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 教会に戻ってから、カリオン師から先ほど地震があったけれど気が付いたかと聞かれた。

 自分たちはちょうど道を歩いている時なので全く気がつかなかった。それほど大きな地震ではなかったようだ。

 

 この東福寺で見聞した貴重な体験をもとに、私とヴィセンテ兄は十二月に入ったら、都を後にすることになった。高槻ではなく、まっすぐに大坂に向かう。

 だが、いつもの高槻を通っての大坂ではなく、奈良を経由して行くことになっている。

 従っていつもならまず西へ向かうが、今日は南へと向かう。奈良は都の真南にある。

 約七百年ほど前までは、その奈良が日本の都だったそうだ。

 豊後からフィゲイレド師が病気療養のために都に来たのがちょうど去年の今ごろ、すなわち私が高槻から、そして大坂からはオルガンティーノ師も都に来て、そしてベルシオール先生への布教に明け暮れていた頃からちょうど一年ということになる。

 そのベルシオール先生には十二月一日が待降節アドベント第一主日となったので、教会にて暇を告げた。

 我われは翌月曜日には出発する予定だったがその日は朝から雨だったので一日延ばし、三日の火曜日の早朝ミサの後にカリオン師に見送られて教会の門を出た。

 延期は雨のためだけではなく、実はこの三日はザビエル師の亡くなった記念日でもあり、そのためのミサに教会で与ってから出発したかったのである。奈良へ行ってしまうと、奈良には教会がない。

 奈良までは歩いて八時間というから、馬なら常歩でも明るいうちには着けるだろう。それでも急がないと、一年でいちばん暗くなるのが早い時期だ。

 夕方にはなんとか着いて、奈良の大きな寺である東大寺や興福寺の近くの、、参詣者のための宿が立ち並ぶその一軒に泊まることができた。

 翌日は、また雨だった。

 だが、もう延期するわけにはいかない。

 我われ二人は宿からカサを借りて出かけた。日本では雨の中を外出するときは、ワラという乾燥した草で作ったミノという雨衣カッパを着て、竹で編んだカサという三角の帽子をかぶる。我われが借りたのは発音は同じ「カサ」だが、すなわちパラソーレである。日本人は、ちょっとした外出ならばミノではなく、カサを差すのである。

 我われにとって傘は貴族などが日除けのために用いるものであり権威の象徴でもあるが、日本では庶民が、しかも雨具として気軽に使っているのには最初見た時に驚いたものだ。

 日本の「カサ」は布ではなく紙が貼っており、骨もパラソーレよりはるかに多い。雨具なのだからその紙には油が塗ってあって、防水加工がしてある。

 ましてこの奈良は、日本のカサの名産地なのだそうだ。


 我われは人々の群れに混ざって、まずは東大寺に向かった。奈良は七百年前の日本の都だというが、その大部分は荒れ果てて荒野となり、あるいは耕作されて農地になっている。

 宮殿も今は跡形もないそうだ。ただ、今我われが歩いているあたりだけは東大寺などの寺の門前町として、かろうじて町としての形態を残している。

 そしてすぐに気付いたことは、今の都と同じような町なのに、往来を人びとと同じくらいの数の多くの鹿が我が物顔に歩いているのだ。私もこの五年で日本のいろいろな街を歩いてきたが、犬や猫以外の動物がこんなにも多数、町中を歩いている所はなかった。

「鹿がたくさんいますね」

 私がつぶやくと、ヴィセンテ師はちょっと傘を挙げた。

「奈良では鹿はカミに奉納されたもので、勝手に殺したら死罪になるくらい大切にされているそうですよ」

 ま、うろうろ歩いているだけなのならいいのだが、時折えさを求めてか服の裾を噛んできたりするのでこれには閉口した。

 やがて、雨に煙った参道の向こうに、またしても巨大な門だ見えてきた。雨の中にひっそりとたたずむそれは、まるで巨大な生き物が息をひそめているようにも感じられた。その中へと、傘を差した人々はどんどん吸い込まれていく。

 やはり二層造りで、一層目にも屋根があって、その上に楼閣がついているのは東福寺と同じだ。だが近寄ってみると、あの東福寺の三門よりもはるかに巨大だった。かなり古いという感じを受ける。

「これは、奈良が都にあった時からの門ですか?」

 私はヴィセンテ兄に聞いてみた。

「いいえ、あの当時の門はすでに破壊されて、今のこの門は三百年ほど前に建て直されたものです」

 門を入るとここでもやはりあの憤怒の形相の仁王像が二体あったが、正面を向いてではなく、門の中央の左右に向かい合う形で立っていた。

 そこからしばらく歩いたが、不思議なことに何の建物も門の中にはなかった。ただ鬱蒼とした森が参道の左右にはあるだけである。東福寺は広い境内のあちこちに大きな屋根があった。だが、ここでは何もないのである。

「何もないですね」

 私は、ヴィセンテ兄に言った。

「昔はちょうどこのあたりの左右に、巨大な七重の塔が二基、建っていたそうですよ」

 そう言われて傘を少し上げてみても、雨のしずくが落ちてくる灰色の空があるだけだった。

 そしてそれは、突然現れた。

 参道の終点に、天を衝くような巨大な仏像が、どっしりと座っていたのである。何の建物の中でもなく、雨ざらしでその仏像はあった。

「おお」

 その大きさに、思わず感嘆の声を挙げてしまった。その手のひらには二十人か三十人くらいの人が乗れそうだ。それほど大きいので、上まで見上げると傘を差していては見ることができず、自然と濡れてしまった。

 十二月の冷たい雨を浴びながら我われはただ見上げているだけだったが、ここまでともに歩いてきた多くの人々はもう傘も置いて、大仏の前で一応に拝んでいるのである。その拝む順番を待つために、行列ができているほどだ。

 かつてここを訪れたアルメイダ師は、人びとが迷信にかられ、盲目のうちにこのような巨大な悪魔像を崇拝していることを憐れんで、思わず涙してしまったと話していた。

 だが、今私の目の前でこの像を拝んでいる人々は、迷信にかられているのだろうか? 私が得ていた予備知識では、このホトケ毘盧遮那仏ビルシャナホトケ、インディアの言葉ではVairocanaといい、「遍く照りわたる光」という意味だそうだ。そして宇宙最高の仏とされ、またの名を大日如来ともいうらしい。

 かつてザビエル師が日本での福音宣教の初期、『天主デウス』という称号を日本語で『大日』としたと聞いている。すぐにそれは廃止となってポルトガル語で『デウス』となったのだが、『天主デウス』をほんの一時期であるにせよ『大日』と呼ばせたということは、『天主デウス様』からの何らかのお働き掛けがったのかもしれないと思う。

 今、目の前の像を見上げても、悪魔どころか私の心の中に「天の御父!」という言葉が浮かんだくらいなのだ。

 だが、腑に落ちないこともある。なぜこのような崇拝の対象が寺の建物の中ではなく、野ざらし、今日のような日は雨ざらしになっているのか……しかも、その顔をよく見てまた衝撃だった。

 しっかりとしたまともな仏像なのは、首から下だけだった。首から上は銅板でいかにも仮に作られたという感じの張りぼてのようなものだったのだ。

 まずはこの仏像がこんな野外に雨ざらしになっていることも、首から上は張りぼての仏像であることも、一切生前のアルメイダ師からは聞いていない。

 私が首をかしげていると、ヴィセンテ兄は鋭くその疑問を察したようだ。

 そこで私は聞いた。

「このホトケは、こんなふうに屋外に造られたのですか? もしかして、あまりにも大きすぎてこのホトケを入れる建物が造れなかったとか?」

「いえいえ、そういうわけではないようです」

「やはりそうですか? 実はシモ布教区の天草におられて、今はもう主の身元に召されたアルメイダ神父パードレ・アルメイダという司祭は、修道士だった若い頃にこのホトケを見たとのことでしたけれど、屋外に野ざらしなどという話はしていなかったので」

「それはいつごろの話ですか?」

アルメイダ神父パードレ・アルメイダはおととしに五十八歳で帰天されましたけれど、修道士時代というのですからかれこれもう二十五年以上も前の話でしょうか」

「ああ」

 ヴィセンテ兄は、何か納得したような顔をした。

「実はその頃はこの大仏も、大仏殿という殿舎に入っていたそうですよ。その後、この奈良で戦争がありまして、大仏殿も、そして東大寺の多くの建物もほとんどが焼けてしまいました。大仏の首から上も、その時に焼け落ちたとか」

 つまり大仏が野ざらしなのも首から上が張りぼてなのも、全部戦争の爪痕だったのだ。

 それから我われは雨に煙る参道を戻り、あの戦争で焼け残った数少ない建物である二月堂と法華堂を見て、最初に見た巨大な門の南大門の所へ戻った。

 法華堂では何とおびただしい無数の腕を持つ観音像を見たが、そのグロッテスコ(グロテスク)なな様相とは裏腹に、その無数の腕は多くの人々を救うための腕だと聞き、どこかで見たプロテスタント教会の牧師を踏みつけている天使像よりは少なくとも親しみが持てるような気がした。

 その後、私たちは興福寺と春日神社を見学した。だがこの二つの寺と神社はどこからが興福寺でどこからが春日神社か分からないほど一体となっており、参拝している人たちも両方に参拝しているようだ。

 ここでも相変わらず、多数の鹿が人間よりも多いのではないかと思われるくらい雨の中を歩いていた。それが雨にぬれているせいで時折体をぶるっと震わせて雨の滴をはじくのだが、それを近くでやられた日にはたまったものではなかった。

 春日神社の拝殿はさすがに興福寺とは別だったが、その近くを寺の僧侶が多数うろうろしていた。

 神社は寺と違って拝むような像はない。拝む対象は閉ざされた扉の向こうであり、その先はどうなっているのか分からない。おそらくそこで拝んでいる日本人たちにとっても、扉の中はどうなっているのか分からないのかもしれない。それでも人々は、ありがたみを感じて参拝している。

 その姿を私は見ていたが、不思議とその赤い扉の向こうからは霊圧というか光圧というか、何か清浄な気を感じたのもまた事実だった。

 そんなことをふとヴィセンテ兄に漏らすと、彼は日本の昔のある僧侶の話をしてくれた。その僧とは今から四百年ほど前の人であるが、日本独特の短歌タンカというごく短い定型詩を詠む詩人であったともいう。名は西行サイギョーといったそうだが、その西行が日本でいちばん大きな、神道の神社の総本山ともいえる伊勢神宮を参拝した時に、まだその頃は仏教の僧侶は門を入れてもらえなかった。神道の神社に僧侶が参拝しようとする話にも興味があったが、西行は門前で参拝し、次のような短歌タンカという詩を詠んだという。


 ――門の中は見ることができないのでどのような方が祭られていらっしゃるのか分からないけれど、それでもありがたさが伝わってきて涙があふれてくる(なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる)


 仏教の聖職者である僧侶をも感化してしまう神社とはいったい何なのだろうと、その話を聞いて私はふとそんなことを考えていた。


 我われは奈良にもう一泊して、大坂に向かった。

 奈良からまっすぐに西に行くと、生駒山系を越えて大坂に着く。大坂までは歩いて七時間というから、この日のうちには着けるはずだ。幸いもう雨は降っていなかった。

 途中、昔ヴァリニャーノ師と共に訪れた三箇や岡山を通る。三箇の教会ももはや跡形もなく、岡山の教会は大坂に移されている。

 信徒クリスティアーノたちは今でもいるのかどうか気になったが、今日はとりあえず道を急ぐことにした。

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