第6話 目指せ金瓜石の七公祠 二日目その1 2009年7月初台湾

 旅行二日目は6時に起床。窓から外を見てみると、なんだか昨日にも増してどんよりとした天気だ。

 リュックサックにガイドブックやメモ帳、電子辞書、それから雨具と流せるティッシュやウェットティッシュ、ついでにファーストエイドキット(これは私の趣味)を詰め込む。

 荷造りが住んだところで、まずは朝ごはん。

 初の朝ごはんはまずはホテル一階のレストランで無料で食べられる朝ごはんを。


 朝ごはんはビュッフェ形式で、洋食と和食と中華が並んでいる。

 中華のコーナーに大根餅があるのが嬉しい。野菜のコーナーの茹で野菜は、台湾の野菜らしくて見たことのない菜っ葉がある。

 肉っ気はベーコンにして、卵やら茹で菜っ葉やら、大根餅やら無国籍に取っていく。

 ゆで卵だと思ったのはどうやらアヒルの塩卵だったらしく予想外のしょっぱさだった。

 そして面白かったのが、おでんがあったこと。しかし、日本だとおでんは深さのある入れ物に入っていると思うのだが、ここでは浅いお皿に入っている。あと、大根も厚揚げも一口サイズに切ってある。ついでにお出汁の香りがどこか台湾風。でもおでん。

 フルーツはこの日はグァバだった。初めて食べたのだが、これはあんまり好きではなかった。


 8時、ガイドさんとロビーで合流し、お金を渡す。

 ガイドさんは王さん、運転手さんは施さん。

 行きたい場所がかなりマニアックだったため、王さんは引き受けた後、いったいこれはどこだと必死に調べてくれたらしい。

 なにせ私たち自身、七公祠しちこうし鄭南榕ていなんようのお墓がどこにあるのか、わかってなかったのだ。

 当時はまだ私も中国語は「解読する」レベル。このため、調べ物は基本的に日本語が中心になる。

 そしてどっちもマニアック過ぎて、日本人が日本語で書いた情報がネットの海にすらほとんどなかった。鄭南榕のお墓にしても、日本語でわかったのは「テレサ・テンのお墓の傍」というところまでだったし、七公祠に関しては金瓜石と九份の間辺りにあるらしい、としかわからない。


 そんな状態でまずは九份経由で金瓜石に向かうため、車に乗り込み、走り出す。

 起きた時から曇っていたが、走り出すとすぐに雨がぱらつき始めた。

 この先、どこをどんな風に走ったのか、は今もよくわからない(私は車が運転できないので、高速に入ると当時はどこがどこやらさっぱりだった)。とにかく途中から高速道路に入った。そして萬瑞快速道路を走り、瑞芳インターで下りたらしい。当時撮った写真に「龍嚴宮」という廟の名前が写っているので。


 高速道路が走っているこの辺りは「台湾のシリコンバレー」なのだとガイドの王さんが教えてくれた。

 大体この20年くらい――今から見れば30年――の間にできた新しい街だそうで、工場と、工場で働く人々が暮らす高層マンション(タワーマンションが要塞のように固まっている)、そして大型スーパーという、職場と生活が密着したニュータウンだ。

 第二次大戦中に米軍の空襲があって以来は、駅の傍以外ほぼ無人地帯だったそうで、おかげで地上げの必要もなく開発は進んだらしい。今は順調に地価が上昇中だとのこと。


 そもそも生活の場ではなかった山の中に作られている高速道路は、墓地の間を通過することが多い。

 そして日本や西洋だと墓石の列は一方向を向いてずらっと並んでいるが、台湾の山の墓地では、家のような形の墓が、不思議と色んな方向を向いて建っている。もちろんそれなりにどっち向き、というのはあるのだが、ぴしっと整列してはいない。

 これは墓がどこに向くのがいいかを、「命盤」という器具で占ってもらい、故人に適した方角に向けて建てているからだそうだ。

 カラフルな墓が、少しずつ向きを変えて建っているのは、本当に個々の人間がそこに住んでいるのだという感じがあって、墓地なのにどこか生き生きとして感じられた。

 たくさんのお地蔵さんとか、五百羅漢とか、一つ一つ見ていくと知り合いの顔が見つかると言われる、ああいった感覚に近いものがあって、私は台湾の高速道路沿いのお墓の光景が決して嫌いではない。

 特に、山のふもとには生きている人間の暮らす家があって、山の上にはお墓がある、というような光景を見ると、なんだか心が安らぐ。あの世が特別な場所ではなく、すぐ裏山にあるようで、ほんのちょっと引っ越すだけな気がするのだ。

 日本にもそういう墓地はあるのだが、日本の場合、一族の墓地だというのもあって、「ご先祖」という言葉でしか捉えられなくなってしまうような気がする。台湾のお墓は、おじいちゃんおばあちゃんの家がちょっとコンパクトサイズになって裏山に引っ越しただけ、そんな風に見える。

 夫婦は普通、一つのお墓に一緒に入る。しかし、奥さんの父親が、娘の分骨を希望したりすることもあるそうだ。


 瑞芳の駅前を走っている9時頃から、空が晴れてきた。駅前には果物を売っている屋台が多い。スイカを路面に山積みにして販売していたりもする。道行く人が差しているのは、傘は傘でももう日傘だ!

 車はここからバス道である「瑞金公路(公路=バス道。バスは公車という)」を九份へ向かい、そして九份を通り過ぎ、バス道をそのまま金瓜石の方へ向かっていく。辺りはあっという間にまた緑になっていく。


 問題は、ここからだった。

 七公祠がどこにあるのか、わからない。

 なお、今、グーグルマップを引いているが、未掲載だ。


 九份を過ぎたところで道行くおばさんに訊ね(この時に運転手の施さんが「おばさん」と声を掛けたのが衝撃だった。日本語がある程度、台湾の言葉に混ざって残っているとは聞いていたのだが、それをリアルに耳にするとは思ってなかった。ちなみに漢字では「歐巴桑(オウバーサン)」と書く。「おじさん」は「歐吉桑」(オウヂーサン)だ)、この辺りの大きな墓地である瑞芳區第十九公墓(公営墓地)にあるということで、その真ん中を抜ける形になる瑞雙公路という道に入る。

 しかし、これが間違いで、消防署(九份分隊=九份署)まで走ってから、署の隣の土地公廟で訊ねたところ、違う道だとわかった(ちなみにこの土地公廟の駐車場からの眺めはとても良いのでお勧め)。

 瑞雙公路に入らず、金瓜石の方へ向かっていく最初に走っていたバス道「瑞金公路(北34郷道)」をそのまま行くべきだったのだ。


 という訳で、今来た道「瑞雙公路」を、「瑞金公路」との分かれ道まで引き返す。

 両側は墓地。

 九份が千と千尋のモデル~というのはジブリが否定しているが、墓地の間のこの道は、あのトンネル前の道の雰囲気とよく似ている。

 小さな家のような墓が道の両脇に無数に並び、そしてよく見るとなぜだか道路脇の、墓地からはみ出した土手にも横穴が穿たれて、骨壺らしい容器が納められ、その前に墓標のようなプレートが立っていたりする。

 日本の鎌倉でよくみられる「やぐら」を小振りにしたというよりは、もっとストレートに「横穴式墓地」という言葉が頭に浮かんでくる生々しさがあった。

 千と千尋っぽいと言って第十九公墓をわざわざ見に来る人はいないと思うが、むしろ九份の街並み以上にこっちの方がモデルなんではないかという気がする。


 分かれ道から、第十九公墓の外側を走る「瑞金公路」を進むと、「南新山」というバス停の前に、墓地へ入っていく歩道が見える。これを入ってバス道沿いの一番下の道をしばらく進んでいくと、バス道に「黄金博物館へは直進」だと示す道路標示の茶色い看板が立っているのが墓地の中からでも見えるはずだ(山尖路というやや細い道が分岐していて、こっちは九份のオートキャンプ場に通じている。この分岐の手前にこの看板がある)。七公祠があるのはその看板の傍となる。

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