小島図書館

増田朋美

小島図書館

小島図書館

富士駅からバスで、30分ほど離れたところに、小島和也は住んでいた。彼には悩んでいることが一つあった。実は家の中に本が大量にたまりすぎて、それも1000冊近くたまってしまったのである。

なんのためにこんなに本があるのかと言えば、もちろん勉強するために買ったのである。けれど、今ではそれらの本に載っていることは、全部インターネットの画面に書かれてしまっている。そういわけで紙の本を、大量に持っているということは、なんだかちょっと、不自然な時代ということになってしまった。和也にとっては、悲しい出来事でもあった。でも、それらの本を捨ててしまうということは、和也にはできなかった。というのは、和也も若いころ本を出版したことがあったためである。本を出版するのには、その本一冊を書くために、何冊もの本が必要になったことを知っているからだ。本はいずれも、文学賞をもらったことによって出版したものである。今では、その文学賞でさえも、原稿用紙に書かないで、パソコンのワープロという機械でやってしまえば、すぐにできてしまうものであるが。

でも、いやだいやだと言っても、時代は変わってしまったことには、変わってしまったのである。

まあ、それを嘆いていても仕方ない。

それでも、これらの本をゴミにしてしまいたくもないし、どこかの古本屋に買い取ってもらうというのも嫌だった。どうせ買い取ってもらったとしても、大した額にならないのだ。そんなところへこれらの本を出してしまうのは、本がかわいそうな気がするのだ。ここにあるのは、昔どころか、大昔に書かれたものたちである。まだ日本が、外国というものをよく知らなかった時代に書かれたもの、例えば竹取物語とか、現代に通じるサスペンスの巨匠と言われる人が描いた小説まであった。自分が、文学賞を取るために、ありとあらゆる本を読んだんだなあと、今更になって、驚いてしまうほど、本があった。

これらの本をどうしようかなあと考えていると、そういえば、自分が幼いころは、貸本屋という業種があったと思いだした。今の時代は、もう消え去ってしまった業種ではあるけれど、今の時代にやってみたら、本は読みたくても、節約にうるさい現代人であれば、飛びつくのではないだろうか。神保町の古本屋のように、マニアでなければ訪れないとか、ちょっと堅苦しい感じのする、公立図書館のような施設ではなくて、もっと気軽に面白い本に触れられる施設。いわゆる、個人経営の小規模な図書館、マイクロライブラリーというやつだ。今の法律では、著作権の問題があって、有料の貸本屋という形態はできない。しかし、本自体は無料で借りられて、カフェなどと併設しているマイクロライブラリーという業種は存在している。本を大好きな人たちが、本のことについて楽しく話せるような、そういう場所。それがマイクロライブラリーだと思った。

さっそく、法律のことをインターネットで調べ上げて、マイクロライブラリーを開設することにした。厳密に言えば、図書館同種施設ということになるので、完全に公立図書館と同じことをするわけではない。だけど、日本でも、個人が経営する、小さな本を貸出しする施設は、少しずつ増えつつある。和也は、さっそく、自宅の一部を改造して、マイクロライブラリーを発足させた。その名は、自身の名を冠して小島図書館とした。

集客は、こういう時だからとインターネットで行った。SNSに、個人的なページを作ればいい。もちろん、今の法律では、昔あった貸本屋と同じ業務は行えないので、入場料は取れない。その代わり、自動販売機を置き、お茶を飲みながら本を読んでもらう。いわゆる、お茶屋さんに設置した、マイクロライブラリーということであった。

その日は、こんな日もあるのかなあと、思われるくらい、雨の降っている日だった。

こんな日は、まさしく雨の降る日は読書という言葉がぴったりの日である。

「あら、こんなところに図書館なんてあったかしら。」

由紀子は、その家の前に立てかけられている看板を見て、そういうことを言った。

「へえ、どう見ても個人の家なのに、図書館があったのか。まあ、昔は篤志家がやってたと聞くし、それと似たような感じかな。もちろん僕は、文字は読めないけどね。」

と、杉ちゃんは言った。

「ちょっと、入ってみるか。こういう面白いところってちょっと興味ある。」

と、杉ちゃんは、その建物のドアをがちゃんと開けてみた。由紀子もそのあとに続いた。

「へえ、すごいなあ。個人の図書館としては大量だな。こんないっぱい本があるなんて。」

と、杉ちゃんは、そこへ置いてある大量の本に、面白そうな顔をしている。

「すごいですね。古典の名作がいっぱいあるんですね。これ、奥の細道じゃないですか。あ、こっちは、紫式部日記。」

由紀子は、展示されている本に興味を持っているようである。

「あれれ、由紀子さんは古典が好きだったの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、まあ、学生の頃はよく読んでたわ。そんなに詳しい方ではないけど。」

と、由紀子はちょっと恥ずかしそうに言った。

「日本の古典は、不可能な恋愛が描いてあるとか、そういうことはないけれど、自然を感じたり、季節を感じることができて面白いのよ。」

「そうかあ、由紀子さんも好きだったんだね。僕は書物なるものに、縁はないけどね。でも、古い時代の書物は面白いと思うよ。もっとも僕は、誰かに読んでもらわないとだめだけどね。」

「それでもいいじゃないですか。自分で読もうが、誰かに読んでもらおうが、本の内容が、伝わっていることのほうが大事ですよ。」

杉ちゃんと由紀子がそういう話をしているのを見て、和也はにこやかに言った。

「これ、ちょっとお借りしてもよろしいですか?」

と、由紀子が、一冊の本を取り出した。タイトルは、人生は長い旅というタイトルである。

「なんの本?」

杉ちゃんが聞くと、

「俳句の本よ。沢井茂雄さんという静岡では結構有名な方が、書かれているのよ。」

と、由紀子は答えた。

「ああ、沢井先生を知っているのですか?それは珍しいですね。なんでまた沢井先生の本を読むようになったんでしょうか?」

と、和也は聞いた。

「この本は、沢井先生がお亡くなりになった直後に、私を含めた門人たちで出版した追悼句集なんです。ほかにも沢井先生の本はありますが、弟子を取り始めてすぐになくなってしまいましたからね。生前に出された著書は結局数冊しかありませんでしたけど。どうして沢井先生を知っているのですかね?」

「ええ、私が偶然かった、富士市民文芸に載っていたんです。沢井茂雄さんの俳句。私は、俳句のことは詳しくないけど、素敵だと思って。」

と、由紀子はにこやかに言った。

「ああ、そうなんですか。それではぜひ、借りていってください。貸出期間は一応二週間ということになっていますので、二週間後の水曜日に、返却してくれればそれで結構です。」

和也の図書館は、コンピューターというものがなかった。和也が手作りした、貸出カードに、借りた日付と、返却日と、借りた人の名前を書いて、管理人の和也に渡すというシステムになっている。返却の時は、返却したしるしに、カードに印鑑を押す。

由紀子は、わかりましたと言って、カードに今西由紀子と自分の名を書き込んだ。そして、今日の日付と返却日を書いて、和也にカードを手渡す。和也は、ありがとうございますと言って、それを受け取った。

「その沢井茂雄先生というのは、どういう人なの?」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ、静岡では有名な俳人です。最近まで、この富士市でも、俳句教室をやっておられました。まだまだ可能性のある方でしたのに、40そこそこで亡くなられてしまうとは、本当に残念だったんですけど。でも、亡くなる直前まで、俳句を作り続けておりました。先生は、生きることをあきらめませんでしたよ。」

と、和也が説明すると、

「はあ、水穂さんとは、対照的な人物だな。」

と、杉ちゃんが言った。

「水穂さん何て、生きるというか、もうこれ以上無理だって、あきらめているじゃないか。」

「そうね。この句集、水穂さんに見せてあげたいわね。」

由紀子もそんな気持ちがした。

「その、水穂さんという人は、どんな人なんですか?」

と和也が好奇心から聞いてみると、

「えーと、ちょっと歴史的な事情があって、一度も日の当たるところに出れなかった人。だから、もう生きていてもしょうがないって言っている。」

と、杉ちゃんが答えた。それはどんな事情なのか、和也もなんとなく感じることができた。具体的にどうなのかということはいえなかったけれど、きっとそうじゃないかと思ったのである。実際、和也も、そういう人を扱った本を書いたことがある。

「そうですか。興味本位ではありましたが、私もそういう人を小説の中で扱ったことがありました。いわゆる在日と呼ばれたせいで、どんなに努力しても、うまくいくことのなかった人物の話。」

「そうなんだねえ。まあ、在日だけが、ひどい目に合うとは限らないけどさ。そういうやつって、どこにでもいるんだよな。えらい奴がいる以上、そういうやつもいるんだよ。」

と、和也の話に杉ちゃんが言った。

「だからあたし、その水穂さんに、この本を読んであげようと思うんです。生きることをあきらめなかった、沢井さんの本。何か力になってくれるかなと思って。」

由紀子はそういいながら、本をカバンの中にしまった。

「おお、いいじゃないですか。じゃあ、何度でも読んであげてください。」

和也は、にこやかに笑って、由紀子と杉ちゃんが、図書館を出ていくのを見送った。

それから二週間後の水曜日。

和也が、いつも通り、本のほこりを払ったり、整理したりしていると、

「こんにちは。本を返しにきました。」

と、図書館に由紀子がやってきた。

「はいはい、ありがとうございます。返却ですね。」

と、和也はひきだしにしまっていたカードを取り出して、由紀子から本を受けとり、カードに印鑑を押して、彼女に渡した。

「はいありがとうございます。」

と、和也はそういった。本は、しっかり掃除されていることはされていた。でもなぜか、ちょっと変なにおいがついている。

「ごめんなさい、ちょっと汚れているかもしれないですけど、申し訳ないです。」

由紀子さんが、何か元気がないのが気になった。

「どうしたんですか?何かあったんでしょうか?」

和也は、思わず由紀子さんに聞いてみた。

「あの時、水穂さんという人に、この俳句集を見せてあげたんですか?新しい読者を獲得できて、沢井先生も喜んでくださっていることですよ。」

と、とりあえずそういってみる。

「そうかしら、、、。」

由紀子は、ふうとため息をついた。

「それでは、うまくいかなかったんでしょうか?」

と、和也が心配になってそういうと、

「ええ、まあかいつまんでいえばそういうことになります。やっぱり、水穂さんにとって、いくら普通の人の俳句なんか見せても、仕方なかったんだなあと思いました。」

と、由紀子さんは言う。

和也は、それではうまくいかなかったのか、と、ちょっと元気がなくて落ち込んでいる彼女を見た。

「じゃあ、水穂さんという人に、本を見せたんでしょうか?」

と、和也は聞いてみる。

「ええ、それはしました。ですが、水穂さんは、本を見せても、泣いていました。普通のひとであるから、こういうことができるんだって。部落民の自分には、絶対できないことだって。あの俳句の中で描かれている、優しいお医者さんや看護師さんなんかにしてもらうことは、絶対できないって。」

由紀子は、和也の問いかけにそう答えた。

「そうですか。水穂さんという人は、そういう事情を持っていたんですね。それでは確かに、沢井先生とはそこがえらい違いですね。」

和也はそういうことを言ってみる。沢井茂雄先生は、確かにそれはなかった。むしろ、裕福な家庭委の出身だったような気がする。

「この俳句の本を読むとね、部落民でないから、大病してもお医者さんたちに見てもらえたんだって水穂さんは言っていたんです。沢井茂雄さんは、お金がある家系だったから、ガンマーナイフとか、抗がん剤とか、いろんなことを試してもらうことができたけど、自分は、そういう人間じゃないから、そういうことはできないって。」

由紀子は、半分涙を浮かべていた。

「あたし、そういう意味でこの本を見せたわけではありません。ただ、病気で寝ているという設定は同じだと思ったんで、それで彼にもうちょっと、前向きになってほしいなと思っただけなんです。でも、水穂さんは、余計に傷ついてしまったみたいで。」

「それで、もしかして、付き合っていたのをやめてしまったとか?」

と、和也は、そう聞いてみた。

「いえ、付き合いをやめてしまったということはありません。あたしが、申し訳ないと思って泣いていた時、水穂さんにパンを持ってきてくれた人が、水穂さんを慰めてくれたんです。」

このパンを持ってきた人というのは、阿部慎一である。由紀子が、本を水穂さんに見せて、彼に拒否されてしまって、どうしようもなくなって、泣いてしまったときにやってきたのだ。

「パンを持ってきてくれた人とは?」

と、和也はそう聞いてみる。

「ええ、水穂さん、病気の症状で、普通の白いパンをたべることができないので、その人がライムギのパンを持ってきてくれたんです。」

と、由紀子は答えた。

「そうだったんですか。確かに食べ物を持ってきてくれる人は、重要ですよね。そういうときは。」

「ええ、それに、私がこの本を見せて、水穂さんに見せた時は、もう布団をかぶって寝てしまっていましたけど、パンを持ってきてくれた人が、私がしでかしてしまった顛末を知ってくれたみたいで。彼が、水穂さんに、こうして本を持ってきてくれた人に応えてやれと説得してくれたんです。」

和也がそういうと、由紀子はそういった。

「そのパンを持ってきてくれた人は、パン職人とか、そういう方ですか?」

また和也は聞いてみた。

「いいえ、パン職人というか、パンの作り方を一般の人に教える講座をやっています。なんだか、ほかにもパンを食べられない子供さんがいるお母さまから、ライムギのパンの作り方を教えてくれという依頼が来たらしくて。」

と、由紀子は言った。

「それが、どうしたというんですか?」

「ええ、そのパンを作っている方に、可能であれば、ぜひレシピを本として出版してもらいたいなと思ったんですよ。」

和也は思わず、出版社の人間の顔になった。

「いやあ、そういうことは、できないと思います。パンは、現場を見ていないと作れないって、よく言っていましたから。」

由紀子がそういうと、

「そうですか。それは失礼しました。でも、水穂さんという方は、幸せじゃないですか。本を読み聞かせたり、パンを持ってきたりしてくれているんですから。」

と、和也は言ってみた。

「それに気が付いてくれれば、水穂さんという方も、幸せになれるんじゃないでしょうか?」

「ええ、そうですね。あたしも、何回かそういうことを言ったことがあるんです。でも、水穂さんは、そういうことには何も関心を持ってはくれないです。あたしも、一生懸命そういっても、水穂さんには通じないということは、何回も何回もありました。」

由紀子は、和也の問いかけに、そういうことを言った。

「そうですよねえ、今西さん。あなたも、あなたの気持ちを、水穂さんがわかってくれたらいいですよね。それを、部落民ということで、彼は受け入れようとしないのなら、ちょっと問題ですね。」

和也が由紀子を励ますようにそういうことを言うと、

「いいえ、いくらわかってくれなくても、わかろうとしなくても、水穂さんを、私は好きですから。大事なことはね、本を汚されたとしても、水穂さんが私の想いが通じてくれればそれでいいんです。」

由紀子は、一生懸命顔を隠しながら言った。

「そうですか。それでも、通じないことが多いんじゃありませんか。沢井先生の本を読んでも、拒絶してしまうんですから。」

確かにそうである。沢井茂雄の俳句は、感性に訴える俳句として有名であるから。それを読んで心が動かないというのは、よほど心が鈍いという批評をされたことがある。和也は、そういう批評の本も持っている。

「ええ、でも、あたしは、水穂さんが生きている限り、ずっとそばにいようと思っています。それはずっと、続けようと思っています。だって、あたしが今までの中で一番本気で愛した人ですから。」

と、由紀子はけなげに言った。それを見て、和也は、今の若い人は、本気で愛したことはないのではないかと批評していた昔の自分を、恥ずかしく思った。若い人なんて、何をするのも恵まれているから、好きな人を拒絶されても愛するなんて、できやしないと思っていたのだ。でも、目の前の由紀子さんは、そういう女性ではなかった。

「わかりました。由紀子さんでしたね。それなら、この本を借りて行ってみてはどうでしょうか。この本に誰かを愛するということの、ヒントが描かれているかもしれないんです。日本初の官能小説ともいわれていますが、ぜひ、読んでみていただきたい。」

和也は、本だなの中から、一冊の本を取り出した。確かにボロボロの本で、昔の本らしく文字は小さくなっているのだが、読めないというほどでもない。タイトルは、「伊勢物語」だ。男女の恋愛を描いた古典小説で、日本初の官能小説と言われる歌物語である。

「ありがとうございます。日本の古典恋愛小説は、なかなか読んだことはなかったんですけど、面白いのでしょうか?」

と、由紀子は、そういうことを言った。

「ええ、確かにいくつか恋愛の物語が掲載されていますが、恋愛が成就したことはまずありません。でも、恋愛をするうえでのヒントはたくさんあると思います。」

と、和也は、にこやかに笑った。由紀子は、ありがとうございます、読んでみます、といってその本を受け取り、貸出カードに、自身の名を書く。

「それでは二週間後にまた戻ってきますから。」

「ええ、二週間後に、良い結果が出てくれるのを待っています。」

和也はそういって、貸出カードを受け取った。由紀子は、はいわかりましたと言って、その本をカバンの中へしまった。

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小島図書館 増田朋美 @masubuchi4996

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