魚と紅茶

きさらぎみやび

魚と紅茶 

じっと橋の上から川を見つめていたら、女子高生に声をかけられた。


「あの、そういうの、よくないと思います」

「え?」


清楚なブレザーを身にまとい、胸のあたりでこぶしをぎゅっと握りしめ、咎めるような目でこちらを見つめている。

いや、実際咎められているのだけど。


「えーと、僕なんかしたっけ?」

「じっと川を見つめているじゃないですか」

「いや、まあそうなんだけど」


じっと川を見つめてはならない、という法律は無かったはずだ。確か。


「え、川を観察してるだけなんだけど、だめなの?」

「だって飛び込もうとしてませんでしたか」


ちらりと川面に目をやる。春の小川がおだやかにさらさらと流れている。

水深は1メートルもないだろう。仮に飛び込んだとしても足の骨を折るくらいで済みそうだ。まあ人は30センチメートルの深さでも溺れるし、骨でも折って動けなくなったらまずいかもしれないが。


「そんなつもり全然なかったんだけど、僕、そんな風に見えてたの?」

「はい」


そうなのか。なんかショックだ。自分で思ったよりも打ちひしがれて見えたらしい。


「だっておじさんここ3日間ずっと同じ場所で同じ格好で川を見てましたよね。さすがに変に思いますよ」

「おじさん」


おじさんと言われたことのほうがショックだった。そしてどうやらこの子にずっと見られていたらしい。言われてみれば確かに3日間同じことをしていた気がする。気になっても仕方がないか。大通りから一本外れた住宅地だし、ぱっと見たところ人通りも無かったから油断していた。


「あの、お兄さん、なんかあったんですか」


あ、お兄さんに言い直してくれた。優しい。ここのところ人と話していなかったからかこの子の優しさが身に染みる。この3日間ずっと思い詰めていたこともこの子になら打ち明けられる気がする。


「実は彼女に振られちゃって」

「それだけで3日間川を見つめてたんですか。え、大人としてそれアリなんですか」


訂正。全然優しくなかった。いや正論のような気もするけど言葉のナイフが鋭すぎる。


「違うんだ。いや彼女に振られたことは違わないんだけど、川を見ていたのには訳があって、その、魚がね」

「? 魚なんてこの川にいましたっけ」

「あの中州のあたり。ちょっと大きなあの石のあたりに小さな群れがいるでしょ」


彼女はひたいに手をかざして、しばらくきょろきょろと僕が指さした先を探るように見つめ、5分ほどしてようやく納得したようにつぶやいた。


「あー、見えました見えました。確かにいます。毎日通っているのに気がつかなかったです」

「いや、ちょっと前まではだいぶ減ってたんだけどね。河川改修工事で少し増えてきたみたいだ。たぶんアブラハヤだと思うんだけど体の斑点がね、どうも独特の状態にも見えたので気になってたんだよ」

「魚の斑点なんてよくわかりましたね」

「まあ3日間もみてればね」


打ちひしがれながらも観察するのに夢中になっていたのは確かだ。本当は採集もしたいところだけど。というかこういう行動をするから彼女に振られた、と言えなくもない。デートの際も魚の様子が気になるとそこから一歩も動かなくなってよく叱られたものだ。


振り向いた女の子は意外にも興味深そうな様子だった。


「川ごとに魚の色が変わるんですか、ちょっと違うけど紅茶みたいですね」

「紅茶?」

「紅茶って、産地ごとに味が変わるんですよ。おんなじダージリンでもそれこそ農園ごとに違うんです。キャッスルトンとか、タルボとか」


そうなのか。全然知らなかった。ティーバッグの紅茶くらいしか飲まないけどダージリンってそんなに色々あるのか。


「すごく詳しいんだね、びっくりした」

「お茶屋の娘なんです。お兄さんも魚に詳しいんですね」

「まあこれでも一応魚の研究者だし」


僕は博士号を持つ研究者の端くれである。専門分野は魚類生態環境学。


「あ、あそこの山の上の大学の?それで川をじっと見てたんですね」

「分かってもらえた?良かった」

「それで彼女さんに『私と魚どっちが大事なの』って言われて振られちゃったんですね」


理解が早いのは嬉しいけどそこまで分かってもらいたくはなかった…。がっくりとうなだれる。よほど哀れに見えたのだろう。とりなすように女の子が言う。


「あー、あの、それならうちの紅茶でも飲みませんか。紅茶を飲むとほっとしますよ。うちお茶屋だけどカフェもやってて色々そろえてるんで。さっき言ったキャッスルトンとか、ほかにも。もちろんダージリン以外もありますよ」

「…君、なかなかの商売上手だね」


どうせなのでお情けに甘えることにした。



女の子の名前は佐藤若葉といった。

実家がお茶屋をしているとは言っていたが、実際に着いてみると想像していたよりも立派な佇まいの日本家屋でびっくりした。

その日本家屋の庭先にこじんまりとしたカフェスペースがしつらえてある。

聞くと彼女の母親が半分趣味で始めたらしいのだが、なかなかの評判とのことで、学校が休みの日には彼女も店番をするらしい。


若葉ちゃんに勧められるままに初めてダージリンの飲み比べをしてみた。

こんなにじっくりとお茶の飲み比べをしたのは初めてだったけれど、確かにそれぞれに個性を感じる。キャッスルトンはほのかに花のような香りがして、味は少し香ばしく渋みのある味わい。タルボは香りが豊かでふわりと広がり、柔らかな甘さを感じる。若葉ちゃんはお気に入りなんです、というチャイを飲みながらこちらの試飲に付き合ってくれた。自然と話題は魚と紅茶の話となった。


「川ごとに魚って変わるんですか」

「環境によって微妙に異なる変種が生まれることはあるよ。ただ最近は遺伝子移入が問題になってるけど」

「遺伝子移入?それがよくないんですか」

「自然に発生するなら仕方ないんだけど、人間の活動によって遺伝子が混ざっちゃうと元に戻せなくなっちゃうから。ほら、そのチャイ、だっけ?ミルクと紅茶を混ぜて作るみたいだけど、一度混ざったら、もう分けられないでしょ」


若葉ちゃんはなるほど、といった顔で手元のカップを見つめる。

そう、一度遺伝子が混交してしまえばもう元には戻せない。

その種が本来持つ遺伝子プール状態が不可逆的に破壊されてしまう。


「そういえば私、小さいころに地域の行事かなにかであの川で放流したことがあります。今思い出しました」


やはり懸念していたことがあの川でも行われていたらしい。

それ自体が悪いわけではないが、やり方には細心の注意を払う必要がある。


「そうなんだ。善意から行われているんだと思うけど、気を付けないと独自の遺伝子系列が乱されちゃうからね。そうか、そういうことがあったならあの川でも遺伝子移入が起こっているかもしれない。現段階でもちろん断定はできないけどね」

「そういえばお茶の木もたしか緑茶向きなのと、紅茶向きなのがあって、それが混ざったものもあるみたいです」

「なるほど。なんだか近いところもあって面白いね」

「でも混ざることにそういう問題もあるんですね。私知らなかったです」

「君みたいな若い子にそういう問題があることを知ってもらえただけでも、研究者としてよかったと思うよ」

「その言い方、おじさんみたいですよ」


若葉ちゃんはじとっとした目でこちらを見てくる。

そういえば(元)彼女にも時々おじさんっぽいと言われてしまったことがあった。自覚はないんだけどなぁ。


ひとしきり紅茶を楽しんだ後、おすすめのキャッスルトンを少しだけ購入した。グラム単価が思ったより高いことに驚いたものだ。これは少しずつ楽しむことにしよう。完全に若葉ちゃんに乗せられているような気もしたけど、気にしないことにする。

研究にも通じるところがあるけど、これまでまったく知らなかったことに触れることは人生における楽しみのひとつだ。


若葉ちゃんも毎日通りすがる川に住む魚にそんな違いがあるなんて知りませんでした、と興味深そうだった。少しでも興味をもってくれたのなら、研究者としてこんなに嬉しいことはない。


今日は思いのほかお互いにとって素敵な出会いになったようだ。

彼女に魚を、僕に紅茶を。

偶然の出会いが思いもかけないものをもたらすこともある。


そう、出会いは本来、自然なものだ。あの川の魚についても、そういった幸せな出会いがあることを、僕は願ってやまない。

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