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 それからは、まるで夢にまで見たあの安土での日々が戻ってきたように、私にとっては充実した日々だった。学生たちの輝く瞳に囲まれて、その交流は楽しいものだった。

 彼らは優秀で怜悧ではあるがまじめ堅物というわけでもなく、時には冗談を言い、いい意味でふざけ合ったりして和気あいあいと快適に日々を過ごし、その姿を見るのもまた喜びだった。

 あくまでこちらが教える立場ではあるが、彼らから学ぶものも多かった。大人になるといろいろと世間というものに縛られるが彼らは純粋で、本当の意味での日本の姿、そして日本の未来の姿を見るようでもあった。

 『天主ディオ』の御加護とキリストの御大切に包まれて、毎日は平穏に過ぎていっていた。世の中のことも気にならないではなかったが、さすがに政治の中心である都ほどにはあまり情報は入ってこないので、平和なのだろうと安心していた。


 それでも微かに不安はある。

 信長殿亡き後、今やこの国全体を統率する天下人テンカビトが空席なのだ。

 ミカドは王や皇帝ではなく教皇パーパと同様に宗教的権威であるようで、実際の政治活動はなさらないようだ。

 織田家当主は子供だし、後見人も政治からは外されている。政治のことは信長殿の家来の長老四人の合議によると定められたようだが、その四人が今やごたごたしている。

 そんな話を私はフランチェスコ師とした。

「そうですね。今の平和はどうも一時的なかりそめのもの、悪く言えば嵐の前の静けさのような気もしてならないですな」

 と、フランチェスコ師も言っていた。フランチェスコ師もアルメイダ兄もヴィセンテ兄もともに、信長殿が亡くなった直後のあの安土での大混乱の後、命からがら都へと逃げ帰ってきた仲間なのだ。


 季節はどんどん寒さを増していった。

 暦も待降節アドベントに入り、その第一主日、第二主日と過ぎていき、司式司祭がバラ色の祭服を着る第三主日を迎えた。

 高槻の教会には日本にはまだここにしかないオルガーノ《(パイプオルガン)》があり、その音色を聞くのを楽しみにしていたが、待降節アドベントに入ったのでミサでそれが演奏されることはなかった。

 そして待降節アドベントのうち唯一第三主日のバラの主日だけオルガーノ演奏が許されるので、やっとその音色を堪能することができたのである。

 しかも奏者は日本人だった。

 そしてその翌日、朝のミサの後、ミサに参列していたジュストが浮かない顔で我われのもとへと来た。彼は日曜の主日のミサだけではなく、毎日の早朝のミサにも参列している。供もつけず一人で本丸から歩いて来るが、教会は本丸の門を出てすぐのところにあるし、ここも城内なので別に憚られることはない。

「実は今日は、皆さんに少し話しておきたいことがあるのです」

 いつもは陽気で気さくなジュストがこのような顔をするということは、よほど何かがあったらしいと、我われは皆息をのんだ。

「では、とりあえず司祭館の方へ」

 ミサを司式したフルラネッティ師がそう言って、ジュストを我われの司祭館の集会室のような部屋に案内した。

 そこでは車座になって座った。

「実は、昨日の夜にもたらされた情報なのですが」

 そう前置きするジュストの顔は、ますます暗くなっていた。

「皆さんもご存じのとおり、織田家の家督を継いだのはあくまで三法師様です。ですから、三法師様が当主であります。そして当主である以上、上様亡き今は安土城にお住まいになるべきで、そのことは先の清洲での合議でも定められたそうです」

「今は三七殿が後見役なので、かりに三七殿の城である岐阜にお住まいということですな」

 ジュストはフルラネッティ師を見て、

「その通りです」

 と言ってから、また我々全体を見回した。

「ところが天下のことを合議で運営される長老衆方が三七様に、三法師様を今すぐ安土にお移しするようにと申し出られたそうです」

「しかし、安土のお城は焼けてしまったではないですか」

 フランチェスコ師が口をはさむ。それは私も言おうとしていたことだった。ジュストは今度はフランチェスコ師を見た。

「いえ、焼けたのは天主閣のみで、そのほかは無傷です。ですから、お城としては十分に機能するそうです」

 言われてみれば確かに、あとで様子を見に行ったアルメイダ兄からそのような報告を受けていた。今、ここにいるのは司祭だけで修道士はミサの後学生たちとともに神学校の方に戻っていたのでアルメイダ兄は同席していないが、そういうふうに言っていたのを覚えている。ただし、町はチタ・ファンタズマ(ゴースト・タウン)になっているとのことだったはずだ。

「ところが問題は、三七様が頑なにそれを拒まれたということです」

 そうだろうと思う。まだ幼い三法師様を安土によこせというのは、羽柴筑前殿がそう言うのだろう。そこには、三法師様を三七殿から取り上げようという羽柴殿の思惑が丸見えである。

 なぜなら三七殿の兄である御本所殿も同じく三法師様の後見であり、その御本所様は今や羽柴殿側についているという話だったからだ。

「困った事態とは、ここからです」

 我われはまたもや息をのんだ。

「三七様のそのような態度は謀反に当たるということで、なんと羽柴殿と御本所様は岐阜の城の攻撃を始めたとのことです」

「そんな……」

 これは衝撃だった。たしかに三七殿の羽柴殿に対する怒りは尋常ではなかった。しかし、まさか羽柴殿の方からかつての主君の子である三七殿を攻撃するなど、全く予想外の展開だった。

「三七殿が、羽柴殿に殺される……?」

 フルラネッティ師はぽかんと口を開けていた。だが、その内心の驚きは、そこにいた我われ全員に共通のものだった。

「いえいえ」

 ジュストはすぐに首を横に振った。

「羽柴殿もまさか三七様を殺すつもりで兵を挙げたわけではないでしょう。あくまで目的は三法師様奪還です。だから力づくで岐阜の城を陥落させようとは思っていないでしょう。そんなことをして三法師様にもしものことがあったら、元も子もありませんから。それに、岐阜の城は天涯の山上にある難攻不落の城と聞きます。あくまで岐阜のお城に対する挙兵は、三七殿に対する威嚇かと思われます」

「それならば少しは安心ですけれど、決着までには時間がかかりますね」

 と、フランチェスコ師が言った。私もそれに同調した。

「三七様は間もなく洗礼を受けようというお方で、バテレン様方とも親交のあった方ですから、お耳に入れておこうと思いましてお話ししました」

 ジュストはまだ、あの三七殿の悪魔の形相での豹変を知らないのだ。だからこそ、今回のことは意外に思って、むしろジュストの方が戸惑っているのかもしれなかった。フルラネッティ師は静かに言った。

「分かりました。わざわざのお知らせ、ありがとうございます。我われはただ『天主デウス』のみ意通りになりますように祈りましょう」

 そして、ジュストが帰ってからも、しばらく我われはその場にいた。

「このことはやはり都のオルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノにも知らせておいた方がいいだろうか」

 フルラネッティ師がそう言うので、私は首を横に振った。

「いえ、都の教会の信徒クリスタンにドン・ジョアキムという情報通の方がおりますから、このことはすぐにでもその人からオルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノのお耳には入るでしょう」

 私がそう言うと、皆が納得していた。

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