第6話 スキだらけ

 唇からするりと抜けるひんやりした体温。遠ざかるソレは泉の視界にワーズの指として現われ、咥えたフォークを吹き捨てた彼は、その指の腹を舌で舐め取り――

「!!? なっ――うべぇ……だ、だんでふが、ごれ?」

 理解すると同時に羞恥で叫びかけた泉。

 だが、これにより新鮮な空気が口の中を巡ったなら、濃厚な生臭さが鼻を直撃した。

「んー? まま、食べて食べて?」

 同じ臭気を放っているに違いない指を舐めるワーズは、何の変化もないへらり顔で、酷なことを言ってくる。

 口に入れた物は毒ではない限り食べよとも教わってきた泉。睨むことすらままならない生臭さに耐えつつ、湧き上がる吐き気と格闘を重ね、少しずつ飲み込んでいく。さっさと毒と判じれば良いモノを、人間好きを豪語するワーズが勧める品では、危険と吐き捨てることもできない。

 悶え苦しみながら、どうにかこうにか口の中を空っぽにし、

「……ぁう…………たへたにょにぃ……にゃんと、にょみほんたゃにょにぃ………………にゃまぅぐっひゃいよぅ…………」

 ぽろぽろ涙が零れてきた。

 ニオイがキツ過ぎて、鼻呼吸も難しい。

 挙句、喘ぎ呼吸する横では、史歩とクァンの姿がいつの間にか遠ざかっていた。

「ぐっ、何て物持ってきやがった、芥屋の!」

「このニオイ、人魚か!? 幽鬼があるのに、何て物持って来るんだ!!」

 二人とも、泉がそんなブツを食べさせられたことに対しての同情はないらしい。

「わ、わぁじゅしゃんっ! こ、これっひぇ!?」

 ニオイと同時に物悲しさを味わう泉は、自身の口を指差し、原因である男へ食した物の確認を取る。史歩の言う人魚のニオイは泉も嗅いだが、食べてはそれ以上の悪臭が放たれていた。

 これに対し、店主はあっさり首を縦に振った。

「うん。人魚の肉。泉嬢、不味いって聞いた時、よく分からないって顔してたからさ? 説明するより、食べさせた方が早いでしょ?」

 くらり、頭痛に襲われる。

 確かに不味さは分かったが、不味いと最初から聞いていて、しかも実物を見た後で、誰が食べたいなどと……。

「泉嬢」

 再度呼ばれては、苛立ち混じりに顔を上げ、

「にゃんれふ――――むぅ!!?」

 またも口に物を押し込まれた。

 さすがに二度も味わうつもりはない。今度ばかりは吐き出そうとする。

 が、間髪入れず泉の口は白い手に覆われ、逃げ道を奪われてしまった。

 外そうともがき唸れば、クツクツ笑う声。

「泉嬢、隙あり過ぎ。今度のはほら、ちゃんと美味しい物だから、味わってよ」

「むーむーむー!!!」

 助けを求めるように見渡したなら、素知らぬ風体で史歩とクァンがグリルを囲んでいた。

 どうやら泉より、焦げる手前の肉の救出を優先したようだ。

 箸やトングが早いペースで肉を掻っ攫っていく。

 薄情者、と叫ぶ声は喉を揺らすだけ。

 そんな泉の様子なぞお構いなしに、ワーズは言った。

「ボクはさ、本当は、のんべんだらりとするのが好きなんだよね。なのに、たくさん走り回ってクタクタなんだ。だから、泉嬢にはもう少し、落ち着いた行動を取って貰おうかと思ってね」

 銃で頭を小突くように掻きながら、同意を求める視線。

 責めるでもなく、少しだけ困惑を浮べている。

 心配していたんだよ、と暗に伝わり、

「…………」

 大人しく頷く泉。

 幽鬼を始めて食した時も「心配」とワーズは口に出して言っていた。

 ……その後で酷い目にはあったけれど。

 はぐらかしても嘘は言わないワーズ。

 前置かれなかった生臭さはさておき、前置かれた美味しさはよく知っていた。

 ……大抵、ゲテモノだったけれど。

 しかし、結局は口にしてしまったモノ、観念してもぐもぐ咀嚼する。

 程なく、生臭さや不快さが綺麗さっぱり消えていく。

 それどころか――――

 驚きに目を開けば、口を塞ぐ手が離れた。

「美味しい?」

 唇に触れ、こくり頷けば、良かったと笑う。

 甘い口どけと仄かな塩加減。

 磯の香りも少しだけ。

 しかし、凪海にはそんな匂いはなく、浴びた水も真水に近かった。

 解けていく極上の名残を逃がすのも惜しく、口を閉ざしたまま首を傾げ、目だけでこれは何かと問う。

 瞬きも忘れた泉に、濡れた手を舐めるワーズは謎かけのように語った。

「んー? 人魚ってのは、陸に上がると不味くなるんだ。今日出払ったの、全部不味いし。泉嬢、人魚に招かれてさ、怖い思いしたでしょ? また遭ったら嫌じゃない? だから凪海行ったついでに採ってきたんだ」

「……採ってきた…………って、恋腐魚リゥフゥニかい!?」

 過敏な反応を示したのは、グリルから最後の肉を引き上げたクァン。

 続いてぎょっとした表情の史歩が、泉とワーズを交互に見る。

「は…………一体、誰に付いたのを?」

「ん? それが、ボクだってさ。すごい迷惑。まあ、お陰であの子が凪海にいないって分かったから良いけど。泉嬢も喜んでくれたみたいだし……まだあるけど食べるかい、泉嬢?」

 未だ続く至福の美味しさから、素直にこくんと頷いた。

 そんな泉へワーズが、にたり、嗤いかける。



 手招けば、魅せられた瞳でのろのろワーズの下へ近寄る泉。

「凪海出るとやっぱり腐れちゃうから、海水と一緒に瓶に入れてね。ポケットの中に入れたんだ。包丁は濡れたまんま入れるわけにはいかなくてさ」

 そう語るワーズの左隣には、いつの間に取り出したのか、手の平ほどの高さしかない大口の瓶がある。瓶内、海水に浸かったモノを手で取り出し、これを水気も切らず、胡坐を掻く前でぺたりと座った泉の口元へ持っていく。

 恐る恐る開かれる唇に、濡れた指ごとコレを与える。

 餌づけのように一つ与えて後、ふと気づいた素振りでワーズは史歩を見やった。

「良かったら史歩嬢も――」

「お前から恋腐魚なんぞ、誰が食すか!!!」

 顔を真っ赤に染め上げ、史歩が舞台から逃げていく。

 見送ったワーズはクァンが泉を凝視していると知り、クツクツ肩を揺らした。

「こんなこと、お前に言う義理はないけどさ? 安心しなよ、クァン・シウ。ボクは正式な食し方を泉嬢にさせる気はないから……お前の男みたいに」

 おどけた調子で告げたなら、音がしそうなほどクァンの顔が赤くなった。これを愉快と笑ったワーズは、また瓶の中から掬い上げたモノを、同じように泉の口へと運ぶ。

「アンタ……」

「んー……はい、泉嬢、お代わりだよ」

 苛立つ声音のクァンは決して見ず、美味しさに潤む瞳で催促する泉へ、新しいモノを与えてやる。抗いもせず、黒い袖を握り締め、手ずから嬉しそうに食べる様を眺めていたなら、クァンから嘆息が零れた。

「……いいや。ったく、正式じゃないったって……見てるこっちが恥ずかしい」

 そそくさと立ち去る気配は、食べたらとっとと帰れと言い残し、舞台袖の扉へと消えていった。

 荒々しく閉じられた扉の音に、へらり笑った顔を向けていると指が舐められた。

 きょとんとして視線を戻せば、かぷっと指先を食まれる。

「泉嬢? そんなの食べたらお腹壊しちゃうよ」

 苦笑し、やんわり掴む手を遠ざけては、瓶の中身を手にまた与え。

 咀嚼、呑み込む泉から、うっとり熱い吐息が零れた。

 そうして、幾度となく口にし、終えては幸せに浸る表情。

 ワーズはこれを目を細めて眺め――……


 瓶の中が空になる頃、泉は恍惚を浮かべ、ワーズの足を背に寝転んでいた。

 黒い身体を支える銃の内側で、くすくす笑いながら黒い裾と戯れる。

 コレを尻目に立てた左膝の上、腕を置いては先の手を舐めて瓶のお零れに預かりつつ。

 ぼやく。


「ホント、泉嬢ってばスキだらけ。うーん……でもやっぱりボクは、猫が食べたいなぁ」

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奇人街狂想曲 人魚の章 かなぶん @kana_bunbun

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