第7話 瑞芳事件と七公祠 二日目その2 2009年7月初台湾

 車で約一時間迷ってようやく辿り着いた七公祠しちこうし。この記事を書くために2009年に撮った僅かな写真とストリートビューを突き合わせて場所を特定するまでにもざっと3時間、グーグルマップ上を彷徨った。

 七公祠、はその名の通り、七名の人物を弔った祠だ。

 瑞芳ずいほう事件、もしくは金瓜石きんかせき事件、と呼ばれる事件が第二次大戦中、日本統治下のこの地で発生した。地元の台湾人のリーダーたちが、中国と通じているというスパイ疑惑を掛けられたのだ。

 七公のうちの三人、游阿明、簡盛、呂阿火は三人とも、この地の金鉱山で働く鉱夫のまとめ役だった。鉱山に既に来ている鉱夫を管理するだけでなく、鉱夫のスカウトもその仕事のうちだった。

 第二次大戦時、金鉱山は人手不足で、最後の方は捕虜すら働かせていた(これがばれないよう、いざという時には捕虜全員を生き埋めにするための仕掛けまで設けておくという確信犯な周到振りだったりする)。台湾だけでは鉱夫が足りず、まとめ役たちは中国大陸からも鉱夫を連れてきていた。

 台湾と中国を行き来する彼等は、実はスパイなのではないか?

 そんな疑いを掛けられるとは思っても見なかっただろう。だが、実際に疑いは掛けられ、更にそれは瑞芳一帯を巻き込んだ。


 1940年5月27日に起こったこのスパイ疑惑は、そもそもはこの地の炭坑業で名を成していた「瑞芳李家」(台湾では名字のバリエーションが少ないので――というか、林とか李とか幾つかの姓があまりに率が高すぎてどこにでもいるので――上に地名を付けて区別する)という名家の長男が、実は重慶の国民党政府(当時は日本と戦争中)と連絡を取り合っていて、台湾総督府転覆計画を練っている、そんな密告があったことに始まった。

 「瑞芳李家」の六人兄弟は全員捕えられ、うち三人が獄死、そもそものスパイ疑惑を掛けられた長男は懲役十二年、弟の一人は拷問によって聴覚を失い、末弟だけは仮釈放された(これは九份が舞台の映画「悲情城市」の元ネタなんじゃないかと思ってるが、どうなんだろ? あの映画の主人公が聴覚障碍設定なのは、トニー・レオンが広東語しかしゃべれないからだ、というのが公式情報だが、元ネタが日本統治時代のエピソードだったとしたら、民主化直後に二二八事件の映画を作るにあたって、監督が外省人というのと同様に政府に文句を言われない一つの要因になったのではないかという気がする)。


 しかし、逮捕者はこれだけでは終わらない。

 大陸から出稼ぎに来ていた鉱夫たち、大陸から彼等を連れてきたまとめ役たち、更に地域のインテリ層だった医者や、行政書士、更には多少なりとも発言力のある商人から職人、店舗のオーナーに到るまでが特高警察によって逮捕された。

 教師で逮捕されるものがいなかったのは、教師が日本人だったからだ。台湾人で地域のリーダー格、リーダー格になり得ると見做されたものは軒並み逮捕された。二二八事件が一足早くに日本統治下で起こったよなものだった。子供達すら巻き込まれかけたという話もある。


 ざっと百名ほどの逮捕者は台北に連行され、台北刑務所で取り調べを受けた。獄中死するものも出た。ほとんど魔女裁判のようなヒステリックな逮捕劇だったにもかかわらず、1945年になってもまだ延々と彼等は獄中にいた。

 そして、1945年5月31日の台北大空襲、総督府すら炎上したこの空襲で台北刑務所が爆撃を受ける。

 瑞芳事件で獄中にあった人々のうち、游阿明、簡盛、呂阿火は即死だった。黃仁祥は重傷だったがまだ息があり、死亡後に家族が遺体を連れ帰った。

 游阿明の弟、游金も、この時、台北刑務所に収監されていた。このため、游阿明、簡盛、呂阿火の遺体の埋葬を、刑務所側は游金に行わせた。

 この空襲では、瑞芳事件以外で収監されていた囚人のうち、四名も死亡している。名前すらわからないその四名の遺体も合わせ、七名の遺体が游金によって、看守の見張りの下で、付近に仮埋葬された。

 その二月半後、日本は降伏し、瑞芳事件の逮捕者たちで生き残っていたものは9月には全員釈放される。


 しかし、游阿明、簡盛、呂阿火の悲劇はこれでは終わらない。

 遺体の埋葬場所を知っている游金が、今度は二二八事件で逮捕された(「瑞芳李家」の六人兄弟で生き残っていた三人のうち長男と末弟も逮捕されるが、後に釈放され、「瑞芳李家」は二二八事件への連座を免れる)。

 游金はそうはいかず、四年間の獄中生活を送り、出獄後にようやく兄たちの遺体を金瓜石へ連れ帰った。仮埋葬から六年が経ち、七つの遺体は完全に遺骨となっていて、どれが誰だか見分けは付かなかった。

 仕方なく、三家の遺族(残る四体が誰なのかは結局わかっていないため、当然遺族にも連絡がつかない)が七体の遺骨を一緒に弔ったのが、この七公祠なのだ。

 通常の墓と違い、小さな廟のような形の七公祠の中には、墓石の他に、一九九七年に作られた、祠の由来を伝えるプレートが設けられている。


 台湾好きならたぶん知っている林雅行監督の、台湾ドキュメンタリー初期の二部作「風を聴く~台湾・九份物語~」「風が舞う~金瓜石残照~」という作品がある。

 九份と金瓜石に長期滞在してとても丁寧に撮られた映画だ。

 それぞれ「傾聽風聲 台灣九份故事」「雨絲飛舞 金瓜石殘照」というタイトルで台湾でも封切られた。

 2007年と2009年に公開されたこの映画は、どちらも観光客の目から見た人気観光スポットとしての九份と金瓜石ではなく、そこで普通に暮らしてきた人の目を通しての日常の生活の場であり故郷である九份と金瓜石を捉えていて、台湾に実際に行ってみたいと私が思うきっかけになった。

 そしてその中で七公祠も紹介されていた。

 

 九份については、この映画のおかげもあって絶対に、行くなら数日間の滞在で、だと思っていたので九份という選択肢はなかった。だから、今回の旅行では金瓜石だと決めた。

 そして、金瓜石に行くなら、七公祠、黄金博物館、黄金瀑布、はセットだなと思っていた。

 よもやここまで迷うとは。


 とりあえず今回、この記事を書くために場所は再度特定した。お墓の写真はあまり撮らない方がいいとガイドの王さんに止められたため(特に亡くなって三ヶ月以内の人のお墓は撮らない方がいいらしい。ついてきちゃうそうなので)、七公祠を大きく撮った写真が数枚あるばかりで(廟のレベルであれば写真を撮っても問題ないそうだ)、背景からの特定が相当困難だったが、まず間違いはないはずだ。

 次回、もう一度ここへも行ってみようと思う。


 七公祠で不思議だったのは、墓石の傍にゆで卵を食べた痕跡が残っていたことだった。

 肝試しの暴走族でも来たのかと思ったが、これは台湾でのお墓参り時の古い風習なのだそうだ。

 ゆで卵や蜜柑を墓参りの際に持参し、殻や皮を剝いて子供や孫に食べさせる。そして殻や皮はお墓に残してくる。

 ただし、そこにどういう由来があるのかは、その家の家長しか知らない。人には教えてはならないタブーなのだと、これは運転手の施さんが教えてくれ、王さんが通訳してくれた。

 だから二人とも知らないそうだ。

 殻や皮を剝くという行為に恐らく意味があるのだろうとは思う。

 再生の象徴かも知れないし、穢れの除去や脱却なのかもしれない。


 7月の山の中の墓地ということで蚊が多く、気付いたら喰われていた。辺りには蝉も鳴いている。

 七公祠へのお参りを終えて、ここからは「瑞金公路」を更に直進し、10時ちょい過ぎに無事に黄金博物館へと着いた。

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