2

 急にまた緊張が私の全身を包んだ。呼吸さえ苦しくなってきた。だがもう、引き返せないところまで来てしまった。

 私は筥崎宮の鳥居をくぐった。当然、そこにはコエリョ師など待ってはいない。

 私は一人で海岸の鳥居から関白殿下の本陣のある神社の社殿に向かう道を歩いた。道はずっとまっすぐの一本道で、道の左右は森だった。

 しばらく歩くと、また神社の門である赤い鳥居が見えてきた。

 私はまだその中に行くわけにはいかない。今、関白殿下の所にはコエリョ師やフロイス師、そしてカピタン・モールのドン・モンテイロがいるはずだ。もちろん私は、彼らと合流するはずなどない。

 あの赤い鳥居の中は、今は関白殿下の武将たちがその兵らとともに陣を張っている。だから、私が今のこのこと入っていくわけにはいかないのだ。

この間のように武将たちに見つかったら、またキリストの話をしてくれとかいって囲まれるかもしれない。それはうれしいことではあるけれど、今日はだめだ。

 そこで私は道の左右ある森のうちの左側の森に入った。木が多くて身を隠すにはちょうどだ。道を人が歩いても見つからない。

本来ならばこの道は筥崎宮に参拝する人たちでにぎわっているのだろうが、今は関白殿下の陣営となっている以上、一般の人は立ち入り禁止になっている。もっともそうでなくても、今の博多の町はまだほとんど廃墟なのである。

 私は木の陰に入って座り、時間をつぶした。

 まずはコエリョ師一行が関白殿下との会見を終えて神社から出てきて、船に戻るのを待たなければならない。

万が一彼らに見つかったりしたら、総てが終わりだ。私が終わるだけではない。日本も終わりだ。

 私はそのままずっと動かずに、時を過ごした。

 もちろん私は緊張しきっているので胸もそわそわし、退屈だと感じたりはしなかった。そのまま三時間か四時間くらいの時間が過ぎ、日も西に傾きだした。

 私はひたすら祈った。ロザリオの祈りを何周唱えたか分からない。

ただ、時々座り方を変えないと、尻が痛くてたまらない。

道の方を見ると強い日差しが照りつけ、蝉の声もやかましい。だが森の中は木陰で涼しく、海の方から風も吹いて来るので暑さだけはしのぎやすかった。

 そして夕闇にあたりが包み込まれ始める頃、ざわざわと人の声がした。しかも聞き覚えのある声で、ポルトガル語が飛び交っている。

 私はより一層姿勢を低くして木の陰に隠れた。

 わりと私のいる所のそばの道を、コエリョ師一行いっこうは談笑しながら海の方へと通り過ぎた。

皆上機嫌のようだったから、関白殿下との会見もうまくいったのだろう。コエリョ師が上機嫌ということは、関白殿下も上機嫌だったということになる。

 私はコエリョ師たちも姿が完全に見えなくなるまで、そのまま森の中に待機した。

 そして、もうあたりはかなり薄暗くなったころに意を決して森から出て、道を関白殿下の本陣の方に向かって歩き出した。

 鳥居の中は武将や兵であふれていた。彼らが夕食のために煮炊きしているにおいが充満している。私が入ると何人かの兵はすぐに好奇の目を向け、また駆けだして寄ってくる者たちもいた。

「バテレン様。先ほどお帰りになったのでは?」

 彼らは私がコエリョ師の一行の中にいたと思っている。

「あなたは、キリシタンですか?」

「はい」

 私を囲んでいる人たちは、皆信徒クリスティアーニのようだった。

「あなた方の大将にお願いしてください。まだ関白殿下にお話しし忘れたことがあったので、戻って来ましたと」

「お待ちください」

 兵士たちはすぐに走っていった。そして数分もしないうちに、武将のような感じの人が来た。

「おやおやおやバテレン様、関白殿下にまたお会いしたいとか」

「はい、緊急の重要な話があります」

「分かりました。こちらへ」

 前に二度も来ているので、関白殿下がいるところは分かっている。私は武将に案内されるまま、関白殿下のいる建物に向かった。

玄関の所で待たされた。中へ入っていった武将は、しばらくしてからまた出てきた。

「関白殿下はお会いくださるそうです」

 もし私が外国人ではなく司祭でなかったら、こうも簡単に会見はしてくれなかったのではないかと思う。

 私はその武将とともに建物の中に入り、いつも関白殿下と会見していた部屋へと入った。

 これまではそこで待たされて、後から関白殿下は出てきた。だが今日はもうすでに関白殿下は座っていて、私のことを待っていたようなかたちだ。

「あれ? 大坂のコニージョ殿ではござらぬか。お一人か?」

「はい」

「どうされた?」

「どうしてもお話ししたいことがあってまいりました」

「先ほどはおられなかったよのう」

「はい」

 関白殿下は愛想はよかったが、少し怪訝な顔で首をかしげていた。

「お一人とは珍しい。いやまあ、まずは一献」

 関白殿下は手を打って、酒肴を持って来させた。

私の前に膳が置かれた。関白殿下は私のそばまで来て、酒を継いでくれた。

「先ほども南蛮の商人あきんどかしらというか航海長というか、カピタンという方から南蛮の珍しいものを多数頂戴した。残念ながらこの博多へは南蛮船は入れないそうだけど、それをわざわざ告げに来てくれたそのまことさが気に入った」

 関白殿下は、ひとしきり大笑いをした。

「だが、堺へ来ることができたら、万々歳よのう」

 私は関白殿下からの酒を飲んだ。だが、関白殿下のように、高笑いするような気持ちの状況ではなかった。

「なんだかコニージョ殿といると、大坂に戻ったみたいだ。そう、初めて会ったのは姫路だったよな」

「はい。まだ羽柴筑前様といわれていましたね」

「そうよ。羽柴筑前が、今この筑前におる、おもしろいのう」

 また、関白殿下は笑った。

「コニージョ殿は、いつ大坂へ?」

「実は今日、大坂に戻るためにあの船を出てまいりました」

「ああ、。そのためのあいさつか。いや、お気遣いご無用ご無用、また大坂で会えようぞ」

「実は……」

「ん?」

 私があまり深刻な顔で言うので、関白殿下も少し笑みを消した。

「私がここにいることも、準管区長のコエリョもフロイスも知りません」

「んん?」

 関白殿下の眉が動いた。

「私の一存で参りました。彼らについて、関白殿下にお話しがあります。この日の本の国の存亡に関するお話です」

「話が穏やかではないのう」

 いつしか関白殿下の顔から笑顔が完全に消えていた。

 私はどう話を始めていたのか分からず、杯を置いて、硬直した顔で関白殿下を見ていた。そのまま二人の間に無言の時間が流れた。とにかく私は緊張でカチカチだった。

「殿下はこの九州が平定された暁には朝鮮に兵を出し、明国をも攻略なさるおつもりとおっしゃってましたね」

「ああ、そうじゃ。コエリョ殿はその時、お国の船を提供してくれると言った。南蛮の最新式の船であろうな」

「そのことでございます。その申し出は、決してお受けになりませぬよう」

「ん?」

「異なことを申すのう。何ゆえ?」

「その船はイスパニアの船です。フィリピーノ、つまりこの国の方が呂宋ルソンと呼んでおります所から来ます。呂宋ルソンはイスパニアが完全占領してその領土の一部となっており、イスパニアの王から派遣された領主が治めています」

「ふむ」

 関白殿下の顔がかなり真剣になってきた。私はもう度胸が据わって、そんな関白殿下の目を見据えて堂々と話を続けた。

「その呂宋ルソンのマイニラにおりますイスパニア人の領主と、我がコエリョはどうもつながっております。だから大坂城での会見で、あのようなことを申し上げたのです」

「なんだか聞き捨てならない話になってきたな」

「はい。イスパニアは呂宋ルソンを占領した後の標的を、この日の本に定めています。かつては明国よりも大きな大陸にあったインカ帝国という国を、イスパニアは侵略し、占領して自分たちの国を作りました。そして、それと同じやり方で、この日本を手に入れようとしています。殿下が朝鮮に兵をお出しになりましたら、それを手助けするふうを装って、殿下の大軍の留守に一気に日本に攻め込む手はず。それを引導しているのがコエリョなのです」

 関白殿下はもはや目を見以来て、全身が硬直していた。ただ、その手だけが震えているのが見えた。

「でも、あの人はポルトガルという国の人では」

 やっとという感じで、それだけを関白殿下は言った。

「はい。かつてはイスパニアとポルトガルで取りきめがあり、日本はポルトガルの商売の縄張りでしたので、イスパニア人は来ることもできませんでした。でも、今はイスパニアとポルトガルは一つの国になったのです。もうそのような取り決めは無効になりました」

「イスパニアが来るのか」

「イスパニアの王がどう考えているかは分かりませんが、少なくとも呂宋ルソンにいるイスパニア人の領主はそう考えているようです。そして殿下が朝鮮へ兵を出す前に、ある下準備をしようと思っています。それは、殿下が薩摩でされたのと同じ方法です」

「わしが? 薩摩で?」

 関白殿下は少し考えていた。

「一向宗の門徒を敵国内にお作りになりましたね」

「あれか。あれはかなり功を奏したぞ。あ! あの同じ方法をイスパニアは採るのか。つまり薩摩での一向宗が、日本でキリシタンか! そなたらはそのようなつもりでこれまで布教しておったのか!」

「いえ、これまでは違います。しかし、コエリョの考えはそのようなふうに傾いてきています」

「ならぬならぬならぬならぬ!

 関白殿下は音を立てて膝を打ち、憤怒の形相であ立ち上がった。

「かつてイスパニアがインカという国を攻めた時、」

 私は、関白殿下を見上げて話を続けた。

「それはものすご虐待をしたそうです。その時も、薩摩における殿下と同じ方法をとったということです。そしてキリシタンにならなかった民は焼き殺し、残虐な方法で処刑し、インカの民の数はかなり減ったということです」

「我が兵の中にも、キリシタンは多すぎる。九州では民百姓までがキリシタンだらけだ。だが、抵抗した者もおっただろう」

「殿がキリシタンである領国では、神社や寺は焼かれ、それでも改宗しないものはどんどん奴隷として海外に売られています。女奴隷五十人で鉄砲の火薬ひと樽と引き換えです」

「なんだとぉ!」

もうほとんど憤怒の形相で、関白殿下は顔を真っ赤にしていた。

「たしかに鉄砲の火薬はかつては南蛮より買い入れなければ手に入らなかった。だが今は、火薬も国内でいくらでも生産しておる。それをいまだに奴隷と引き換えに買いつけておるたわけがおるのか!」

「残念ながら、イスパニアの商人と奴隷を売りたい日本の殿との仲立ちを、あのコエリョはしておりました。私はこの目で見ました」

 関白殿下は立ったままただ眼を見開き、あぜんとした様子でしばらく固まっていた。その「しばらく」が、私にはものすごく長い時間に感じられた。

 私は目をそらした。だがすぐに関白殿下に視線を戻したのは、関白殿下が柱を何度もこぶしで叩きはじめたからだ。

 それから殿下は私の前に座り、大きく息を吸って吐いた。

「そなた、キリシタンのバテレンでありながら、なぜそのようなことをわしに告げに来た? キリシタンの南蛮寺の方から見たら、そしてイスパニアから見たらそなたは裏切り者になるのではないのか?」

「私は日本が大好きだからです!」

 私は大声で、怒鳴るように言った。一瞬、関白殿下の動きが止まった。

「日本に来てからもう七年。私にとって日本は母であり、妻であり、友です。日本の民もそうです。私は日本を守りたい」

 言いながら私が激昂して、目からは涙が焚きのように流れた。それにむせびながらも私は続けた。

「私が裏切るんじゃない。コエリョの方がキリストを裏切ったのです。キリストの名のもとに他国を侵略し、領土を増やす、このようなやり方は、キリストを侮辱している人にしかできないでしょう? そんな人の手から、私はこの日本を、日本の民を、日本の国土を、美しい風景を守りたいのです。私は日本が大好きだからです! これは、私の日本に対する御大切(愛)です! キリストは人類をそれはそれは本当に御大切に(愛)し、その御大切(愛)ゆえに十字架にかかりました。私も、日本を本当に御大切に(愛)したい」

 私はまた、怒鳴るように言った。

 それから少し間があった。私は関白殿下の顔をじっと見つめていた。関白殿下も私をじっと見ている。

「どうしてそこまで、日本を御大切に思ってくださる? 日本人ではないのに」

「確かに私は日本人ではありません。でも私は日本人のよき隣人になりたいと思っています。キリストは言いました。『己の如く汝の隣人を御大切にすべし』と」

 その時私は、無言の関白殿下の目がうるんでくるのをはっきりと見た。それから関白殿下は、そっと私の手をとった。

「よう言うてくれた! よう言うてくれた! よう日本を救ってくれた! 礼を言うぞ!」

 それからひとしきり、私は泣いていた。その前で関白殿下は、座ったままあらぬ方を見てため息をついていた。

「実はのう」

 しばらくしてから、ゆっくりと関白殿下は話し始めた。

「わしはすでにうすうす感づいておったのだ。長崎の南蛮寺を武装要塞化し、長崎の土地を領有しているとの報告も聞いた。そしてあのコエリョというバテレンは軍船を乗り回している。やつはバテレンになる前は、何をしておったのか?」

「この国でいうところの武将です。侍大将です」

「なるほどな」

「本当は我われキリスト教の中で、あのコエリョという人を何とかしなければならないのですが、彼は準管区長です。大坂のオルガンティーノも彼には逆らえない。彼の暴走を止めるには、マニラやゴアにいるもっと上の人に訴えないといけない。でも、この日本にいたらそれは不可能なのです。だから、今こうして殿下に直接訴えるしか手がなかった」

「分かった、そなたの気持ちは無にしないぞ。そなた、これから大坂に行くのか」

「分かりません。もはや私は南蛮寺には戻れません」

「戻らぬ方がよい。路銀はあるか。褒美を取らせるぞ」

 関白殿下は秘書に命じて、すぐに大きな箱を持って来させた。それを私の前に置いた。

 中には黄金でできた楕円型の貨幣がつまっていた。一枚一枚が大きかった。表面には墨で文字が書いていある。

「いえ」

 私はそれを押し返した。

「これではまるで私が南蛮寺を売ったようになります」

 そう、イスカリオテのユダがキリストを引き渡した時、代価として銀三十枚を受け取ったことを思い出したからだ。私は受け取るわけにはいかない。

 その時私は、関白殿下の目から涙が流れ落ちるのを見た。

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