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世間のそのような状況をよそに月日はどんどん冬へと進んでいき、いよいよ待降節も終わって
今年は第四主日の翌日の月曜日が
城の中にある教会だが、毎週日曜日のミサの時には城門も解放されて、一般領民も
だが、
私が日本に来てから三度目の
最初は豊前の臼杵の教会で、そして二回目となる去年は
毎年、ナターレ《(クリスマス)》を迎える場所が違うけれど、去年の大村でのナターレ《(クリスマス)》も圧巻だった。
しかし、いつかジュストが話したことによると、これでも全領民の三分の二くらいにしか過ぎないというのだ。
高槻が大村と比べて絶対的に人口が多いことにもよるだろうが、私が大村で全領民が
ジュストは領主として、決して領民に
ジュストも言っていた。
「信仰というものは強制するものではないでしょう。その人それぞれの魂がどのようにキリストと出会い、キリストを受け入れるかということですから」
全くその通りだと思う。そうなると逆に、強制していないのに領民の三分の二が
大村は別としてドン・プロタジオの有馬、豊前のドン・フランシスコの府内や臼杵、そしてこの高槻と同じ摂津ではドン・ジュアンが治める岡山や明智に味方して追放されたドン・サンチョの三箇も、数だけでいえばかなりの数の
やはりそれはジュストの人徳といえるだろう。「後ろ姿で導け」とはこのことなんだなと、本当に我われの方がむしろジュストから教えられることは多い。
二十四日の日は没し、いよいよ
当然すべての信徒が教会堂に入りきれないので、城内の教会堂の前に当たる広場も人々で埋め尽くされた。
私にとって胸が張り裂けんばかりに感動的だったのは、フルラネッティ師が祭壇の脇に、ほんの小さなものではあるがキリストが生まれた馬小屋を模型で再現したプレゼーペが設けられていたことだ。
イタリア半島では教会はもちろん各家庭でも、このプレゼーピオは
この高槻の教会のそれはローマのものとは違ってマリア様もヨセフ様も羊飼いたちも三博士も日本の
この風習はイタリア半島だけのもので、まだ他の国にはそれほど広がっていない。だからゴアやマカオでももちろん、日本でも府内や大村ではこの
だが、今や高槻の三司祭ともにイタリア人だ。他の国出身の司祭に遠慮することなく、堂々とイタリアの習慣をここに持ち込んだ。
鐘が打ち鳴らされ、
こうして静かに厳かに、ミサは進んでいった。これまで復活祭や聖体の祝日を高槻で迎えたことはあったが、当然のことながら高槻の
司式は、まずはここの司祭の中で最年長のフランチェスコ師だ。
そして夜半ミサと続く。このミサがナターレの中心ともなるミサで、司式はフルラネッティ師だった。年齢はフランチェスコ師が最年長だが、フルラネッティ師は私と同年代だけれどもこの高槻の教会の主任司祭なのだ。
前夜ミサで御聖堂内に入れた人は入れ替え制で全員出され、外にいた人が中でミサに与った。翌日の早朝のミサ、日中のミサでも同じ
ジュストは最初は一人でも多くの領民にミサに与ってもらいたいと自分が参列することは遠慮していたが、我われの方から頼んで聖堂内で参列してもらった。
参列する会衆に背を向けてのミサが進行し、やっとフルラネッティ師がその顔を参列者に向けたのは、福音書の朗読を終えての説教になってからだった。
「フェリーズ・ナタル!」
開口一番はラテン語ではなくポルトガル語だったが、すぐにフルラネッティ師は日本語で話し始めた。
「私の国では“ブォン・ナターレ”といいます。この国では“ナタル、おめでとうござる”となりますね」
修道士は別として今高槻にいる司祭が皆イタリア人であるだけに、プレゼーピオだけでなくそういった話にも遠慮はいらない。
「今日、皆さんはいまここにこうして集まって、ナターレ、主のご降誕を祝っていますが、今日、世界のあちこちで言語は違っても同じ意味の“フェリーズ・ナタル!”という言葉が飛び交っています。なぜめでたいのか、それは『
フルラネッティ師は御聖堂の外にいる大群衆にも聞こえるようにということなのか大声で話しながら、祭壇の上の四本のろうそくを示した。
「『
本当にこの声が御聖堂の外の大群衆にまで聞こえるのかどうか分からないけれど、人びとは静まりかえっているので、あるいは届いているかもしれない。
「そして二本目は平和。先ほども申し上げましたように、この“乱世”のどこに平和があるのかと思われるかもしれませんけれど、『
フルラネッティ師の話は、普通の神学的説教とはどこか違うと私は感じ始めた。今のこの国のあり方に即しているようにも感じた。ジュストも、もちろん熱心に聞いている。
「そして希望を持ち平和がもたらされれば、皆さんの心には何が生じるでしょうか。それは喜びですね。三本目のろうそくはその喜びを表しています。今、悲しんでいる方、どうかこの三本目の喜びの光をじっと見つめなさい。『
フルラネッティ師は、一段と声を張り上げた。
「四本目のろうそく、それは御大切の光。希望も平和も喜びもすべてを無にしてしまうものはなんでしょう。それは恨み、憎しみです。人を恨み憎しみをもっている間は平和は訪れません。そのような心は、このナタルを機に捨てるべきです。どこまでも許すことです。許せばあなたの罪も『
それはまるでここにはいない誰かに向けて言っているようだった。我われ司祭がミサの説教で政治的な話をすることはまずない。だが、表向きはキリストの教えを述べているが、そこに内包されているのは明らかに政治的な意味合いを含んでいると私は感じていた。
次の早朝のミサの司式は私だった。
説教では少し意向を変えて、自分が子供の頃のローマの教会でのナターレのミサの話をしておいた。
最後の日中のミサはフルラネッティ師司式に加えフランチェスコ師と私の共同司式となった。
そしてその後、以前にここで
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