あなたとの距離

柚木呂高

あなたとの距離

 玄関を開けると彼女の撮った写真が飾られている。多くは女性の裸体、もしくは植物、もしくは動物の死骸。私はそれを眺めながら靴を脱いで、ゆっくりと廊下を進む。仄かに彼女の吸うマリファナの臭いがする。ただの六、七歩程度しかない距離、私はそれを既に百歩以上歩いている。いつもそうだ、彼女のことがどんどん判らなくなる、彼女との関係が近付くにつれてそれは不可解さを増していく。


 廊下は徐々に広く長くなっていく。奥に見える扉は巨大すぎて、もう自分の力では開けそうにない。漸近線的な廊下。私は進むにつれて永遠に小さくなり続け、その扉には到達不可能だと思われる。私の家がこうなってしまったのは、私が、彼女との距離を感じ始めてからだ。近くて遠い、接近を試みても限りなく永遠に、彼女のその手に、思考を精神を表すその手に触れることができないと思い始めてから。


 彼女はこの5メートルをできる限り華やかにしたいと考えている。写真、観葉植物、置物、毛足の長い絨毯。絨毯の毛がもう胸元まで迫ってきている。そして花びらだ。彼女の悪癖。美しいから、という理由で彼女は廊下に花びらを撒く。大量の花びらが舞って、廊下を埋めるのである。それが私の上にのしかかって窒息しそうになる。まるでヘリオガバルスの薔薇だ。


 やがて疲れ果て、彼女の顔を思い浮かべて、その場に倒れ込む。長い時間歩き続けた気がする。その間考えていたのはずっと彼女のことだ。心から人を理解することなど不可能だ。それでも知りたいと思うことをやめられない。この廊下の現象は、私が判り合えないということが当然だとしても、それでも共感して、互いに同じことで笑いたいという甘い希望を抱いているからに他ならない。


 しかし女というやつは不思議である。居間の扉がガチャリと開くと、「あら、おかえりと」と言って花びらに埋もれた私を抱き起こし、煙臭い口付けをする。私が永遠にたどり着けないような距離を容易に飛び越えて、私を家の中へ導く。それはきっと理解ではないが、親愛ではあった。


 人の世の中にあっては、手を握るよりも唇を触れることの方がずっと簡単なのだ。

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あなたとの距離 柚木呂高 @yuzukiroko

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