欠けた月の夢を見る

未定

1.お面の街

(川田正義のはなし)


 気が付くとわたしは暗いところにいた。

 真っ暗闇の中、ぐるりと見渡してみると、一つだけ、遠くに小さな光があった。暗幕を針で突っついたかのような小さな光。わたしは吸い込まれるようにその光を目指して歩いた。光が少しずつ大きくなる。わたしは救いを求めるようにして、光の方へと足を動かす。

 近付いてみれば、それは太陽だった。しかし不思議なことに、その太陽には――目と鼻と口がついている。怒っているでも笑っているでもなく奇妙に無表情な顔をした太陽が、そこに佇んでいた。

 そして、その奇妙な太陽の下には、幼い女の子が座っている。太陽の光に負けないくらいに燦々と光る黄金色の髪を持つ女の子が座っていた。

異様な光景を目の前にして、わたしは閃いたように思った。

――かみさまだ。

 つまり、ここはあの世。――天国だろうか、地獄だろうか。ぼんやり考える。

 わたしがじっと見つめていると、女の子の目がすうと細くなり、口角がわずかにあがった。そして――微笑みながら言った。まるで歌うような口調で。

「お月様が落っこちた。西の空からドボンて落っこちた」

え、何て? 

ふいにシャンシャンシャンシャンと音がした。同時に地面がぐらぐらと揺れて、わたしは倒れ込んだ。――シャンシャンシャンシャンという音が大きくなる。耳元で鳴っているのかと思うほど大きくなる。わたしは怖くなってぎゅっと目をつむった。揺れが収まった。しばらくして――顔を上げる。

 わたしをぐるりと囲うように天狗たちが立っていた。赤い顔に突き出た長い鼻を持つ奇妙な姿。前を見ても、右を見ても左を見ても、天狗天狗天狗。天狗たちはぎらぎらした目でわたしを見ている。恐怖で喉がしまった。

天狗たちが大きな声で言った。

「新しい顔、綺麗な顔、どんな顔?」

 ――あたらしい、かお?

「新しい顔、綺麗な顔、どんな顔?」

 天狗たちの責め立てるような声が響く。また、シャンシャンシャンという音が鳴る。見れば、天狗たちが鈴のついた杖を持っていて、それを地面に何度も打ち鳴らしている。シャンシャンシャンシャン。アタラシイカオキレイナカオドンナカオシャンシャンシャンシャンアタラシイカオキレイナカオカオカオカオ――

 やめてやめてやめてやめてやめて。耳障りだからやめて。わたしは耳を塞いで目をつぶった。

 思い出す。――「ニシダサンッテサ」ゆるくウェーブのかかった茶髪。リップの乗った赤い唇。「オトコノマエダケブリッコダヨネキモインダケド」三人の女子生徒が鏡の前で化粧をしながら笑っている。「ネー、ホントシネバイイノニ」ちらりとこちらを見る。目が合った。わたしは視線を落とし、足早に通り過ぎる。わざと聞こえるような声で。「アー、メガクサルー」廊下に響く、三人の笑い声。話したことのないクラスメイトまでわたしを見て、くすりと笑った。

 顔を上げた。「わたしは」口を開く。

「顔なんて、ほしくない」

 シャンシャンシャンシャンという音が止まった。


 はっとして目を醒ました。何だろう今の。気味の悪い夢だった。いや、夢だったのだろうか。少女はぼんやりする頭で考えた。顔のある異様な太陽と女の子、怖い顔をした天狗たち、シャンシャンシャンという耳障りな音――奇怪な情景が頭の中でぐるぐると入り乱れた。なんだか気味が悪くて訳が分からない。

 少女は一人、暗闇の中、膝を抱えた。足の裏と尻に冷たい石の感触を感じる。どこかから呻き声のようなすすり泣きのような声が聞こえる。こつこつこつこつ。遠くで誰かが歩いている音がする。


 ここはどこだろう。どうしてこんなところにいるのだろう。まだ夢から醒め切らないぼんやりとした頭で考える。きょろきょろとしたが、暗闇に目が慣れず何も見えない。灯りが欲しくなり、携帯電話はどこだろうと考えた。暗闇の中、手探りで何かないかと探したが、携帯電話も鞄も何も見つからなかった。ただ冷たい壁に囲まれていた。それと――何か冷たくて固くて細いものが手に触れた。目の前に、垂直に突き立てられた鉄の棒がいくつもあるようだった。一本、二本、三本、四本、五本――均等な間隔で鉄の棒が立っている。鉄格子。まるで牢屋に閉じ込められてしまったみたいだ。

 あれ、と思う。おかしいなと首をひねる。どうしてこんなところにいるのだろう。だって、わたし――西田かなめは、確かに死んだはずなのに。


 ◇


 彼女が学校に来なくなって三日が経った。三日間、誰にも使われなかった机と椅子が寂しくぽつんと西日にさらされている。多くの生徒は、自分のことで頭がいっぱいだからそんな空席目にも留めない。部活の練習、期末試験、気になるあの子のこと、ムカつくあいつのこと――皆、自分を取り巻く環境のことで頭がいっぱいだ。しかし、ある男子生徒だけは、この三日間、ふと気がつけば、その女子生徒、西田かなめの空席をぼんやり見つめていた。

 三日前の朝礼で担任が言った。――西田さんが昨日の夜から行方知れずになっている。何か心当たりのあるものがいれば、速やかにわたしに報告するように。

 教室は、一時、ざわついた。家にも帰らず、学校にも来ないという。「家出」なのか「事件」なのか、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。心配する声も少なからずあった。しかし、そのひそひそも心配も少しずつ減っていき、三日目くらいになると、たぶんちょっとした「不登校」だから気にかけるほどのことじゃないだろうという雰囲気ができあがりつつあった。その席には誰も存在していなかったかのように、ただ淡々と時間が過ぎていった。

 放課後、その男子生徒は少し沈んだ表情で、またその空席を見つめている。そうして、あの席に座っていた女子生徒――西田かなめのことを考えていた。

つい先週までは、毎日のように斜め前のあの席に、西田かなめは座っていたのだ。教壇の方を見る時に、ちょうど彼女の席の方向を見ることになるから、プリントを配る時に目が合うこともあった。――彼女が目を細め、控えめに笑いかけてくれるだけで、身体がじいんと熱くなり、腹の底から不思議な力が湧き上がるような気がした。

なぜだか、もう二度とそんなこと、授業中に西田かなめと目が合って、彼女が笑いかけてくれるなんて――そんなことは起こりえない気がした。

「かーわた、せいぎくん!」

 ぽん、と頭を後ろから軽くはたかれ、正義は西田かなめの空席から視線を外した。声がする方を見れば、にやにやと笑った、調子の良さそうな男子生徒が立っている。きちんと制服を着こなしているのに、ブレザーの第二ボタンだけふらふらと取れかかっている。

「なんだ溝口か。お疲れ。なに?」

 正義の口から沈んだ声が漏れる。はたかれた拍子にずれた眼鏡をなおす。

「なにって失礼だな。お前、昨日部活さぼっただろ。だから迎えに来てやったよ」

 相変わらずにやにやと笑いながら溝口が言葉を返す。正義のテンションの低さなどお構いなしに、近くの椅子の上に尻をのせると、ぺらぺらと喋りつづけた。

「お前最近ぼうっとしてない? 俺が、名前読んでも、気づかないし、席に座ったまま固まってるし」

「そうかな。ちょっと考え事してただけだって」

「へえ? なに、考え事?」

「別にたいしたことじゃないよ」

「なんだよ。あ、好きな子でもできた?」

 溝口はにやにやと意地悪気な顔で見下ろしている。正義は、「別に、そういうんじゃ」と言って、言葉を濁した。

「図星かよ」

 溝口は少し驚いた調子で言う。

「だからそんなんじゃないって」

「ふうん。ま、別にいいけど」

 溝口は、それ以上つっこむ気はなかったようで、声の調子を変えて、再び言った。

「それより部活いくだろ! 早く準備しろよ」

 正義は少しためらい、無意識に例の空席をちらりと見て、それから視線をさまよわせて、

「いや。今日やることがあるから、休むよ。部活」と言った。

「やること? やることなんてないだろ」

「それは」

 正義は口ごもった。お前にやることがあるとすれば、家に帰って漫画を読むかゲームをするかくらいだろう、と調子の好い溝口の表情は言っている。

「今日、母さんの帰りが遅いからさ。食事の用意とかしないといけなくて」

 適当に嘘を吐いた。食事の用意など、正義は一度もしたことがない。

意外にも溝口は、嘘だと思わなかったらしかった。「ふうん。たいへんだな」と、取れかかったブレザーの第二ボタンをいじりながら、相槌を打つだけだった。というか、正義が部活を休む理由にたいして興味を持っていないだけかもしれない。正義は話しを変えた。

「溝口、それより、西田さんのことなんか知らない?」

「は、ニシダ? 西田ってあの例の西田?」

「……他にどの西田がいるんだよ。今日も学校来てないだろ。溝口なにか知らない?」

「知ってるも何も……俺あの子と話したことねえし。ただの登校拒否じゃねえの?」

 溝口の口調が「俺全然興味ないし」と言っていた。

「そっか。ごめん。何でもない」

「あ、分かった!」

 溝口が急に声を大きくした。

「は?」

「お前の好きな子って、その西田って子だろ」

 そう言う溝口の表情を見れば、顔中が今日一番のにやにやで埋め尽くされている。

 正義は、そう言われても思ったほど、動揺しない自分に驚きながら、落ち着いた声で「そうだ」と言った。

 正義が否定すると思ったのだろう――意外な反応に、溝口は拍子抜けしたようで、少し黙った。それから心配げに眉を寄せ、少し低い声で、「お前、本当に大丈夫? そんなショック受けてんの?」と言う。

「だって、行方不明だっていうのに、みんな心配してないから気になって」

「ああ、そりゃ、だってあの子、一年の頃、不登校気味だったらしいし、またかって感じなんじゃねえの。最近少しいじめられてたって聞くし。ただの不登校だろ」

ただの不登校なら、家には帰るだろ。そう思ったけれど、言ったところで、どうにもならないと思ったから、言葉は飲み込んだ。

「西田さんと正義、なんか接点あったっけ?」

「あの子と使ってる駅一緒だったからさ。何回か話したことあって」

「あー、確かに、お前が西田さんと喋ってるの見たことあるわ。まじ奇妙だったぜ」

「奇妙で悪かったよ」

 正義は口をへの字にした。溝口のいう奇妙というのは、普段女子と全く話さない正義が女子と話していることが不可解だったという意味だろう。

 溝口は、明日の数学のテストがだるいだとか、隣の席の男子生徒の自慢がウザいとか好き勝手ぼやくと、「んじゃ、また明日!」と言って、さっさと支度を済ませ教室を出ていこうとした。

正義はふと思いついた。

「溝口、幽霊っていると思う?」

 教室から出ようとしている後ろ姿に、そう投げかけた。

「なんだって⁉」

 聞こえていたけど聞き返したのか、それとも『幽霊』という単語に耳を疑って聞き返したのか――たぶん後者だろう、溝口は素っ頓狂ともいえるほど大きな声でそう言った。その表情は、「お前ほんとうに調子がおかしいぞ」というふうに眉が顰められている。

「いや、ごめん、なんでもない」

 正義はおかしな質問をしたことを後悔して、あわてて取り消した。

 溝口は特に返事をせず、眉をひそめたまま少し正義を見ていたが、腕時計をちらりと見ると、正義にこれ以上構うのはもったいないと判断したのだろう、「んじゃ」と言って、去っていった。

正義は、教室に一人取り残された。気が付けば、他の生徒も出ていたため、本当に一人だった。幽霊がいると思うか、だなんて、馬鹿なことを言ってしまったと思う。けれど、一人で抱えるには大きすぎる疑問が正義の中では渦巻いているのだった。

 黒板の上、ちくたくと、時を刻む時計を眺める。こうしている間にも、こうしてただぼんやりとしている間にも、彼女の身には何か恐ろしいことが起きているのではないか。

正義は急いで、荷物を積めると、教室を後にした。

 心当たりが――そう、ないわけではない。あまりにもぼんやりとしているけれど、それでも縋るものがそれしかないのなら、縋るしかない。

 正義は電車に乗ると、揺られながら考えた。西田かなめとの出会いから思い返していた。


西田かなめはクラスの中で浮いていた。というより、虐められていた。

何がきっかけだったのかは知らない。正義には女子の考えていることなどわかるはずもないし、女子同士の確執など考えるだけで頭がくらくらする。

西田かなめが虐めを受けていうることに気づいたのも、きっとクラスでは遅い方だっただろう。正義は彼女が昼食を一人で食べているところを見ても、ひとりでいることが好きな子なんだろう、くらいにしか思わなかったし、休み時間にずっと本を読んでいるのを見ても、やっぱりひとりでいることが好きな子なんだろう、くらいにしか思わなかった。自分は呆れるほど鈍感なんだろうと思う。

そんな鈍感な自分が、どうして彼女が虐めを受けていると気付くようになったのか。

それはおよそ二か月前、夏が終わり、皆が冬服を着始めた季節だった。場所は、駅のプラットホーム。朝、七時を過ぎたころ。

あの時のことは鮮明に覚えている。いつもより一〇分寝坊をした。だから、走って駅の階段を駆け上った。プラットホームに降りて、いつもの乗車口に着いた時、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。

「黄色い線の、内側までお下がりください」

正義は無意識に、黄色い線に目を落とした。顔を上げたその時、視界の端で何かがゆらりとした。何だろう、と思って、そっちを見ると、二つ向こうの列に並んだ女子学生の様子がおかしいようだった。列の一番前、彼女は真下に目線を落としている。目線を真下に、足を前に出しては、ためらうようにゆっくりとひっこめている。不自然な動きだった。

よく見れば、正義と同じ学校の制服を着ている。

その女子生徒の近くに数人、スーツ姿の男性が立っていたが、皆、携帯か文庫本に目を落としていた。危なっかしい動きをする女子生徒のことは気にも留めていない。

あんなに、プラットホームの端に立っていたら危ない。正義は、なにか嫌な予感を感じて、その女子生徒の方へと近づいた。近付いて初めて、彼女が同じクラスの西田かなめだと気が付いた。遠くの電車が近づいてくる音がした。視界の端、電車の先端が見え始めた。西田かなめの足は前に動いていた。正義は焦り、走り出した。

西田かなめの細い足がすっと前に出る。あと一歩踏み出せば、ホームから落ちる。電車が近づいてくるガタンガタンという音がホームに響きわたる。

卓球部で鍛えた反射神経が役に立ったのかもしれない。それに彼女の動きが緩慢だったことが救いだった。

西田かなめの右手を掴んだときには、その体は完全に、ホームから落ちそうなほど、前に傾いていた。正義はそれを思いきり後ろに引っ張った。ドシンと尻もちをつき、電車が物凄い音を立てて目の前を通り過ぎた。背中は冷や汗でぐっしょりと濡れている。ほっと一息つくと、足ががたがたと震え始めた。「大丈夫?」ときこうとして、西田かなめが隣で死んだように仰向けに横たわっていることに気づいた。彼女はただ眼を不自然に見開いて、宙を見ていた。

それから彼女はゆっくりと起き上がり、膝を抱えると、大声で泣き始めた。子供のように声を上げて泣いた。正義は、どうしていいか分からず、途方に暮れるしかなかった。大人たちが集まって来て、西田かなめを介抱した。

正義の目には、耳に、その時の西田かなめの様子は鮮烈に焼き付いた。ホームから落ちようと傾いた身体、華奢な右腕、虚ろな瞳、幼い子供のような泣き声――。

それがおよそ一か月と半月前の出来事だった。今でも時々思い出す。目の前で人が飛び降りようとしている恐怖を思い出して、ぞっとする。

その一件は特に学校の生徒に知らされることはなく、だから、そこでできた川田正義と西田かなめの繋がりも、周りの生徒の知らない事実となった。何事もなかったかのように毎日は続いた。西田かなめが学校を欠席したのは、その一件があった日だけで、翌日から普通に登校した。駅で大泣きしたとは思えない、平然とした顔をしていた。少なくとも正義にはそんな表情に見えた。

もし助けたのが正義でなかったら、例えば、お調子もので女子にも気安く話しかけられる溝口だったならば、廊下ですれ違った時に何か気の利いたことを言えたのかもしれない、と思う。しかし、自分は何を話しかければいいのか全く分からなかった。いっそ、駅でのことは全く触れずに、いきなり天気の話でも持ち掛ければよかったのかもしれない。また駅で出くわしたときに、何気なく「今日は寒いね」とか何とか。ただその時、正義は、自殺をしかけたクラスメイトにどう接していいかまるで分らなかった。

それでいて、それまで気にも留めていなかったのに、西田かなめのことがやたらと気になるようになった。無意識に、目で追うようになった。西田かなめはやや小柄で、色が白く、アーモンド形の綺麗な目をしていた。さらさらの髪は肩につくくらいで、他の生徒に比べ茶色がかっていた。染めているのかもしれないと思った。落ち着いていて、どこか大人びた雰囲気があった。

西田かなめが一人でいることが多いことは前から知っていた。唯一、持っていた印象が、『一人でいるのが好きな子』だった。駅での一件以来、その印象が変わった。西田かなめは一人でいるのが好きなのではなくて、ある女子のグループから露骨に除け者にされているのだと知った。クラスで一番目立つグループが、昼休みにあたりをはばからない声で、陰口をたたいて盛り上がっていた。卑猥な単語もいくつか聞こえた。そんな時に、たまたま廊下を歩いてきた西田かなめが、その陰口を聞いて足を止めた。そして、足早に通り過ぎると、ロッカーの方に向かって歩いて行った。教室に戻ってきたとき、彼女の目の縁は少し赤くなっていた。

正義は、『正義』という大そうな名前を持っていながらも、こんな時に、どうすればいいのか分からない腑抜けだった。


駅での一件から、二週間くらい経って、たまたま二人きりになる機会があった。放課後、部活に行く前、忘れ物をしたと気付いて正義は教室に戻った。教室に入ると、そこにいるのは西田かなめだけだった。彼女は窓の外を見ており、こちらには背を向けていた。その姿を見て、正義は少しドキリとした。足音を聞いた西田かなめが振り向いた。目が、合った。

「や、やあ」

 沈黙するのもおかしいなと思って、何が「やあ」なのか分からないが正義は挨拶をした。

 西田かなめは黙って、じっとこちらを見ていた。自分は何かしくじっただろうか、と正義は内心焦った。「やあ」なんていう挨拶、ダサすぎただろうか。

「もうしないよ」

 西田かなめは言った。陽の光を背にした彼女は、いつにも増してきれいに見えた。その茶色の髪と、窓との境のところがきらきらと黄金色に光っていて、見惚れてしまった。正義がぽかんとした表情をしていると、彼女は言葉を重ねた。

「飛び降りると思ったんでしょう? ここから」

「え? こ、ここから?」

 西田かなめは窓の近くに立っていた。そうか、自分が彼女を見た時にどきりとしたのは、それが原因か、と初めて気づいた。

「もうしないから、安心してよ」

 西田かなめが言葉を発しているところ――「はい」とか「どうぞ」とか、授業中の「わかりません」とかそういう言葉以外で言葉を発しているところを初めて見た。こんな話し方をするのだ、と思った。意外とさばさばした、どこか気の強そうな喋り方だった。

「そっか。それは……うん、安心したよ」

 正義はとりあえず笑っておこうと思い、へら、と笑みを浮かべた。

「ねえ、まだお礼言ってなかったよね」

「い、いいって、そんなの」

「ありがとう」

 西田かなめは正義の眼を見てそう言った。少し微笑んでから、眼を伏せた。正義はどう言葉を繋ごうかと考えた。正義は女子を相手にすると、途端に口下手になる。正義がまごまごしていると、彼女はまた身体を窓の方へと向けた。

「時々ね、無性に飛び降りたくなるの。身体がふわっとして気持ちいいかなあって。でも、もう辞める。うん。……それに、ここからの高さだと、ただ怪我するだけだね」

 独特な話をする子だと思った。正義はとりあえず調子を合わせる。

「うん、ここは二階だから。僕が飛び降りるんなら……屋上に、行くかな」

「ふうん。でも屋上って鍵かかってるってきいたよ。どうやって行くの」

「鍵なら職員室にあるし。部活で使ってる倉庫の鍵を取りに行くふりして、屋上の鍵をとってもバレないよ」

「へえ、川田くんてワルなんだ。意外だな」

 こちらを振り返った、彼女の目と口元が茶目っ気を帯びる。川田と名を呼ばれたことに、どきりとした。名前を知ってくれていたことに、少し驚く。いや、クラスメイトだから当たり前なのだけど。

「ワル? いや、ワルじゃないよ。え、ワルに見える?」

 正義はあわあわと言葉を返す。『見えるはずないだろ』と自分に突っ込む。かなめは、くすりと笑って視線を再び窓の方へとむける。

 沈黙が落ちる。何か言おう、と思う。でも何を言えばいいのだろう。ここでいきなり天気の話をするのは変だろうか。変だろう。かなめはしきりに窓の外を見ている。「何かおもしろいものあるの?」ときこうか。いや、何か面白いものを見ているわけじゃなかったら、その後の会話が続かない。正義は、女子を相手にするとこんなふうに、まごついてしまう。

「あの噂ね、本当のことじゃないから」

「噂?」

「うん、あたしが二股してたって噂。あれ、嘘だから」

 正義が友人から聞いたのは、『三股してたらしいぜ。自業自得だよな』だったが、もちろんそんなことをわざわざ教えたりしない。

「ああ、あれね。うん……ちょっときいたことあるけど、信じてないよ。下らない噂だよ」

 正直に言えば、正義がその噂を始めて聞いた時は、信じかけた。確かにかなめはよく一人でいることが多いが、綺麗だったし、他の女子生徒に比べて大人びていたから。なるほど三股していたのか、と思った。まるで自分とは違う世界の出来事だ、と感じた。しかし、そんな風に思っていたのは、あの時の前の話だ。駅のホームから飛び降りようとしているのを見てからは、そんなふうには思わなくなった。

 正義が、クラスの女子たちを観察していて感じたのは、西田かなめに対する女子の嫉妬だった。西田かなめももしかしたら、何かちょっとした間違いをしたのかもしれない。そのあたりのことは知らない。しかし、そのちょっとした間違いに、汚い尾ひれをいくつもつけて言いふらす、その背後にあるものは女子の嫉妬なのだと正義は気が付いていた。

「あのさ、なんていうか……クラスの女子はきっと、西田さんに妬いてるんだと思う。その、なんていうか、西田さんって特別な感じがするから」

「特別?」

 かなめが振り向く。黄金色の髪が風でふわりとふくらんだ。アーモンド形の綺麗な瞳が正義のふらつきかけた瞳をとらえる。その瞳に見とれて、正義の口は勝手に動いた。

「うん、西田さんは、うちの学校で一番、綺麗だから」

 言ってから、数秒経って、自分の言った言葉の意味に気が付いた。驚愕した。

口下手は度が過ぎると、極端なことを口走ってしまうらしい。正義は自分が言った言葉の始末がつけられずに、ただ茫然としてかなめのことを見つめていた。もちろん思考は停止している。

 西田かなめの頬がさあっと赤くなった。それを見て、我を忘れていた正義の頬にもぐんぐん血が昇り始める。

 かなめが赤い顔のまま、目を細めて笑った。「川田くんて、面白いこと言うんだね」と言って笑った。その笑顔を見て、正義の顔はますます赤くなる。始末がつけられないほど、赤くなる。

「え、面白い? 面白いことを言ったつもりは」

「面白いよ。じゃなきゃ変。変だよ」

「変かな」

 会話はいったん途切れる。かなめはまだ少し赤い顔をしている。正義はもっと赤い顔をしている。むずがゆいような時間が流れ――かなめが口調を少し変えて言った。

「あたしって変人だって知ってた? よく言われるの、変わってるって」

 正義は少し戸惑った。そんな言葉は変化球だった。

「……でも僕だって、メガネとかオタクとかいろいろ言われるよ」

「メガネオタクよりは変人って言われる方がましって思う?」

「うん、ましだよ。全然まし」

正義の顔は大まじめだった。頭の中は、自分は何かおかしなことを言ってないだろうか、彼女を不愉快にさせていないだろうか、という思考で埋めつくされている。かなめはそんな正義の心中に気づいているのか気づいていないのか、どこか愉快そうな眼をして彼の顔を見つめた。少しの間をおいて、彼女がぽつりと言った。

「なんかちょっと元気出たかも」

 かなめは、目尻にくしゃりと皴を寄せて笑った。子供のように無邪気な笑顔だった。こんなふうに笑うのだと思った。心臓を射抜かれたような気持だった。

もっと彼女のことを知りたいと思った。


 その無邪気な笑顔を見せてから今日まで――まだ二月も経っていない。


正義が自分の名前を嫌いになったのはいつからだろう。なんてださくて冴えない名前なのだろうと思い始めたのはいつからだろう。

昔はこの名前が好きだった。格好いいとさえ思っていた。テレビに映る正義のヒーロ―を見ては、自分と重ね合わせて誇らしい気持になった。

小学校高学年くらいになると、視力がぐんと落ちてきたのが原因で――おそらくゲームのやりすぎで――分厚いレンズのメガネをつけることになった。そして、運動嫌いがたたって、体重が増えて顔が丸くなった。鏡を見れば、眼鏡をかけた、ぽっちゃり気味の冴えない少年が見返していた。それでも、まだ正義という名前が好きだった。

思い出したくもない。中学一年生、新しいクラスでの自己紹介の時だ。正義が名前を名乗ると――隣の女子が、吹き出したように笑った。わざと吹き出したわけではないようで、吹き出した後、全く何事もなかったかのようにつんと澄ましていた。

その女子は、明るく社交的で、割と綺麗な顔立ちをしていた。別に正義のことを嫌っている感じでもなかった。感じのいい子だった。ただその子が、正義の名前をきいて、こらえきれないように笑ったのだ。――きっと、それくらい名前が似合っていなかったから、無意識につい。

正義はそれ以来、女子と話すのが怖くなった。男子になら普通に話せるのに、女子が相手となると途端に無口になってしまった。そうして、自分の名前が呼ばれるたびに嫌な気持になった。どうして正義なんて言う名前を付けたんだろう、と親を恨んだ。

中学校生活が進むと、部活の練習に休まず参加していることもあってか、体重は落ち、背もうんと伸びた。鏡を見ることがそれほど苦ではなくなった。ただ分厚いレンズのメガネだけはどうしても野暮ったい。

軽い女子恐怖症は相変わらず続いていた。中学に入ってからは、女子と会話した回数なんて、きっと片手で数えられるくらいだった。


「ねえ、川田くんは、自分の名前好き?」

 駅のホームで、電車を待っている時、隣に立つかなめがふいにそんな質問を投げかけた。それは、あの放課後、「ちょっと元気出たかも」と言ってかなめが笑顔を見せてから、一週間ほどあとのことだった。あの会話以来、正義とかなめは帰り道に駅で鉢合わせすると言葉を交わすくらいの仲になっていた。

「え? いや、正直あんまり。川田ってありふれてるし」

「そっちじゃなくて、下の名前」

「正義?」

 正義は顔をしかめて、首を振った。

「ぜんぜん」と言った。

「好きじゃないの?」

「好きじゃないよ。正義なんて……ださいよ。もっと普通の名前が良かったなって思う」

「普通の名前って例えば?」

 正義は首をひねった。

「何だろう。……タケルとか、ハヤトとか」

 適当に友人の名を上げた。かなめはおかしそうに声を上げて笑った。

「そんな名前、似合わないよ。あたしは正義って言う名前の方が好きだな」

「そう?」

 正義は目を丸くして聞き返す。

「うん。似合ってるよ。ぴったり」

 かなめはそう言ってにっこり笑った。その頬は、ほんのり赤くなっていた。

正義はこの瞬間から自分の名前に新しい意味を見出したような気持になった。正義という名前が急にぴかぴかと光り始めたように思えた。

そんなかなめが――学校をまた休むようになった。

 溝口の言葉を思い出す。『不登校気味だったし、またか、っていう感じなんじゃねえの』と彼は言った。正義はやるせない気持ちでいっぱいになる。自分では、やはり役不足だったのだろうか。かなめの話し相手になることで、少しでも、心の支えになれているのではないかという自惚れを抱いていたことを恥ずかしく感じた。


 三〇分ほど揺られて、正義は電車を降りた。改札を抜けた。足早に通り過ぎていく人たちが皆、ひどく呑気で平凡な人たちのように感じられた。少女が一人失踪したことなど自分以外の誰も気づいていない。気にしていない。

日は傾き、空はオレンジ色に染まっていた。空気はひんやりと冷たい。手をこすり合わせる。心臓が不思議とどきどきと高鳴っているのを感じた。歩き始めた。


正義には、一つ気がかりなことがあった。それを確かめようと思っていた。溝口に対していった部活を休む口実「今日はやることがあってさ」というのは、何も出まかせと言うわけではない。――そう、心当たりはないわけではない。

 正義は、ちょうど西田かなめに似た人影を何度か見かけたのだ。西田かなめが学校に来なくなった、ちょうど二日前から。



 誘拐されたのだと思った。ここは怪しげな教団のアジトか何かで自分は人質だか生贄だか何だかで――それで囚われているのだ。ただおかしいのは、身体のどこも痛くないということ。怪我をしていないということ。血が出た痕跡も何もないということ。おかしいなと首をひねる。

 確かに自分は飛び降りたのに。足を踏み出した時の、もう引き返せないという気持ち。安堵と後悔がごちゃ混ぜになった気持ち。そして風を切った感触。空が遠のいて、地面が迫って来ると感じた時に思った。どうしてもう少し頑張れなかったんだろう。

静寂を破って、かつかつと足音が響いてきた。気分が沈んだ。またあいつがやって来たらしい。あのいけ好かない、赤い天狗のお面をつけた看守が。

「おい、罪穢れの娘! お前、また飯を全然食ってないじゃないか」

 そいつは鉄格子の向こうで立ち止まり、きーきー声を出した。彼の足元には、かなめがほとんど手を付けていない料理が銀食器にのっている。

 かなめは顔を上げて、その看守を睨みつけた。なぜかこいつはいつも顔にはおかしなお面をつけている。赤く、鼻がぬっと棒のように飛び出ている奇妙なお面。たぶん、天狗。

 そういう決まりのある、いかれた団体なのだろう。

「だって食欲がないの。それにまずいし」

 かなめは、疲れからか、自分でも驚くほど投げやりで攻撃的な口調になっていた。

「いちいち、食べたかどうか確認しに来るのやめてくれる? その変なお面もほんと気味が悪い。それで食欲が落ちてるのかも」

 鉄格子の向こうで天狗が地団太を踏んだ。

「その口のきき方は何だ。そこから出てきたらおぼえてろよ。まあその前にこのままだと、ここで飢え死にするだろうがな」

天狗はそう言ってせせら笑うと、鉄格子の隙間から食器を回収した。かなめは、視線を壁の方に向け黙っていた。

「おい、お前、何なら食べられる? 言ってみろ」

かなめは、壁の方を向いたまま、素っ気なく答えた。

「何もいらないってば」

 天狗が舌打ちする音が聞こえた。それからしばらくして、言った。

「おい、お前のために言ってやってる。何か食べないと大変なことになる」

かなめは壁の方を向いたまま、横目でちらりと看守の方を見た。天狗の面に覆われているから、その表情は見えない。ぬっと突き出している長い鼻が、嘘つきのピノキオの鼻のように思えて、腹が立った。こんな訳の分からない男、信用できるはずがない。

「大変なことになるってどういうこと? あなたがなるの?」

「お前が、に決まっているだろう!」

「大変なことって、どう大変なの。あたしがただ餓死するだけなんじゃないの? それがあなたたちに迷惑かけるの?」

「うるさい、いい加減にしろ! 罪穢れのくせに」

「ねえ、さっきから罪穢れって何なの?」

「やかましい! そんなことお前に説明する気はない。ただお前が、これなら食えるという飯があるなら言ってみろと言っている」

 かなめは少し黙って、考えた。正直に言えば、腹ぺこだった。しかし、お腹がすきすぎて、胃がねじれているような変な感じで、不思議と食べ物を見ても食欲がわかない。いつも鉄格子の向こうから出される食事は、一口か二口しか食べずに突き返していた。まずい、というのも本当だが、それより、食べないことによる抵抗の意味もあった。自分が食べないとなぜか天狗の看守たちはこうして困ったような反応をするのだ。抵抗して何の意味があるか分からないが――まあ、しないよりはましだろう。

「おい、どうだ。何か食いたいものがあるのか」

 天狗がせっついた。せっかくだからこの天狗を困らせるようなものを、適当に注文してやろう。

 かなめは思いつく限りの贅沢な料理を適当にいくつか挙げた。高級料理店で一度食べたことがあるような、そんな料理の名前だ。

「は? なんだって?」

「なに? もう言ったでしょ。メモができたら、さっさと上司に伝えてよ。好きなもの何でも注文していいってあなたが言ったんだから」

 天狗は小声で毒づくと――なまいきな女だ、罪穢れのくせに、とかなんとか――大人しく、去っていった。

天狗が去り、かなめは灰色の四角い空間に、また独りぼっちになった。右腕をさする。そこには、不気味な紫色の痣があった。蜘蛛の巣のような、不気味な形の痣だった。このおかしな場所で目覚めた時から、その痣は右腕にいきなり出現したのだ。そしてそれは一向に消える気配がなかった。

罪穢れ。天狗のお面の看守たちが忌々しくそう言う時、彼らはこの痣を見ている気がする。なんなんだろう、これ。気持ち悪い。病気か何かだろうか。天狗の言う、『大変なこと』って、この痣に関係することだろうか。

 かなめの思考は、あまりまとまらずふわふわとしていた。どうしてここに来ることになったのか全く分からない。ここに来てから、いったいどれくらい時間が立ったのかも分からない。少なくとも二日はいる。今日で三日目かな。真四角の灰色の小部屋に閉じ込められていると、時間の感覚もなくなってくる。ここには、小汚い寝床と、生きていくのに最低限の用を足せるもの以外、何もない。

 涙も出てこなかった。このままでは、あの天狗の言う通り、最終的に自分は餓死するのだろうけれど、それもいいかな、と思う。別にやりたいこともないし。つまらない、惨めな人生だった。

 かなめはひざを抱え、薄汚れた毛布に包まる。そうして、かなめはある男の子のことを考えた。彼は、かなめに救いの手を差し伸べてくれた唯一の人物だった。冴えない眼鏡をかけていて、気弱そうにこちらを覗き込むあの瞳。話す時はよく髪に手をやって、自分が話した後にごまかすようによく笑った。一緒にいると不思議と心が落ち着いた。この人は絶対に、人のことを傷つけたりしないという安心感があった。

時々、話すような仲になってから、かなめは彼のことを、ずっと名字で呼んでいた。本当は、下の名前で呼びたかった。その名前は、少し変わっていたけれど、彼にぴったりだとかなめは思っていた。素敵な名前だった。心の中ではこっそり下の名前で呼んでいた。だから、そのうちさり気なく、「ねえねえ――くん」と、下の名前で呼んでみたいと思っていたのだけれど、いきなり呼び方を変えるのも変だし、と思っていたら結局呼べずに終わってしまった。

彼のことを考える時だけ、少し胸が苦しくなる。死んでもいいや、なんて思うことが罰当たりに思えてくる。彼も、少しは自分のことを思い出したりしてくれているだろうか。

会いたいな、と思った。右腕の大きな痣が、熱を持ったようにずきんと、疼いた。



そう、正義は最近、つい二日ほど前から幽霊を見るようになったのだ。見るようになった、というか、つけ回されているのだ。幽霊でなければ、幽霊っぽいストーカーかもしれない。分からないけれど、とにかく尋常でない奇妙なものが正義をつけまわしているのだ。

そしてその奇妙なものは、どうしてか、正義に西田かなめを連想させるのだった。

 初めて見たのは、部活の帰りだった。日が落ちる少し前、駅から歩いてしばらくたったころにそいつはやって来た。ぱたぱた、と足音がした。ちょうど、正義の家がある、住宅街に入る小道を曲がったところだった。足音に振り返ると、さっと何かが隠れる気配を感じた。気のせいかなと思い、無視をしてまた歩き始めた。

それから家に着くまでの間、その足音は二度、三度、聞こえた。振り向くと、きまって何かが隠れるような気配がするのだった。かろうじてとらえたその姿は、小柄で、茶色い髪をしていて、スカートをはいているように見えた。

 それが起きたのは、奇妙な偶然かそれとも何か意味があるのか――西田かなめが学校を休み始めた日だった。

 その次の日、昨日もそのおかしな現象は起きた。日が暮れる寸前、家に帰っている道のりでまた起きた。住宅街に入る小道を曲がる。ぱたぱた、と音がした。振り返った。前の日より、おそらく素早く、きっと振り返った。そうしたら、何かが見えた。そのストーカーのような幽霊のような者は、やはりスカートをはいている。茶色い髪をなびかせている。そして、顔は――顔だけはどうしても見えない。

正体を掴もうとして、そいつを追いかけた。それが逃げた方へと角を曲がった。正義が曲がった頃には、もうそこには誰もいなかった。

逃げ足の速いやつだった。

 それから家につくまでの間に、再びその怪しい影は現れた。足音を聞いた。どうにかしてその姿を見極めようとした。三度目に振り返った時は、それまでで一番成功した。逃げ足の速いそれは、やはり少女だった。華奢な体、スカートの制服、そして肩にかかる茶色がかった髪。正義の知っているあの子に似ていた。今日も学校を休んだクラスメイト。

しかし、顔だけはやはりどうしても見えなかった。正義が振り向いた瞬間、少女は顔を両手でぱっと覆ったのだ。それからくるっと振り向いて、ぱたぱたと走り去ってしまう。曲がり角の向こうに行ってしまう。追いかけると、少女は煙のように消えている。

だからまあ、幽霊か、幽霊のようなストーカーなんだろう、と思った。

そんな出来事が二度もあったのだ。一昨日と、昨日。

 このことは誰にも言っていない。誰かに話すには、奇妙で訳が分からな過ぎた。学校からの帰り道、自分のことをつけ回しているおかしな少女がいる。振り向くとさっと煙のように消える。顔は決して見せてくれない。けれど、あるクラスメイトになんとなく似ている気がする――なんて誰かに話せば、つまらない冗談だと呆れられるか、気が違ったかと恐ろしがられるか、のどちらかだろう。

 正義は、その幽霊少女を今日こそ捕まえようと思った。だから、待ち伏せすることに決めた。一度目と二度目の遭遇のように、不意打ではなく、こちらが意図的に待ち伏せしてやるのだ。時計を見ると、時刻はまだ四時過ぎだった。大通りから小道に入ると、右手に公園があり、左手にテニスコートがある。そして、その向こうに、その少女が現れては消えるのを繰り返した住宅街がある。

その坂道をのぼりきったところで、正義はじっと立っていた。時々じっとしれいられず、うろついた。幽霊少女が現れるのを待った。

 十分が経った。ニ十分が経った。何も起こらなかった。なにをやっているんだろうという虚しさが募った。

諦めて、帰ろうかと思い始めた。今まで見た、と思い込んでいた幽霊は全部妄想だったのかもしれない。

とぼとぼと歩き始めた。足元に視線を落として歩いていた。ふと誰かの気配を感じて、顔を上げた。子供連れの母親が向かいから歩いてくる。その先には、小型犬の散歩をしている白髪の老婆がいる。正義はどこを見るともないぼんやりとした視線を宙に浮かせたまま、彼女たちとすれ違った。それからしばらく誰ともすれ違わずに歩いた。

角を曲がると、道路わきに、目を引くほど大きな黒い車が一台止められていた。見ようとも意識せず、なんとなくその車を見ながら歩いた。その車の後部に何やら大きな広告が貼ってある。バスケの試合の日付がかいてある広告。その広告の下、大きな窓には正義の黒い人影が反射して映り込んでいるのが見えた。正義がその車に近づくと黒い影は大きくなっていく。車の窓に、正義の顔つきまでぼんやりと映し出されてくる。ふと、その黒い頭の隣で何かが揺れていることに気が付いた。何かいる。丸い、ぼんやりとした、人の顔。

 ぎょっとして振り向いた。

 すぐ後ろに、いないいないばあをするかのように顔を両手で覆った女の子が立っていた。顔を覆う指先をきっちりそろえているため、目は見えない。肩にかかる茶色の髪、正義より頭一つ低い背丈。あの子に、似ている。

「カワタクン、ミィツケタ」

 不思議な少女から、そう声が聞こえた。金槌で頭を殴られたような衝撃を覚えて、正義はその場に立ち尽くした。カワタクン――ミィツケタ。ミィツケタミィツケタ。

 それから少女は、顔を隠していた両手をさっと外した。正義は叫び声を上げた。その下の顔には――目がなかった。鼻もなかった。口もなかった。不気味につるんとしていた。のっぺらぼうだった。

 幽霊? いや、幽霊じゃない。なんだこれ? 足ががくがくと震えた。そのまま力が抜けて、ぺたんと尻もちをついた。

 のっぺらぼうがくすくすと笑う気配がした。口がないのに、くすくすと肩を震わせていた。心臓が早鐘を打つ中、かろうじて、そいつを目で追った。それは軽やかな足取りで、正義を追い越して、坂道の向こうの角を曲がった。制服のスカートがひらと揺れた。正義は一つ深呼吸すると、立ち上がった。汗をぬぐった。なぜだか、逃げちゃいけないと思った。そののっぺらぼうの笑いは、まるで自分を試しているようだった。ついて来られるものならついてきてみろ、と試しているようだった。

 追いかけた。のっぺらぼうがまた角を曲がる。必死についていく。時々、角を曲がったところで、のっぺらぼうがこちらを見てじっと立っている。まるで正義を待っているかのようだ。正義が追い付きそうになると、また軽やかにのっぺらぼうは逃げた。下校時間の住宅街なのに、なぜか人一人、見かけない。あるいは、正義が追いかけっこに夢中で気付かなかっただけかもしれない。のっぺらぼうとの奇妙な追いかけっこは、誰にも邪魔されることなく続いた。次第に息が切れた。目が回りそうになった。汗で眼鏡が幾度もずり落ちた。正義の家からも駅からも随分と遠いところに来てしまった。今まで、足を踏み入れたことがないような通りに入った。景色は相変わらず代わり映えしない田舎の住宅街だ。ずり落ちる眼鏡を直す正義を見て、のっぺらぼうは肩を震わせ、くすくす笑っている。

追いつけるものなら、追いついてごらん。そう言って、正義を試している。

 どのくらい追いかけていただろう。知らない公園をもう四つくらい通り過ぎた。大通りを渡って、隣町の住宅街に来たようだった。空は未だにオレンジ色だった。日が落ちそうで落ちない。世界が止まっているかのようだった。ぜえぜえと息を吐く。

 のっぺらぼうは住宅街からどこかへ続く、暗い地下道に降りていった。正義もあとに続いた。地下道を抜けると、右は細い砂利道で、左は雑木林になっていた。のっぺらぼうのスカートがひらりと待った。左の雑木林のほうへ消えていった。正義も急いでついていった。

 どれくらい走っただろう。ここは自分の家からどれくらい離れた土地なのだろう。きっと帰りたくてももう自力で帰ることができそうにないところにいる。でも引き返すわけにはいかない。あの、のっぺらぼうを捕まえなければ。なぜだか分からないけれど、あののっぺらぼうは知っている気がする――西田かなめの居場所を。知っていて自分をおびきよせているのだ。

 やがて日が落ちた。暗い、夜の雑木林は信じがたいほど薄気味悪かった。あちこち無秩序に枝分かれしている木々が、幽霊の手のように映った。そんな暗い道を、のっぺらぼうがうきうきとした足取りで先を歩いている。もう走ることはやめて、時々立ち止まって、正義のいる後ろを振り返りながら歩いている。――正義をどこかに連れていこうとしている。

 のっぺらぼうがまた、目のない顔で振り向いた。正義はその度にどきりとして心臓が止まりそうになるので、なるべく、それの足元を見るようにしながら歩いた。目のない顔で、そいつは正義がついてきていることを確認すると、また先を行く。

 しばらくして木がまばらになってきた。枝に遮られない、広い空が見え始める。そうして少し歩くと、もう先へはいけないことが分かった。崖になっているのだ。

 のっぺらぼうは崖の手前まで行くと、立ち止まった。目のない顔で、こちらを見ている。正義が近くに来るのをじっと待っている。正義は立ち止まった。気持ちの悪い風が吹いて、心臓がぎゅうと縮まった。――どうして崖に連れてきたのか。

 思い出した。彼女がホームから落ちそうになっていた時のこと。手を伸ばしたら、細いその手を掴めたこと。まだ西田かなめを知る前のこと。

 心臓がどくどくとなる。耳元で大きくなっている。のっぺらぼうは、両手を背で組んだ格好で、うつむきがちに、いじらしく正義のことを待っている。

 助けたいと思った。助けなければいけないと思った。だって、彼女は正義にこう言った。正義という名が『似合ってるよ』と。そう。西田かなめは、信じてくれた。正義が自分を信じるよりも、正義のことを信じてくれたのた。だから自分は、逃げちゃいけない。

「西田さんのことを助けたい」

 しわがれた、まるで自分の喉から発したとは思えないような声が出た。

 のっぺらぼうは聞こえなかったのかふざけているのか、正義の言葉を聞いて首をかしげている。

「どうしたら、助けられる」

 のっぺらぼうはまだ首をかしげている。首をかしげるのをやめると、うつむき、足元の砂を蹴った。ためらいがちに、正義のことを目のない顔で上目遣いに見た。正義は一歩近づいた。のっぺらぼうは、おびえるように一歩後ずさった。そのすぐ向こうには――崖がある。

 のっぺらぼうがもう一歩後ずさった。正義は走り出した。のっぺらぼうの身体が大きく傾いた。正義は駆けた。手を伸ばした。のっぺらぼうも手を伸ばした。細く、白い手を掴んだ。その時には、もう正義の足は地面から離れていた。崖があると思っていた場所は、思った以上に底の見えない崖になっていた。掴んだ手をぎゅうと握りしめて、離さないまま、正義は頭から落ちていった。



六畳に満たない小さな部屋で、わたしは寝転がり本を読んでいる。その隣で、一人の男の子もまた、静かに本を読んでいる。男の子は、背をベッドにもたせて膝を伸ばして床に座っている。顔を真正面に上げると、その男の子の痩せた膝小僧が見える。斜め上に目をやると、親しい横顔が見える。あどけない、しかし年の割に大人びた眼差しの男の子だ。長い睫毛を伏せて、難しそうな本を読んでいる。休日だが、わたしの両親は二人とも出かけていた。わたしはその男の子と二人きりだった。

「ねえ、晃ちゃん」と呼びかけて、わたしは手を伸ばし、隣で本を読む男の子の袖を引いた。晃ちゃんと呼ばれた男の子は、ん、と返事をして、わたしの方をちらと見る。わたしは本に目を落としたまま、どれをきこうかな、と考える。晃ちゃんは自分が呼んでいる本に目を戻す。「ねえ、晃ちゃん」わたしは再び袖を引く。「何だってば」晃ちゃんは、もう一度わたしの方を見る。わたしは、晃ちゃんを見て本の上を指さし、「この漢字なんて読むの」ときいた。彼はちらと見て、その読み方を答える。「じゃあ、これは」わたしが別の漢字を指さし、きく。晃ちゃんがこたえる。わたしはページをめくる。「ふうん、じゃあこれは」「これは」「これもわかる?」わたしが指さす漢字に、晃ちゃんが淡々と答える。晃ちゃんが答えられなくて、困ったところが見たかったから、わたしは少しだけ面白くないと感じる。同時に、晃ちゃんはやはり物知りだなと感心する。わたしが知っている子の中で一番の物知りだ。

わたしの質問攻めが終わると、晃ちゃんはまた自分が読んでいた本に戻る。その本は、わたしが読んでいるものより、小さく分厚い。そのまま、しばらく、ぱら、ぱら、とページをめくる音だけがした。わたしは本を読むのに飽きてしまって、ぱたんと閉じて、そのまま瞳も閉じた。仰向けになって寝たふりをする。わたしは晃ちゃんと違って、細かい字を読む作業に慣れていない。すぐ疲れてしまう。辛抱が得意な晃ちゃんは、細かい字を飽きもせず、目で追っている。「ゆかり?」と晃ちゃんがわたしの名を呼んだ。「寝たの?」わたしは返事をせず、寝たふりを続ける。しばらくしたら、勢いよく起き上がって晃ちゃんを驚かせてやろうと思いながら、寝たふりをする。晃ちゃんが、どこからか毛布を持ってきて、それをわたしのお腹にかけた。わたしはなんだかくすぐったい気持ちがした。今にも、わっと飛び起きて晃ちゃんを驚かせてやろうか、と思いつつも、だらだらとまどろんでいた。ぱら、という音がして、晃ちゃんが、また本を読み始めたのが、ぼんやりと分かった。トントントン。

 なんの音だろう、うるさいな、人が気持ちよく寝ているのに。トントントントントン。「ねえ、晃ちゃん」薄目を開けて、その親しい男の子の横顔を見ようとした。



 いない。

 目が覚めると、薄暗い部屋の中に少女は一人でいた。トントントントンという音がする方を見れば、黄色い嘴の鳥が外から窓を叩いている。曙光の中、小さな鳥は少女と目が合ってくいと首を傾げた。そして、まるで少女をおこす役目を終えたと言わんばかりに、ピピピと鳴いて飛び立っていった。

ベッドから出る気にもならず、少女は寝ぼけ眼でぼんやりとしていた。男の子のように短い黒髪の少女だった。くりくりした大きな黒い瞳と血色の好い丸い頬のためか、実年齢よりいつも幼く見られる。

 胸に突き刺すような強い孤独感がある。どうしてだろう。――ああ、そうか。夢だ。彼の夢を見ていた。

夢の内容を思い出そうとしたが、情景は急速に色あせていった。伸ばした手からするすると逃げるように消えていった。ただ彼が自分の名を――ゆかりという名を呼んでくれたような、そんな気がした。

 心の中でため息を吐く。ずっと夢から醒めなければいいのに。

 もう一度布団をかぶって眠ってしまいたくなるのをぐっと我慢して、ベッドから出た。後ろ向きな気持ちを振り払うように、少女は頭をぶんぶんと振った。

少女は立ち上がり、かろうじて結えるくらいの髪を一つに束ねる。胸には白い布をぐるぐると巻いて固定した。そうすると少女はまるで少年のようになる。もともとやや凛々しすぎる眉の為か、「おれ」なんていう一人称を使えば、皆、少女のことを少年と間違える。そうして勘違いされても、少女は否定しなかった。少女でいるよりも、少年であることの方が都合のいいことが沢山ある。

それから、ベッドの枕元に置いていたお面を手に取った。大きな耳がついていて、二つの目のところだけくり抜かれている。くり抜かれた二つの穴から、茶色い筋が涙の跡みたいに横に伸びている。

それは人に醜い表情を見せないために、つけるものだった。怒ったり泣いたりそういう醜い感情を外に出さないために付ける鎧だった。少女は軽い足取りで階段を降り、外に出た。明るい光に目を細める。泣き顔(、、、)の(、)猫(、)の(、)お面(、、)をつける。大きな二つの耳を揺らし、少女は歩き始めた。


 ◇


 母親を呼んでいる。「ママー」という声が聞こえる。「ねえ、ママー、見て見て」という無邪気な声が響く。いったい何を見せようとしているんだろう。

「ママー、ママー!」

正義は目を開けた。すぐ近くに男の子がいた。その幼い声で「ママぁ、これ、なあに?」と言っている。その男の子は、どうしてだろう、正義の眼鏡をつまんでいる。レンズの分厚い黒縁眼鏡だ。――奇妙なことに、男の子の顔は見えない。お面のような奇抜なもので覆われているのだ。

意識が少しずつ覚醒してくる。どうやら自分はうつぶせに倒れているらしい。そして眼鏡を落として、それを男の子が拾ってくれたということだろうか。「これ、なあに」ときいているということは、男の子は眼鏡が何かも分からないということだろうか。

男の子の視線の先には、女性が二人、話し込んでいる。どちらかが男の子の母親なのだろうが、どちらも男の子には注意を向けず、話に夢中になっている。

奇妙だった。

正義はまばたきをした。目を擦った。もう一度目をぎゅっと閉じて、開けた。相変わらず奇妙だった。男の子も、その視線の先の二人の女性も、顔に何かつけている。何を模しているのか分からないが、奇抜な――お面をつけているように見えた。そのため表情が一切うかがえない。

正義は立ち上がって、周りを見回してみた。目の前には民家のようなものがいくつかあって、その間に露店が沢山並んでいる。「はーい! 寄っていらっしゃい見てらっしゃい!」という威勢のいい声が聞こえる。

正義は道行く人々を見た。その顔を見た。皆、顔に歪なものをつけている。誰一人として表情が見えない。露店の人も露店を覗き込む人もただ歩く人も皆、顔に奇妙なお面をつけている。それでいていたって平然とした様子でいる。

今日は、この通りは――祭りか何かだろうか。

今目の前を通り過ぎた人は口元のとがった黄色いお面をつけていた。頭の上に耳が二つ。その次に通り過ぎた人は、豚のような鼻をしたお面をつけていた。また、頭の上に耳が二つ。それに、その次の人の顔は――お面と言うのだろうか。頭のてっぺんからから顎のところまで真緑で覆われていた。頭の上に耳はない。奥の露店でしきりに声を張り上げている人を見れば、その人は、かろうじて人の顔をしている。けれどよく見ると、口が耳元まで裂けた口裂け女の顔をしている。やはり素顔を奇妙なお面で覆っている。

正義は呆然と見つめていた。きっと今日は、こういうふざけたお祭りなのだろう。お面をつけるのが習わしなのだろう。

あれ、と思う。確かに自分は、崖から落ちたはずだった。こんなところで何をしているのだろう。いったいここはどこだろう。

 それに暮れていたはずの日が――まだ落ちていない。太陽はまだ空にある。

 胸がざわついた。まるで白昼夢を見ているような。

「ねえ、ママぁ、この人起きたよ」

 正義の眼鏡で遊んでいた男の子がそう言った。

「こら! 近づいちゃダメって言ったでしょう!」

 立ち話をしていた女性の一人がようやく男の子に注意を向けた。そして近づいてくると、子供の手をむんずとひいて正義から逃げるように去っていった。無機質な鎧の奥、唯一表情がうかがえる瞳は正義に対する敵意に光っていた。

 正義は訳が分からず、呆けたようにしばらくそこに突っ立っていた。状況が全く飲み込めない。こんなことは初めてだった。しばらく、目のまえの道行く人々をぼんやりと眺める。子供でもないのに、縁日で買えるようなお面を、大の大人がそろって顔に付けているのはやはりおかしかった。祭りでなければ、これは奇妙な宗教団体だろうか。

 シャンシャンシャンシャン。

 不思議な音が響いてきて、目を向けた。見れば――祭りの見世物だろうか。神輿がこちらへ揺られてくる。小さな子供たちに担がれて、揺られているそれは形と大きさを見れば神輿に見えるのだけれど、神輿にしては色が黒過ぎた。記憶の中の神輿は、確か金とか赤に光っていたはずだからあれは神輿とは少し違うのかもしれない。

 黒い神輿がだんだんと近づいてくる。正義はその異様なものから目をはなせない。

 神輿の前後を挟むようにして、それを担ぎ上げる小さな子供たちが歩いている。皆黒い服を着て、顔をフードで覆っている。それもおかしかったが、さらにおかしいのは、その子供たちをさらに挟むように前に一人、後ろに一人、天狗のお面をつけた男が歩いている。真っ赤な顔の、鼻が細く飛び出たその顔は天狗にしか見えない。その天狗男が右手に黒い鈴のついた棒のようなものを持っていて、歩く度にそれがシャンシャンと鳴っている。

 いよいよ近づいてくる。シャンシャン、と音は大きくなる。道行く人々は特に気に留める様子もない。ただ黒い神輿が通れるように、道をあけるくらいである。黒い神輿はちょうど正義の目の前を通り過ぎようとしていた。神輿の中が見えた。それはやはり神輿などではなかった。黒い箱の両側は格子状になっていて、内部が見えるになっていた。

神輿の中、両手と両足を拘束された男が一人、汚い身なりで座っていた。まるで罪人を見世物にしているかのような。

その神輿の中の男は、おかしなお面で顔を隠してなどいなかった。正義がじっと見ていると、男は顔を上げ、一瞬、正義と眼が合った。その眼には、悲痛があり、疲れが滲んでいるように見えた。助けてくれと言ってるようだ。

正義はこの奇妙な団体の中で、唯一、自分と同じまっとうな人間を見つけることができた気がして、「あ」と声を発した。喉から勝手に音が漏れた。

 シャンシャン、という音が止まる。神輿の動きが止まる。正義の目の前で、ちょうど止まった。後ろを歩いていた天狗の一人が「あ」の声の出どころを探るように、首を動かし、こちらをじろりと見まわした。急に心臓が早鐘を打ち始める。正義はうつむいた。天狗たちが立ち去る気配はない。

顔を上げると、天狗の両目は、はっきりと正義のことを見つめていた。恐怖で喉がきゅっとしまって、頭が真っ白になった。

 異様な空気の中、槍を持った天狗男の一人がこちらに歩いてきた。道行く人の数人も足を止めて、正義のことをじっと見ている。無機質な鎧に覆われた奥、瞳だけが怪しげな光を放っている。怪しげな光たちは一心に、正義の顔へと注がれている。

 真っ赤な天狗のお面は間近で見ると迫力があった。黒々とした太い眉、勢い余った太い鼻髭。そして唯一人間らしさが垣間見えるはずの、活きた瞳は、ぎょろぎょろと正義のことを上から下まで舐め回すように探っている。

「どこから来た」

天狗が太く野太い声を発した。

「え、えっと」

 答えなければいけないのだろうかと思い、正義は口ごもった。視線を天狗以外に目を向ければ、歩を止めた通行人たちが皆、相変わらず正義のことをじいっと見つめていた。首筋を冷たい汗が伝う。逃げられない。

「――市から」

正義は自分が住んでいる市の名前を答えた。一人の天狗が、もう一人の天狗に何かを耳打ちした。何を言っているのだろう。不安で心がざわつく。

耳打ちされた方の天狗男が地面に転がっている眼鏡を見て、おもむろに拾った。

「これは、お前の所有物か」と天狗が言う。

 正義は気圧されながらも、頷いた。天狗は、眼鏡を正義のちょうど目の前の高さに持ってくると、なにをおもったか――ぱきん、と真ん中のフレームを折り曲げた。

 正義は唖然として、声を発することもできず、それを見ていた。無残に折れ曲がった眼鏡が目の前で、ふらふらと揺れている。天狗は折れた眼鏡を、再び足元に落とすと、今度はその大きな足で踏みつけた。靴底で、レンズの部分をぱりぱりと割っている。

――なんだ、こいつ? なにしてるんだ? 頭おかしいのか?

 呆然として固まっていたが、天狗が、何度も靴底でレンズをぱりぱりと割っては、正義の顔をちらちらと見てくるので、さすがに驚きと戸惑い以外の感情がこみあげてくる。怒りを込めて天狗をにらみつける。

天狗男は眼鏡を踏むのをやめた。全く表情の読めない目で正義のことを見ている。

「平和令第九条怒りの罪により」

 感情のない機械のような調子で天狗が言う。

「逮捕する」

――た、た、逮捕?

 喉が詰まって言葉が出てこない。

恐ろしいことに、天狗男の手には、黒く光る丸い二つの輪っかがあった。手錠だ。

正義は逃げることもできず固まっていた。――逮捕だって? 一体なにをやっているんだ、こいつら。ドラマの撮影に巻き込まれたか、あるいは、新手の大道芸かなにかだろうか。大人しく手錠をかけられたらいいのか? いや、逃げるなら今のうちだ。なんていうことを頭でぐるぐる考えながら、正義の奥歯は恐怖でがたがたと鳴りはじめ、身動きを取ることができない。

天狗男が手錠の輪っかをぱかりと開ける。正義の両手首を力強く掴み、ちょうど手錠がかけられようと――

 どこかで悲鳴が上がった。ぱちぱちという火花の音がきこえた。見れば白い煙がどこからか立ち込めて、通りの視界を白く濁らせていた。

「何事だ?」

二人の天狗男は煙が発生した方を振り向いた。男の手錠をかけようとした手が止まる。足を止めていた通行人も皆、顔をそちらに向けていた。完全に気を取られている。

 その時、正義の袖を誰かがひいた。耳元で声がした。

「こっちへ!」

 見れば、いつの間に近づいていたのか、見知らぬ少年が正義の服を引っ張っていた。「早く!」と再び小声で正義を急かした。正義が「君はだれ?」という間を与えずに、少年は正義の腕を掴み、無理やり走らせた。大きな通りからそれた小道の方へと正義を引っ張り込む。

「おい! 待て!」

 天狗男の一人が、正義が逃げたことに気が付き声を上げた。しかし正義を引っ張る少年は足が速かった。正義はほとんど引っ張られるようにしてついていった。足がもつれて転びそうになった。角をいくつも曲がり喧騒が遠のいていくのが感じられた。気が付けば騒がしい露店は消え、落ち着いた民家が立ち並ぶ通りにいた。

そうしてしばらく走り、薄暗い人気のない路地へと曲がったところで、少年が止まった。そこは家と家の隙間――人二人がやっと通れるくらいの細い隙間だった。

 ぺたんと座り込み、荒い息を整えた。額に、背中に汗がじっとりと滲んでいる。足が馬鹿みたいに震える。

 正義をここまで連れてきた謎の少年の方を見れば、彼はしきりに通りの方を気にしていた。追手がやって来ていないかを確認しているらしい。

 立ち止まって改めてその少年を見る。正義より背が低い。細身で華奢な体躯。短い髪を一つに結っている。そして顔は――顔が見えない。先程の道行く人たちと同様、顔には無機質な鎧をつけている。頭には大きな三角の耳がついているから、ねこを模したように見える。正義がじっと見ていると、少年は振り向いた。二つの目の部分にある穴からは太い茶色い筋がすっと横に伸びていて、それがまるで涙の跡のように見えた。

 泣き顔の猫だ。

「大丈夫? 怪我は?」

 泣き顔の猫、もとい謎の少年は尋ねた。

「怪我は……えっと、してないと思う」

 そう言った後で、自分の身体を見てみると、どこで怪我をしたのか、肘をすりむいていた。白いシャツに赤い血が滲んでいる。

「まあ、たいしたことはないな」と怪我を見た謎の少年が言う。そして、また通りの確認を始めた。追手が気になっているらしい。

「あの、どうもありがとう。助けてくれて」

 正義はお礼を言った。何から助けられたのかもよく分からないような状況だったけれど。しかし、あの奇妙な男たちは正義に向かって「逮捕する」という言葉を言っていたのだから悪い状況であったには違いない。――勝手に眼鏡を壊されたりと散々だった。

 これは夢なんだろうか。現実のこととは思えないからきっと夢なのだろう。そうだ、だって眼鏡をしていないのに周りの景色がよく見えるからおかしい。やはり夢だ。それにしても夢ならそろそろ醒めていいはずなのになかなか醒めない。正義は目をごしごしとこすった。頬をつねった。手の甲の皮をつねった。

「何やってんの?」

 謎の少年が正義に尋ねた。

「え、あ、いや、そろそろ醒めないかなと思って」

「醒める?」

「これ、夢だよね?」

「ユメ?」

 正義が黙っていると、謎の少年は「ああ、夢か」と呟いた。

「夢と思いたきゃ、そう思っててもいいけど。この夢からはなかなか醒めないよ」

「醒めない?」

醒めないとはどういうことだろう。謎の少年はそれ以上説明せずに、また心配げに通りの方を見つめ始めた。正義は視線を落とし、つねった手の甲の皮膚が痛々しく赤く変色しているのを見た。

「あの天狗のお面の人たちはさ、警察みたいなものだ」

 謎の少年が顔を外の通りの方に向けたまま、そう言った。正義は黙って聞いている。今度は、左の掌の肉をつねってひねってみた。痛かった。

「あいつらにつかまりたくなければ、そんな素顔で歩いていちゃだめだよ。あんな人通りの多い道では、特にね。よく天狗たちが見回りをしているから」

 泣き顔の猫がこちらを向いた。

「だから外に出る時は皆、こんなお面とかで顔を隠すようにしている」

「はあ」

 正義の口から呆けたような声が漏れた。確かに、通りを歩く人は皆、お面をしていた。

「おかしな話だよな。怒った顔しただけで逮捕されるなんて」

 謎の少年が独り言のように呟いた。そういえば、さっきの天狗たちも怒りがどうこう言っていたような気がする。

「あんた、名前は?」

名前を聞かれて、正義は謎の少年の方を見た。少年は相変わらず、泣き顔の猫のお面をつけている。表情が全く見えないから不気味だった。

「えっと、正義。川田、正義」

「せいぎってあの正義? 正義の味方の正義?」

「そう。その正義」

 正義はなんとなくばつの悪いような気持ちになって、視線を少年の瞳からそらした。

「へえ、格好いい名前」

 少年は嫌味ではなく素直にそう言っているように聞こえたが、正義は自分の名前に着いてあれこれ話したくなかったから、話を変えた。「あの、ちょっと聞いてもいいかな」と言って、つづけた。

「これが夢じゃないなら、ここはいったいどこなんだろう」

「ここは特別な場所さ。一部の人しか足を踏み入れることができない」

 少年の言葉は要領を得ない。つまりどこなのだろう。地図でいうと、どのあたりになるのかが全く分からない。

「ここに来る前なにがあった?」

 少年が逆に尋ねてきた。正義は応える。

「崖から……落ちた」

「そう」

 正義の頭の中、一つの単語がぽんと浮かんできた。そうか。じゃあ、ここは――あの世。謎の少年が正義の心を見透かしたかのように、続けて言った。

「ここは、だいだい様の土地だ」

「だいだい様?」

「そう。だいだい様が統治している土地。あの世とも、あんたが以前いた世界とも違う。あの世とこの世の中間みたいな感じかな。おれもよくは分からないけど」

なんとも素っ頓狂な説明だった。そもそもだいだい様ってなんだ。本当にこれは夢じゃないんだろうか。それなりに面白かったけれど、いい加減醒めてほしい気がする。思いきりつねったため、痛々しい赤い傷がついた手の甲を見て、ぼんやりと言った。

「……僕は、死んだ?」

 少年は答えずに、少し笑った。乾いた笑い声だった。正義の首筋を嫌な感じのする汗がつうとつたった。

「まあでも、そんなに悲観することはないよ」

 正義の質問には答えず、謎の少年はただそう言った。追手が来ない、もう安全だと判断したらしく、少年は動き出す準備をしていた。正義もあとについていく用意をする。

歩き始めたとき、少年がふと「あ、そうそう。言い忘れてた」と言った。

「この土地に招かれる人にはある共通点がある」

正義は黙って、言葉の続きを待った。

「この土地に招かれるのは、皆――自殺した人たちだ」

 その言葉は、どこか遠くから響いてきたようだった。そして、正義のことを頭からすっぽりと覆って重くのしかかった。寒空の下、ホームで手を伸ばしたときの、あの感覚を再び思い出した。掴んだと思った。引き上げようとして、手がするりと抜けた。あっと思って、さらに手を伸ばしても遅かった。西田かなめの小さな体がホーム下の闇にのまれていった。――正義はホームの端に手をつき、ただ茫然と、真っ暗闇を覗き込んでいた。

 どこかで犬が吠えていた。はっとして、前を行く謎の少年のあとについていく。少年は鎧で顔を覆っていたから、自殺という言葉をどんな表情で言ったのか分からなかった。


 ◇


 胃がよじれそうだ。意地を貫き通すのもそろそろ限界かもしれない。あの天狗の看守は未だにかなめが伝えた料理を持ってこないから、かなめは今朝から何も口にしていない。かなめがあまりに生意気な口をきくため、連中も「そんなにわがまま言うなら餓死すればいい」という考えにようやく至ったのかもしれない。それなら望むところだが。――望むところの、はず。かなめは唇をかんだ。小汚い毛布を握りしめた。でもやっぱりお腹がすいた。この空腹には耐えられそうにない。でも今更何でもいいから持ってきてください、なんて言うのは格好が悪すぎる。泣きたい。

 こつこつ、と足音がした。やっと来たか。あのいけすかない天狗の看守がやっと来た。かなめは、虚勢を張る準備をした。全くむかつく天狗のお面の男だ。あの偉そうな喋り方がいけ好かない。

鉄格子の向こう、影が現れた。かなめは顔を上げ、そいつの顔を見た。

人の顔があるべきはずのところには予想通り、ぬっと突き出た鼻の天狗のお面がある――しかし、その色が白い。今までかなめの前に現れた天狗は皆、赤い顔の天狗だったから、かなめは驚いてその白い顔を凝視してしまった。お面の向こう、二つの穴からは表情のない両目がじっとかなめに注がれている。

この不気味な仮装集団はいったい何なのだ。

 白い天狗男がしゃがんだ。かなめと目線の高さを合わせたその男が口を開く。

「ここの飯はそんなにまずい?」

 想像していたよりは、優しい声音でそいつは言った。かなめは言葉を返す。

「うん、まずい。すごくまずい」

 かなめの率直な感想を、白天狗の男は黙って聞いている。かなめは続けた。

「げろみたいな味がする」

「――口が悪いね、あの看守が言っていた通り。わたしたちをわざと困らせてるんだろう」

 やけに落ち着いた調子で男はそう言った。どうも今までの赤い顔の天狗とは違う対応だった。今まで来ていた天狗男だったら、「罪穢れのくせになんて口のきき方だ」とかなんとか馬鹿にしたように言ってきただろう。――なんとなく調子が狂う。

「……別に。だって本当にまずいから。どうしてあたしが、食べ物を食べないと、困るの? あたしが餓死するだけじゃないの?」

 かなめは男をにらみながらそう言ったが、男は全く取り合わずに、続けた。

「空腹が続くと苛立ちもますます募る。本当は、君が食べたいと天狗に伝えたものを持ってきてあげたかったんだけれど。きみが挙げた料理はわたしの知らないものばかりで、用意するのは難しくてね」

 男がそう言うと、ふいに食欲を掻き立てるいい匂いがかなめの鼻腔をくすぐった。口内に涎が出る。ちらと鉄格子の向こうを見れば、どこから現れたのだろう、お椀から白い湯気が立ち昇っている。食器用の小さな戸口がぱたんと開き、こちらに差し入れられる。白いお粥の上、細かく刻まれた緑の葉と赤い香辛料が浮いていた。

 今まで運ばれてきた、ぱさついた料理とは大違いだ。かなめは、お粥を手に取ると無心になって、胃の中に落とし込んだ。今まで口にした何よりもおいしい。ただのお粥なのに。食べ終わると、身体がじんわりと温まった。

 男がこちらをじっと見ていることに気づき、かなめは少し恥ずかしくなった。あまりに食べることに夢中になってしまった。

「どうもありがとう」とかなめはぶっきらぼうに言って、食器を返した。男は少しの間黙っていたが、ふいに口を開いた。落ち着いた声音で言う。

「右腕の痣を見せてごらん」

「どうして」

 かなめは反射的に右腕を隠そうとする。なぜ、ここの人たちはこの痣にそんなに執着するのだろう。この痣が一体何だというのか

「その痣は悪化すると、君の命に関わるから」

 命に関わる? ただのこんな痣が?

 どうして自分はこんな訳の分からない男に、そんなことを言われないといけないのか。ふがいなくて涙が出そうになった。男を見れば、不気味な白い天狗のお面の奥で、相変わらず表情のない両目だけがかなめに注がれている。

「じゃあ、あなたもその馬鹿みたいなお面外してよ。それ気味が悪い」

 かなめがそう言うと、男は何も言わずに、お面を外した。てっきり断られると思っていたから、拍子抜けした。

 下から現れたのは、色の白い若い男だった。これといって特徴はないが、端正ともいえる。てっきり醜い顔を隠しているのかと思っていたが、そういう訳ではなかったらしい。

「これの方が話しやすければ、そうしよう」

 かなめが答えずにいると、男は続けていった。

「君の右腕にある痣は、罪穢れと言ってね、一種の病気なんだ。君をここに閉じ込めているのも、それが理由だ。罪穢れが大きくなると、君だけじゃなくて、周りにも悪影響を与える。だから、それが消えるまではこの牢屋から出してあげることができない」

男の諭すような口調は、出まかせを言っているようにはきこえない。言っている言葉の意味も理解できる。しかし、まるで異国の言葉を聞いているように思えるのはなぜだろう。

男はさらに続けた。

「その痣は、ただの病気じゃない。呪いなんだ」

「――呪い?」

「そう。うつし世の悪い気が呪いとなって現れている。君がこの土地に馴染むことができるまで、消えることはない」

「訳が分からないことばかり言わないで。うつし世って何なの」

「君がここに来る前にいた土地のことだ。愚かで、醜い、汚らわしいところだ」

 男の口調は相変わらず落ち着いていた。使う単語が激しい割には、あまりに落ち着きすぎていて奇妙に感じるほどだった。

ここに来る前にいた土地、ときいて、かなめの胸の内に嫌な感情が湧く。嫌な情景が蘇る。確かに、今まで生きてきた人生、思い出したくないことはたくさんある。

かなめは熱を持った目を瞬いて、右腕の袖をまくり上げた。その不気味な紫色の痣は、右腕の手首から肘の辺りまで広がっていた。昨日はこれほど大きくなかった気がする。少しずつ大きくなっているのだろうか。かなめは不安げにその痣をさすった。男がそれを見て、言う。

「それくらい大きいと、痣が消えるまで、まだしばらくかかるかな」

「しばらくってどれくらい」

「二、三日で落ちることもあるかもしれないが、それは君の努力次第だ。早く落とすためには、ここの食べ物を三食きちんと食べなければいけない。ここの食べ物には浄化作用があるから。あとは、そうだな」

 男は目線を一度落とし、何かを思案するような様子を見せると、またかなめと視線を合わせた。その冷めた光に、かなめは射すくめられるような気持がした。しかし、目を逸らすのも負けたような気がして嫌だった。

「君は、うつし世での名をまだ覚えているか」

「な?」

「うつし世での名前」

「名前? そんなの……もちろん、覚えてるに決まってるた。でしょう」

 また馬鹿にされているのだろうか? 名前など忘れようがない。西田かなめ。

「両親の名前は?」

「馬鹿にしないでよ」

「じゃあ、君の友人の名は思い出せるかい」

「友人?」

 かなめの胸に一人の男の子の顔が浮かんだ。知り合って日は浅いけれど、学校で一番心を許していたのは、確かに彼だった。それまで仲が良かった子とは皆疎遠になってしまったから。だから、彼だけが唯一話していて楽しいと思える相手で、朝起きて顔を洗う時も、今日は彼と話せるかな、と考えると少し気持ちが明るくなった。少し垢ぬけていないところがあるけれど、すぐ困った顔になったり、顔を赤くするところがかなめは好きだった。そう、彼の名前は――正義くん。格好いい名前だな、と話す仲になる前から思っていたのだ。彼の苗字は、

かなめの背筋がひやりとした。苗字は何だったろうと一瞬考えた自分がいた。そうだ、川田。ほら思い出せる。ちゃんと覚えてる。ほんの一瞬、あれと思っただけだ。

「……変なこと言わないでよ。忘れるはずがないでしょう」

「そうか。それは残念だ」

 男が淡々と言った。

「これは意識しようと思って出来ることではないから難しいけれど、なるべく早く、うつし世でのこと、特に君自身の名を忘れるようにしないといけない。名前は、君とうつし世との繋がりだ。その名前を思い返す度、君はうつし世のことを思い出す。その名前を人から呼ばれると、呼ばれる度に、うつし世のことを思い出す。うつし世のことを思い出すと、君のその痣は、罪穢れは少しずつ広がっていく。罪穢れは、うつし世の呪いだからね」

男は、まるで常識を話しているかのように淀みなく言葉を繋げた。

「ここでは全く別の名前を名乗ることだ。ここのものは、皆そうしている」

 話している間、男の表情はピクリとも動くことがない。細く長い睫毛にふちどられた両目は生気がなく、まるでガラス玉のようだ。

おかしい、とかなめは思った。やはりこの男も狂っている。偉そうな赤顔の天狗の男たちと一緒だ。あの男たちよりは、穏やかな口ぶりで、まともそうな気もしたけれど、気がしただけだった。名前を忘れろだって? そんなことやろうとしたって、できるはずがない。だって、その名前と一緒に十五年間、生きてきたのだ。

 かなめは目を伏せたまま言った。

「そんなの、知らない。その訳わからない呪いが広がっても、どうでもいい。あたしが死んだって誰も悲しまないし」

 男は黙っている。かなめは顔を上げて、その表情を見る気になれなかった。どうせ感情のない人形のような顔をしている。しばらくして、男が口を開く。

「すぐに受け入れるのは難しいだろう。だから少し時間をおいて、考えてみるといい。新しい名は、わたしの方で何か用意するよ」

 男は立ち上がった。なんとなく悔しくなって、かなめは呼び止めた。

「じゃあ、あなたも、本当の名前を忘れたの?」

「ああ、もちろんだ。うつし世での名は覚えていない。わたしは、ねぎという名だ」

 ねぎ? 変な名前、と思った。

「なにそれ……お鍋の具材みたい」と言って、かなめは馬鹿にしたように笑った。ねぎというらしい男は相変わらず、全く取り合う気色を見せない。まるで聞こえていなかったかのようになんの反応もない。かなめは食い下がった。

「――嘘だ。本当は覚えてるんじゃないの? 生まれてからずっと呼ばれていた名前を忘れられるはずない」

「いいや、覚えていない。そもそもうつし世のことは何一つ覚えていない」

「……なにそれ」

 そんなことあるわけない。機械人形のようなこの男は、わたしのことを馬鹿にしているか、でなければ、血の通ってない人間ではない何者かだ。

「あんた……頭おかしいんじゃないの? さっきから馬鹿みたいな嘘ばっかり言わないでよ。そんな……都合よくそんな綺麗に忘れられるわけない。まるでごみ箱に捨てるみたいにそんな簡単に」

 かなめがそう言うと――驚くことに――男の口角がわずかに上がった――微笑んでいる? なんで? 初めて男の顔に表情のようなものを見たが、なぜかなめが暴言を吐いたこのタイミングで微笑むのか全くわかなかった。

「では、本当に忘れたくないかどうか、君の胸のうちにもう一度聞いてみたらいいさ」

 微笑んだまま、ねぎはそっとさとすように言った。

「君のその痣が広がれば、君はもっと苦しむことになる。君だけじゃない。この土地の人々にとって、その呪いは毒になる」

 ねぎは一呼吸おいて、さらに続けた。

「あまり脅すようなことを言いたくはないけれど、その痣があまりにも大きくなれば、君はこの土地にはもういられない。この牢屋でかくまってあげることはできなくなる。対処が可能なうちに私のいうことを聞き入れた方が君のためだよ」

言い返す言葉を思いつかずかなめはうつむいた。膝から下にまきつけた薄汚い毛布を握りしめた。ねぎが去っていく足音が聞こえる。

感情のないその男の心が伝染して、かなめの心も空虚にむしばまれていくような気がした。気が付けば涙も引いていた。


 ◇


正義は謎の少年の後ろについて歩いていた。素顔をさらしてはいけないというので、うつむきがちに少年の後ろをぴたりとつくようにして歩く。歩きながら、考える。

本当に夢じゃないのならば――これは、大変なことになってしまった。崖から落ちた拍子に、自分はどうやら、地図上に存在しない訳の分からない土地に迷い込んでしまったらしい。しかも少年の話によれば、その土地はこの世でもないし、あの世でもない。

 さすがにその荒唐無稽な話を全て信じたわけではないけれど、ただ自分をからかうためだけにしたでっち上げの話とも思えなかった。先ほどの天狗に絡まれた不可解な事件や、お面で顔を隠している異常な通行人たちがこの土地の異常さを表している。

 この少年が本当のことを言っているかどうかはともかく、おかしな土地に迷い込んでしまったのは事実なのでとりあえず、しばらくはこの少年についていくしかなさそうだ。

 時折顔を上げ周りを見てみると、きれいな街並みが目に入る。立ち並ぶ和風の民家は昨日完成したと言わんばかりに、その白い漆喰の壁が眩しくきらめいている。

正義は昔何度か言ったことのある温泉街の景色を連想したが、それよりもいくぶん人工的で新しいような印象を受けた。等間隔で並んだ電燈に緑、四角い石が整然と敷き詰められた道路――汚れている部分が全く見えない。

 通りを歩く人は皆、相変わらず奇怪なお面で顔を隠している。狐や犬、豚に鳥――動物を模したようなものが多い。

 正義はちょうど前を歩いてくる人がお面をしていないから、驚いてまじまじと見てしまった。眉がきりりと濃い美しい女性の顔をしている。なんだ、お面をしていない人もいるんじゃないか。

 近づいてきたとき、その表情まで見えたが、薄く微笑んでいるようだった。微笑んでいるまま固まっている。そして、顔に似合わず、身体は男のように骨ばっていて、いかつい。近付いてみて――初めて気が付いた。美しい女性ではなく、美しい女性のお面をつけているのだ。二つの両目のところは穴になっており、その奥、生きた目がぎょろりと動いた。鎧の奥で、正義のことを睨みつけている。

 心臓が早鐘を打った。先程の天狗たちとの一件がフラッシュバックした。また、おかしないちゃもんをつけられては困ると、あわてて顔を隠すようにうつむいた。

 特に何事もなく、その美しい女のお面とはすれ違った。

 前を歩く、泣き顔の猫の少年が正義を振り返って、見た。

「大丈夫?」

 正義は、顔を上げずにこくこくと頷いた。

 少年はまた前を向いて歩きだした。

 これは夢か、夢ではないのか――いろいろと、あまりに手が込みすぎている。

そういえば、少年がどこを目指しているのかも分からないまま、ぼんやりとついていっている。どこに向かっているのだろう。聞いたら教えてくれるだろうか。

「ねえ、いったいどこに」

「あ、やばい!」

 質問は途中で遮られた。

 少年は正義の二の腕の辺りをむんずと掴むと、道の脇に連れ込んだ。それから、たまたまそこにあった家の引き戸をガラとあけると、その中に正義を押し込むように背中を押した。正義は前につんのめって、両手をついた。振り返って、乱暴をしてきた「いったいなにするんだ」という顔で少年を見る。

「隠れてて! 何も喋っちゃ駄目!」

 正義が不安そうな顔でいると、

「音も立てるな!」

 と付け加えて、少年は戸をぴしゃりと閉めた。

いったいどうしたというのか。家は空き家のようでがらんとしていた。小さな棚と、奥に大きな茶箪笥といくつか小さな壺が置いてある。小さな四角い窓が一つあって、そこから外の光が差し込んでいる。

正義は、窓に近付いて、外の様子を伺い見た。

 ちょうど少年の後ろ頭が見えた。それから、少しして、ばさばさという羽の音が聞こえてきた。目の前に大きな影が降って来たかと思うと、どんという着地音と共に、巨大な鳥が降りてきた。

 いや、鳥じゃない。人だ。その顔は黒い天狗のお面で覆われている。驚くべきことは、背中から一対の大きな黒い翼が生えているということ。正義はふっと意識が遠のきそうになるのを感じた。頭がくらくらする。――いったい次から次へとなんなんだ。

 翼の生えた黒天狗は少年の正面に立って、ゆっくりと首を動かし、左右を見た。手にはあの赤い顔の天狗と同様、鈴のついた黒い槍を持っている。

「一人か?」

 そいつは、大きく野太い声を発した。

 正義は化物に見つからないように、窓をのぞくのをやめてかがんだ。息をひそめて、耳をそば立てる。

「ええ、そうです」と少年の声が聞こえる。

「ここで何をしていた」

「何をしていたって、ただ歩いていただけです。ちょっと近くの八百屋で買い物をした帰りですけど……いったいなんです?」と少年が怪訝そうに聞いた。

「通報があった。西区三番街にストレイシープがでたらしい」

「へえ、それは、それは」少年がわざとらしく息をのんだ。

「三角の猫耳の人物が、そのストレイシープの手を引いて姿を消したと」

「へえ、そうなんですか。それは大変ですね。早く捕まえて下さい」

 黒天狗は黙っている。

「あ、えーっと、まさかわたしのこと疑ってるんですか? 猫耳の人なんてごまんといるじゃないですかあ。わたしじゃありませんよ」

 正義はじっと耳をそばたてて固まっていた。シャンシャンシャンと言う音がした。まさか――まさか、ここに入って来るのか? 正義は恐怖と戸惑いで吐きそうになった。

 吐き気を何とか堪え、大慌てで音を立てないように四つん這いになりながら移動する。部屋の奥の隅にある大きな茶箪笥の扉を開くと、その中にもぐりこんだ。音を立てないようにそっと扉を閉める。

 ガラと、引き戸があけられる音がした。

「空き家か」と天狗が独り言を言っている。

 見つかったら、自分は今度こそあの槍で八つ裂きにでもされるのではないか。正義は、箪笥の中で、恐怖で歯がカタカタと震えそうになるのを必死で抑えた。足もぶるぶると震えだしそうになったので、両手で必死に抑えた。

「天狗さん、そのストレイシープの特徴教えてくださいよ」と少年が言う。

 天狗は少しの間をおいて、ゆっくりとした口調で答えた。

「一〇代後半、背丈一七〇ほど、黒髪の短髪、細身で、奥二重でやや垂れ目、右頬と顎の右側にほくろ」

「ははあ。なるほどです。そんなところにほくろが……」

「うつし世の若者が集団生活で用いる黒い装束をみにまとっている。妙に詰まった襟と五つの金ボタン」

 天狗の細かすぎる説明を聞きながら、正義は箪笥の中で吐き気と格闘していた。

「なるほどなるほど。……あ!」少年が手を叩き、「そんな感じの人なら先ほど見ましたよ」と言った。

 少年はそう言うと、通りの名前を挙げて「ここを探してみたらどうでしょうか」と続けた。天狗と少年がまだ少し言葉を交わしていたようだったが、結局、少年のいう言葉を信じたのか――シャンシャンシャンシャンシャン、天狗が空き家から出ていく気配がした。

「見廻りご苦労様でーす」という少年の変に間延びした声に、ばさばさという羽音が聞こえる。どうやら、黒天狗は飛び立っていったらしい。しかし、しばらく正義は腰が抜けて立ち上がることができず、箪笥の中で震えていた。

物音がして、箪笥の中に光が差し来んだ。見れば、泣き顔の猫が正義のことをじっと見ている。

「大丈夫。もういったよ」と少年が言った。

 正義は震えそうになる足を必死でなだめながら、箪笥の中から出た。外へ出て、上を見れば、澄んだ真っ青の空のなか、黒い点が動いている。あの翼をもつ黒天狗だろう。もう点のように小さくなっている。どこへ帰るのか、見れば、なにやら高い塔の方へと帰っていくようだった。

正義の視線の先に気が付いたのだろう。少年が教えてくれた。

「天狗たちは皆、あのお城に住んでいるだいだい様に仕えているんだ」

「だいだい、さま?」

「そう。だいだい様は魔法使いみたいに不思議な力を持っていて、この土地の人は誰も逆らえない」

 ――なるほど。天狗よりも上、とにかく偉い人がいるということは分かった。魔王のようなものだろう。

「それにしても困ったな」と少年は腕組みをしている。

 それから、正義を見て、

「あいつ言ってただろ? 猫耳が連れ去ったとか何とか。誰かがおれのことも一緒に都に通報したんだ。通報されたのが、あんただけならまだごまかせるかと思ったけど、二人で歩くと目立ちすぎる」

 少年は、すこし思案している様子だったが、やがて不安げな表情で固まっている正義に言った。

「ちょっとここで待っていてくれ。あんたに新しいお面と服を持ってくるから」

 正義は震えた。一人で、ここで待つというのか。もうここに来てから、二回も危険な目にあっている。この訳の分からない土地を一人で乗り切れるとは思えなかった。

 よほど正義が不安そうな顔をしていたのだろうか。少年はおもむろにお面を上にずらして、素顔をさらした。丸い頬に、黒目の大きい可愛らしい顔立ちが現れた。

 ずっと少年だと思っていたが――なぜなら、自分のことをおれと言っていたし少年のような恰好をしていたから――お面の下から現れたのは少年ではなく、少女だった。

 少女は、素顔をさらして、正義に向かってにっと笑った。

「そんな心配しないで、大丈夫だよ。絶対帰ってくるから心配ない」

 少女がそう言って笑うと、ぴょこんと親しみやすい八重歯が覗いた。この少女に対してぼんやりと感じていた不信感が一瞬でぱっと晴れたようだった。――この少女のことを信じてみようと思った。


 そして空き家の中、念のため茶箪笥の中に身を隠したまま、一時間が経った。一時間というのは、時計がないから推測だが、体感ではそのくらい経っている。もしかしたら二時間かもしれない。


 正義は謎の少年――いや、少女の言葉を思い返していた。この土地に招かれるのは自殺した人たちだという言葉。

 ということは、あの少女自身も自殺したということだろうか。彼女は、正義よりも一つか二つくらい年下に見えた。背も自分より低いし、まだあどけない顔立ちをしていた。そんな少女が自殺をするほど追いつめられるなんて一体何があったのだろう。学校の虐めだろうか。家庭の問題だろうか。

 時折、ほんの少しだけ窓の外から外の様子をうかがった。日は傾き、辺りは薄暗くなり始めている。箪笥の中に戻る。

 正義は西田かなめのことを考えた。彼女は今頃どうしているのだろう。この土地のどこかにいるのだろうか。正義は彼女のことを追って――正確には彼女に似たのっぺらぼうだけれど――この土地に来たのだから、西田かなめはこの土地のどこかにいるはずだ。

正義は、彼女に『招かれた』のだと感じていた。しかし、この訳の分からない土地で、どうやって探し出せばいいのか。――この土地の人は皆、おかしなお面で素顔を隠しているというのに。

それに家に帰らなくて、うちの両親は大丈夫だろうか。半狂乱になって、捜索届など出していないといいけれど。――まあ、これが夢ではなかったらの話だけれど。

そんなことばかり、ぐるぐると考えていた。とんとんとんと軽やかな足音が聞こえてきた。

「お待たせ!」という声と共に、茶箪笥の扉が開けられた。もはや見慣れた泣き顔の猫が現れ、正義は外へ出た。既に外は暗くなっていた。

「ほら、ちゃちゃっと着替えてくれ」

 猫耳の少女は地味な鼠色のシャツとズボンを正義に渡した。正義はもぞもぞと箪笥の影に隠れて着替えた。着替え終わると、なぜか少女は、登山にでも行くのかと言うくらいの厚手のコートも正義に渡した。少女自身も、暑そうなコートを着ている。

「そんなに寒くないけど」と正義がいぶかしそうに言う。

「今から行くところが寒いんだよ。まあ、まだ着なくてもいいから持っていて」

「どこに行くの?」

「ちょっとさ、潜るんだよ。下にね。あ、あと、下に潜るまではこれつけておいて」

 そう言って、少女が渡したのは、口の曲がったひょっとこのお面だった。

 どうせならもっといかしたお面がよかった、と内心思いながらも、正義はお礼を言って、お面を受け取ると、また少女のあとをついて歩き始めた。

暗くなった通りは、昼間と比べて幻想的で魅力的に見えた。道に等間隔に立ち並んだオレンジ色の電燈がぼんやりと灯りをともし、民家の漆喰の壁や舗装された道を暖かそうな色に染めている。通りを歩く人の数は減っている。

しばらく歩いていると、少女は小道にそれた。小道をそれて、民家と民家の間のようなところを通る。高い石の塀と石の塀にはさまれたそれは、道とも呼べないくらいの空間だったけれど、その空間を少年はずんずんと進んでいく。正義も黙ってついていく。

そうして、何度か曲がったりしてうねうねと狭い空間を抜けたところに、少し開けた場所があった。大きな緑の月桂樹が見下ろすように立っており、そのすぐ横には小さな石燈籠がある。

そこで少女は立ち止まった。

「じゃあ、降りるよ」と言った。

少女は石燈籠の真下にある石のタイルから数えて三つ目のタイルに手をかけた。少しだけタイルとタイルの間に隙間があるようで、その隙間に手を挟んで、ぐいとタイルを持ち上げた。

タイルの下から、人一人がかろうじて降りられるくらいの小さな穴が出現した。正義はごくりと唾をのむ。――え、ここから降りるの? 階段じゃないの?

「地下に繋がる穴は全部で一一個あるんだ。おれが場所を把握しているのは。八つだけだけど、その中でもこれは、結構おりやすい穴だ」

「はあ」

 正義の口からはまた呆けたような声が漏れてしまった。不安そうな正義の顔を見て、少女はお面の奥で苦笑したのが分かった。

「大丈夫大丈夫。おれが先に降りるから、正義はその後からゆっくり降りて来て。ああ、あとそのコート、もう着ておいた方がいい。下、寒いから」

 そう言って、少女は足を穴の中にいれた。下半身、上半身、穴の中に呑まれていき、頭も消えた。穴の中には梯子が付いているらしい。正義は、分厚いコートを着ると、少女の後をついて、穴の中に身体を入れて梯子で降りていった。

 ふうふういって、梯子を下りる。下に行けばいくほど、寒さが身に染みるようだった。なるほど、少女が言っていたことは本当だったらしい。真冬の寒さだ。

降りてみると、そこに広がっていた空間は、大きな洞穴という感じだった。まるで先ほどいた地上の世界とは違う。人工的に行き届いた綺麗な感じが全くない。

「お面外していいよ」

 そう言って、見れば、少女は猫のお面を外し、素顔をさらしている。正義も外した。少女は歩きながら、正義に説明する。

「ここは――地下は、日が当たらないから、寒いけど、けっこう居心地のいいところだよ。おれにとっては」

洞穴を少し歩くと、ぽつぽつと電燈があり、明るくなってきた。道も広くなり、歩いている人もいる。――驚くことに、皆、お面をしていない。なんだか元の世界に戻って来たみたいだ。

「地下街はね、この土地で唯一だいだい様の支配が及んでいないところで、だから、お面をしていない人もたくさんいる」

 正義の心を見透かしたように、少年は説明した。

「この地下街は、つまりなんていうかな、日本でいうと、歌舞伎町みたいな感じかな。無法地帯というか。まあ、歌舞伎町なんて行ったことないから、ただのイメージで言ってるんだけど」

 歌舞伎町――正義も行ったことはなかったけれど、なんとなく言いたいことの意味は伝わったような気がした。それからふいに少年は自己紹介をした。

「そういえば、まだ名乗ってなかったね。おれのことはまじまって呼んでくれたらいいよ」

「まじま?」

「そうそう。真実の真に、左に山で、右に鳥のしまで真嶋。呼び捨てでいいよ」

 真嶋と呼び捨てでいいと言われたが、いきなり呼び捨てにするのは気が引けるから、正義は真嶋さんと呼ぶことした。

 歩いていくと、狭く感じていた空間は少しずつ広がりを見せ、街のような雰囲気を見せ始めた。ぽつぽつとある電灯に照らされて、道行く人と、それに小さな商店のようなものもいくつか見える。歩く度にひんやりとした岩の感触を足元に感じた。

 真嶋は歩きながら言った。

「天狗に捕まえられそうになったのはどうしてだと思う」

「さあ……わからない」

 天狗は怒りがどうとか言っていたっけ。

「あれはね、一種の試験だよ」

「試験?」

 正義は眉をひそめて訊いた。

「眼鏡を壊されただろ? そのとき、正義が全く反応しなければ合格。ちょっとでも感情的になったら、アウト。まあ、その試験って言うのはさ、だれかれ構わず吹っ掛けられるわけじゃなくて、ちょっと怪しいやつが吹っ掛けられるのさ。正義はあんな人通りの多いところで、お面をしていないなかったし、学生服を着ていたから目を付けられたってわけ。学生服は、あっちの世界にしかないものだから、こっちの世界では異質に見える」

 あっちの世界と言うのは、つまり生前の世界のことだろう。正義がなんとか理解しようと黙って聞いていると、真嶋はつづけた。

「あっちの世界では、人前で怒ったり泣いたりしても罰を受けることはなかっただろう」

 それはそうだ。当たり前だ。正義は「うん」と頷いた。

「この土地では、だいだい様のつくった掟により、外の通りで怒ったり泣いたり、大きな感情を現した場合には、罰が与えられるんだ。道行く人々が、お面をしているのは、表情を隠すためさ。それと、そうして表情を隠すことが、だいだい様への忠誠の証になってるところもある」

 なるほど。あまりに素っ頓狂だが、素っ頓狂なりに一応、その説明には筋が通っているように思えた。正義は深く考えるのをやめた。

 歩いていると、好奇心をそそるようなものがいくつか目に入ってきた。今、通り過ぎた屋台では、いろとりどりのグミや砂糖菓子が売られていた。次に通り過ぎた店では、人の顔が描かれたカスタネット、月の形をしたギターなど風変わりな楽器がずらりと並べられていた。

 少し歩くと、右手に薄暗い明かりに照らされて、沢山の書物が平売りされているのが見えた。本屋さんだろうか。『恋愛漫画緊急入荷‼』という大きなポップが見える。

 ポップの下を見れば、数冊の恋愛漫画が平売りになって売られている。そこに何人かの人がたかって、わあわあ言っている。ちょっとした取り合いのようになっている。正義は首を伸ばしてみてみたが、それは正義が小学生くらいの時に少しはやった恋愛漫画だった。確かもう七年くらい前の作品だ。ここではそんなにこれが人気なのか?――なんだか、少しおかしな光景だ。

「どうした?」

「あ、いや」

 正義がおかしさをどう説明しようかと思っていると、正義の視線の先を辿った、真嶋が言った。

「本屋? 本屋なんてあっちの世界にもあるだろ?」

「うん、いや、ここではあの漫画が流行ってるの?」と指さして言った。

 真嶋は正義の言う『あの漫画』の方を見て「ああ、あれね」と納得したように言って、続けた。

「あっちの世界から持ち込まれた恋愛漫画はいつだって争奪戦だよ。あんなふうに」

「どうして?」

「だいだい様が恋愛漫画の発行を禁止してるから。だから、あっちの世界から時折持ち込まれる恋愛漫画が飛ぶように売れる。こういう地下ではね」

 正義は首をかしげながら聞いていた。言っていることの意味は分かるが、どうしてそういうことになっているのかよく分からない。

「さっき、人前で大きな感情を表すことが罪になるって言っただろう? そのために、何が禁止されていると思う? 一番人が怒ったり泣いたりすることってさ、何だと思う?」

 正義はますます首を傾げた。その問いが今の恋愛漫画の話と、どう繋がっているのだろう。真嶋は正義の目をまっすぐ見て、いった。

「恋愛だよ」

 ――恋、愛?

「人が一番怒ったり泣いたりするのは、恋愛。だから、だいだい様の統治する都では恋愛することだけでなく恋愛を含むあらゆるものが禁止されている。小説も漫画も。でも、禁止されているその反動で、こういう地下街で、恋愛漫画とかがばかみたいな高値で取引されるってわけさ」

 ――なるほど。言っていることの意味は分かる。けれど、そんなのおかしすぎるという思いが、正義の眉を八の字にした。恋愛はいいことではないだろうか。正義はいいことだと思っている。深く考えず、隣の少女に尋ねる。

「真嶋さんも、恋愛は悪いって思うの?」

「うーん」

 真嶋は遠くを見るような目つきをして少し黙ったけれど、すぐに

「まあ、いいものではないよ」とさらりと言った。

 正義はその答えに意外なものを感じた為、「どうして」ときこうとしたけれど、真嶋が口を開く方が早かった。

「そうそう、で、地下に来た目的なんだけどさ」と真嶋が正義を見て、言う。

「正義があっちの世界から持ってきた持ち物、売りたいんだけど、いいかな?」

「へ?」

 きょとんとした顔の正義に真嶋が説明した。あっちの世界のものは、この地下の市場では高価な骨とう品のごとく高値で売ることができるらしい。正義の学生服や学生鞄やその中に入っていたノートやペンが、だ。正義にとっては、ノートやペンなどガラクタにしか思えない。正義は「売っていいよ」とこたえた。

 それから、真嶋はいくつか店を回って、その店主たちと値段の交渉始めた。正義は近くをぶらぶらしながら、真嶋を待っていた。

待っている間ずっと、正義はいつ打ち明けようか、ということばかり考えていた。今はまだ、この土地のいろいろなことが分からなさ過ぎて、少年の説明を聞き、あとをついていくだけで必死だけれど、近いうちに本当のことを言わなくてはいけない。

 正義がここに来ることになった経緯を。そう、自分は自殺したわけではない――失踪したクラスメイトの亡霊を追って来たのだということ。

 きっと少女は正義のことを自殺したのだと思っているだろう。それでもしかしたら同情もあって、こんなにいろいろと親切に案内をしてくれているのか知れない。だとしたら正義が本当のことを話したら、少女の態度は変わってしまうかもしれない。考えすぎかもしれないけれど。

やがて、真嶋が帰ってくると彼女は満足そうな表情をしていた。「やっぱり学生服と学生用の鞄は高く売れるよ」と言った。それから、「眼鏡もあれば、眼鏡も高く売れたはずだったんだけどなあ」と真嶋は惜しそうにぼやいていた。

 

それから少し歩いて、真嶋と正義は、『つばきや』という看板のある小汚い酒屋のようなところに入った。

中には、細長いこげ茶の洋卓が一つあり、そのまわりにもいくつか、丸い洋卓が置かれている。正義たち以外に客は二組、丸い洋卓に座って何か食べている。

真嶋は店主と知りあいらしく、いくつか言葉を交わしていた。それから、細長い洋卓の一番はじっこに座った。二人は向かい合う形で座る。

 ほどなくして、洋卓の上に黒い麺麭と骨付きの肉のようなものが皿に提供された。一口齧ってみたが、けっしておいしいとは言えなかった。

「やっぱり食べものの味は、都に比べて落ちるんだよねえ」

 真嶋が残念そうに言う。

 正義は「全然食べられるよ」と言いながら食べたが、正直それほど空腹ではなかったし、あまりおいしくなかったから無理やり飲み込んでいるという感じだった。戸が開く音が聞こえ、見れば三人ほどの新しい客が入って来るところだった。大きな丸眼鏡をかけたボブカットの若い女に、背の高い恰幅のいい男が二人。

 丸眼鏡の若い女は、真嶋の知りあいらしく、真嶋の隣に座った。

「まじまん、お疲れ」

「ああ、れみさん」

 正義は緊張で身体が硬くなった。この土地で、真嶋以外と交流するのは初めてだった。いや、天狗たちとのやりとりを交流と言うなら、初めてではないが、あの一件はただひたすら恐ろしかったため、もはやトラウマになっている。

 真嶋は、れみさんと呼んだ女性といくつか言葉を交わしていた。れみさんと一緒にいた男二人は、特に何も喋らずただ麺麭と肉を口につめこんだいた。

 正義も黙って、麺麭を頬張っていた。

 二人は何か喋っている。会話のほとんどは正義が理解できるものではなさそうだったが、ところどころ聞こえてくる単語から、何がいくらで売れたか、どこの店だと高く買いとってくれるか、とかそういう情報交換をしているらしいと分かった。

 会話が途切れる。正義は黙々と咀嚼していた。

「ねえ、あんた、誰か追って来たの?」

 唐突に投げかけられた質問が自分に向けられたものだと気付かず、少しの間黙って麺麭を咀嚼していた。質問に誰も答えないから、ふと隣を見ると、斜め向かいに座った丸眼鏡の女がじっと正義のことを見ていた。正面から顔を見ると、その前髪が短すぎるのが気になった。

「えっと」

 正義は口ごもる。誰か追って来たの、とは、あのことだろうか。崖から落ちる前、西田かなめに似たのっぺらぼうを追ってきたこと――。いきなりそんなことを聞かれるとは思わなかった。

 少しして正義は口を開いた。いつ言おうかと思っていたが、そうだ、この機会に言ってしまおう。自分は自殺をしたのではないと。

「いや、違うよ」

 正義が言葉を発する前に、向かいに座っている真嶋が否定した。

「彼もいろいろと悩みが多かったみたいでさ」

 さらに続けて、真嶋が言う。真嶋は正義のことを見ずに、丸眼鏡の女を見てこたえていた。それが、正義に応えさせまいとしての発言と態度に思えた。――どうして?

「ふうん。悩みねえ」

 丸眼鏡の女は頬杖を突き、細い指で洋卓の上をこつこつ叩きながら、まだこちらを見ている。短い前髪の下、疑い深そうな瞳をしている。正義は何か言おうと口を開いたが、ちらりとこちらを見た真嶋と目が合った。なんとなくその表情に、何も言ってはいけないという圧を感じた。

「まあ、彼も今はあまり思い出したくないみたいだし、そっとしておいてあげようよ」

 真嶋がまた丸眼鏡の女に向き直り、言った。彼女は、追及するのを諦めたらしく「そう」と短く言った。

 それからは口数少なく、食事が続いた。正義と真嶋はほぼ同時に食べ終わり、席を立った。真嶋は彼女たちに「じゃあ、おさきに」と挨拶をすると、勘定をして店を出た。


 そして、次に入ったのは『ふなだや』と看板が出ている古びた宿だった。

 正義はまだ心の中のどこかで、いったいいつこの夢から醒めるんだろう、という気持ちを抱きつつも、その宿の一室に案内された。まさか夢の中で、寝るための部屋を案内されることになるとは。――やはり夢ではないのか。

 五帖に満たないくらいの小さな一室で、二段ベッドと小さな机以外大きな家具は何もない。

 真嶋はその一室を案内すると、「ちょっと待っていてくれ」と言って部屋を出た。

 正義は座って、部屋を眺めていた。机の上に手帳があるのが気になった。よほど使い込んでいるのか、端はよれており、いたるところに手垢のあとがある。 

なんだろう。日記帳? 興味がそそられた。――なにか、この土地の謎が解けることが書いてないのだろうか。

 勝手に見ては駄目だろうと思いつつも、ぱらりと項をめくってみた。


 その人はどんな願いでもかなえてくれるという――


 がちゃり、と音がして、正義はあわてて手帳から手を放し、机の上に置いた。焦りで心臓がばくばくいっている。

 真嶋が帰ってきた。正義の不自然な様子から何か感じ取ったのだろう。真嶋は机の上の手帳を見て、「みた?」ときいた。

 正義は謝って、ぱらりとめくったけれどほとんど読んでないことを伝えた。真嶋は少し顔をしかめた。

「勝手に開いたらだめだよ」

 もっともだ。正義は「ごめんなさい」と謝った。だけれど、真嶋がそれほど怒っていなかったようだったから、きいてみた。

「それって、日記帳?」

「うん。まあ、そんなとこ」

 ぱらりとめくって飛び込んできた文字は、全ての願いをかなえてくれる、という強烈な言葉だった。――いったいなんのことだろう。きいたみたいけれど。

真嶋が口を開いた。

「別に読まれて困ることは書いてないけど。でもまあ、やっぱり読まれるのは嫌だな。なんか恥ずかしいよ」

 もっともだ、と思った。日記帳ほど読まれて恥ずかしいものはない。

「そうだよね、ごめん」と再び謝っておく。読んだ内容について問うのはやめておこう。

「あ、でも日記帳っていうのは違うかな。書いてあるのは、全部昔のこと、生前の頃のできごとなんだ。この土地にいるとすぐ昔のことを忘れちゃうからさ。覚えていることを書きだしておいたんだ」

「へえ――忘れるって?」

「あっちの世界で起きたこと、ぜんぶ忘れちゃうんだよ。そりゃもう、びっくりするくらいの勢いで。そういう変な空気がこの土地に流れているのかもしれない。おれなんてもうお父さんお母さんの顔をぼんやりとしか思い出せないし」

 忘れてしまう――夢の中の出来事を急速に忘れてしまうみたいに、だろうか。

「だから、唯一ちゃんと思い出せるのは、その手帳に書いてあることだよ。思い出せることを全部書いたんだ。それで、何度も読み返して思い出してるから、そのことだけは忘れずにいられるんだ」

 そうまでして忘れたくないこととはいったい何なのだろう。

「どういうことを書いてるの?」ときく。

「うーん、ある友達のことだよ」

 そういう真嶋の表情に、一瞬陰りが見えた気がした。正義は、真嶋が何かそれについて話すかと思って続きを待っていたが、真嶋は口を開かなかった。なにか考えているようで目を伏せている。

 正義から口を開いた。

「あの、さっきの話だけど。あの酒場の眼鏡の女の人が、誰かを追って来たんじゃないかってきいたときのこと」

 真嶋は「ああ!」と言って、沈んだものおもいから会話に戻ってきた。

「ああ、れみさんが言ってたことね」

 正義も丸眼鏡の女性のことをれみさんと呼ぶことにした。

「そのれみさんが言ってたことは当たってるんだ。僕は……実は、自殺したわけじゃない」

「ああ、うん。知ってたよ」

 予想外の返事に言葉を失う。――知っていた? 自分にあれこれ優しくしてくれていたのは同情と言うわけではなかったのか。

 真嶋はさらに、さらに正義を驚かせた。

「だって、おれもそうだから。おれも、追ってきた側の人間だよ。だから正義が道端で天狗に絡まれている様子を見て、おれと同じだなってピンときた」

 ――なんだって?

「本当はもっと早くにこういう話をした方がよかったんだけど、誰かに聞かれるとまずい話だからさ、あまり外では話せなくて」

 正義が質問をする前に、真嶋は自ら話し始めた。

「おれも、仲の良かった子がある日いきなり、自殺した」

 真嶋の表情には陰りが見えた気がしたが、その口調は淡々としていた。

「そのことがどうしても受け入れられなくて、ご飯も食べられなくなったし、夜も眠れなくなった」

 きいているだけでも、正義は胸が苦しくなるのを感じた。

「そしたら、ある日突然、幻覚を見るようになった」

 幻覚――自分と同じだ。自分ものっぺらぼうの幻覚を見た。

「小さい男の子の幻覚なんだ。顔に青い鬼のお面をつけてて、五歳くらいかな。たぶん他の人には見えてなくて、おれにしか見えてないんだけど、街中でその子につけ回されるようになった。最初はとうとう頭がおかしくなったんだと思ったんだけど、同時に、直感的に分かったんだ。それが自殺した友達の亡霊だって。その友達はおれと同い年だったから、どうして幼い姿を取っていたのかは分からないけど。その亡霊を追いかけてたら、気が付いたらこの土地に迷い込んでいた」

 そうだ、正義も同じような経験をした。正義の場合は、消えたクラスメイトに姿恰好が似たのっぺらぼうだったけれど。そのことを話すと、真嶋は少し驚いたようだった。

「のっぺらぼう? へえ、そんな姿を取ることもあるんだな」

 真嶋はつづけた。

「この土地に来る人は、自ら命を絶った人がほとんどだよ。おれたちみたいな追ってきた側の人間は多分本当にごく一部だと思う。そういう人間は、ストレイシープって呼ばれて、都の人たちに危険人物扱いされる。ばれたら、間違いなく牢屋送りで、一生出てこられないんじゃないかな」

 正義は黙って、続きを待っていると、真嶋はさらに説明した。

「だからこのことはあまり人には言わない方がいい。れみさんが特別駄目っていう訳じゃない。彼女はおれの知りあいだから、もしかしたら通報なんてしないかもしれない。でも、ストレイシープであることを都に通報したら、都はその通報者に多額の報酬を支払うことになってるんだ。だから、本当に絶対に信頼できる人以外には、そのことを漏らさない方がいい」

 だから、正義が本当のことを言おうとしたのを口止めしたのか。それにしても、本当に困ったことになっている――夢の中の出来事だとしても。正義はあまりに大変すぎる話をきいて、顔をうつむけて床を見ていた。焦げ茶色の木の床には、誰かがヒステリーを起こしたかのような細かいひっかき傷がところどころにたくさんついていた。

「で、その正義が追いかけてきたっていう人だけど」

 正義は顔を上げた。それが、本題だ。

「もちろん、探しに行くよね?」

「うん、もちろん」ごくりと唾をのむ。

「人探しの達人と知りあいなんだ。明日一緒に会いに行こう」

 そう言うと、真嶋は正義を元気づけようとするように、笑顔を見せた。笑うと親しみやすい八重歯がぴょんと覗いた。


 ◇


 城の地下、牢屋の一室。かなめは、掻き込むような勢いで食事を喉から胃へと流しこんでいた。一度、ここでのものを食べてしまえば、何故かもう不味いと感じなくなった。おいしいとも思わなかったけれど、ずっと食べるのを我慢していた反動で、なんだかどんどん食べられてしまう。かなめは空になった銀食器を食器専用の小さな戸口から出した。しばらくして、見廻りの看守がやってくる。

「なんだ、あんなに不味い不味いといっていたのに」

 赤い天狗の看守が小馬鹿にしたように言った。かなめはため息を吐いて言い返した。

「他に食べるものがないから仕方ないでしょう。いちいち話しかけてこないでよ」

 天狗は、「まったく調子に乗りやがって」と毒づきながら、去っていく。

かなめは、右腕を見た。蜘蛛の巣のような不気味な形の痣が、昨日は、手首から肘にまで広がっていた。それが今日では、一回り小さくなっている。あの機械人形のような男が言ったことは本当だったらしい。確かに、ここのものを食べると罪穢れは小さくなるようだ。

――うつし世のことを思い出すと、罪穢れは広がっていく。罪穢れは、うつし世の呪いだから。

あの男はそう言っていた。その脅しのような言葉を思い出す。この罪穢れがどんどん広がると、人に感染する。かなめをここに置いておくこともできなくなる。

鼠色の壁を見ながら、ぼんやりしていると、足音が聞こえてきた。顔を上げると、昨日の白い天狗のお面の男だった。名前はねぎとか言ったっけ。彼はかなめの前でしゃがむと、お面を外して素顔をさらした。

「朝と昼、きちんと食べているようだね」

 ねぎが、相変わらずのあの表情のない目で言った。かなめは、その目をちらと見て、また鼠色の壁を見つめた。この男の目つきは、かなめを不安な気持ちにさせる。

「そうそう、君の新しい名前だけれど」とねぎがかなめの態度にはお構いなしに話し始めた。分厚い目録のようなものを広げている。そこから名前を選べとでもいうのだろうか。新しい名前なんて、あみだくじで適当に決めてくれ、とかなめは思った。

「面倒だから、名前決めるあみだくじ作ってよ」

ねぎはかなめの言葉を無視して、義務的な口調で、淡々と話しを続けた。

そういえば、会いたい人がいるんじゃなかったっけとかなめは思った。クラスメイトでかなめと話す時に少し顔を赤くする男子生徒。――でもどうしてもその名前を思い出せなかった。下の名前の響きがすごく好きだった気がする。格好いい名前だった。でも思い出せない。顔は思い出せるだろうか、と考えて顔もぼんやりとしか思い出せないことに気が付く。確か分厚い眼鏡をかけていたような気がする。かなめは思い出そうと、少しの間、頭の中の記憶とにらめっこしていたが、眼鏡以外には思い出せそうになかった。

なんだかばかばかしいと思った。どうして会いたいなどと思ったのだろう。

「――はどうかな」

 ねぎが一つの名前を口に出した。かなめは名前などなんでもよかった。無感情に、「それでいい」と言った。ねぎは義務的に少し微笑んで、「これで君も少しずつ、この土地に慣れてくることができるだろう」と言った。そして去り、かなめはまた鉄格子の奥に取り残された。

 灰色の空間の中で一人、暇を持て余し、新しい名前を口の中で転がす。転がしていくうちにその新しい名前も悪くないかなとも思えてきた。


 ◇


 目が覚めると、天井が異常に近かった。上半身を起こし、見る。寝ているのは二段ベッドの上の段、五帖ほどの四角い部屋には、小さな丸い窓から薄明りが差し込んでいる――あの恐ろしい夢はまだ続いているようだった。

 夢の中で一晩を越すなんてこと、ありうるだろうか。下を見れば、昨日正義を案内してくれた少女、真嶋はそこにいなかった。

 いったいどうしたらいいのか。そういえば、今日は『人探しの達人』に会わせてくれると真嶋は言っていた。しばらくぼうっと待っていたけれど真嶋は帰ってこなかった。――この部屋にずっといても仕方がないから、正義はおそるおそる部屋を出た。

 下の階へと降りると、なにやら話し声が聞こえてきた。出口に近いひらけた大きな一部屋はたまり場になっているらしく、そこで数人の老人がソファに座り話をしている。

 真嶋はどこかへ出かけているのだろうか。正義はこの老人たちなら、近くにいても特に危険はないだろうと思ったため、空いているソファの一つに座った。

 正義が暇を持て余し、ちらりと老人たちの方へと目を向けると、一人と目が合った。

「おや、見ない顔じゃな」

 正義の顔をじいっとのぞき込み、そう言った。別の老人も加わってきた。

「なんだお前さん、いつからここにおる?」

「お前さんはいくつじゃ」

「しかし、ここは若者にはつまらん土地じゃろう。じじいには極楽じゃが」

「なんせ恋愛ができんからな。こりゃつまらん」

「じゃが、ここに来てから、手の震えが止まったわい。腰も痛くなくなった」

「お前さん。この土地でも昔は城に桜が咲いてたんじゃよ。城には行ったことがあるか?」

「……いえ」

「あそこの桜が散ったり咲いたりしてなあ。綺麗じゃった」

「あれが一年の唯一の楽しみじゃった。今はいつ見ても桜の木が枯れておる」

「月もいつも丸いじゃのう。昔はあれが欠けたり満ちたりしてのう」

「わしは雨が恋しいのう。しとしと降る雨にまたうたれたい」

「雨もいいが、雪もいい。わしはまた雪だるまを作って遊んでみたい」

 だんだんと正義に話しているというより、また老人たち同士で話している感じに変わってきた。しばらくして、宿の戸が開けられた。真嶋が立っていた。

「あ、起きた? ごめんごめん、ちょっと買い物に行ってた」と言って、真嶋は申し訳なさそうな笑みを見せた。


 それから正義は、また昨日と同じように真嶋のあとについて歩いた。真冬のコートを着ていても、ひんやりとした冷気がちくちくと身体を指すようだった。

「とにかく、その追いかけてきた子を探すなら早い方がいいんだ。本当は昨日のうちに探し始めてもよかったくらいなんだけど、昨日は昨日でやることがいっぱいあったし」

 その人探しの達人は、地下街でひっそりと占い屋を営んでいるらしかった。

「付き合いが長くて信頼できる人だよ。まあちょっとびっくりするかもしれないけど」

 真嶋はそう言って、占い屋の方へと正義を案内した。

 びっくりするってなんだろう。もうこれ以上びっくりすることはないといいなと心の底から思っていたのだけれど。

先を歩いていた真嶋がふいに足を止めた。

 足を止めた斜め前あたりで、近くの電灯に照らされ、二人の人が座っている。赤いクロスを敷いた小さな卓をはさんで、女が男に向かって何か話している。顔を近づけ何かを囁いているようだった。正義の方からは、男が真向かいに見え、女の方は後頭部しか見えない。女の頭には、ぬっと突き出た奇妙な突起が二つあって、うねうねと不可思議に動いている。なんだろうあれ、と正義はきょとんとした。

ふいに、真向かいに座る男が、わっと泣き出した。そうして、勢いよく立ち上がると、「いんちきだ!」と叫びながら暗闇に駆けていった。正義はただ呆気にとられた。

 真嶋は正義に「ちょっと待ってて」と言うと、女の真向かいに座った。さきほど、男が泣かされた場所である。

「二千金」と言って、奇妙な女が、すっと白い手を伸ばした。その掌は、何かをねだるように上を向いている。

「はい、どうぞ」と言って、真嶋がポケットから金の硬貨をとりだして、女の手に握らせた。小さな金貨が一〇枚ある。一枚が一〇〇金らしい。

 正義は、その奇妙な女を見た。髪は可愛らしいお下げにして垂らしている。しかし、つけているお面が奇怪だった。顔を覆う部分はのっぺらぼうで真っ白く、目が覗くはずの二つの穴も開いていない。そうして、真っ白いお面から上の方に、ぬっとなにやら突き出たものが二つある。その二つの突起物には、それぞれに大きな眼が描かれており、まるで生きているかのように瞬きをした。よく見れば、白目のところにうっすらと赤い筋がいくつも、浮き出た血管のように張っている。

不気味なのは、その突起が動くということだった。てっぺんに眼を付けたその突起はうねうねと動き、まるで意思があるかのように、真嶋の方を向いていたかと思うと、ぎゅん、と正義の方を向いたりした。女の頭から突き出た生々しい二つの眼に、じいと見られて、正義の血の気が一気に引いた。これはさすがに幻覚だと思いたい。

「何を占いましょうか」

 不気味な女が真嶋に問いかけた。その声は、意外にも細く、弱弱しかった。

「時ちゃん、おれだよ。真嶋だよ」

「えっ、真嶋さん?」

 女がお面をぱっと外した。その下から現れたのは、大人しそうな若い女性。髪をおさげにしているためか、実年齢より幼く見える。不気味なお面と不釣り合いな、その可愛らしい容姿に正義は戸惑った。

「真嶋さん、お久しぶりですね」と言いつつ女は、頬をほんのり赤くした。

「時ちゃん、また、お客さん泣かせたの?」

「ただ本当のこと言っただけなんです。あの人、大袈裟だわ」

 先ほど泣きながら去っていった男のことを話しているらしい。

「今日はちょっとお願いがあってきたんだけど。人を探してほしいんだ」

「ええ? 人探しですか? わたしでよければ……。たいしたことはできませんけど」

 時ちゃんと呼ばれた女性は、気の弱そうな話し方をする。そうして、脇に立っていた正義に初めて気が付いたようで、「あら」と声をあげた。

「どちらさま?」

「正義くんだよ。まだこの土地に来たばかりなんだ」

 時は、正義に軽く会釈をした。正義も会釈を返した。真嶋が正義に言う。

「この方は、時ちゃん。占いをやってて、まあちょっと危ない感じに見えるだろうけど……実は、時ちゃんはすごい人なんだ」

 時は頬をほんのりと赤く染めた。「お時です」と自己紹介した。

「時ちゃんはね、千里眼なんだ」と真嶋が言った。

 お時は、頬をますます赤くした。

「時ちゃんに、その女の子の居場所を調べてもらう」

そう言って、真嶋は例の人懐っこい八重歯を見せて、にこりと笑った。 


 真嶋と正義は隣同士に座り、赤い卓をはさんで、お時が座っている。卓の上には、占い師を象徴するがごとく、丸い水晶がおいてある。一つ目が突き出た不気味なお面は、裏返しに置かれ、その存在感を消している。

「それでは、その子のうつし世での名を教えてください」

「うつし世って?」と正義がきく。

「もといた世界のことだよ」と真嶋が説明する。

「西田かなめです」と正義は名を伝えた。かなめという名前を聞くと、お時は独り言のようにぽつりと「美しい名ですね」と言った。

「それでは、始めます」

 そう言うと時は、裏返しに置いてあったお面を手に取った。正義は背筋がぞくっとするのを感じた。お面を装着すると、お時はのっぺらぼうになる。頭の上では、お面から突き出した生々しい二つの眼が、独立した生命体のように瞬きをし、正義のことをじいと見つめている。

 千里眼とは、千里先までも見通すことのできる透視能力のようなものだという。――お時は、いきなり何者かに憑りつかれたかのようにばたりと後ろへのけぞった。両の手をだらんと下げて、意識まで失ったかのように見えた。対して、頭の上の二つの眼だけが気が狂ったかのように、ぎゅんぎゅんとあっちを向いたりこっちを向いたりしている。突起がちぎれるのではないかと心配になるほど、ぎゅんぎゅんと勢いよく回っている。それから、卓上の水晶の色が変わり始めた。透明から濁った灰色に変わり、ぐるぐると渦を巻き――とても直視できない恐ろしい光景だった。

 ふいに、お時が「あっ」と声をあげて、椅子から崩れ落ちた。真嶋がすぐに立ち上がって駆け寄った。正義も立ち上がった。倒れたお時は、傷をかばうかのように、右腕を抑えていた。その抑えた箇所から、なにやらしゅうしゅうと熱気のようなものが立ち上っている。

 お時は、真嶋の手を借りて、椅子に座りなおした。そして、お面を外した。その下から現れた顔は、火照っている。羞恥の火照りではなく、全力疾走のあとのような火照り方だ。息も荒く、額には汗がにじんでいる。

「時ちゃん、大丈夫?」

 真嶋が心配そうに声をかけた。お時はうなずいた。しゅうしゅうと音を立てていた右腕は、見てみれば特に変わった様子はなく、もう落ち着いている。お時は居住まいを正し、前に向き直って、言った。

「目の前に鉄格子がありました。その向こうは薄暗くて、篝火だけがぼんやりと照らしています。そしてただ座っています。身体は冷たく、手には小汚い毛布を握りしめています」

「鉄格子?」と真嶋が眉をひそめて訊いた。

お時は頷いた。

「右腕を抑えてたけど?」と真嶋がさらに訊いた。

「右腕には」お時は、そこで、わずかに顔を歪めた。言いにくそうに、目を伏せた。「右腕には、罪穢れがあります」と続けた。

真嶋が押し黙る。どういうことか理解が全く及ばない正義も、その雰囲気にのまれて、何も言えずに固まった。

「誰か人はいた?」と真嶋がまた口を開いた。

「いいえ、人影は見えませんでした。寒くてじめじめしていて、ただ心細くって」

 お時の声は消え入りそうに細くなる。正義は、お時が伝えてくれているのは、どこかの光景らしいと気付いた。つまり、西田かなめの場所を調べてもらっているわけだから、かなめのいる場所を伝えてくれているのだ。

「そっか。罪穢れがあるっていうことは」

「ええ、囚われているかと」

真嶋は落としていた視線を上げ、正義を見た。その顔は浮かない表情をしている。

「西田かなめさんは、都のお城の地下牢だよ」と真嶋は言った。

 お時は、申し訳なさそうに、肩身を狭くして、まだ視線を落としていた。正義だけが一人ぽかんとしていた。


 ◇


ねぎは、薄暗い城の地下牢から、いくつも階段を上り、その階段が尽きたところで、立ち止まった。白い天狗のお面を外し、素顔をさらす。だいだいの主は、この部屋でしもべが謁見するときにお面で顔を隠すことを嫌う。

目の前には、黄金の間に続く、黄金の扉がある。

扉の向こうで誰かがすすり泣いている。どうやら罰を受けている最中らしい。ねぎは困ったなと思った。出直してこようかと思った。すすり泣く声は止みそうにない。時間をずらしてまた来よう、と踵を返そうとしたところで、「入れ」という声が扉の向こうからかけられた。扉越しに気配を感じ取られていたらしい。ねぎは諦めて、黄金の扉を開けた。

だいだいの主は――少女の姿をした城の主は、部屋の奥の方に座っている。少女は、ねぎの方をちらと見ると、待てというような合図を手で示した。少女の前には一人の若い娘がいて、めそめそと泣いている。

 ねぎが足を踏み入れたその部屋は、城の一番高いところに位置している。二十畳ほどのその一室は、黄金の間と呼ばれ、嫌味なくらいに豪奢な空間だった。足元には黄金の絨毯があり、壁には金粉が散りばめられている。東西南北全ての方角に大きな窓があり、そこから日の光が燦々と降り注いでいる。日の光を受けて、絨毯と壁がきらきらと輝き、うっとうしいくらいだった。しかし、何よりも目を引くのは、一際輝きを放っている、部屋の奥の壁、だいだいの主が座っている場所の頭上に飾られた大きな太陽の顔だった。目の部分はくりぬかれ、鼻は奇妙に折れ曲がり、表情のない唇がついている。その目と鼻と口のついた太陽は、部屋中の光を一身に集めているかのように、また、集めた光を全て放散しているかのように、少女の頭上で異様な輝きを見せていた。

 太陽のお面。それは、この土地を自在に作り替えることができるほどの強力な力を持っていると言われている。

 ねぎは、この奇妙な部屋に入ると、いつも気が滅入るのを感じていた。できることなら足を踏み入れたくない場所だった。

 少女は金色で縁取られた肘掛椅子に座り、頬杖をついている。

神と称されることもあるその少女――だいだいの主は、たいてい幼い子供の姿をしている。黄金の髪は、腰まで伸び、肘掛椅子から零れ落ち、日の光を吸って輝いている。きめの細かい白い肌に、頬と唇だけが異様に赤い。

都の者たちの多くは、彼女のことを創造主であると考えていた。つまり彼女が、この土地、うつし世ともあの世とも隔絶された奇妙な土地をつくった人物なのだと考えていた。だから、彼女のことを神として崇める者もいる。

そんな少女の姿をした主の前に、質素な身なりをした一人の若い娘が立って、涙を流している。

「それは、恋文などでは、ありません」

 娘が小さな、震える声でそう言った。

「ほう」

愛らしい少女が娘の言葉に眉を八の字に寄せる。そうして手にした数枚の紙きれを不愉快そうな顔で眺めた。

「恋文ではないと? これが?」

「はい。それはただの……ただの友人に宛てたものです」

「なるほど」

 少女は、今部屋に入って来たばかりの、部屋の隅の方に立っているねぎをちらりと見た。出来る限り存在感を消していたねぎは嫌な予感に身体を硬くした。

「では、ねぎにこの手紙を読んでもらおう。余はこんなもの、読みとうない。寒気がする」

 少女がそう言って、指をパチンと鳴らした。途端に、少女が手にしていた紙はくるくると宙を舞って、ねぎの目の前でぴたりと止まった。仕方なく、ねぎはそれを受け取る。

「ねぎ、それを読み上げろ」

 まったく損な役回りだと腹の中で思いつつも、眉一つ動かさず、無表情に、ねぎはその手紙の言葉を読み上げる。

「拝啓、はなまる肉屋の店主、公磨さま」

 ただ淡々と、感情を乗せずにねぎは読み上げる。

「あなたは、わたくしのことを覚えていらっしゃるでしょうか。わたくしは、頭が二つある犬から襲われそうになっているところを、あなたに助けられたものです」

 顔を上げると、読めと指図した少女は聞いているのかいないのか、金色の髪の毛をくるくると指先に巻き付けて遊んでいる。ねぎは続ける。

「その時、わたしを助けてくれたあなたのたくましい腕をわたくしは忘れることもできず、夢にまで見るのです。肉屋の硝子越しにあなたの見た時の、わたくしの心がどんなものか、きっとあなたには想像さえつかないでしょう。あなたのそのたくましい腕が、鳥をさばき、豚をさばき、牛をさばく、その姿――わたくしはその姿を見る度に、胸が高鳴り、喉から心臓が飛び出しそうなほど、切なくてたまらなくなるのです」

 ねぎは、全く意味の分からない文章だな、と内心呆れたように思いつつも、読み続ける。

「わたしの身体も心もあなたに捧げたいのです。どうか新鮮なうちに、あなたのその見事な腕でさばいてください。あなたの腕が私の胸をさき、心臓さえもその手に握りしめてくれたら――それは、わたしにとってこの上なく幸せなことなのです」

 ねぎは読み終わって、顔を上げた。自らの髪の毛で遊んでいた少女は、ねぎが読み終わったことに気が付いたらしい。娘に向かって、詰問した。

「もう一度聞こう。これが、恋文ではないと?」

 問われた娘は黙ってうつ向いた。その肩が震えている。

「ねぎ、恋とは何だ」

 矛先がまたねぎに向かった。

「わたしには、恋の何たるかなどわかりません」

「お前の考えなど聞いてない」

 少女は片方の眉を吊り上げ、とんとんと苛立たし気に指で肘掛をたたいた。

「余の教えが記された『平和の書』を暗記しているだろう。それをこの愚かな娘に聞かせてみよ」

「承知しました」

 ねぎは確かにそれを全て暗記している。地下牢に捕らえられた罪人に説いてきかせる必要があるからだ。促された通り、暗記しているものをただ無感情に口にする。

「恋とは、天使を装った悪魔に惑わされ、錯乱した状態のこと。恋を煩ったものは、相手の本来の姿を歪め、自己に都合のよい美しい像をつくりだす。そしてその像が打ち破られた時、悪魔のごとき憎悪が生まれる」

 ねぎは一度言葉を切った。少女は続けろ、と目で促している。

「その憎悪は、自らだけでなく、周囲の者まで破滅に導く凶器となる。いかなる賢人も、一度、恋に囚われると、狂人と化す。――ゆえに恋とは、この世で最も業の深い罪悪の一つ」 

 ねぎが言い終えると、少女は満足げに目を細めた。

「さよう。恋とは人を殺める狂気。余はそれを見過ごすわけにはいかぬ」

 そう言いながら、再び、金色の髪の毛先をくるくると指に巻き付けて遊んでいる。

「この土地を平和に収めるのが、余の務め」

「しかし、わたくしは誰にも迷惑など……」

 娘が口を開いた。

「愚かな娘よ」

 少女は指先から視線をはなし、娘の方を見た。その目に、先ほどまでには見られなかった怒りの色がある。少女はおもむろに、指に巻き付けていた髪をぷつんと抜いた。その髪を黄金色の絨毯の上に放る。瞬きする間に、落ちた一本の髪の毛はふくれあがり、生命を持っているかのように、うねうねと動き始めた。

 うねうねと動く髪の毛が娘の足元まで来る。見れば、その髪の毛の先端には蛇の頭がついている。恐怖に身を硬くした娘の喉の奥から、喘ぐような声が漏れた。

「どうか……どうか、それだけは」

哀願するように娘が言った。蛇は今や、人の腕ほどの太さまで膨れ上がり、娘の足元でとぐろを巻いている。壁にひっそりと並んで立っていた小鬼たちは、その様子を見て、なぜかくすくすと笑っている。

「その蛇にかまれたものがどうなるかお前は知っているか」

 娘は蒼白な顔で首を振る。

「ねぎ、お前は知っているか」

「いえ」

「知りたいか?」

「……いえ」

先程から、相変わらず周りの小鬼たちがおかしそうに肩を震わせて笑っている。ねぎはなんとも居心地の悪いものを感じた。

「まあよい。蛇の毒でじわじわ苦しむか、蛇に丸呑みにされて一気に終わらせるか、どちらかだ。特別にお前に選ばせてやろう。愚かな娘よ」

 娘はただ蒼白な顔で、目を見開いて固まっている。足元の蛇の口からするすると出たり入ったりする赤い舌が娘の足首をなめている。少女は楽しそうにくすくすと笑った。

「愚かな娘は口のきき方を忘れたらしい。ねぎ、お前はどちらがいいと思う」

「わたしは、どちらでもかまいません」

 ねぎは目を伏せたままこたえた。少女は、その答えに「なんだ。つまらん」と不愉快そうに言った。少しの間、三者とも口を利かない時が過ぎた。やがて、少女が口を開く。

「どうも面白くなくなった。今回限りは見逃してやろう」

 それから脇に仕えている小鬼たちに指図をした。

「教育の塔へ連れていけ」

 その言葉に、娘の目がぱっと輝いた。蒼白だった顔に生気が戻り始める。足元の蛇はするすると、娘を離れ、主の方へと戻っていく。

 小鬼の一人が、娘の手に手錠をかけた。それから小鬼に連れられて、娘は扉の方へと歩き始めた。

「そうだ。愚かな娘よ。お前に言い忘れていたことがあった」

 呼び止められて、娘は立ち止まり、振り向く。

「余にこのことを通報してきたのは、誰だと思う」

 娘はこたえず、戸惑ったような瞳で、少女の言葉の続きを待っている。

「お前の送った恋文を受け取った、肉屋の店主だ」

 そう言う、少女の顔にはおかしくて仕方がないというような笑みが浮かんでいた。

「嘘、です」

 娘の声が震える。生気が戻った顔から、一気に表情がなくなる。

「まったくめでたい頭だ。他に誰がいる?」

「嘘です。嘘です、嘘です」

「余から報酬の三千金を受け取った時の、満足げな顔と言ったら、なかなか見ものだったぞ」

 表情を失った娘の顔に深い絶望が浮かんだかと思うと、その場で、わっと泣き崩れた。ねぎはその娘の、あまりの感情の大きさに驚き、思わず一歩後ずさった。

「醜い感情の奴隷よ。あれが恋でなくて何だというのか。なあ、ねぎ?」

 泣きじゃくる娘を、小鬼たちが引っ張るようにして連れていく。後の部屋には、数人の小鬼と少女とねぎだけが残された。ねぎは彼女の問いかけには答えず、目を伏せて黙っていた。

「そういえば、お前はこっちの方が好きだったかな」

 瞬きをする間に、肘掛椅子から愛らしい少女の姿が消えた。代わりに肘掛椅子に座っているのは、三〇代後半くらいのしわが目立つ女性だった。少しくたびれたような表情と、胸元がはだけた服装のためか、なんともいえない色気のようなものが漂っている。

 ねぎがまったくの無表情でいると、瞬きする間に、目のまえの年配の女性は、元の少女の姿に戻っていた。

 少女は不機嫌そうに言った。

「お前は、愛想笑いのお面をたまにはつけた方がいい」

「お望みであれば、愛想笑いのお面も用意して置きます」

 ヒィーという声がした。見れば、小鬼の一人が肩を震わせて笑っている。足元を這っていた金色の蛇が威嚇すると、小鬼はあわてて笑いを引っ込めた。

少女はため息をつくと、気だるそうに前髪をかきあげながら言った。

「お前を呼び出した用件はあれだ。罪穢れのものの様子を聞こうと思ってな」

 ねぎはそうだろうと思っていたため、すらすらと問いに答えた・

「はい、あの娘が来てから今日で四日になります。初めの三日間はこちらの食べ物を口に入れることに抵抗していましたが、昨晩から食事をとるようになりましたので、あまり心配はいりません」

 少女は、興味があるのかないのか、再び髪の毛をくるくると指に巻き付けて遊んでいる。ねぎは気にせず続ける。

「先程も様子を見てきましたが、罪穢れは順調に小さくなっています。あと三日もしないうちに浄化されるかと」

 ねぎは言うべきことを言い終えると口を閉じた。少女は、報告が終わったことに気が付くと、ふうんと気のない返事をして、自らの金髪で遊ぶのをやめた。

少女の頭上では、太陽のお面が依然として異様な輝きを見せている。長い間このお面と対峙していると、魂を吸い取られそうな錯覚を覚える。

「まあ、落ちなければ、蛇の餌にするまでかな」

 そう言って、少女は足元でとぐろを巻いている蛇をなでながら、からからと笑った。相変わらずねぎの表情は動かない。黙って目を伏せている。

「これはお前に対する忠告だが」

 少女の声が、一段低くなる。その表情には先ほどまでのようなふざけた様子はなく、ただ冷ややかな目でねぎを見ていた。

「罪穢れのものに対しては重々の用心をするように。害のない若い娘に見えるだろうが、うつし世の呪いに憑かれておるのだ。いつ何時おかしなことをしでかすかわからない」

「承知しております」

「昔の話だが、ある囚人の罪穢れが大きくなったために、周りの囚人にも感染して地下牢にいたものの半数以上を処分したこともある。そのようなことにならないようにくれぐれも注意するように」

 部屋の空気がかすかに緊張する。

「もう行け」と少女に言われて、ねぎは一礼すると背を向けた。黄金色の部屋から薄暗い廊下に出ると、緊張が解け、安堵するのを感じた。

 ねぎは、白天狗のお面をつけると、薄暗い廊下をうつむきがちに歩き、地下へと向かっていた。時折すれ違った赤顔の天狗や給仕の狸が、身体をさっとひき、黙礼したが気にとめなかった。地下牢へと続く階段を急いだ。

先程までの、だいだいの主との会話を思い返し、やるべき仕事を頭の中で瞬時に整理する。そして彼自身の中の空虚さと向き合わずに済むように、ただ仕事のことだけを考えた。

「なにか急ぐようなことが、あるのかしら」

 声をかけられて、ねぎは立ち止まった。見れば、柱に身をもたせた一人の女と、二匹の小鬼が立っていた。お面を斜め上にずらした女は、長い黒髪を一つに結った、ほっそりとした美しい顔をしている。ずらしたお面の鼻は細長く、その顔色は銀に輝いている。――銀は白よりも強いという。

「いえ、特に急いでいるわけではありませんが」

 ねぎは銀天狗のお面から眼を逸らし、無表情に答えた。

「あらそう」

「月見さまは、こちらで何を?」

「これから、主のもとに行くところよ。禁書がこれだけ見つかったものだから」

月見と呼ばれた女は紐で縛られた十冊ほどの古びた書物を、目線で示した。二匹の小鬼たちが、それらを頭の上に抱えてここまで持ち運んで来たらしい。ねぎはそれらの書物――一番上の書物の表紙には、猥褻な裸体が描かれていた――と小鬼たちをちらと見ると、すぐに視線を戻した。

 ねぎはただでさえ醜い小鬼たちを見るのが嫌いだが、特にこの月見に仕える小鬼たちほど見ていて虫唾が走るものはなかった。以前、城の給仕係から噂を聞いたことがある。――この小鬼たちが小鬼になる前に、いったい誰であったのかを。

 嫌悪感を表には出さずに、ねぎは涼しい眼を月見に向けた。

「月見さま自ら、地下市場に出向かれたのですか?」

「ええ。時々は、出向いて検閲をするのがわたしたちの仕事でしょう」

 月見の瞳がすっと細められる。

「最近、地下市場が少し荒れていることに、あなたは気づいていて?」

「荒れている? 闇市がですか?」

「ええ。今日だけでこれだけ検閲にひっかかる書物が見つかったもの。うつし世のものが以前よりも多く出回っているみたい。当然あなたも気づいているでしょうけれど」

「話には、聞いていますが」

 実を言うと、ねぎはとある理由から地下街に行くことを控えていた。あの独特な空気を吸うと、近頃妙な気持になる。その気持ちがどういうものなのか、自分でもよく分からないため、とりあえず地下に行くことそのものを辞めていた。

 ねぎは、小鬼の抱える書物を再びちらりと見た。猥褻な裸体が描かれた書物と、もう一つの見えている表紙には『すばらしい新世界』という見出しが見えた。――うつし世の小説か何かだろうか。どうしてだろう。それらの書物を見て、ぱっと心に浮かんだのは、うつし世に対する嫌悪感でもなく、排除しなければという義務感でもなかった。ただ興味が湧いた。――ああいった書物を開けば、うつし世が醜く、恐ろしい場所であったということを、自分は思い出せるのだろうか。

「興味が、おありなのかしら。こういう本に」

 見れば、月見が疑わしそうな眼でねぎを見ていた。ねぎはあわてて口を開く。

「いえ、ただこんなに禁書が出回っているのかと驚いているだけです」

「あらそう。あなたが驚くことなんてあるのね」

 月見は冷たくそう言い放ち、さらに続けた。

「この小鬼たちは驚くほど鼻がきくの。うつし世の匂いはすぐ分る。あなたが地下の市場を見廻りに行くときは、一匹貸してあげましょうか」

「そうですね。――考えておきます」

 ねぎは、月見の視線にまだ自分を疑っている居心地の悪いものを感じていたが、それには全く気が付いていないふりをして、友好的に微笑んだ。

 月見は面白くなさそうに鼻を鳴らすと、小鬼たちに立ち去る合図をした。ねぎに背を向ける際、黒髪の上で銀色の天狗がきらりと光った。

そうして月見たちは黄金の間へと続く階段を上っていった。ねぎは、小さくため息を吐くと、月見たちとは逆の方向、地下へと降りていった。

 

 ◇


「ちょうど城下街の無花果屋の辺りにきれいなカナメの花が咲いていますよ」

 占いを終えた後、お時はそう言ってほほ笑んだ。

「かなめ? かなめって花があるんですか?」正義は聞いた。

「ええ、カナメという木は、桜が散った頃の季節に、赤い葉の中から、可愛らしい白い花を咲かせます」

「へえ、そうなんですね」ものしりな人だな、と正義は思った。正義は花に興味を持ったことがなかったため、全く知らなかった。

「無花果屋のあたりなら、ここから結構近いかな。あとで寄ってみようか」と真嶋は言った。それから何かを思い出したように「あ、そうだ」と声を上げた。

「時ちゃん、お城の地下牢の様子も少し見ることってできる? ほら、地下牢っていってもいっぱい部屋があるからさ」

「あ、確かに、そうですよね。少しなら見えるかもしれません。やってみます」

「ありがとう」

 それから再びお時は不気味なお面をつけるとあの妙な動きを始めた。正義は直視しないで終わるのを待っていた。しばらくして、お時がお面を外す。先ほど同様に、少し顔が赤くほてっている。息が少し切れている。

「み、見えましたよ。……全部ではありませんが、大体の配置はわかりました。簡単に、地図のようなものでも書いておきましょうか」

「ありがとう、時ちゃん。本当に助かるよ」

 時は真嶋のお礼に「いえ、真嶋さんの頼みですから」と言ってにこりと笑った。ほどなくして、真嶋と正義は、お時が作成した簡易的なダンジョンマップを手に、その場をあとにした。


 お時と別れた後、真嶋はすこし思案している様子で黙って歩いていたが、しばらくして口を開いた。地下の薄暗い道を歩きながら、真嶋は言う。

「かなめさんの居場所が分かってよかったよ。それに罪穢れがあるっていうのは――決して悪いことばかりじゃない」

「どうして?」と正義はいったい罪穢れって何なのだろうと思いつつきく。

「罪穢れが悪いっていうのは、つまり、この土地を支配する人にとっては、悪いっていうことなんだ。だって罪穢れはあっちの世界にたいする未練が現れたものだから。彼らが危険死していることは、罪穢れが他の人にもうつって、あっちの世界への未練とか帰りたいっていう思いを持つ人が増えることだと思う。だから罪穢れがある人は、牢屋に隔離されてるってわけ」

 正義は、黙ったまま、なるほどと聞く。

「だから罪穢れがあるっていうことは、かなめさんはまだ生前の世界に心残りがあるっていうことだ。そう言う意味では朗報だ。まあ、城の地下牢に忍び込まなければ会えないって言う点は、朗報とはいえないけど」

 城の地下牢に忍び込む――そんなことが果たしてできるだろうか。

「城には……城には、昨日みたいな天狗がいっぱいいるの?」

正義は不安な気持ちでいっぱいだった。

「うん、そりゃもう、天狗がうじゃうじゃしてるよ。天狗よりさらに上のおっかない人もいるかもね。でもまあ、あんまり詳しいことは知らない方がいいかな」

「どうして?」と正義がふたたび尋ねる。ここへきてから、馬鹿の一つ覚えみたいに「どうして」と聞いてばかりだ。

「あんまり怖いことを知ると、腰が抜けていけなくなっちゃうだろ」

真嶋は真面目な顔で言った。


 それから真嶋は地下街のある商店でいくつか武器を買った。投げると煙が出る目くらまし球、それから相手に投げつけると火花をまき散らす爆弾。それらが城に忍び込んだ際に武器として使えるという。


 正義と真嶋は再び地上に上がり、城の近くの城下街まで来ていた。ずっと寒い地下にいたためか、温かい地上はそこにいるだけで気持ちが晴れやかになった。相変わらず、道行く人は皆、色とりどりのお面をまとい、表情を消している。昨日見た時はひたすら不気味だったその光景も、見慣れてしまえば、華やかに見えなくもなかった。正義もひょっとこのお面をつけてその華やかさの仲間入りを果たしている。

『無花果屋』という看板がかけられた店の横に丸く刈り込まれた木がたっていた。赤い葉をたくさんつけた珍しい木だ。――これが、カナメか。赤い葉は、太陽の日差しに燃えるようにきらめいている。正義は眩しそうにそれを見つめた。

 隣で真嶋が腕を引いた。

「ほら、あれがこれから乗り込む城だ」

 真嶋は指を指す。遠くから見てもその城の大きさが分かる。深い堀と到底よじのぼれそうにない高い石垣にぐるりと囲まれている。堀にかかった石の橋を渡ったところに、大きな門があるようだけれど、そこには槍を持った赤い顔の天狗が二人待ち構えているようだった。おそらく門の向こうに入れば、もっとたくさん待ち構えているのだろう。正義は昨日のことを思い出して、足が震えそうになった。

「正面から行くとああいう見張りが沢山いる。――門番の天狗は赤いね」と真嶋は言った。

 空を仰げば、昨日遭遇した翼をもった黒天狗が空を旋回していた。

「赤い顔の天狗はそれほど恐れることはないよ。怖いのは、赤以外の天狗だよ。昨日、あった黒い顔の天狗とかね」

 確かに、あの翼の生えた黒天狗は、腰が抜けそうになるほど迫力があった。

「天狗は、その顔の色で序列が決められていてね。確か、上から、金、銀、白、黒、赤だったかな」

真嶋はさらりと言った。けれど、正義は耳を疑った。昨日出会った、赤天狗と黒天狗と対峙しただけでも、縮みあがるほどの恐怖を感じたのに、それ以上に怖い天狗がいるというのか。

心の中で「やっぱり自分はできない、そんな怖いことはごめんだ」と弱虫の自分が叫び始めたが、口にするのはぐっとこらえた。ここまできたのだから、やるしかないだろうと、弱虫の自分をおさえつけた。

「どうやって城の中に入ればいいの?」ときく。

「夜中にあそこの門を突き破って城に潜入するしかないな」

「でも門番が……」

「うとうとしているすきをついて、潜り込むしかないよ」

 なんだそれは。たとえこれが夢だとしても無謀すぎる。頭の中で、また弱虫が「やっぱり無理だよと言おう!」と再び大声で叫び出したのを感じた。隣に立つ真嶋を見れば、何故か笑っている。

「ごめん、うそうそ。正面突破なんてできないにきまってるよ。大丈夫、裏道を知ってるから」

 正義は憮然とした顔で「裏道?」と聞き返した。

「そうそう、裏道。あの城の地下にはね、貨物列車が通ってるんだよ。だから、その列車に乗り込めばいいんだ」


城下街から離れるようにしばらく歩き、人気のない丘の上にたどり着いた。小高いその丘の上に着くころには、すっかり日が暮れていた。

人気がないから大丈夫だと真嶋が言い、真嶋はお面を斜めにずらした。正義はお面を草むらの上に置いた。そうして二人座って、丸い月を見上げた。

「ここから見て、ちょうどあの月がお城の真上にかかると、零時だ。貨物列車は零時に出発するから、それまで少し待とう」と真嶋は言った。月の位置で貨物列車が発車する時間を測っているらしい。

日が落ちているにも関わらず、月明りのぼんやりとしたあかりが届いて、隣に座る少女の顔を淡い黄色に染めている。

「実はさ、おれはこの土地に来て自分と同じ境遇の人に会ったのは初めてなんだ。ストレイシープであることは普段隠しているから」

 真嶋の言葉に、正義は黙って耳を傾ける。

「だから本当は正義ともっとこの土地で一緒に生活してみたかった。あっちの世界での思い出話とか共有したりしてさ、もっといろいろ知りたかったよ」

月明りに照らされている、斜めにずらされた泣き顔の猫のお面が奇妙に幻想的に見えて、思わず見とれてしまった。――この少女は、長い間この奇妙な土地を一人で彷徨っていたのだ。その孤独は計り知れなかった。

「でも、そんなことよりも大事なことがある」

真嶋は大きな黒い瞳で、正義の目を見た。

「何よりも大事なのは、時間だよ」

「時間?」と正義はききかえす。

「そう。時間が経つ前に、その子に一刻も早く会いに行った方がいい」

 そういえば、真嶋は昨日言っていた。この土地にいると驚くべき勢いで、生前の記憶を忘れてしまうと。

 真嶋は正義の眼を見て、にこりと笑った。

「おれたちは、同志だ。正義がそのクラスメイトを助け出せるよう本気で祈ってる」

「でも、真嶋さんはどうするの?」

 自分と別れた後、この少女はいったいどうするのだろう。正義と同じで誰かを追って来たなら、彼女も誰かを探している最中ということだろう。

「真嶋さんの探している人は、見つかったの?」

「うん、まあね。どこにいるかは知ってる」

 そう言う少女は、どこか寂しそうな眼をしている。

「大丈夫、おれもその人に会いに行く予定だから。正義と別れたら、おれもちょっとした旅に出る」

 真嶋は笑みを見せたが、それは無理につくった笑顔に見えた。真嶋は感傷的なことはこれでおしまいと言うように声の調子を変えた。

「さあ、もう時間がない」

 それから真嶋はいくつか大切なことを教えてくれた。――貨物列車に乗り込んだら、列車の中のものをポケットに入れておくといい。そうしたら、天狗たちに見つかった時に、盗人だと思われる。盗人として捕まった方が、ストレイシープとして捕まるよりもずっと刑が軽くなる。

 不安そうな表情でいる正義に真嶋は励ますように笑いかけた。

「大丈夫。何より大切なのは、かなめさんに会うことだから。彼女が正義のことを覚えているうちにね」

 正義は頷いた。自分がこの土地に来た理由は、西田かなめを助け出すためなのだから――いくら怖くても、やるしかない。

「もう時間があまりないね」

 見上げれば、月の端っこが城郭と重なろうとしていた。城をぱくりと喰おうとしているかのように、大きな丸い月だ。

「零時になる前に行かないとね。――最後にとっておきの秘密道具をあげよう」

 そう言って、真嶋は正義にあるものを手渡した。

「昔作ったんだ。手作りだからまあ出来はちょっと微妙だけど」

 手渡されたものは、お面だった。赤い顔、太い眉に、ぬっと飛び出た鼻。天狗のお面だった。ただいささか作りが荒い。左右の眉は非対称だし、天狗にしては鼻が太くて短すぎるように見えた。

「ちょっと出来が悪いから、これが変装になるかどうかは微妙だけど……まあでも遠目に見たらばれないと思う。お守りとして持っていってよ」

 真嶋は、例の人懐っこい八重歯をぴょこんとのぞかせて、笑った。


 それから正義は真嶋に連れられて、昨日使った穴とは別の穴から地下へと潜った。そうして地下道を少し歩くと、トロッコのような乗り物がずらりと並ぶ空間にでた。


 ◇


 ねぎは橋の欄干に頬杖をついて、足元の下、流れる水を見ていた。場所は、城の裏手、緑に囲まれた、人気のないその場所を彼は好んでいて、一日の仕事が終わると、頭を冷ますために、度々足を運んでいた。

 日が沈んでしばらく経つと、その場所にはいつも明るい光がちらつき始める。黄色にも緑にも見える不思議な色を放って、水流の上を気ままに光が踊っている。よく見れば、その光は昆虫の尻だった。ねぎは幻想的な景色に身をゆだねながら、この昆虫の名は何だったかな、と思い出そうとしていた。来るたびに、何だったかな、と思っては、思い出せないまま、帰るのだった。誰かに聞けばいいのだけれど、なぜか気が引けて訊くことができない。

 ねぎの仕事は、この都の秩序の維持に貢献している。罪を犯したものを監視して、うつし世の匂いのするものを排除する仕事だ。

窃盗、強姦、暴行、詐欺、痴漢――それらは当然犯罪として取り締まられる。さらに、犯罪となりうるのは、みだりに激情を表すこと。人前で怒る、泣きわめく、こうした感情表現も犯罪となる。

そうした犯罪の中でも、最も質が悪い犯罪は恋愛だった。なぜなら、恋愛は人から理性を奪い、凶暴にする。

 それはねぎの記憶が教えてくれるのではない。だいだいの主が統べる都の教えだ。そして、都の教えが彼にとっての真理となる。なぜなら彼は、記憶を持たない、空っぽの器だからである。

 ねぎは今日も、城の地下牢で、罪穢れを持ってこの土地にやってきた哀れな少女に、うつし世の醜さを説いた。うつし世での汚らわしい記憶を持っていては魂がむしばまれるから、早くうつし世でのことは忘れるようにと教えた。古い名は捨て、新しい名を名乗っていきなさいと諭した。

 それは正しいことのはずだった。自分は正しいことをしている。そう思っていた。しかし――本当にそうだろうか。

 ねぎは、うつし世は醜い、汚らわしい、と力の強い言葉を使っておきながら、その言葉に血が通っていないことを自覚していた。うつし世のことなど、とっくの昔に忘れてしまった。もともと自分自身がいた場所だということは知っている。知っているが、覚えていない。いったいうつし世の何がそんなに醜かったというのだろう。この土地よりも犯罪が横行しているというなら、確かに醜いかもしれない。しかし、その醜さを想像することができない。実感として思い出すことが、どうしてもできない。

 自分は空っぽだった。うつし世は恐ろしいところだ、と人に言い聞かせ、その面影を残すものの排除に尽力していながら、全くぴんと来ていない。仕事が終わると、こんなとりとめのない気持ちにとらわれて、虚しくなる。

 深い緑と水流の上を、淡い光が飛び交う――目の前の景色が綺麗だ、と思う気持ちだけは少なくとも確かだと思った。だから、こういう気持ちを大切に、

「あ、ねぎさま!」

 高い声がした。振り向けば、暗闇の中、狸が一人立っている。笑った顔の狸だ。愛嬌を振り向く狸は、城の給仕を務める。手に大きな籠を提げた笑い顔の狸は、橋板をこんこん鳴らし、駆けだしそうな足取りでねぎの方へ近づいてきた。

「小夜か。お面はとっていいよ」

 少女は、狸のお面を外した。愛らしい垂れ目の少女が現れる。その手に提げた籠の中には、無造作に放り込まれた白い布たちが見えた。給仕で使ったものだろう、ところどころ汚れている。洗い場に行く途中らしい。

「ねぎさま、こんなところでなにしてらっしゃるんです?」

「いや、ちょっと考え事を」

「なにか難しいこと考えていたんですか」

 そう言って、ころころと笑った。彼女はよく笑う。ねぎからすれば、どこに笑うところがあるのか全く分らないところで、よく笑う。

普段、ねぎは給仕と話すことなどないが、この小夜という給仕は例外で、時折話すことがある。城で働く者の多くが、白い天狗のお面を持つねぎに遠慮がちな態度をとるなかで、彼女は、なれなれしいと言ってもいいくらいの距離感でねぎに話しかける。まだ城に来たばかりでその空気に慣れていない彼女は、距離感のはかり方を間違えているしい。しかしそれが、なぜかねぎには心地よかった。――なんとなく、その無遠慮な感じが懐かしい気がした。

「わあ、綺麗な蛍ですね! この土地に来てから、蛍を見るなんて初めてです!」

「ほたる?」

 ねぎのきょとんとした顔に、小夜は無邪気な笑い声をあげた。「蛍を見ていたんじゃないんですか?」と言った。

「ああ、そう。ほたる、それを見ていた」

 そうか、ほたる――蛍か。言われてみれば、そういう名だった気がした。ひたすら幻想的だと崇めるように眺めていたものの名が分かり、少し拍子抜けしたような気分になる。

「あちらの丘の方まで、ずっと蛍の光がつづいていますね」

「うん」

 確かに、見てみればずっと先の方まで蛍の光が途切れることなく続いている。このあたりには蛍の餌か何かでもあってそれで群がっているのだろうか、とぼんやりと思った。

「なんだか不思議な光景。まるで天の川みたい」

「そうだね」

 小夜は夢見心地の様子で蛍の光を眺めている。

「小夜は、うつし世のことを思い出すことはあるかい?」

 だしぬけに、ねぎはきいた。かねてから聞こうと思っていたわけではなく、ぽろりと口から出た問いかけだった。本来であれば、うつし世のことなど、口にするのも禁忌とされているから――うつし世を忘れろとさとす時は例外だが――この問いかけは、小夜にとっては予想外だった。

「うつし世の、ことですか?」

 小夜の声の調子が変わった。暗闇のためその表情は、ねぎからは見えない。しかし、きまり悪そうにしていることは感じ取った。

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 全く何を馬鹿なことをきいているのだろう。自分に呆れる。うつし世のことを訊くなんて。よりによって自分のような立場のものがきくなんて。どうも、あの罪穢れの少女とのやり取りが、自分におかしな影響を与えてしまったらしい。

「ねぎさまは――ねぎさまは、覚えていらっしゃいますか?」

 うつむいていた少女は、ぱっと顔を上げた。その眼には、気のせいか、涙がにじんでいるように見えた。その眼差しに意表を打たれ、ねぎはごまかすことが出来なくなった。少し黙って、「いや」と話し出した。

「わたしは、何も覚えていないんだ。ここに来てから長いから。育った街の景色さえ何一つ思い出せない。生まれてからずっとここにいるような気持ちさえする」

 だから、胸にはいつもぽっかりと空洞がある。

「何も、何も覚えていらっしゃらないのですか?」

「ああ、何も」

 小夜の顔を見れば、その瞳からは既に涙は消えていた。ねぎは、ほっとする。欄干の向こう、細く淡い軌跡をつくりだす昆虫の尻の方へと視線を転じた。ああ、蛍。

「わたしは、まだ覚えています。元の名は忘れましたが。そこでの景色もぼんやりとしか思い出せません。でも、感情を覚えているんです」

「感情? どんな感情?」とねぎは、何気なく聞く。

「死にたい、と思っていた感情です」

 心臓がどきんとした。

「時々、夢に見ます。知らない人に罵倒され、逃げ回る夢です。崖の淵まで、ぎりぎりと追い詰められるんです。崖の下では、白い波が岩場に打ち寄せて、その打ち寄せる音が、どどんどどんというその音が、心臓に直接響くように感じられるくらい大きく響くんです。後ろからは、飛び込め飛び込めって声がします。どうしようか迷っていると、はっと目が覚めるんです。そうして、ああ、夢だったんだな、と気付くと、幸せな気持ちになります」

 小夜は、ねぎとは目を合わせないままそう言った。空っぽなねぎは、この痛々しい告白に、どう返事をすればいいのか分からなかった。

「わたしは、毎日、この感情を忘れたいと思っています。だから、ねぎさまがうつし世のことを何も覚えていないのでしたら、わたしはそれをうらやましく思います」

 知らなかった。今まで、その明るい笑顔を振りまいていた彼女が、このような思いを隠していたなんて、全く知らなかった。気がつかなかった。ねぎは、申し訳ないような、情けないような気持になって、彼女を慰めたいような気がした。

 しかし、その苦しみに共感できないねぎの口から、たいした慰めの言葉が出るはずがない。

「そうか。嫌なことを話させてしまって、すまないね。まだ仕事中だというのに」

「いえ、そんなこと……。胸の内を話せて、少し楽になりました。ねぎさまも働き詰めで疲れていらっしゃるんでしょう?」

 そう言って、小夜は、覗くように、ねぎの顔を見た。ねぎは形だけの笑みを浮かべた。

「そうだね、少し疲れているのかもしれない。小夜も早めに仕事を切り上げて休むといい」

「はい、ありがとうございます。今日はこれで終わりです」

 小夜は籠を少し持ち上げると、笑って言った。その表情には、先ほどの憂いの色は見えない。それを見て、ねぎは思う。皆、こうなのだろうか。あるいは、自分もうつし世のことを覚えていた昔は、こうだったのだろうか。心のうちに、痛いという感情を抱きつつも、平気な顔をして笑っていただろうか。

 それとも、と思う。皆、本当は自分のように空っぽな気持ちにとらわれているのだろうか。胸の空洞をもどかしく感じているのだろうか。感じているけれど、口にしないだけなのか。奇妙なお面を顔に貼り付けることで、胸の空洞からは目を背けてごまかしているのだろうか。

籠を手に提げた少女は去っていく。ねぎは身体をくるりと返し、背中を欄干に預けて仰向いた。濃紺の空の中、いつ見ても丸い月が怪しげな輝きを帯びて浮かんでいた。


 ◇


 夜中の零時に近づくと、担当のものがやってくる。梟(ふくろう)は、担当のものから伝票を受け取ると、必要なものがそろっているかの確認を始めた。箱を覆っている黒い布をはらりとどければ、中にあるものは、種々雑多な、角ばった物体。いずれも土で汚れている。梟は、伝票を見て、チェックをつけていく。これが頭骨で、あっちが胸椎、これは腸骨。箱の中に手を入れて、下の方のものを上に出す。あった、あった。恥骨、骨盤、足、手の指骨――チェックをつける手を止めた。これはなんだ、と箱の中から、ひょいと持ち上げた。懐中電灯に照らして見えるのは、薄くて、アルファベットのUの字のような形をしている。伝票を見て、舌骨か、と気付いて、チェックをつけた。

 地味な仕事だ、と嘲る人がいるかもしれない。それでも梟は、その仕事に誇りを持っていた。ほうほうと鳴く。

伝票をめくり、もう一つの、箱へと移った。箱にかぶさる布を、はらりとめくる。現れたのは、ごつごつしたいくつもの固形物。懐中電灯で照らして色を、形を確認する。金緑石、菫青石、紅玉、金鋼石、柘榴石、紅縞瑪瑙――慣れた手つきでチェックをつけていく。最後に、懐中電灯の光を強くし、箱の中をくまなく探し――あった。箱の隅に固まっていた。懐中電灯で照らすと、紫色の光が透き通るようだった。伝票の紫水晶の行にチェックをつける。

 確認が終わった。梟は、黒い布をかぶせると、懐中電灯を所定の場所に戻して、移動した。

 これらの種々雑多な骨と宝石は城の地下、奥深くに運ばれる。そして、そこでは日夜、闇に紛れた人たちが、とんかんとんかんやっているらしいという噂を聞いた。これだけの材料を使って、いったい彼らは何を作っているというのか。こんな真夜中に、ひっそりと人知れず城まで運ばなければならないのはなぜなのか。答えはひとつしかないと思った。これらは、お面の材料であるに違いない。

そういうわけで、梟はほうほうと鳴いた。得意であった。

チェックをつけ終えた梟は、操縦席へと移動する。それから、出発の時刻までしばらくの間、瞼を閉じる。つかの間の休息。

後ろの方で、ゴソと音がした気がした。梟は、瞼を開けた。念のため、振り返って荷物を見る。特に変わった様子はない。念のため、確認しに行こうか。首をぐるりと回して、後ろを向いたまま、少しの間考える。ふと、鼠がちょろちょろとレイルを横切るのが見えた。何だ、鼠か。梟は、首をぐるりと戻した。そろそろ出発の時間だな、と思ったころに、どこからか零時を知らせる鐘が鳴り響いた。出発時刻だ。梟は、レバーをひいた。ゴトリ、ゴトリ、と列車が動き出す。始めは緩慢に、しばらくして、ゴトリゴトリから、ゴトゴトへと調子を上げていく。最終的には、ゴゴゴゴゴゴゴになる。

ゴゴゴゴゴゴゴ、と暗闇の中駆けていく列車を運転するのはいい気持ちである。梟は闇の中、独りほくそ笑む。そうして、列車は暗い穴、奥深くへと吸い込まれていく。

貨物に紛れて、がさごそと動く音がした。ゴゴゴゴゴゴゴという音に紛れて、がさごとという音は打ち消される。黒い布の下、多種多様な骨骨に紛れ、「やばい、この体勢はきつすぎる」と顔を真っ赤にしているものがいる。がさごそともがき、何とか首を落ち着けると、ふうと息をついた。正義は、その貨物列車の荷台に忍び込んでいた。

正義は、がたこと揺れる箱の中で骨骨に圧迫されつつも、じっと堪えていた。実際のところ、吐きそうだった。口元を手で覆い、今にも吐きそうという顔をしていた。臭い、汚いし、やけに揺れる。揺れるたびに、得体のしれない骨たちが、彼の頬に、脇腹に、腿に容赦なく食い込んでくる。けれど仕方ない。耐えるしかない。「あと何時間これが続くんだろう」と思う気持ちを噛み殺し、ひたすら耐えていた。

それにしても、と正義は思った。あの奇妙な運転士の首の曲がり具合はいったいなんだ。なにか貨物の中身をチェックしている時に、首があり得ない動きをしていた。顔が九〇度ことりと横に傾いたかと思うと、ずいっと後ろ向きに一八〇度も捻じれたりした。そうして、その男は、貨物を調べては、しきりに梟のようにほうほうと呟いていた。――本当に次から次へと奇妙で不気味なものばかりがでてくる、悪夢のようだ。

ゴゴゴゴゴゴゴ、と列車は揺れる。自分は正しいことをしている、という気持ちが恐怖に凍えかけた正義を支えていた。西田かなめに会いに行く。かなめは城の地下に囚われている。自分は貨物に紛れて、かなめを救いに行く――

そう考えると、まるで自分は正義の味方のようだった。

思いだす。昔の、子供の頃の自分を思い出す。自分は昔から、正義感の強い男に憧れていた。正義という名前に見合った男になれるはずだと思っていた。それが――鏡を見ることが恥ずかしくなったのはいつからだろう。眼鏡をかけた、ぽっちゃり気味の冴えない少年が見返していて、それを恥ずかしいと感じるようになったのはいつからだろう。それを見るたびに、正義という自分の名前と、現実の冴えない自分に恐ろしいほどの乖離を感じて、ぞっとしたのだ。

貨物列車はゴゴゴゴゴゴと音を立てて闇を抜ける。先のとがった骨が脇腹にあたって痛い。

漫画やゲームにばかり浸っていたのは、鏡が写しだす自分と向き合うのがいやだったからだ。そんな自分は、西田かなめに手を差し出したことから変わった。どうして変わったのかよく分からないけれど、外の世界が不思議と美しく、鮮やかに見えるようになったのだ。閉じていた目が――閉じていたことにさえ気づいていなかったものが――急にぱっと開いたのだ。だから、自分は――自分は西田さんにお礼を言わなければいけない。彼女からはお礼を言われたけれど、自分はまだお礼を言っていない。

正義は目をつむった。早く、目的地についてほしい、と願いつつ目をつむった。西田かなめは無事だろうか。手荒いことはされていないだろうか、と考えた。かなめは自分が現れたらどんな顔をするだろうか、と思った。歓迎してくれるだろうか。

正義は、小袋の中のあるものがつぶれないように大切に抱えた。その中には、真嶋が与えてくれたいくつかの武器や変装用のお面が入っている。

そうした道具たちに紛れて、全く別の、あるものを入れている。可憐なようでいて、力強いあるもの。それは好きな人に思いを伝えるためのものだった。正義は、大切なそれをつぶさない様に、必死に小袋を守った。

 列車は、穴の中をただひたすら走った。ゴゴゴゴゴゴゴという音をいつも通り響かせ、想定外のお荷物を抱えていることにはひたすら無頓着に、ただただ闇の中を走った。




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