願ってやまない

読書 志太郎

願ってやまない

 目覚めるとそこは、閉鎖的な空間だった。

 一枚の壁と一枚の窓。正方形の間取りの部屋。普段どおりの自分の部屋だ。西枕のベッドから起き上がり、反対側の壁にあるカーテンを開けた。窓からはどんよりとした灰色の空が見える。どうやら本当に夢だったようだ。私は、落胆して大きなため息をついた。

 喉が渇いていることに気がついた。尿意も少しある。これが、脳が段々と覚醒していく感覚。部屋のドアを開けて、廊下を歩き階段を降りる。一段ずつ、ゆっくりと、決して踏み外さないように。

 キッチンで水を一杯汲んで、一気に飲み干した。洋式トイレで用を足す。もう、完全に目は覚めている。リビングのテレビをつけると、予想通り暗いニュースが流れた。そんな映像を見ていられなくて、私はリビングを出た。何をしようかと数秒考えた末に、シャワーでも浴びて気分を変えようという結論に至った。

 洗面台の前に立つと、寝癖が酷い。パジャマに使っている中学時代のジャージ。ひどく色あせ、穴だらけだ。あの頃と今の対比を鮮明に表していて、胸に刺さる。

 シャワーを浴びて服を着替えると、思いの外気分も良くなった。リビングに戻り、テレビを消した。もう一杯の水を飲むと、私はおもむろに手紙を書き出した。おもむろに?いや、大いに意味はある。私は、未来の自分に宛てた手紙を書き出した。この先の自分が、少しでも明るく、前向きに過ごせるように。



 2020年5月25日。不思議な夢を見た。

 今、私達人類は、胸いっぱいに空気を吸い込むことさえ恐ろしいと思わざるを得ない状況に置かれている。外出は大幅に規制され、この広い広い地球の中で、狭い狭い部屋の中に閉じ込められ鬱屈した日々を送っている。


 しかし私は、実は先程素晴らしい夢を見た。

 世界は、現実離れして美しかった。空の水色は小さな水滴が太陽光を乱反射してキラキラ輝き、木の葉はくっきりと深緑色の光を反射していた。ビルや民家も本来の色を鮮やかに見せた。

 私は、慣れ親しんだ生まれの街を歩いていたと思う。詳しく言えば、物質的には私が生まれ育った田舎の街そのものだった。しかし、性質的にはまったくもって初めて訪れる街だった。この街をこれほどまでに美しいと思ったことは、この世に生まれ落ちてから今まで一度もなかった。だから、私は驚いた。

思い返せば、いかなる景色に対してもここまで美しいと感動したことはなかった。そんな私をここまで思わせるほど、私の街は幻想的で深く心に残るものだった。

そんな街を私は歩いた。走った。のびのびと踊った。私は、私を形作る日常の街で非日常的な高揚を感じていた。

 好きなように街を歩くことは私にとってとても気分がいいものだった。ずっと、ずっとこうしていたいと思った。


 目が覚めて、それが夢だと自覚したとき。とても残念だった。同時に、それは仕方のないことだとも思った。自然の災害や未知の病は、学者でもない私にはどうすることもできないことだから。私には願うことしかできない。だから、私は願う。この薄暗くて長い長いトンネルを抜けたとき、眩しいほどの光が私達を包むことを。


 追記

 きっと私達は、「幸せ」と「あたりまえ」が同じものだと知っている。日々が幸せなことはあたりまえだ。日々があたりまえだから幸せなんだ。だけど、それを意識できているのとできていないのとでは全く違う。当たり前を当たり前とわかっていること。幸せを幸せとわかっていること。

 この感覚をいつまでも忘れないでほしい。今、私が気づいたこと。これを忘れてしまったら、トンネルを進む今が意味のないものになってしまう気がするから。


 願い、待とう。「あたりまえ」を。「幸せ」を。私達の日常を。私はそれを願ってやまない。

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