第11話 ようやく晴天 城内ぶらぶら 三日目その1 2009年7月初台湾 

 三日目はのんびりと7時に起床し、シャワーして朝食。

 朝食ビュッフェ、今日は肉のコーナーに唐揚げが。点心で焼売もある。フルーツは本日はパイナップル。甘くて美味。更にデザートコーナーにさくらんぼと干しブドウ入りの焼プリンが。

 このプリンが実に美味。新鮮な卵と牛乳で出来たて、という味でたまらん。朝ごはんも外の店で、という考えがなくはなかったのだが、明日もこのプリンが食べたいと二人の意見が一致した。プリンは最強だ。


 9時になるのを待って、渋谷のHISに電話。一昨日の顛末を伝え、電話の向こうも仰天している。

 どういうことか調べて折り返します、という話になり、1時間ほど部屋で荷造りなどしながら待つが、HISで申し込んだ旅行だけど主催はJTBというのがネックらしくやり取りに手間取っている模様。

 ホテルに伝言を残してもらうことにして、10時半ごろ外に出る。


 待っている間に部屋のテレビをなんとなくつけていたところ、ちょうど台北映画祭(台北電影節)の時期だったので、上映作品のワンシーンが幾つか流れる。

 その中でものすごく気になった「自分達が日本兵として従軍したことを日本人はもう誰も覚えていない」みたいな台詞のある映画は、「トロッコ」(邦画だが前編台湾ロケで作られた。クランクアップは2009年5月8日)かなと思っていたのだが、台北電影節には出ていないんだよな(11月の台北金馬影展には招待作品として参加している)。もしかすると「爸...你好嗎?」かも知れない。もう一作気になった記憶喪失絡みの映画はひょっとして「さあ帰ろう、ペダルをこいで」かな?


 旅行三日目にしてようやくの晴天。大王椰子の梢と青空。ハワイに行ってきました、といっても信じられそうな、これぞ南国なお天気がようやく!

 道ももうわかっているので今日は雙連駅まで徒歩で。

 店の軒先にいかにも風水な感じのお札が貼ってあったり、向かいのビルの窓に片っ端から鳥籠窓がついていたり、屋上にトタン建築が建て増しされていたり。ゲーセンから、宝石店の店先で寝そべっている看板犬から、日本語で書かれた定食メニューのあるレストランから、片っ端から写真を撮り、更に私が交番に釘付けになる(警察マニア)。

 台湾の白バイ、台湾のパトカー、台湾の交番。絶対、後で何かの資料になる、と写真撮りまくり。

 普通に歩けば10分ちょいの道のりを約一時間掛けて歩き、11時半にようやく駅に入った。

 駅の中でも券売機から改札から写真を撮りまくる。


 今日はまず、台北駅の站前地下街へ。

 一昨日買った桃のドライフルーツが美味だったので、もう幾つか買い足す。ついでにドリンクスタンドで冷たい桂花烏龍を一杯購入。今日はかなり暑い。


 12時ちょい過ぎに地上へ出、重慶南路の消防署や郵便局、晴れた空の下の北門を写真撮りつつ、今日は北門Y字路を、延平南路の方へ。

 なんだか素敵な西洋館が建っている。

 『撫臺街洋樓(ぶだいがいようろう)』(洋樓=西洋館)は日本統治時代に建てられた建物で、元々は建築会社の本社屋。その後、商店になったり、戦後は新聞社が使ったり軍が使ったりと色々あって、1997年に台北市の古跡に指定される。

 が、その後、2000年に火事になり、木と煉瓦でできていた建物はかなりの被害を受けたらしい。そして2007年に修復が終わって、2009年から民間委託で内部が一般公開されていた。


 建築当時、建物は二階建てしか許可されていなかったので、この建物も基本は二階建てで、その代わりに屋根裏部分が部屋になっているなんちゃって三階建て。

 城内(清の時代の「台北城」の城壁内)と呼ばれるこのエリアは、清の時代に於いても日本統治時代になっても官庁街と、それを支えるビジネス街。

 日本統治時代になって、台北城の城壁は壊され、更に地震や火事の被害を受けて街並みが整理され、広い街路と、それに面した難燃性の煉瓦やコンクリートの店舗や会社が設けられる。

 この『撫臺街洋樓』もその一軒で、「撫臺街」は清の時代からのこの辺りの地名。その後、この辺りは「大和町」になり、戦後は延平南路になった。

 北門郵便局周辺のカメラ街は、よく見ると日本統治時代からの建物が多い。窓が縦長(煉瓦造りの家は、あまり開口部を広く取れないので窓は縦長になる。サッシ自体は当時の上げ下げ窓から新しいものに変わっていることも)で、建物が三階建て(四階以上が増築されていることもある。よく見ると四階以上は窓の形状が横長だったりするので増築とわかる)。

 あと、隣接する建物と境界壁を共有したテラスハウス式で、ただし一軒一軒がファサードをカスタマイズしてタイルを張っていたりペンキ塗装していたり装飾を除去していたりするので、一見テラスハウスに見えないのも特徴。


 撫臺街洋樓内部には、当時の街並みがわかる写真や当時の職業地図などが展示されていた。

 一階には陶磁器などの作品が販売されていて、今でいう「文創」な雰囲気(2009年はまだこの言葉ってなかった気がする)。

 茶杯に一目惚れして、これを購入し、洋樓を出たのが1時ちょい前だった。


 そこから南に向かって歩くと、延平南路は武昌街にぶつかる。ここは、台北市警の刑事警察大隊と台北市警のビルが向かい合っているという警察オタにはたまらん感じのスポット。ついでに延平南路自体、昔の建物が割と残っているので歩いていて楽しいのだが、それに気付くようになったのは割と最近だ。

 ここから武昌街を歩き、城中市場へ。服飾品が多い市場、としてガイドブックに載っていた。

 だが、この市場へ入る前に、その手前に果物を売っている通りがあるのに気付く。

 漢口街一段80巷。

 ライチを小量だけ買える店を求めてこの路地の奥へ入ると、計り売りで売っていた。一枝だけでも買える。小振りな枝を選び、15元で購入。あおやんは桃を買った。


 そして路地から出てくると、道の向かいに大きな廟がある。

 実は、街中で大きな廟を見掛けるのはこれが初めてだった。

 今回の旅では基本的に移動がタクシーとMRTで、それも表通り中心だったというのが大きいだろう(廟は、ランドマークになるような大きなものはともかくとして、基本的にはバス通り沿いにはない)。

 ホテルから一ブロック先には行天宮があったのだが、ホテルから見える距離ではなかった。その代わりに、道を歩いていて茶色い衣の尼僧さんたちとすれ違う機会は多く、素食の店もちょいちょい見掛けていて、そこも日本との違いの一つとして感じていた。


 廟の前では花が売られている。この花の売り方が面白い。

 直径10センチ程度の小皿の上に、目刺しのように加工された花が載っている。

 フリージアをもうちょっと大きくしたようなこの花は「玉蘭」。

 台湾でタクシーに乗った時、車内にほわっと甘い香りが漂っていることがあった。何だろうと思っていたが、それはこの花の香り。

 日本だと茎や葉もついた活けられる状態の花を供えることが多いが、台湾だと花の部分だけが小皿に載せられて供えられることが多い。なので廟の前でお供え用に販売する時にも、この状態に加工して販売している。一皿幾らの鰯みたいだなとひそかに思っている。

 そしてこの花、針金で作った小さなハンガーのようなものに引っ掛けた目刺し状態で販売していることもあって、これは車の中に掛けておく用。ファブリーズ的な用途な訳だ。

 玉蘭の花が割と重要なアイテムとして登場する「BF*GF」という台湾映画があって、その中でもこの花が目刺し状態で販売されているのを見ることができる。数年後にこの映画を見てようやく、この花が玉蘭だとわかった(和名だと白木蓮。木蓮というからもっと大きな花だと思っていた)。


 ここ、「臺灣省城隍廟(たいわんしょうじょうこうびょう)」でまずびっくりしたのは、上に透明樹脂の屋根が掛かっていたこと。

 正面の門を潜ると、もうすぐそこに観音様が祀られているのだが、その上に、透明樹脂の屋根が被せてある。

 日本でいうなら、ご近所の八幡様辺りで鳥居を潜ると、境内全域の上に屋根が掛かっていて、手水舎も神楽殿もみんなその屋根の下にある、ような感じだ。

 たぶん、雨や台風の多さからこうなったのだと思うが、初めて見た時は本当に驚いた。なにせ中華風伝統スタイルの廟と、透明樹脂の屋根の融合だ。築地本願寺に負けないくらいのインパクトがある。

 なお、台湾の廟では門に電光掲示板がついているのもごく普通なことだし、透明樹脂屋根も当たり前にどこにでもある存在。

 廟の建築自体も別に中華風スタイルに限らず、特に街中の小さな廟ではコンクリートブロックを積んだりシャッターがついていたりすることもある。消防団の倉庫かと思うと実は廟だ、みたいな感じだ。雑居ビル風アパートの一階に廟が入居していたりもする。

 江戸に多いものとして、伊勢屋稲荷に犬の糞、というのがあったが、台湾の廟はまさにこのお稲荷さんやお地蔵さんレベルに多い。お墓が日常生活からほんの一歩はみ出したところにあるのと同じく、廟も神様たちもとても身近にあって、ご近所の延長線上のようだ。


 ここで、あおやんがトイレに行きたくなり、トイレを求めてコンビニへ。当時は武昌街と重慶南路の交差点にコンビニがあったので、そこへ飛び込んで、トイレはどこにあるか訊ねる。

 なお、「トイレどこですか(廁所在哪裡)」、は今回の旅行で絶対に使うと思って覚え、発音もばっちりになるまで日本でチェックしてもらった言葉だった。他のことなら悠長に筆談でなんとかなるかも知れないが、これは一刻一秒を争う死活問題だろう。

 今回初めてそれが役に立つ時が来たのだ。

 そして、トイレはなんと今出てきた廟にあった。「寺廟」と言って店員さんが、交差点の向こうの廟を指差したのだ。「謝謝」。

 急いで再び重慶南路を渡り、廟へ戻る。廟の入口、青空教室的なことをやれるベンチが並んだスペースの奥に、トイレの表示があった。

 あおやんがトイレに行っている間に、この廟の由来を説明する碑文を解読。


 元々この廟を含め台北城内には幾つも廟があったのだが、日本統治時代に入ると城内の土地を有効活用するため、それらは撤去されてしまい、ご祭神はあちこちの別の廟に引き取られたらしい。

 この辺り、非常に日本らしいというか明治政府らしい。廃仏毀釈が有名だが、実は神社だってそれほど安泰だったわけではなく、祭祀の手間を省き敷地をコンパクトにまとめる目的で一村一社になった例は多かった。

 戦後、この廟を元の場所に建て直そうという動きが出るが、これはうまくいかず、違う場所での建て直しとなる。台北城内は日本統治時代は完全に日本人街であり、このため戦後は台湾人従業員が事業を引き継いだ例もあるが、引き継ぎのないままに國民党政府によって接収された物件も多かった。この場所にあった「関屋医院」もどうやらそういった空き物件だったらしく、そこに臺灣省城隍廟は建て直されて、今に至っている。


 あおやんがトイレから戻り、城中市場へ。お土産にしたいような小物が色々売っている。ストラップ類を色々と購入。

 そして飾り結びのボタンが欲しかったので、辞書の助けを借りお店の人と筆談。

 スマホで画像が出せる時代じゃなかった2009年、しかも「飾り結びのボタン」をなんて単語は辞書にもなく、どう言えばいいのかわからない。商品のブラウスについているボタンを指差して、こういうのが買いたいんだと伝え、近くにあるお店を教えてもらう。

 城中市場とその奥の沅陵街はどちらかというと既製品の服、特に沅陵街は靴をメインに売っている街なのだが、それでも材料店がないわけではなかった(本当ならこういう服飾材料は重慶北路と南京西路、迪化街、永樂市場周辺が服の仕立てと手芸系DIYの街なので、そこの方が店が多い)。

 店のおばさんが教えてくれたのは「信昌」という店。城中市場を抜けて沅陵街に入ってすぐの「一路發」の二階にある店舗だと、簡単な地図を書いてくれる。

 沅陵街168の「一路發皮鞋」、その二階にあるボタン専門店「信昌鈕釦」。どちらも2020年の沅陵街に健在なようだ。

 一階店舗の入口脇に、二階へ上がるだけの独立した階段がついている、台湾にはよくあるタイプのテラスハウスビルだ(階段の入口部分には独立したドアかシャッターがついている)。

 西洋風から中華風まで、様々なボタンが色別に入っている小さな引き出しがずらりと並んだ店内で、店主のおじいさんとやはり筆談でやり取りし、ようやくボタンが購入できた。

 基本は靴販売の通りだが、一階に下りて辺りを見回すと、周辺の店舗にはチャイナドレスなども並んでいる。編み物教室中らしいおばさんたちもいた。


 そろそろ2時。お腹が減ってきたので、食べ物店を探して重慶南路へ。

 「阿桂的店」という店からいい匂いがしてくる。どうやら餃子がメインな店。割と賑わっているし、ここは美味しそうだと中へ。

 テイクアウトにも対応しているらしく、キッチンは通りに面した入口。そこで注文してから、中の座席で待つシステム。

 餃子を幾つ頼もうか迷ったら、おばさんが「10個にしておけ」とジェスチャー。餃子10個と空芯菜炒めを頼んで、席で待つ。

 外が今日はかなり暑いので、クーラーの効いた店内が嬉しい。と思ったのもつかの間。ガンガンに効いたクーラーと扇風機で、あっという間に寒くなってくる。

 熱々の餃子が美味しい。

 ここは今「阿貴的店」(「桂」も「貴」も発音は「グイ」なので、表記は変わっても発音は同じ)に名前が変わっていて、メイン商品は牛肉麺に変わっているっぽい。建物は重慶南路ではもう珍しくなっている日本統治時代の名残りの看板建築なので、見ればすぐにわかる。

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