこの靴という、あまり人前に出られる格好じゃなかったけど、まあいいかと思った。ひりひりとやけるように痛い喉を無視して、外に出た。ついていこうか、と心配そうに言う母を、どこにいるか見当がついているから大丈夫、と適当なことを言って振り切った。本当は見当などどこにもなかった。とりあえずアルバイト先にいってみて、そのあとは適当にその周辺をふらふらしよう、くらいの考えしかなかった。

だるい身体に鞭を売ってでも、晃ちゃんを探し始めたのは、彼が心配だったからだ。どこかでばったりと倒れていたらどうしようと思ったからだ。それに、これをきっかけに昔のような仲に戻りたいという気持ちも隠れていた。

街はすっかりクリスマスのイルミネーションできらきらと浮かれていた。街の浮かれている様子を目にすればするほど、わたしの心は元気がなくなっていくようだった。わたしは晃ちゃんがひとりどこかでうずくまって泣いている姿を想像した。手を差し伸べるのはわたしの役目だと思った。

母からの着信を無視して、ほとんど無心でわたしは歩いていた。バイト先に行った。近くのゲームセンターを覗いた。駅にもいった。見つからず、あてもなくふらふらと歩き続けた。そんなやり方で、晃ちゃんの居場所を見つけることができたのは、ほとんど偶然に近かった。

途方にくれたわたしは、光に吸い込まれるかのように駅の近くの広場に入った。女の人のはしゃいだような笑い声が響いていた。「ねえ、晃太朗、こっちも飲みなよ」という声が聞こえた。わたしは、その声がする方に目を向けた。

その広場には奥の方に、石段があって、その石段の一つ一つが電灯で照らされていた。暗闇の中、その石段のところだけが青白い光で照らし出されていた。灯りのもと、騒がしい四人組がそこに座っていた。

彼らを見て――わたしは立ちすくんだ。

わたしとは違う世界の匂いがする人たちだった。年上だった。大人にしては、雰囲気が若々しい。大学生だろうか。フリーターだろうか。髪を染めた派手な格好をした女性が二人、同じように派手な雰囲気の男が一人。その人たちに交じって、制服の上、見慣れないコートを着た晃ちゃんが座っていた。

晃ちゃんは、彼ら三人と明らかにタイプが違うのに、なぜだろう。妙に彼らに馴染んでいるように見えた。晃ちゃんは右手にお酒の缶を持っていた。

彼らの足元にはコンビニのビニール袋とお酒の缶がいくつか転がっていた。三人とも煙草も吸っていた。なんとも言えない距離を保って、彼らを凝視して立ちすくんでいるわたしに女の一人が気づいた。

「なにあの子。なんでこっち見てんの? 晃太朗の元カノ?」

晃ちゃんに向かって、茶髪の女が笑いながら言った。そう言いながら、煙草を持ってない方の手は晃ちゃんの腿の辺りをなれなれしく触っていた。朱色の綺麗なネイルが施された爪のその手は、晃ちゃんの腿をあまりになれなれしい手つきで触っていた。

 ぼんやりとした灯の下、晃ちゃんが伏せていた眼を怠そうに上げた。いつもより長く伸びた前髪の奥から晃ちゃんの瞳が見えた。晃ちゃんは、隣の女の質問には答えず黙っていた。そうして、わたしのほうに感情の読み取れない視線を向けた。

その眼を見た時、ふと思った。晃ちゃんは変わった。悪い方に変わってしまった。学校じゃ塞ぎこんでいるけど、それは学校だけで、きっとバイト先で知り合った、ちょっと嫌な感じのする大人と夜遊びするようになったのだ。

わたしは晃ちゃんを探してここに来たことを後悔し始めていた。早くこの場から立ち去りたかった。

晃ちゃんは怠そうな瞳を向けたまま、

「なに」

と言った。ひどく短い言葉だった。わたしに言っているのかどうかもよくわからないような調子だった。しかし、他の三人が黙ってわたしの方を見ているのを感じたから、晃ちゃんはわたしに言っているのだろうと思った。喉はひりひりとして燃えるようだった。

「帰ってないって聞いたから。心配して、探してた」

わたしの声は風邪のせいで少ししわがれていた。

 女の人が二人ともくすくすと笑った。恥ずかしさが込み上げた。起き抜けのようにぼさぼさな髪、化粧っ気のないむくんだ顔を彼女たちの前に晒していることが恥ずかしくなった。着ているダッフルコートも、履いているぺたんこの靴もこれ以上なく野暮ったくてださかった。

晃ちゃんの口が開いた。外灯の青白い光が、その顔の三分の二ほどを照らしていた。わたしはその顔に、その言葉に、昔の面影を見ようとした。

「お前、そんなに暇なの」

 それは目の前の少年からではなく、頭に直接響いてきたように感じた。想像していたよりはるかに冷たい言葉だった。わたしは、冷水を浴びせられたかのように、その場で固まった。面影を見ようとする努力は空しく散った。

 わたしはその時、実際以上に冷淡に感じたのだと思う。その時の晃ちゃんが、どういう気持ちで言ったのか分からない。純粋に、なんでこいつそんな必死に探し回ったんだろう、という疑問を持って、口から出た言葉なのかもしれなかった。足元にはお酒の缶が転がっていた。別に悪意なんてなかったかもしれなかった。「そんなに暇なの」という言葉よりも、晃ちゃんから初めて「お前」と呼ばれたことに動揺したのかもしれなかった。なぜ自分がそんなに傷ついたのか、よく分からないまま、わたしはひどく傷ついた。

晃ちゃんのその言葉は、わたしの頭にこう響いた。――「お前のことなんか、もうなんとも思ってない」

晃ちゃんとの間に今でもあると思っていた繋がりは、わたしの幻想だった。あのキスを何度も何度も思い返していたのはわたしだけだった。

 女の人が、またくすくすと笑いだした。人を馬鹿にした笑いだった。指に挟んだ煙草も、尖った綺麗な爪も全てがわたしのことを馬鹿にしているように感じた。その人の手が晃ちゃんの肩に伸びた。そして、彼の肩に頭を乗せるような姿勢をして、晃ちゃんの耳に何かひそひそ囁いた。それからくすくす笑って、その女はまたわたしの方を見た。その時になって、初めて、その人の顔をまともに見た。綺麗な茶色の髪、すっと通った鼻筋の、顎の細い美人だった。わたしよりずっと美人だった。あか抜けていて、大人っぽくて、すらりと長く伸びた足は、まるでモデルみたいだった。

 その女の人が晃ちゃんのことを「晃太朗」と呼び捨てにしたことを思い出した。そして、わたしのことを小馬鹿にしたような口調で「元カノ?」ときいたことを思い出した。晃ちゃんはこの女の人と付き合っているのだ、と気が付いた。昨日家に帰っていないのもきっとこの人の家に泊まったからだ。わたしが心配して探し出す必要なんてなかったのだ。馬鹿みたいだ。

 どんなタイミングで、背を向けたか覚えていない。すぐにその場を立ち去りたかったことは覚えている。くすくすという笑い声を背中に受けた気がした。体が怠いのを忘れるくらい、それまで感じたことのない感情に心を奪われていた。晃ちゃんの冷たい言葉、女の人が晃ちゃんの耳にひそひそ囁いた姿がわたしの心臓に深く突き刺さっていた。小馬鹿にした笑い声が頭の中で鳴り響いていた。どこをどうやって帰ったのか分からないまま、気が付いたら家についていた。家の戸を開け、母の顔を見て、初めて、喉のひりひりした痛みを感じ、自分が風邪をひいていたことを思い出した。悪寒を感じ、肩が震えだした。わたしは母にろくに挨拶もせず、友達と一緒にいたから大丈夫みたいというようなことを言って、部屋にこもって、鍵をかけて、冷たい布団の中に潜り込んだ。 

 休憩地点が見えるころには、日が暮れようとしていた。足が少し軽くなった。ゆかりは大きな瓦斯マスクを揺らしながら灰色の世界をずぽりずぽりと歩いていく。噛みつかれた右腕は軽症に見えたものの、時々ひりひりと痛んだ。短剣を持っているのが辛くなって、ゆかりは方位磁石をリュック・サックにしまって、短剣を左手で持って歩いた。北北東、ではなくその休憩地点を目指して歩いた。

 同じような木造の小屋が五つほど不均等な感覚でぽつぽつと並んでいた。それらは雪山の中にひっそりとたたずむ小屋のように、雪の代わりに灰をかぶってひっそりとたたずんでいた。ゆかりは小屋の一つに入ると、すぐに瓦斯マスクをとって大きく息を吸いこんだ。それから灰まみれの衣服を脱いで、脇に置いた。灰は上着だけでなくその下の服まで侵食していた。ゆかりは、下着同然の姿になって、服をはたいて灰を床に落とした。

 その小屋には隅に大きな火鉢があるくらいだった。ゆかりはリュック・サックから紙とマッチを取り出すと、紙をくしゃくしゃに丸めて火鉢の中に入れた。マッチを擦って、投げ入れた。ぽっと火が出た。手をかざした。火鉢以外何もないため、たいして広くないのに、広いと感じる。

 寝袋を忘れたな、と思った。小屋があると聞いていたから、そこで一晩明かすことになるかもしれないと思っていたのに、寝袋まで考えていなかった。けれど、そこまで気を回していたとしても寝袋なんて大きなものを持ってくることはできなかったことに考えが至って、おかしくなった。

 この休憩地点から数時間も歩けば灰色の世界は抜けられるときいていた。そうして、その先に更地が広がっているらしい。とりあえずここまでは順調だ。少し気が楽になった。

 その更地さえ乗り越えれば――全てをひっくり返すことのできる仙人に会える。どんな望みも叶えることのできる力を持った人。

右腕のガーゼを念のため取り換えた。リュック・サックから残っていた食べものを取り出して頬張った。外がいよいよ暗くなり始める。灰を振り落とした衣服を布団代わりに床に引いて、その上に寝転がった。ひときわ強い風が吹くと、小屋ががたぴしという不吉な音を立てた。吹っ飛ぶんじゃないかという囁きには耳を貸さないことにして、目をつむった。目をつむって、また晃ちゃんのことを考えた。

  

 その時にわたしが感じた心の痛みなんて、取るに足らないものだった。晃ちゃんが長い間抱えていた痛みに比べれば、比べるのもばかばかしくなるような心の傷だった。一日泣いて、ぐっすり寝れば回復するような浅い傷に違いなかった。しかし、傷つくことに慣れていなかったわたしは、その傷を大怪我のように考えて、どうしようもなく惨めだと感じた。一番信頼していた人に裏切られたように感じた。

 その翌日、風邪が治らなかったわたしは学校を休んだ。その次の日は、学校に行った。わたしは教室に残って、早退と休んだ分の小テストと出しそびれた宿題をやっていた。寒さのせいか一昨日の晃ちゃんとの一件のせいか、やる気も出ず必要以上にだらだらとやっていた。教室に残っていた他の女子生徒に、「ゆかりなに真面目に勉強なんてしてるの?」と笑われたから、勉強を中断してしばらく会話に参加したりした。だから、わたしが教室を出る時間は、最後の授業が終わった時間からずいぶん経っていた。

放課後、昇降口を出たところで、「ゆかり」と呼び止められて驚いた。声がした方を見ると、晃ちゃんが立っていた。晃ちゃんははすぐに目を伏せた。昇降口のすぐ外の柱のところで、わたしが出てくるのを待っていたらしかった。

そしてようやく聞き取れるくらいの小さな声で晃ちゃんは「ごめん」と言った。

「何が」

 わたしの声はつっけんどんだった。わたしはそれまでのクラスメイトとの談笑で一昨日のあの一件での感情を一時的に忘れていた。晃ちゃんに謝られて、あの夜の惨めな感情を思い出した。無性に撥ね付けたくなった。

「ごめんって何が? 別に謝られるようなことされてないよ。気にしてない」

晃ちゃんがどういう意味で「ごめん」と言っているのか分かっている癖に、わたしはそんなことを言った。あの夜の晃ちゃんの冷たい感じと、女の人の小馬鹿にした笑いの恨みがまだ消えていなかった。消そうと思っても、消せなかった。また頭の中でぐるぐると回り始めた。

「ごめん」と晃ちゃんは目を伏せたまま繰り返した。

「いいよ、気にしてないって言ってるじゃん」と言うわたしの声は相変わらずつっけんどんだった。

 会話はそこで途切れた。終わったかのように感じた。それでも晃ちゃんは、言葉を探しているようだった。あまりに久しぶりにわたしとまともに会話をしようとしたから、どうやって会話を続けるべきなのか見失っているようだった。

 わたしも同様に言うべき言葉をすぐに見つけられなかった。気まずい沈黙が落ちた。晃ちゃんはその場で石になったかのように動く気配がなかった。

わたしの頭の中には言葉が渦巻いていた。なんで謝るの? 謝る必要なんかないよだってあの時のキスはただの遊びだもんね。なんの意味もなかったもんね。あの時そっちからキスなんてした癖に。わたしに変な期待持たせて、誤解させたくせに。そんな言葉が渦巻いていた。でもそんなこと言えなかった。代わりに口から出たのは、

「晃ちゃんは狡いよ」という言葉だった。

少し間をおいて、「狡い?」とかすれた声が晃ちゃんの口から洩れた。相変わらず眼は伏せていて表情は見えなかった。

 あの一度のキスがどうこうとかいうことは、意地だか見栄だか、よく分からないものが、邪魔して、とてもじゃないけど口に出来なかった。

 晃ちゃんはまだ立ちすくんでいた。ただ肩が不自然に上下したように見えた。

わたしは、さっきまで一緒にいたクラスメイトを待つことになっていたから、わたしの方から立ち去るわけにはいかなかった。わたしの口は勝手に動いた。

「ねえ、一緒にいてカノジョと間違われたら、晃ちゃん困るんじゃない? もういいから、行ってよ」

わたしは、晃ちゃんを突き放した。

 俯いていた晃ちゃんがゆっくりと顔を上げた。彼の顔を久しぶりに外の光の中でまともに見たような気がした。目の下は黒ずんで、たるみ、細い皴が幾筋も出来ていた。もともと白い肌はさらに青白くやつれて少し病的に見えた。あの夜、公園の外灯に照らされて受けた印象とは別人のようだった。晃ちゃんは全てに疲れ切ったような、そんな表情をしていた。軽く肩を押せば、そのまま崩れてしまいそうに思えた。

 わたしはその表情を見た時、意表を突かれたような気持がした。自分の放った言葉をすぐに撤回しなければと思った。言い過ぎたと思った。しかも「カノジョと間違われたら困るでしょ」なんて言葉は酷い当てつけだった。あの女の人と付き合っているなどわたしの思い込みに過ぎないのに。

わたしが逡巡していると、後ろから楽し気な笑い声が聞こえてきた。女子生徒が二人歩いてきて、わたしに「お待たせ」と声をかけた。それから彼女たちは、わたしと立ちすくむ晃ちゃんを見て、不審そうな顔をした気がした。わたしは、いたたまれないものを感じて、わざと明るい声を出して――晃ちゃんなんてそこにいないかのような態度で、彼女たちの会話に混ざった。

 そうして、一人立ちすくむ晃ちゃんをおいて、すたすた歩き始めた。少し歩いたところで、ちらりと後ろを振り向けば、晃ちゃんはこちらに背中を向けてまだそこにいた。わたしの胸がチクリと痛んだ。やっぱり走り寄って「一緒に帰ろう」と言いに行こうかと思った。そうするべきだと思った。ずっと最近できた溝を埋めたいと思っていたのだから。

 隣を歩くクラスメイトがわたしに話しかけた。わたしは、「え、なに?」と聞き返して、会話に加わった。そうして結局、晃ちゃんのことを置いていってしまった。

 帰り道、晃ちゃんに悪いことしたな、と思った。でも、晃ちゃんには新しい友達がいるんだから大丈夫だろうとも思った。わたしと違う世界の匂いがする、ちょっと嫌な感じの友達がいるんだから、わたしなんていなくたって大丈夫だろうと思った。


 その日の夜、わたしが湯船につかる頃には、一昨日の夜に感じた恨みだか怒りだかみたいなのはすっかり萎んでいた。ただ晃ちゃんのあまりに打ちひしがれたような、疲れ切ったような様子が気にかかった。晃ちゃんを撥ねつけたことへの後悔だけを膨らませていた。自分の放った言葉を思い返す度に嫌悪を感じた。どうしてあんな態度をとったのだろうと思った。

 そう言えば、わたしはだらだらと休んだ分の小テストをやったり、雑談したりしていたから帰る時間は本来帰れるはずの時間よりだいぶ遅かったのだ。二時間近くも遅かったのだ。

 その時間、晃ちゃんはずっと寒空の下、昇降口で待っていたんだろうか。そう考えると、胸が締め付けられたかのように苦しくなった。どんな気持ちで待っていたんだろうか。ただわたしに一言「ごめん」と言うためだけに、なんでそんなに待っていたんだろうか。目の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。――わたしはなんて嫌なやつなんだろう。わがままな子供のまま、何も成長していない。

 夕食の際はほとんど口を利かなかった。どうしたのと母に言われても、暗い顔で、別に、と答えるだけだった。寝る前に布団に潜ると、本棚の横の、窓ほどの大きさのジグソーパズルの絵が目についた。それはかぼちゃの馬車の絵が描いてある絵だった。かぼちゃの馬車と魔女が手前に描かれ、その向こう側に、荘厳なシンデレラ城が描かれていた。このパズルを完成させたのは、小学校低学年の頃だ。親に買ってもらったこのパズルは、晃ちゃんと一緒に二週間くらいかけて完成させたのだ。ようやく完成するころになって、ピースが一つ足りないころに気づき、わたしは幼稚園児みたいに泣いた。晃ちゃんは、パズルのピースを探して、部屋のあちこちを探した。一時間くらい探して、ベッドの足の下に半分埋もれるような形で引っかかっているのを晃ちゃんが見つけた。ぴたりと泣き止んだわたしを見て、晃ちゃんはおかしそうに笑った。

 晃ちゃんはそういう子供だった。誰よりも優しかった。誰よりも辛抱強かった。そして、わたしはいつもその優しさに甘えるだけだった。

 晃ちゃんは翌日学校を休んだ。わたしと晃ちゃんは顔を合わせないまま、冬休みに入った。新学期に入ったら、絶対にわたしから話しかけようと心に決めた。放課後わたしの方が待伏せしようと考えた。いや、それよりも休み時間に教室の外で待伏せの方がいいかもしれない、あるいは、学校に着いて始業のベルが鳴る前に呼び出そうか、とあれこれと考え直した。

冬休みだったけれど、遊びに行くこともなく、ただ静かに時間を過ごしながら、そのことだけを考えた。晃ちゃんと仲直りをするのだという思いを毎日膨らませた。あの女の人と晃ちゃんがどういう関係なのか気に病むのは下らないことだと思えるようになった。女の人に嫉妬を感じた自分が恥ずかしかった。「ごめん」と謝ってくれた日の、晃ちゃんの打ちひしがれた表情を思い返すと、わたしは自分の嫉妬や劣等感なんて取るに足らない下らないものだと感じられるようになっていた。

最終的に、一番確実なのは、新学期が始まる日に晃ちゃんの家までいって、一緒に学校まで行こうと誘うことだ、という考えに至った。断られたっていい。断られたっていいから、そうしよう。そう考えを膨らませていくうちに、冬休みが終わりに近づいた。


 仲直りはできなかった。

新学期が始まる前に晃ちゃんは自殺して死んでしまった。

風で小屋が揺れる振動で目が覚めた。外を見ると、灰色の風が吹き荒れて吹雪のようになっていた。まだ夜は明けていなかった。ゆかりは、目を開けたまま夜が明けるのをじっと待っていた。

夜が明けると、右腕のガーゼを取り替えた。リュック・サックに残っていた最後の食料を半分に割って胃袋に詰めた。まだ少し灰のついている上着を羽織ると、瓦斯マスクを装着した。そうして外に出た。左手には方位磁石、右手には短剣があった。右腕の怪我は幸い、痛みも引いて普通に動かせそうだった。昨日よりも風が強い。ゆかりは一歩踏み出そうとして、よろけて手をついた。体勢を立て直して、一歩、二歩と踏み出した。そうして灰色の世界をまた、ずぽりずぽりと瓦斯マスクを揺らしながら歩いた。

次第に風が弱くなってきた。降り積もった灰が膝下まであったものが、足首の辺りまでになった。舞っている灰も薄くなり、遠くの視界も開けてきた。二歩、三歩、着実に目的地の方へと近づいていく。風がなくなった。足元から灰の下、茶色い地面がところどころ見えるようになった。歩を進めるごとに茶色い地面の面積が増えていった。ふと空を見上げれば、青かった。灰はもう舞っていなかった。

ゆかりは、灰の世界を抜けて荒涼とした地に出た。少し歩くと、太陽が照ってきた。灰に覆われていたため寒いほどだったのが、段々暑くなってきた。ゆかりは瓦斯マスクをリュック・サックにしまい、上着も脱いで灰を落としてからリュック・サックにしまった。

改めてみると、今まで来た灰の道のりとはまるで正反対のような光景だった。太陽はぎらぎらと照り付けて、赤茶けた地面は乾いてひび割れている。見渡したところ、ところどころにある岩と灌木以外に何もない。灰の世界に比べれば、かなり歩きやすい。暑かったから、袖をできる限り捲った。聞いていた話によると、まず荒地に入ったら、白い巨人の塔を目指せということだった。かなり大きいから遠くても見えるらしい。ゆかりは掌の上、方位磁石を見た。北北東を確認すると歩き出した。

白い巨人の塔は、すぐに見つかった。ゆかりの頭のところに、その巨人の脛があるくらいの巨大な像だ。その白い巨人の塔からはほぼ東に一直線に歩いたところに、目的地があるらしい。ゆかりは針が止まるのを待った。東へと歩き出した。

汗が流れ落ちる。背中の荷物が重い。気持ち悪いくらいに背中が汗ばんでいる。上着や瓦斯マスクを置いて行ってしまいたいけれど、そうなると帰り道に困るだろう。我慢して、荷物を背負ったまま歩き続ける。そうして、ぼんやりと考えた。頭に浮かぶのは、大事な幼なじみのことだった。

晃ちゃんは死を選ぶ前、どんな気持ちだったのだろうか。暗闇の中、何か光を見ようとしてもがいただろうか。ちょうどわたしがこの奇妙な世界の中で、おぼつかない光を探し回っているように。あの時のことを思い出す。晃ちゃんは、放課後、わたしに謝ろうと昇降口の外で待っていてくれた。晃ちゃんは何を思って、どんな気持ちで、どんな表情で、あの時わたしのことを待っていただろうか。あの時、晃ちゃんを突き放した自分こそが、暗闇の中で彼の探していた光を打ち消した張本人なんじゃないだろうか。

胸にずきずきとはっきりとした痛みを感じた。表情が歪みそうになる、けれど足取りは緩めず、ただ歩くことに集中した。ひたすら荒野を歩いた。赤茶けた地面を眺めた。岩と灌木、枯れた雑草を眺めた。味気ない茶色い景色だった。時々、なぜか赤と白のロードコーンがあった。タイヤも見つけた。ロードコーンの一つに、靴が逆さになってかぶさっていた。ゆかりはそれらを無感情に眺めながら、ただ歩いた。

灌木がちょうどいい木陰を作っているところを見つけたから座って、リュック・サックから水筒を取り出した。もうほとんど水が残っていなかった。ゆかりは、目的地まであとどれくらいあるのだろうと思った。少しして、また歩き始めた。

水が欲しい。ゆかりは目を皿のようにして歩いた。何か飲めるものはないだろうか、と探しながら歩いた。太陽の光を受けてきらりと光るものが遠くに見えた。水かもしれないと思って、ゆかりはそちらの方へと歩いた。近くに行くと、きらりとしたものは地面に転々とあって、その近くに緑の植物が生えている。すらりと細い茎が長くのびていて、その上に、どれも大きな蕾(つぼみ)をつけている。

ゆかりは、なぜそんなところにいきなり水が湧いて出るのか少し疑問に思ったけれど、すぐに打ち消した。この世界でそんなことを考えても埒が明かない。それより喉の渇きを早く癒したかった。水筒が底をついてしまうと、急に渇きがひどくなってきた。じりじりと照り付ける太陽が、水分を身体から奪っていくような気がした。

不均等にぽつぽつと生えている細長い植物の一つに近寄って、手に持っていた短剣と方位磁石を地に置いた。地面の水を掌ですくって飲もうとかがんだ。ちょうど大きな蕾の影が水たまりの上に落ちていた。かがんだゆかりは何か違和感を覚え、水をすくうために出した掌を止めた。なんだろう。水たまりに映る影がふらふらと揺れている。

ゆかりは上を見上げた。細い茎の上の、大きな蕾がぱっくりと開いた。中に鮫のようなぎざぎざの歯が見えた。その口の端から、ねっとりとした涎がつーっと糸を引いて足元の水たまりに落ちた。

人食い植物。

理解する前に反射的に後ろに飛んだ。ゆかりがかがんでいたところに人喰い植物の口が素早く落ちた。茎が捻じれて口がこちらをじろりと向いた。身体が恐怖にすくむ中で、頭は奇妙なほど冷静だった。そいつには目がなかった。蕾にあるのは口だけだ。だから、きっと振動に反応しているのだ。蕾の化物はじろりとこちらを見たまま、口を大きく開けた。ゆかりは、背中のリュック・サックを思いきり左前方に投げた。茎はうねるように捻じれて、リュック・サックの落ちた向こうの地面を追いかけた。ゆかりはその間に地面に置いた短剣を手に取った。鈍い音がして蕾の口がリュック・サックに噛みついたのが分かった。それから茎がうねる、口が獲物を探して動く。ゆかりは音を立てないようにそっとかがんで左の靴を脱いだ。靴を一メートルほど前に放った。茎がうねった、蕾の口が靴の落ちた場所に飛んできた。ゆかりは蕾が靴を口に含むほど地面に近づいた時を見計らって短剣を振り上げた。細い茎めがけて振り下ろした。すっと呆気ないほど簡単に茎が切れて、蕾の化物はころんと転がった。ほっと安堵を感じて尻もちをついた。しばらく肩で息をする。ふいに蕾が口を開けたままかたかたと上下に揺れ始めた。べろんと長い舌を出して地面をなめ回るようにして動き、何かを探している。舌の先が、ゆかりの足首に触れた瞬間、ぞっとして足をひいた。その長い舌に短剣を上から真っすぐ突き立てた。黄緑色の汁があたりにぱっと飛んで、顔にかかった。つんとした異臭に顔をしかめる。むせて、地面に膝をついた、手をついた。茎は死んだようにぐったりと垂れた。短剣で舌を貫通された蕾の化物の動きも止まった。

ゆかりは、顔にかかった異臭のする汁を一刻も早く吹きたくて、来ていた服を脱いでその裏で顔を拭いた。べっとりとした黄緑色の汁を服が吸い込んだ。気持ちが悪くなって、その場で吐いた。腹の中のものを戻した。汚くて、臭くて、ただひたすら恐ろしかった。額に尋常じゃない汗が滲んだ。肩ががたがたと震えた。

ゆかりは胸の奥から発作的に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。ぐっと押し殺す。泣くなと言い聞かせる。胸の内で暴れる発作を抑える。泣くな泣くな泣くな泣くなと言い聞かせる。こんなことで泣いちゃいけない。左腕の二の腕の肉を思いきりつねった。その痛みに意識を向かせる。胸の痛みじゃなくて、つねった痛みで流す涙なら許せる気がした。だって、ここにいるのはわたしが決めた選択だ。誰のためでもないわたしが自分で選んだ道だ。だから泣くのはだめだ。

それなのに感情がまだあふれかえってとまらない。洪水みたいに溢れて止まらない。喉がふさがりそうな圧迫感に、嗚咽がもれそうになった。思い出す。彼のことを思い出す。彼のことが好きだった。大好きだった大好きだった大好きだった。それなのに、わたしはひどいことをした。ひどいことを言った。――どうしようもなく苦しくって、二の腕をつねりながら、額を地につけた。辛いという気持ちが腹の中で暴れていた。辛い辛いと言って腹を突き破ろうとして暴れていた。どうしてこんなに辛い目に合わないといけないのか。どうしてこんな辛い目に。わたしだけどうして。

それなのに泣いちゃだめだという声が消えない。泣くなと言う声が頭の中で叱咤する。彼はわたしの前で一度でも涙を流したか、痛がるところを見せたか。一度も見せなかった。彼はわたしにあんなに優しかった。だからわたしはただひたすら甘えていた。ずっと甘えていた。それなのに――それなのに。額を地につけて、深呼吸をする。赤茶色の大地を見つめる。

手を放して、見れば、二の腕のつねったところが鬱血したように赤くなっていた。ゆかりはそれをぼうっと見つめた。波がひいていくのを感じていた。泣かなかった代わりに胸に空虚な気持ちが広がっていくような気がする。それでもいい。泣くよりましだ。ゆかりは再び立ち上がる準備をした。死んだ蕾の化物を見てもなんの感情も湧きあがらない。奇妙に無感情な瞳でそれを見やるとゆかりは、再び歩き出した。服は涎でべとべとになっていたからその場に捨てた。上は下着も同然の姿で歩き始めた。

噛みつかれたリュック・サックは穴が空いていたけれど、幸いまだ使えるくらいにはちゃんとしていた。マスクも壊れていない。穴からものがこぼれて出てこないように中を整理して、また背中に背負った。喉の渇きは、今の恐怖と発作のせいでひいていた。荒野の中ひたすら歩を進める。

それからの道のりは意識がいくらか朦朧としていたけれど、足取りだけは確かだった。気が付けば日が西の方へと傾いていた。その頃になって、ようやく終わりが見え始めた。

荒涼としていた土地に緑が見え始める。木々の向こう、すこし高くなった土地に館が見えた。大きな窓を挟んで円柱の形の塔が二つ並び、横に長い形をしていた。鼠色と水色を混ぜたような奇妙な色をしていた。そうしてその館は、何百年も昔からそこに存在していたかのように昂然と立っていた。誰も寄せ付けてこなかったように寂しくひっそりと建っていた。木々の中に入ると一度館は見えなくなる。木々の間を少し歩くと、地面が石畳へと変わる。その石畳の先がその館だった。目的地。ゆかりは一歩ずつ石段を上がっていく。

東の果てには――全てをひっくり返すことのできる仙人が住んでいるという。

ゆかりは館の扉を開けた。ひっそりと死んだように眠る館へ一筋の西日が差し込む。


 館の中は薄暗かった。外観から想像していた以上に気味が悪い空気が漂っており、扉を開けてすぐのところで、泣いた顔の赤ん坊の人形が五体天井から吊るされていた。少し歩くと二階へと螺旋状に続く大きな階段があり、勝手が分からずにやって来る訪問者を上へとおびき寄せるようだった。ゆかりは深く考えもせずその階段を上がった。登り切ったところの廊下の壁には、人の背丈ほどの大きな絵画があり、口の裂けた人魚が笑っていた。その廊下の先に、いくつかの扉があって、ゆかりはやはり深く考えもせずただ背中を押すような空気にのまれて、二つ目の扉の前に立った。

 この先に、全てをひっくり返すことのできる仙人がいる。

 手が震える。震えを抑えようと一度ぎゅっと握りしめると、扉に備え付けられた鉄環、虚ろな目の山羊が咥えた鉄環に手を伸ばし、こんこんと鳴らした。

 どんな姿をしているのか、どんなことを言われるのか、いきなり撥ねつけられたらどうしようという不安が胸の内で渦を巻き、

「あら。いらっしゃい」と声がした。

 ゆかりは震える手で扉を開け、震える足で部屋の中へと踏み出した。中は明るい。目の前に大きな窓があり、部屋の左右には天井まで届く本棚があり、古そうな本がびっしりと並んでいる。左手に人の気配がした。ゆかりは、部屋の半ばまで歩くと、その人、救いを求めて探し当てた人を見ようと左を見た。その人は、本棚を背景に、丸みを帯びた背もたれの簡素な木の肘掛椅子に腰掛けていた。

その姿を見て、ゆかりは言葉を失った、足の感覚をなくした、頭が真っ白になった。

「あらあら、これまたひどい格好。何をしてそんなに汚れちゃったの。もう下着姿みたいなものじゃん」

 言葉の意味も全く頭に入ってこない。視線を落とした。足の震えが酷くなる。ここに来たのは間違えだった、と訳も分からないまま、そんな思いにとらわれる、全部間違いだった。意味もなかった。意味のないことを希望と勘違いして縋っていた。

「そんな怯えた顔しないでよ」

 椅子に座る女が言った。ゆかりは、視線をおそるおそる再び彼女の方へと向ける。彼女は笑っていた。

垢ぬけた茶色い髪と、すっと鼻筋の通った非の打ちどころのない整った顔立ちに、すらっとしたモデルのようなスタイル。そしてその曲線を強調するかのように腿を大きく露出させたタイトなスカート。

頬杖をついてこちらを見る、その口元はふてぶてしく笑んでいて、その手の先の爪は長く、綺麗な朱色のネイルが施されている。

 忘れたいと思っては何度も思い出すことを自身に強要したあの情景。その頭の中の情景からまるで飛び出してきたとでもいうように、あの日、あの夜、あの石段で、ゆかりの嫉妬心をちくちくと刺激した女がこちらを見て笑っていた。あの夜、隣に座る晃太朗にひそひそ声で何か喋って、こっちを見て、小馬鹿にしたように笑ったあの人。

 神様はどうしてこういうことをするのだろう。

「そんな泣きそうな顔しないでって言ってるでしょ」と女は口をとがらせて言う。「ちょっとした冗句じゃん。そんな顔をされたらさすがに良心が咎めるっていうか」

 そう言って女は軽くため息を吐いた。その姿がぱっと消えたかと思うと、瞬きする間に、代わりに、そこに幼い男の子が座っていた。小学生くらいの愛らしい顔をした男の子だ。ぼんやり見ていると、その男の子の頭から尖ったものが二本にょきにょきと生えて来て、太くなり、弧を描くようにグルンと曲がった。

「お前はここに来るのが初めてだろう」とその子が言う。

「初めての客には、相手が最も憎いと感じる景色を見せるのが、余の癖でな。失礼した。悪気はない」

 頭から山羊の角を生やした男の子がその外見に似合わない口調で何か喋っている。呆然としているゆかりはその言葉の半分も理解しないまま聞いている。

「妹は、元気にしているか? 好き放題、遊んでいるようだが」

 ゆかりは、なんのことか分からないというように黙っていると、山羊角の男の子はつづけた。

「余の妹とは、都のでっかい城の一番上に住んでいる彼奴のことよ。だいだい様とかいうおかしな名前だったか。太陽のお面の力を使って、好き放題お前たちを洗脳していると聞いたが」

 本棚を背景に座っている、その男の子はそこで言葉を切った。ゆかりをじっと見た。

「お前は、あまり洗脳されていないようだな」

 ゆかりの固まった脳が、そろりそろりと動き始めた。

 この人が言っている妹というのは、それはこの土地で最も権威を持つ姫様のことだ。自分自身の姿かたちはもちろん、天地を創造する力さえあると噂されているあの人のこと。

「お前は、都の辺りからきたんだろう。迷い羊か。まあ何だっていい。目的はなんだ。お前は余に何を求めている」

 ゆかりの心臓の鼓動が大きくなる。足の感覚が戻り始める。

「あの、全てをひっくり返すことのできる、仙人がいるときいて、それで」

 男の子は短く笑った。

「全てをひっくり返すことができる? そんなもの嘘っぱちに決まっているだろう。そんなことできるものがここで一人書物にうずもれていると思うか? まあよい。要件を早う言え。余は早く読書を再開したい」

山羊角の男の子はそう言って、煙管をくゆらせ始めた。ゆかりは口を開いた。声が震えた。

「ある人を、うつし世に連れて帰りたいんです」

「連れて帰る?」と男の子は言い、

「お前が探し出して、一緒に境目を見つければいいだろう」と続けた。つまらないことを言うな、というようにふんと鼻を鳴らす。

「その人は、記憶を失っていて」

「少しは覚えておろう」

 ゆかりの声が震え、小さくなる。

「全て、忘れているから」

「じゃあ諦めろ。うつし世が嫌いなのだろう」

 ゆかりは胸に息を吸い込み、言った。

「その人の、記憶を蘇らせることは可能ですか」

 男の子はゆかりをじろりと、見た。

「誰の記憶だ」

「自殺した、幼なじみの記憶です」

 男の子は煙管をはなし、口からふうと煙を吐いた。視線はゆかりではなく、煙の方にある。ぽんぽんと煙管で机の上の盆を叩いている。

「なるほど。しかし、その子は今頃、この地で楽しくやっておるだろう。それの邪魔をしたいというのか? まあ、つまらん土地だが」

 男の子はゆかりを見て、にやにやと笑った。

「この土地にいるということは、うつし世から逃げてきたということ。うつし世の記憶なんて今更思いだしたいはずがない。そっとしておいてやれ」

ゆかりは黙った。うつむいた。鉛を飲んだように胸が重くなった。

「しかし、お前その恰好は何だ。どうして胸をそんなぺちゃんこにしている。男にでもなったつもりか」

ゆかりはそう言われて初めて自分が、誰をだます必要もないのに、まだ胸に白い布をぐるぐると巻き付けていることに思い至った。男の子はにやにやと笑って、言った。

「弱きものよ、汝の名は女なり」

 ゆかりはぼんやりした瞳で、男の子の口が動くのを見ていた。

「なに、女であることが恥ずかしいのか。まあそう気に病むでない。男だって同様にもろいものよ」

 ゆかりは言っていることの意味が分からず、呆けたように聞いていた。いったい、何が面白いというのか。ゆかりが少年のような身なりをすることに深い意味はない。

「まあ、なんだっていい。余はお前の人生観を根掘り葉掘り聞くほど物好きでもない」

 ゆかりはまた黙った。委縮した。目の前の太い禍々しい山羊の角をはやした男の子が、その姿よりも、彼の口にする言葉が恐ろしくてたまらない。

「埒のあかないお前のために、話を戻してやるが、お前はその友達をどうしたいのだ。友達だか恋人だか、恋人にし損ねた人だか知らんが、その子が自殺したのは、うつし世がその子にとっては住むに値しないところだったからだろう。こっちの世でそれなりに平和に暮らしていけるなら、その方がよいではないか。いったい何が不満だ」

 仙人はそう言うと、視線を煙からはなして、じろりとゆかりを見た。ゆかりはぐっと我慢した。言葉を探した。この人の言葉に圧されちゃいけない。鵜呑みにしちゃいけない。

「わたしは、ただ」声がかすれている。ゆかりは、手をぎゅっと握って声が震えないよう力を籠める。

「わたしは、ただやり直したいんです。彼に謝って、それで、やり直したい」

 思ったよりもはっきりと声が出た。ゆかりは負けまいと、男の子を見返した。

「記憶を戻して、謝って、それで友達をうつし世に連れて帰りたいか」

「そうする、つもりです」

 男の子は、煙管を指と指の間に挟んで、盆の上にとんとんと灰を落とした。それから低い、静かな声で言った。

「お前は、根性はあるようだが、ど阿呆だな」

 その恐ろしいほど低く響いた声はゆかりの心臓を不躾にわしづかみした。

「記憶を戻してどうする? 一緒に帰って仲良くめでたしめでたしか? そのお前の友達への気持ちが報われなかったらどうする? ここでこうしてお前が山を越えて、吹雪を抜けて、荒野を歩いて、必死になったのに、その友達の気持ちがお前に向けられなかったらどうする? 人の心は薄情なものだ。お前とお前の大切な友達がどれだけ仲が良かったのか、好き合っていたのか知らんが、いずれは移り変わる。そうなった時に、お前は――その友達を恨むだろう」

 心臓をわしづかみにしたまま、悪魔のような声は続く。心臓をいっそう、ぎゅうと握りしめられたような感じに胸がずきずきと痛み始める。

「それとも」と言って、悪魔は笑った。「お前のその気持ちが恋心ではないと言い切れるのか? 相手に見返りを求めることはないと言い切れるか?」

 ゆかりは口を開いた。違う、と言おうと思った。これはそんな恋とかそんな言葉では片付けられない、と言おうと思った。そんな夢見る乙女心じゃない、と。わたしたちには一緒に過ごしてきた時間があるのだ。幼いころから紡いできた絆がある。恩もある。わたしはただあの時突き放して彼を傷付けたことの償いを。彼に一番近いところにいたはずなのに、その痛みに気づくことのできなかったことへの償いをしたい。

 感情がぐるぐると渦巻いて、上手く言葉にならない。悪魔は煙管を手に、冷たい笑みを浮かべてゆかりを見下ろしている。

「絶望とはいかなるものか」

 ふいに胸に突き刺すような鋭い痛みが走った。思わずその場にくずおれる。頭中がんがんと不快な音が鳴り響く。目の前が真っ暗になる、消えてしまいたいという思いで胸が潰される、消えてしまいたい消えてしまいたい、早く楽になりたいと潰れた胸が叫んでいる。この気持ちから解き放たれたい、助けはどこからも来ないと叫んでいる。ただ目の前は真っ暗闇ひたすら真っ暗で、お前はいらない子だとしきりに誰かが頭の中でがなり立てる、お前はいらない子だいらない子だお前なんか消えてしまえ早く消えてしまえ、その方が皆のためだ今すぐ床に頭をぶつけて何度もぶつけてかちわってしまえ、

 その波は嵐のように来て、ふっと去っていった。ゆかりは、真っ青な顔で、震える足で、震える手で立ち上がろうとして失敗した。うなだれたまま床を見つめた。ただ大きな恐ろしさが身体を支配していた。悪魔が口を開く。

「これが絶望よ。うつし世の醜さから生まれる、絶望よ」

 ゆかりはゆっくりと頭を上げた。そいつは笑っていた。愉快そうに笑っていた。

「それでもお前は、そのうつし世に友達を連れ戻すのがお前の利己心ではないと言い切れるか? 独りよがりの気持ちでないと言い切れるか?」

 ゆかりはうつむいた。すすり泣く声が聞こえる。ぽたぽたと赤い絨毯に染みができるのを見て、自分が泣いているのだと気が付いた。肩を震わせて、嗚咽を漏らした。痛い、胸が痛い。

「ふん、ちと虐め過ぎたか」

 悪魔のような子供が笑っている。こいつは仙人じゃない。ただの悪魔だ。人をいたぶることが好きな悪魔だ。どうしてこんなやつに助けを求めに来たのだろう、わたしは馬鹿だ大馬鹿者だ。ぽたぽたと絨毯に染みができる。

「まあそんな気分を味わった今でも、それでもお前がしていることが正しいと思うなら、余も考えてやらんでもない」

 ゆかりは、絨毯の染みを見ながら聞いていた。

「月のお面を探し出したら、お前の願いとやらを聞いてやろう」

 鼻をすすって、思う。あんなに泣くのを我慢したのに意味なかったな、と空虚な気持ちで思う。やっぱりわたしは弱虫だったんだな、と思う。

「お前がそんなに本気だというなら、行動で示せ。月のお面を探し出してみろ」

 ゆかりは絨毯を見ながら、かすれた声で尋ねた。

「月の、お面ですか」

「そう。月のお面、あれは本来は余の者だ。あれが手元にないせいで、この土地が馬鹿な妹の独壇場よ。月の満ち欠けも、四季の移り変わりもない味気ない世界よ」

 悪魔が、苦々しそうに口元を歪める。

「月のお面を見つけよ。そして、光にかざせ。そうしたらお前の願い事を叶えてやる。分かったらもう話は終わりだ。来た道を帰るがいい。余は湿っぽい涙を見るのが嫌いだ」

 ゆかりはなけなしの意地と気力をひっかき集めて、青白い顔を上げた。悪魔の目を見た。

「その月のお面とは、どこにあるのですか」

「余の妹が隠しておる。城を探すがいい」

 そう言って、悪魔はにやりと笑った。


 ◇


 少女は、ひっそりと寂しい灰色の空間にいた。茶色がかった髪に、美しいアーモンド形の目を持った少女だった。

 その少女は最近、新しい名前をもらった。昔の名は捨てるようにと機械人形のような冷めた目の男に諭されたのだ。その男には、新しい名前のみを名乗るようにと言われた。口の中でその名を唱える。なんだかしっくりこない。それでも前の名前はもう頭の片隅におぼろげに漂っているだけで、むしろそっちのほうがしっくりこない。前の名前と新しい名前を天秤にかけると、わずかな差で新しい名前の方が勝っているようだった。

偉そうな天狗のお面たちにも最近ようやく慣れてきた。というより、名を新しくもらったことで右腕の痣が少しずつ小さくなってきたことが原因だろうか、向こうがそれほどガミガミとした口調で話してこなくなった。用意される食事も三食きちんと食べるようにした。不思議と食べれば食べるほどここでの食事はおいしく感じられるようになった。

罪穢れと呼ばれた痣はもう左手の掌で覆えるほどの大きさまで小さくなっていた。それは初めにここに来た時に比べると半分くらいの大きさだった。うつし世の呪いなのだと言われたその痣。これが消えればやっと外に出られる。

もうすぐ三度目の食事がくるはずだ。その食事を少し楽しみに思っていることに気づいて、やや愕然とする。もうすっかりこっちのやり方に染められてしまったらしい。あの冷めた目の男は、醜いうつし世のことは早く忘れるように、と言った。男は機械のように淡々とその台詞を何度も少女に繰り返していた。以前はその言葉に嫌悪を覚えていたけれど、今になって、確かに忘れた方がこちらでの暮らしにはなじめるようだと感じた。

それでも何かが釈然としない。何かがひっかかっている。それが何かは分からない。

かつての名を捨てた少女は、立ち上がって黒い鉄棒を掴んで外を見た。暇だった。食事くらいしか楽しみがない。しかもその食事がもう来ていいはずの頃なのに来ていない。おおい天狗さん、と声を出して呼んでやろうかと思った。

ふいに足元が振動した。大きな声でだれかが、「偽物だ! 捕えろ!」とわめいている。さらにどたばたと足音が聞こえ、真っ黒い顔の男の人が目の前を走って横切っていった。あれ、と思う。天狗じゃない。冷めた目の男でもない。それ以外の人物を目の前が横切っていくのは初めてだった。少女は顔を外に出そうとするかのように顔を鉄棒の方へと近づけて、黒い顔の男が走り去っていった方を見ようとした。

男は転んでいた。服が破れてあちこちが黒く汚れている。転んで起き上がって、どこに向かおうかと言うようにあたりをきょろきょろと見ている。なんだかその様子がおかしくて、少女は笑った。

 きょろきょろとした男が、少女に気づいた。男の挙動が面白かったから、少女はなんとなく笑いかけた。男はなにか幽霊でも見たかのように、ぴしりと固まって目を丸くした。少女は予想外の反応に戸惑う。あぶない人には見えないけれど、どうも天狗とか冷めた目の男などとは、雰囲気が違う。少女は笑いを引っ込めた。少し怖くなったから黒い鉄棒から離れた。

 見れば、その黒い顔の男は手に天狗のお面を持っていた。しかし、その天狗の鼻は、いつも目にする天狗のものより、低くて太いように見えた。さきほど「偽物だ」と言われていたのはこれのことだろうか、とぼんやり思った。

黒い顔の男は近づいてきた。近くで見ればその黒さの正体は煤のようだった。なぜ煤けているのか。いよいよ怪しい。

「ニシダサン?」

 少女の喉は潰れたように声が出ない。どういうつもりだろう。意味が分からない。男が少し不安そうな顔をする。

「ニシダサン、あの、これ持ってきたんだ。綺麗だなと思って」

 男の行動はますます意味が分からない。煤けた顔の男は、これまた真っ黒に煤けた袋の中に手を突っ込むと、何やら鮮やかなものを取り出した。灰色の空間の中にいきなり現れたその鮮やかさは――暗闇の中でぱっとついた火のようだった。

 それは小枝のさきに咲いた手の平ほどの大きさの花だった。濃い赤い色の葉が四つ均等に開き、その中央には小さな白い花が綿毛のようにふわりと可憐に咲いている。

 男の行動は意味が分からない。確かに綺麗な花かもしれないが、いきなりこれを差し出して何がしたいのだろう。少女は眉をひそめて男の顔を見た。

「この花、カナメっていうんだ。その、あの、綺麗だなと思って、ただ、それだけなんだけど」

 黒い顔の男はなぜかしどろもどろになって話した。カナメっていうから、何だというのか。女に会ったらとりあえず花でも見せておけ、とでもいうのだろうか。おかしな男だ。

 花から男の煤けた顔に視線を移した。この顔は、この目、この鼻、困ったような表情、どこかで見たことがあるような気がする。

「あなたは誰?」と少女はたずねた。

 男は少し悲しそうな顔をした。少女はそこで、何か自分が悪いことをしただろうか、と初めて男の気持ちを思いやる。

「僕は、正義だよ。川田正義、ほらクラスメイトの」

 頭をがつんと殴られたような衝撃が走った。唐突に思い出した。セイギ、せいぎ、正義。そうだあたしを助けてくれた男の子の名前。ホームで手を伸ばしてくれた男の子の名前。少女は再び男の顔を見た。でも、と思った。

「あのね、すごい……煤けてて顔が見えないから、ちょっと拭いて」

 男は煤けた顔を、手でごしごしとこすった。ぱっと顔を上げて、少女を見た。あ、そうだ。眼鏡がないんだ、と少女は気が付いた。

「眼鏡してないんだね」

 と少女は少し笑みを漏らしながら言った。男は、その台詞ににっこりと笑った。

「うん、眼鏡壊れちゃって。でも、ここに来てから目が悪いの治ったんだ。変だよね」

 少女は、男が手に持っている花をもう一度見る。カナメというらしい。カナメか。確かにそれは昔の自分の名前だ。もう一度男の顔を見た。正義くん。あたしを助けてくれた人。学校を行く楽しみを作ってくれた人。その名前を呼びたいと思いつつ、恥ずかしくてずっと川田君と呼んでいたけれど、心の中ではずっと正義くんと呼んでいた人。

 急に彼が手にしていた花の美しさが心に沁み込んでいくように感じた。違う。花の美しさがじゃない。この花をわざわざ自分のために探してくれた彼の気持ちを知って、それが心に沁み込んできた。わざわざ探してくれたんだ、あたしのために。ただあたしと同じ名前の花だから、という理由で。

 かなめは正義を見た。

「正義くん」と口に出して言った。男は泣き笑いのような表情をする。その表情に、胸の奥から感情がこみ上げる。胸の中で錆び付いていた何かが息を吹き返した。

「正義くん」ともう一度声に出していった。こんなところにいる自分を探しに来てくれた。どうやって来たのか全く見当がつかないけれど、探しに来てくれたのはやっぱり彼だった。好きになりたいと思った人だった。好いてくれるかもしれないと思っていた人だった。涙が込み上げた。

「あ、西田さん、え、まって」

 かなめが泣き出したことに正義が動揺したようだった。かなめは自分でもいきなり泣き出したことをおかしく感じて笑った。久しぶりに外の空気を吸ったような気持になる。外の光を浴びたような気持になる。まだ牢屋にいるのに、おかしい。

 帰りたい、帰りたい――帰りたい。また彼と一緒に、学校の帰り道を歩きたい。下らない話をして笑いたい。今度こそ、正義くんと名前で呼びたい。どうして自分は命を絶つなんて馬鹿なことをしたのだろう。帰りたい。

 右腕に激しい痛みを感じて袖を捲った。あの痣が熱を帯び、毒々しい紫に変わり始めていた。

「西田さん、それ」

 正義が絶句した。かなめは、何でもないというように笑みを浮かべようとした。しかし痛みでそれどころじゃない。掌ほどの大きさだった呪いの痣は今や手首、二の腕にまで伸びていこうとしている。新しい箇所が変色を始めるたび、焼きごてをおしあてられたかのような激痛が走った。かなめは崩れるように膝を折った。

「西田さん、待って今助けるから。扉を開けるための鍵を探してくるから、ごめん、もうちょっと待ってて」

 息をするのもやっとで朦朧とする意識の中、正義の声もどこか遠くから聞こえてくるようだった。かなめは、呪いの痣に飲み込まれていくようにふっと意識を失った。


 ◇


 真ん丸の月が夜空の真ん中に輝く時、地下牢の廊下を一人の美しい女性が歩いていた。右手にぼんやりと光るカンテラを持ち、反り返るほど姿勢をぴんと伸ばして、歩いている。その両脇には小鬼が二匹仕えている。小鬼たちは小さな歩幅で、美しい女の半歩あとをちょこちょこ。その小鬼たちは、召使のようにいつも女のあとを歩いている。

 その美しい女は名を月見という。黒髪の上、銀色の天狗のお面が光っている。

 昔、何人かの天狗が、美しい彼女に恋をしたという。月見は彼らを、恋の罪を犯したとして黄金の間で主に差し出した。主は、罰として、彼らの姿を醜悪な小鬼へと変えた。

彼女にいつも仕えている二匹の小鬼は、元は彼女に恋をした天狗である。小鬼へと姿を変えられた今でもおぼろげに残る恋心から彼女の元を離れられずにいる――そういう噂がある。本当のことかどうか、恐ろしくて誰も彼女に聞いたことがないけれど。

 月見はいつものように小鬼を二匹、引き連れて歩いていた。無言で地下牢の廊下を歩く。ゆらゆらと三つの影が動いていく。囚人たちが何か問題を起こしていないか、確認しながら歩く。鉄格子の向こう、囚人たちは、月見と小鬼たちの気配を感じると、さっと体を強張らせた。あるものは真面目な書物を開きよみふけっているふりをし、あるものは瞼を閉じて寝ているふりを始める。

 月見は足の爪先に何か硬いものがコツンとあたるのを感じて、下を見た。灯りを足元に近づけて、それを見る。きらりと、紫色に何かが光った。拾ってみれば、光る石だった。――紫色の宝石、アメジスト。

 頭の中に大きな疑問符が生じる。こんなものがどうしてここに落ちているのだろう。見れば、両脇の小鬼たちも何やらそわそわしている。蛆虫が這う濁った眼球で、月見の方を見上げて、鼻をひくひくさせている。何かがおかしいと訴えている。

「月見さま!」

 声がした。薄暗い前方の空間から、ぬっと一人の小柄の天狗が現れる。走ってきたのか、息が切れている。右手に、妙に鼻の低い天狗のお面を持っている。

「月見さま! 泥棒です! 泥棒が入りました!」

「泥棒?」

 月見は綺麗な眉をくいと吊り上げた。小柄な天狗は高い声で「宝石泥棒です! 偽の天狗のお面をつけて侵入したんです! お面はわたしが取り上げました!」と言った。

「どこに」

 月見が問うと、小柄の天狗は「こっちです」と言って、月見を奥へと誘導した。いくつかの鉄格子を通り過ぎたところで、一人の男が倒れているのを見つけた。

 着ている服も、顔も煤で黒く汚れている。――外からの侵入者か。

「これが泥棒ですって?」

「はい! こいつのポケットからたくさん宝石が見つかりました!」

 宝石を持っているということは、貨物列車に乗り込んでいたということか。月見は腑に落ちないものを感じながら、倒れている男に近づいた。

 顔を見ようとかがみ込んだところで、男の目がパチリと開いた。丸い黒い瞳が、月見の瞳を覗き込む。互いの動きが一瞬止まる。

 先に反応したのは男の方だった。

「うわあ!」

 と声を上げて、目のまえの月見を突き飛ばした。突き飛ばされた月見は尻もちをつく。手にしていたカンテラはカランと床に転がる。「月見さま!」と小柄な天狗が高い声で叫んだ。僕の小鬼二人は、慌てたようにぎゃあぎゃあとわめいている。

見れば、男はまだあどけない子供だった。背はひょろりと高く子供と言うには高すぎるものの、顔立ちがまだ幼い。青年と呼ぶよりも、少年と呼んだ方がしっくりくる。

少年は勢いで月見のことを突き飛ばしたものの、状況が呑み込めていないようできょろきょろと首を動かしている。

こいつが宝石泥棒だって?

二匹の小鬼が相変わらず両者とも、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。先日、うつし世の書物を見つけた時と全く同じようにぎゃあぎゃあと騒いでいる。月見は考えるまでもなく、悟った。この宝石泥棒は、うつし世からの使者――ストレイシープではないか。

そうと分れば、手加減など必要なかった。月見は、小鬼たちに命じて、立ち上がりかけていた少年を地面に押し倒し、拘束した。小鬼たちは、くさいくさいと喚きながらも、月見の命令に忠実に遂行してくれる。二匹の小鬼に両腕を掴まれた少年は、みっともなくじたばたともがき――ぽん! と大きな音がした。煙玉だ。一瞬にして黙々と煙が上がり、虚を突かれた小鬼たちが尻もちをつく。そのすきをついて、少年が逃げようとする気配があった。煙玉でも使ったらしい。

頭に血が上った。月見は、ぼうっと突っ立っていた小柄の天狗を叱責すると、煙をかき分けて、宝石泥棒を追った。

本当の目的は宝石などではないはず。おそらくは囚人との接触。――あの罪穢れのある少女に会いに来たに違いない。

月見が指をパチンと鳴らすと、指先から白い閃光がとんだ。閃光は壁に衝突して、散った。代わりに、壁からは小さな蠅がぶんぶんと湧いてきた。汚い光景に月見は顔をしかめる。

月見はまたパチンと指を鳴らした。逃げる少年の頭のわきの壁に、白い閃光が衝突する。壁から黒ずんだ蟇蛙がゲコゲコと産声を上げ、ぴょんと跳んだ。舌打ちをする。またパチンと指を鳴らした。白い閃光がまた外れて壁にあたる。今度は、砕けた壁から三角耳の蝙蝠が耳障りな泣き声を上げて生まれ、バサバサと月見のすぐ横を通り過ぎていった。

パチンと指を鳴らした。白い閃光は、前を行く少年の背中に当たった。少年の身体がぐらりと揺れたかと思うと、ぱっと消えた。見れば、そこにペタンとしているのは少年が来ていた煤けた衣服だけだった。少年はどこかへ消えてしまった。――いや、背中の辺りにこんもりと握りこぶしくらいの山がある。

どうやら勝負はついたらしい。月見は額に滲んだ汗を手の平で拭った。

こんもりとしていた山はちょろちょろと動いて、肩の方へ、そして腕へと移動した。細い袖のところから出てきたのは、一匹の灰色の鼠。あら、可愛い姿になったこと。月見はにこりと笑う。こんな可愛らしい姿になっては、もうわたしたちに――この土地の平和に危害を加えられないだろう。

二匹の小鬼たちは置いてきてしまった。振り返れば、小柄な天狗がおろおろとした瞳でこちらに向かってくるところだった。

「つ、月見さま。あ、あの良かったらこれ、月見さまに。月見さまの瞳の色によくお似合いで」

 天狗は明らかに月見に怯えている様子で、声が震えている。差し出してきた手の平も同様に震えていて、その掌にはなぜか紫色に光る宝石がのっている。

「いらないわ。そんなもの。ほしかったらあなたが持っていなさい」

 宝石を差し出してきた天狗の意図が全く分からない。月見の機嫌を取ろうとしたのかなんなのか。そんなもので月見の機嫌が左右されるはずがないのに。

「あなたは何も見ていない。いいわね?」

「はい。わたしは何も見ていません!」

 びく、と震えたような動きをした後、天狗は高い声で、はきはきとそう言った。

 月見は、天狗に後片付けを命じると自分は立ち去った。

鼠に変えてもなお、うつし世からの使者が脅威となることはないだろう。少し残酷なやり方だったけれど、この土地の平和を維持するためには仕方がないことだった。うつし世の匂いは誰にとっても、毒となるだから。


 ◇


 頬に固く冷たい感触がある。右腕をだらりと投げ出すようにして、仰向けになっているのが分かる。分かるのだけれど、身体に力が入らず起きる気にもならず、そのままぐったりと横たわっていた。右腕がまだ熱を持ったように疼いている。物音がして、かなめは目を開けた。

 鉄格子の向こう、すらりとした人影が現れる。まとまらない意識の中でこいつは誰だ、と考える。正義ではないことはその気配で、その足音で分かった。彼はどこに行ってしまったのだろう。左手の先には、花をつけた木の枝が空しく転がっている――正義くんが持ってきてくれた、大切な花なのに。

「君の様子がおかしいと聞いたから、具合を見に来た」

 言葉だけ聞けば優しいが、冷たく感情のない声がした。顔を確かめなくても誰だか分かる。ねぎが、あの機械人形のような男がかなめを見下ろしていた。

「天狗がやったのかい、その罪穢れの手当ては」

 かなめは、顔だけ動かして右手を見た。右手にはなにやら厚手の白い布がかぶさっていた。巻かれているわけでもなく、ただ覆っているだけだ。確かにぼんやりとした意識の中で天狗の一人が牢屋に入るでもなく、白い布を投げるように落として足早に去っていったような記憶がある。

「起きられる? もっとちゃんとした手当をしないといけない」

 かなめは立ち上ろうと、肘を曲げようと無意識に右腕を動かした。激痛が右腕から全身を電流のように駆け巡り、うめき声がもれた。左の掌を床につき、起き上がろうとした中途半端な姿勢のままうなだれる。

 鉄格子の錠を開ける音がした。そっと男が入って来る。かなめはその時になって初めて、彼の足元に黒いフードをかぶった小さな人が二人ほどいるのに気が付いた。手に四角い箱を持っている。その小人――小鬼たちが牢屋に入るとぷんと異臭が漂ってかなめは顔をしかめた。

 ねぎがかなめの右手にかぶせてある白い布をはぐった。痣の様子を見ているらしい。それから彼は小鬼の一人から箱を受け取ると中から瓶をとりだした。瓶の中の透明な液体を白いガーゼに染み込ませている。

「少し痛いかもしれないけれど、我慢してほしい」

 ねぎがガーゼをかなめの右腕の痣の部分にあてがった。焼けるような痛みが走った。思わず叫び声を上げた。先程感じた痛みをぎゅっと凝縮したような痛みに目の前がくらむ。かなめの叫び声に驚いたのか、小鬼たちがぎょっとした様子で飛び上がり、喚きながらかなめに襲い掛かってきた。ねぎが「馬鹿、止まれ」と制止しようとしたが、小鬼の一人が後ろから押すようにどんと彼にぶつかった。――その拍子に、彼の右手がかなめの腕の痣にかすかに触れた。

 触れた瞬間、ねぎが痛みを感じたとでもいうようにのけぞり、かなめから身体を離した。彼の背ががんと音を鳴らして鉄格子に当たり、小鬼たちが驚いたように飛び上がった。かなめはまだ焼けるような痛みの余韻を感じている中、そのおかしな様子に目を見張った。ねぎは鉄格子に背中を預けて、呼吸を乱して、顔を下へ向けている。


 彼の頭の中に一つの情景が湧き上がる。同時に、たえがたい感情が胸の奥底から湧き上がって来て、五官を支配する。それは孤独感だった。息がつまりそうな閉塞感だった。目の前に銀色の鈍く光るものがちらつき始める。情景は急に鮮やかになり、細部まで見えてくる。目の前にあるのは、流し台だ。ところどこ水滴がついていて、白い汚れも見える。匂い、息づかいさえ聞こえてくる。生徒の話声、笑い声、足音――場所は学校だった。

 自分は口元をぬぐうと、鏡を見た。青白い、幽霊のようにやつれた顔が見返していた。洗面台の縁に手をついてうつむく。先程吐いたばかりなのに、まだ喉の辺りに何かつっかえているような感じがする。縁に手をついて吐き気の波が収まるまでじっとしていた。近頃体調のすぐれない日が続いている。

 廊下に出るとすぐに、自分の名を呼ぶ声がした。自分が出てくるのを待っていたかのようなタイミングだった。

見れば、少女が笑いかけている。年の割に幼い雰囲気を持った少女。自分を見て嬉しそうに笑むその姿を見て、みぞおちのあたりが変にひきつった。幽霊のような自分の顔を見せちゃいけないと思った。ねえねえと呼びかけてくるにも構わずうつむいた。

 ちょうど自分の横に立った彼女は、手に何か黄色い紙を二枚持っていた。その紙をひらひらとさせて、見て見てこれもらっちゃった、と言って、自分に見せた。その紙には最近流行りの歌手の名前が書いてあるようだった。コンサートのチケットらしい。それを手にして彼女は、自分に、一緒に行こうよと言った。なぜかその笑顔に、その言葉に、みぞおちのあたりがぎゅうと圧し潰される。自分は笑みを作って、その日はバイトだからいけないと伝えた。そして、また下を向いた。最近自分は、なぜか彼女の目をじっと見ていられない。その目の明るさに耐えられない。心を見透かすような、見透かそうとするような瞳。けれど自分の心は彼女に見せちゃいけない。自分の心は汚れているから。皆の明るい笑い声を聞くと耳をふさぎたくなる。

下から覗き込むようにして彼女が自分の顔を見た。顔色悪いよ、と彼女が言った。自分が顔を上げると、黒目の大きな瞳とぶつかった。その黒目の主はじいと恐れることなく自分を見ている。彼女は年の割に幼い顔立ちをしている。そしてそのことにいくらかコンプレックスを抱えていることを自分は知っていた。鏡を見ては、ねえ、この八重歯、治した方がいいかな子供っぽいよねと言って、自分に意見を求めた。彼女は、豊かな感情と豊かな表情を持った明るい子だった。昔から彼女と一緒にいることが好きだった。自分とはあまりにもかけ離れたその無邪気な感じが神聖なもののように思えたくらいだった。

 それなのに、チケットを手にして自分の顔を心配そうに見つめる彼女との間に、今は奇妙な溝がある。他のクラスメイトに対してと同様の埋めがたい、深い深い溝がある。昔はこんなんじゃなかった、いったいいつから自分はこうなったという思いが腹の中でとぐろを巻いている。彼女が、ねえ大丈夫と心配そうに自分に声をかける。


 ねぎは肩で息をするようにしばらく呼吸を乱していたが、やがて落ち着くと、低い声で「お前たちは外に出ろ」と小鬼に指図をした。指図されるままに、小鬼たちがそろそろと牢屋の外に出る。ねぎは小鬼たちが入って来られないように、錠をおろすと何事もなかったように平然とした様子で、またかなめに向き直った。その顔はいつにも増して蒼白い。

「失礼した。ちょっと眩暈がして……。君の手当てを続けよう。あんまり痛いようだから薬は少し薄めるよ」

 そう言うと、箱の中から道具を取り出して先ほどの瓶の液体と何やら混ぜている。かなめは半ば気圧されたような思いでその様子を見ていた。再び、ガーゼが当てられた時は、わずかに顔を歪めるほどで、先ほどの燃えるような痛みを感じることはなかった。

 淡々と手当をしているねぎを見ながら、かなめはぼんやりと思った。そう言えば、この罪穢れとかいうのは――このうつし世の呪いは、周りのものに感染することがあるのだ、とこの男自身が言っていたな、と。



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