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その間、少し感動的な出来事があった。
信徒の武将たちが出陣のあいさつに来た次の日曜日、つまり彼らが出陣して行ったあとの最初の日曜である十二日の復活節第二主日のミサに、見慣れない貴婦人が参列していた。
そのきらびやかな服装や、お供の侍女らしき人もいるのでかなり身分のある殿の奥方か何かのようだった。まだ若く、二十代前半のようだった。
私はどうもその顔に見覚えがあった。かつて、どこかで会ったことがあるような気がしてならなかったのだ。だがいつ、どこで会ったのかも思い出せず、当然のことながらそれが誰かは分からなかった。
ミサの始まる前にやって来て、応対に出たセスペデス師が対応していた。どうも今日初めて教会に来るのだが、ミサに参列してかまわないかということを聞いていたようだ。セスペデス師は快諾していた。
ミサでは信徒に混じって座っていたが、ラテン語の部分は当然何が何だかわからない様子だった。だが、セスペデス師の説教には熱心に耳を傾けていた。
「弟子たちは、復活したイエズス様に会いましたけれど、誰も最初はイエズス様だと分からない。まだ、出会っていないのです。あれだけ多くの時間をイエズス様とともに過ごし、その話を聞いた弟子たちですが、そのイエズス様は一度十字架で死にました。しかし、弟子たちは再び、改めて復活したイエズス様と出会うのです。それは新たな出会いです。皆さんも同じです。復活したイエズス様に新たに出会って、信仰を厚くしましょう」
初めて教会に来て話を聞くはずなのに、その夫人はうなずきながらセスペデス師の話を聞くのを私は見ていた。
そして夫人はミサの後も残って、オルガンティーノ師にもっと詳しく
オルガンティーノ師は日本人の修道士のコスメ兄に、婦人の対応を命じた。まだ十九歳の若い修道士で、
司祭館の方でコスメ兄が婦人の相手をしている間、我われ司祭団はその婦人について語っていた。
「あの方、どこかで見たことがある」
私がそう切り出したのがきっかけだ。
「たしかに。私もだ」
同調してくれたのはオルガンティーノ師だ。セスペデス師は首をかしげていた。
「私は全く覚えがない、初めて見るお方です」
すると、以前あの婦人に会ったことがあるかもしれないのはオルガンティーノ師と私だけ、つまり私とオルガンティーノ師がいっしょにいる時には同時にあの婦人と会っていたのかもしれない。
しかし、いくら記憶の糸をたぐっても、どうしても思い出せないのだ。だが、間違いなく見覚えのある顔だった。
都の教会で会ったのだろうか?……だが、
分からない……それが我われ二人の結論だった。
だいぶ長いことコスメ兄は彼女と話していたが、やがてコスメ兄だけが我われの元に来た。
「いやあ、参りました。私はこれまであない聡明で、頭の切れるご婦人と会うたことはありゃしまへんわ」
コスメ兄もだいぶ舌を巻いているようだ。
「私の話をすぐ理解するだけやのうて、ずばずばと鋭い質問をしてきはります。あの方はキリシタンの教えに接するのは初めてやないと言うてはりました。すでに高山右近様からかなりの話は聞いて、それで強くキリシタンに魅かれているということでした」
「なるほど、ジュストが宣教をされたのですね」
オルガンティーノ師は日本語で言ってうなずいていた。
「ただ、あの方の夫君は右近様とは懇意であるにもかかわらずキリシタンの教えには理解を示そうとしいひんいうことで、今その夫君が関白殿下とともに九州に出陣されてはって留守やさけ、それを機にこっそりお屋敷を抜けだしてきたいうことです」
「なるほど」
「それで、今度いつまたこの南蛮寺に来られるか分からりゃしまへんさけ、今日洗礼を受けたいということですけれど、どないしまひょうか?」
オルガンティーノ師は私やセスペデス師の顔を見た。私たちは二人とも首を傾げたので、オルガンティーノ師も軽くうなずいた。
「私が直接お話ししましょう」
私やセスペデス師に目で合図をして、オルガンティーノ師は司祭館の方へ向かった。私もセスペデス師もそれに従った。
三人で、その婦人の前に座った、後ろには女性の従者が二人控えている。我われの姿に婦人は深く頭を下げた。
「洗礼を受けたいとのことですね」
「はい」
オルガンティーノ師の言葉に婦人は顔をあげ、瞳を輝かせて明るく返事をした。実に美しく気品あふれる顔だった。
「私もデウス様に出会いとう存じます」
オルガンティーノ師はうなずいた。
「そのお心は『
「はい。では」
「いや、しかし」
婦人の眉が動いた。オルガンティーノ師は続けた。
「洗礼にはそれなりの準備が必要です。ある程度キリシタンの教えを学んで、十分に理解してからでないと厳しいところがあるのです」
「高山様より一通り学んでおります。私はわけあって屋敷を出ることがなかなかできません。先ほどイルマン様にも申し上げましたけれど、今日を逃したら今度いつ屋敷を出られるか、この南蛮寺に来られるか分からないのです」
「まずは、あなたの御夫君はどなたなのです?」
「それはご勘弁ください」
そこでオルガンティーノ師は、また我われと目を見合わせた。そして夫人に言った。
「もしあなたが町衆の方でしたら、それでも特に問題はありません。でも、御夫君はジュスト高山様と御懇意であるとか、関白殿下とともに出陣されたとか、関白殿下の家来の身分のある方なのでしょう?」
婦人は目を伏せてしまった。
「申し訳ありませんが、そういった高貴な身分の方に、御夫君に無断で洗礼を授けたとなると、あとあと関白殿下との間のもめ事にすらなりかねません。それはあなたにとっても益ではない」
「では、洗礼は受けられないのですか?」
婦人は泣きそうな顔で、懇願しているといっていいような状態だった、
「『
「でも、今日でなければもう無理です」
「無理ということはありませんよ。決めつけてはなりません。『
その時、同宿の青年が部屋に来た。
「こちらの方のお屋敷から、お迎えが来られております」
婦人のお供の一人が立って、同宿とともに玄関まで出て行き、すぐに戻って来て婦人に何か耳打ちをしていた。婦人はとてつもなく悲しい顔をし、涙を一筋流していた。
我われは玄関まで見送った。迎えは駕籠で、それも殿が用いるきらびやかな装飾のものだった。男性の従者が、婦人の姿を見るとそこにひざまずいた。
「お方様のお姿が見えないとお屋敷では大騒ぎとなり、あちこちを探しましたが、南蛮寺ではないかとの知らせも参りましたので」
「分かりました。今、戻ります」
宋言ってから婦人は、我われの方を振り向いた。
「お言葉、肝に銘じました」
婦人はそれだけ言うと、駕籠に入った。
オルガンティーノ師は先ほどの同宿を呼び、婦人の駕籠が教会を去ってからそっと尾行してどこのお屋敷の奥方か見てくるように言いつけていた。
一時間ほどで同宿は戻ってきた。
聞くと、婦人が戻った屋敷はお城の真南、この教会からは歩いて三十分ほどのところだという。同宿は、そこが誰の屋敷なのか聞き込みもしてきた。するとそこは丹後侍従羽柴与一郎の屋敷だということだ。
そのような名を聞いても我われは誰だかわからなかったが、コスメ兄は知っていた。
「細川家の血を引くかつて長岡与一郎様と呼ばれておりました方で、今は関白殿下より羽柴の姓を賜って羽柴侍従とか、領国が丹後であることから丹後侍従様と呼ばれております。その奥方でしたらば……」
コスメ兄は、一度言葉を切った。
「あの、明智日向守十兵衛の三女です」
「明智の娘!」
私もオルガンティーノ師も同時に声を挙げた。
「やはり会ったことがあったのですね、あのお方とは」
私の言葉に、オルガンティーノ師もうなずいた。
「でも、明智の娘さんとは坂本のお城でその何人かと会ったけれど、その時にはいなかった」
本能寺の事件のすぐあと、安土を脱出したっ我われはごく短い間だったがまずは明智殿の坂本の城に身を寄せたのだった。
「そうです。坂本のお城で会った娘さんではなく、ほら、安土のお城の明智屋敷で会った方じゃないですか」
「そうだそうだ。ヤスフェとともに明智日向殿を訪ねて行った時、娘さんがいた。そう、たしかに三女といっていた。すでに他家に嫁に行っているとも」
「思い出しました。名前は……そこまでは思い出せませんが」
「そうそうそう、キリストの教えに関心があると言ってきたので、そうだ、あそこでジュストの名を出してジュストに聞くといいと言ったのは私だ」
「あの時も、夫君がジュストとは懇意といっていました」
「五年も前のことだから、今の今まで全然思い出せなかったよ」
オルガンティーノ師は、やっと少し笑った。
高槻や都どころかもっと前に、安土のお城でたった一度だけ会った。しかも五年も前だ。すぐには思い出せなくても無理はない。
向こうも、我われをあの時に会った司祭だとが気づいていないようだった。日本人からすれば、我われ西洋人は皆同じ顔に見えるのかもしれない。
ただ、私が唖然としたのは、一人の婦人がキリストの教えを求めて教会に来たということよりも、ついさっきまでこの場所にあの明智日向殿の娘御がいたということである。
「明智の娘では、簡単に屋敷を出て教会に来ることは無理だろう」
オルガンティーノ師もそう呟いていた。たしかに、あの婦人が夫君が留守だからここに来たとか、屋敷を出られないといっていのも納得がいく。今の日本の常識では、明智日向守光秀という人物は主君殺しの反逆者で大悪人ということになっている。その娘なのだからあの婦人は屋敷にほとんど監禁状態になっているのだろう。
ただ、私は違う意味で、ここに明智殿の娘がさっきまでいたという事実をかみしめていた。
聖週間の
それは今に始まったことではなく、ずっと昔から私には引っかかるところがあって考えていたのだけれど、今の教会ではユダには悪魔が入ったとしか解釈していない。だが、それだけでは腑に落ちないことがあるのだ。
そして、本当は次元が全然違うのだけれど、ユダと明智殿を少し重ねてしまっているところもあった。
教会ではユダは悪魔であるのと同様、今の日本では明智殿は主君殺しの悪人でしかない。でも、それもまた腑に落ちない。明智殿に関しては、私は直接接してきたのだ。その明智殿の血を引く娘御だ。もちろん本人には大きな心の傷となっていようからその話題を話せるはずはないのだが、明智殿の娘御と分かっていたらもう少し話がしたかったという気がした。
ただ、もう遅い。彼女はまず外出ができない自分の屋敷に帰ってしまった。私もうもうすぐ九州へ行かねばならない。
今はあの方が無事洗礼を受けられて、キリストと出会うことを祈るばかりである。
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