Episodio 5 狂気の城と大坂教会のクリスマス(Ohzaka)

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 夕刻、大坂の町が一望できるあたりまでさしかかったとき、かなり遠くからから遠目に見えていて何だろうと思っていたものの姿をはっきりと見ることになった。

 最初は黄金に輝く三角錐だと思っていた。だが近づくにつれて、それは城だということが分かった。

 羽柴殿、いや関白殿下が築いた大坂城の天守閣だ。

 近づくにつれて細部とその巨大さを身にしみて感じられた。あの奈良の大仏どころの比ではない。私が前に大坂に来た時は、この天守閣はまだ建築中だったので、完成している姿を見るのはこれが初めてだったのだ。

 いつも高槻から大坂に来ていた時は船で天満の船着き場について、教会はすぐその近くの丘の上だった。だが今日は東から来たので大坂城のすぐ脇を通ることになる。いやでも巨大な天守は目に入る。

 安土城のそれよりもはるかに大きい。しかも安土城の天主閣は小高い山の頂上だったが、大坂城は高い石垣に囲まれた上にある。だから大きさがぐんと近くで感じられるのだ。

 大きいだけではなく、実にきらびやかであった。安土城の最上階は壁がすべて金だったし、華麗な装飾が施されていたが、この大坂城ほどではなかった。屋根瓦にも壁にもふんだんに金が使われ、最上階には虎や鳥の色彩鮮やかな絵までが壁に描かれている。

 権力を誇示するのにここまで派手にする必要があるのかという気までする。美しいのだけれどその人工の美しさは、むしろけばけばしいといった方がいいかもしれない。

 ――これは狂気の城だ!

 それが、私が感じた率直な感想だった。むろん、口に出しては言えない。

 そんな大坂城を横目に、私は教会に着いた。

 教会の隣には三階建ての、高槻にあったのと規模的にはなんら遜色のない神学校がすでに完成していて、実家に散っていた学生たちもみな戻ってきているようだった。それが、教会の聖堂や司祭館とは棟続きになっている。

 この教会の上にある高台から北をみると悠久の大淀の流れて、目下の船着き場にせわしくなく発着する船の様子が一望できる。反対側の南側に目を転じたら、広大な敷地の大坂城の石垣とそびえる天守閣が目の当たりだった。

 

 早速その夜、私はオルガンティーノ師に今回の都での勉学の報告をした。

 仏教と一口に言っても、それぞれが別の宗教であるかのような相違点に驚き、禅のようにほとんど哲学に近いもの、一向宗のように教義は我われの教えに通じるものがあるのになぜか我われをいちばん目の敵にしているものなどさまざまであることを知ったと伝えた。

 そして仏教の中の宗派はそれぞれ垣根を作って決して融合しないにもかかわらず、神社の神道と仏教との奇妙な融合は、この国での我われの福音宣教にも何らかの示唆を与えてくれるのではないかということも語った。

「そうだね。あなたが学んできたことは、今まで私もずっと追究してきたことばかりだ。自分を狭い視野の中に閉じ込めてしまっては、真理の道は見えない」

「はい」

 だからむしろ、仏教の各宗派はそれぞれ違って見えても、また神道も、我われのキリストの教えも全く違うように見えても、どこか根本では、奥深い所では一つにつながっているのでないかということも感じたことを語った。

 山登りも、登山口が違うと全く違う山に登っている感覚があり、実際歩いている道は別々のそれぞれの道なのだが、頂上までたどり着けばどの登山口から昇ってきた人たちとも同じ場所に着くのである。

 そうなると仏教や神道のみではなく、もっとほかの宗教、例えばチーナのタオ、果てはイスラムについてでさえそういえるかもしれない。

「ご苦労だった。今日はゆっくり休みなさい」

 オルガンティーノ師はいつもの笑顔だった。

 翌朝の早朝ミサで、私は実に懐かしい顔たちと再会した。神学校セモナリヨの学生たちがミサにあずかるため、一斉に御聖堂おみどうへと来たのだ。彼らも私を見てすぐに私を取り囲み大騒ぎを始めたので、オルガンティーノ師がそれをたしなめていた。

「ここは、神聖な御聖堂おみどうですよ。静かに。騒いではいけません」

 だが私もうれしかった。数年来の知己に再会したような気分だった。

 だが一応、立場上彼らを静めて整列させ、祭壇の前に座らせた。高槻に新しい教会はエウローパの教会と同様に会衆席も長椅子だったが、この教会はもともと岡山の教会を移しただけに日本の他の教会と同様に聖堂は畳敷きだった。

 そこでのミサが終わってから、私は神学校セモナリヨに行き、学生たちとともの朝食をとった。

 私やヴィセンテ兄のいない間もすでに教学活動は始まっており、ほかの修道士たちが対処してくれていた。

 大坂には日本人修道士としては古参のロレンソ兄もいる。オルガンティーノ師もロレンソ兄も、学生たちにとっては安土からずっと一緒のなじみなのだ。

 だが、私がここでこれからずっと高槻と同じように学生たちに接していられるのかは分からない。まだ正式には何も言われていない以上、私は今でも高槻教会付きなのだ、

 だがその日の正午の六時課の時に、私とヴィセンテ兄は正式に大坂教会付きで神学校セモナリヨ担当をオルガンティーノ師から命じられた。非常にうれしい話だった。

 私はすぐにでも神学校セモナリヨの教室で学生たちの前に立ちたかったが、まだ身辺整理がある。彼らにはこれまで高槻の城主であるジュストと、ジュストが大坂詰めになった後はその父のダリオが実質的に面倒を見てくれていた。

 彼らもジュストを父と慕い、ジュストの妻のジュスタを母、ダリオやその妻のマリアを自分らの祖父母のように慕っていた。ジュストはまだ三十代半ばだから学生たちの父というには若すぎたが、すっかりその風格と威厳は持っていた。

 翌日は、一度私はヴィセンテ兄とともに高槻に行って、まだ置いたままの私物などをとってきた。そして戻るときはフルラネッティ師やフランチェスコ師はじめ、すべての修道士たちが教会の玄関先まで見送ってくれた。

「まあ、大坂は近いですから、ちょくちょく会えますしね」

 フルラネッティ師はそう言って笑っていたが、最後にフランチェスコ師と握手したときは、冷静で頭の切れる人という印象のフランチェスコ師の目に少しだけ涙を見たのは意外だった。

 そうして次の日曜はもう待降節第二主日だ。この日は無原罪の御宿りの聖母の祭日と重なっていたが、そのミサにジュストの妻のジュスタが教会へ来て、久しぶりに会うことができた。

 平日は高槻にいた時と何ら変わりなく神学校セモナリヨの学生たちとともに時間を過ごし、いよいよナターレ(クリスマス)を迎えた。

 大坂でのナターレ(クリスマス)のミサは高槻のようにごった返す信徒クリスティアーノが教会からあふれ出すこともなく、落ち着いて静かに迎えることができた。

 大坂はまだ新しい町なので、一般の庶民の信徒クリスティアーノはまだ少ない。その前夜ミサから夜半ミサまで、御聖堂を埋め尽くしていたのは皆関白殿下の側近の家来たちの信徒クリスティアーノがほとんどであった。

 セスペデス師の司式で前夜ミサが終わった後、日没とともに一ヵ月続いた断食期間の大斎も明けるので、人びとはそこで思う存分食べて飲む。教会の中でも司祭館の広間でちょっとした宴会になった。

 そこに多くの関白殿下の家来が参加していた。そして本当に久しぶりにジュストの顔もあった。また、都で私に言っていたように、小西殿ドン・ジョアキムとマグダレナ夫妻ももう大坂に来ており、その息子のドン・アゴスティーノも参列していた。

 ドン・アゴスティーノはあの安土から室津に行った時に会ったきりであるが名前はしょっちゅう耳にしており、話題にも上っていたのでなんだか久しぶりに会ったという気がしなかった。しかも、この親子がともにいる所を、私は初めて見たのである。

 その時紹介されたのが蒲生殿ドン・レオンであった。まだ今年受洗したばかりで、二十代後半か三十代前半の壮年であった。

 そしてもう一人、黒田殿ドン・シメオンである。彼とは初対面ではなく、かつて今の関白殿下の羽柴殿の軍事顧問の黒田官兵衛カンヒョーエ殿として姫路の城で会い、請われるままにキリストの教えを語ったことがある。

 その時の予感通り彼は今年受洗したということは聞いていたが、受洗後に会うのは今日が初めてであった。

 宴でジュストは久しぶりに私の近くに来て、新しい領国の明石の話もしてくれた。

 明石は海峡を隔ててすぐ近くに淡路島も見えるという。今でもジュストは大坂詰めの毎日だが、早速明石でも福音宣教をはじめたということだ。

「私の城がある船上フナゲには結構大きな寺がありまして、やはり私の宣教活動にいちゃもんをつけてきましたよ。でも主のみ教えの前には歯が立つはずもなくて、彼らはとうとう多くの仏像とともに夜逃げして、この大坂で関白殿下に直接私のあることないこと吹き込みましてね。私の宣教をやめさせるように願ったそうですよ」

 笑いながら冗談っぽく話すジュスト殿の様子に、それほど深刻な話ではないだろうと私もオルガンティーノ師も、そしてセスペデス師や修道士たちも聞いていた。

「するとなんと彼らは関白殿下から一喝されたそうで。『あの船上の地はわしが右近に預けた土地だ。その土地で右近が何をしようと、それは右近の勝手だ』と、かえって彼らはその寺を関白殿下に取り上げられてどこかへ追放され、私はその寺の建物を関白殿下より頂きました。その寺を修築してぜひ教会にしていただきたいと、また近々正式にお願いに参ります」

 何とも頼もしい話だった。オルガンティーノ師も喜んでいた。

 この宴には、かつて三箇城主で、今は大坂の教会に身を寄せているドン・サンチョも顔を出していた。本来関白殿から見ればお尋ね者のドン・サンチョであるが、この教会で顔を合わせたジュストやドン・シメオンなどは彼を同じ信徒クリスティアーノとしてしか見ておらず、誰もお尋ねものとして密告したり不当な扱いをしようとする者はいなかった。まさしく主の平和の具現であった。

 平和で静かなナターレ(クリスマス)の夜は今年もこうして更けていった。そして大坂の町に教会の鐘の音が鳴り響き、厳かに夜半のミサを迎えた。

 司式はオルガンティーノ師だ。私は、翌朝の早朝ミサの司式をすることになっていた。

 こうしてナターレ(クリスマス)も過ぎ、この年、1585年も大みそかの昼過ぎの小さな地震によって締めくくられた。

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