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 マカオからの船は到着しなかったけれど、誰もが、最悪の事態は考えないようにしていた。

 たとえこの日本に到着しなかったとしても他へ漂流したか、あるいはマカオへ引き返したか、そのどちらかであることを今は祈るばかりである。祈って『天主ディオ』の御加護を願うしかなかった。

 ガルセス船長の話だと、もう一艘の船には聖職者としてゴメス師を含めて四人の司祭と修道士が一人乗っていたそうだ。その五人の命が奪われ、貴重な資料や文物なども海の藻屑と消えたなど誰もが思いたくはなかった。


 もう九月だというのに、夏は一向に去らない。

 どぎつい青さの空には中天まで入道雲が湧きあがり、蝉の声もけたたましかった。ただ、教会は海に突き出た岬の先端にあるせいか、潮風が海の香りを運んで来てなんとか涼は取れた。

 考えてみれば私は、小さい頃から海とは無縁の生活を送ってきた。

 生まれたのはローマ近郊なので、海からは少し距離があった。私が初めて海を見たのは、この日本へ来るためにリスボンへと航海した時が初めてだったのである。

 生まれて初めて見る地中海の広さと青さに度肝を抜かれた。特に印象的だったのが、海の方から吹いてくる風に乗ってくる潮の香りだった。

 それから日本に着くまでは、船の上で嫌というほど海に囲まれた生活を余儀なくされた。途中長く滞在したゴアやマカオも海の近くだった。

 だが、日本に来てからは都や安土という海とは遠い地方で暮らしてきたけれど、また久しぶりに海の上を船で旅して海のそばの町にやってきたのだ。

 そんな海へと、久しぶりに乗る大型船でまた旅立つことになった。

 乗るのはコエリョ師とフロイス師、そして私とニコラオ兄、そしてヤスフェだった。

 船はポルトガルのナウ船ではなく、それとほぼ同じ大きさのジュンカ《(ジャンク)》と呼ばれるチーナの帆船だった。これで口之津へと行く。だから、旅立つと大げさに言ったけれど、わずか半日の船旅なのだ。

 今回、私が長崎に着いてから、港にはポルトガルのナウ船の姿はなく、このジュンカが停泊しているのみだということはずっと見てきた。

 いつもマカオからの定期便はポルトガル船だと聞く。今回はなぜチーナのジュンカ船なのか……その理由は聞いていない。だが、今やポルトガル船をおいそれと出港させることはできない状況に、今のマカオはなっているのかもしれない。

 私は船に乗り込みながら、ニコラオ兄と語っていた。

「もしこれがナウ船だったら、きっともっと懐かしいだろうね」

「はい。船に一歩乗ったらそこはポルトガルですからね」

 私は乗船の板に足を踏み入れた。

「いやあ、これでよかったのかも。ナウ船に乗ったりしたら変な里心がつくかもしれないしね。それにたった半日の旅だ」

 私は苦笑していた。

 船に乗って驚いた。

「いや、これは……」

 もう修復はできているという話だったが、船の中にはまだ嵐に遭遇した爪痕があちらこちらに残されていた。これほどまでに船が損傷を受けるような嵐をよく乗り越えて到着したものだという感心と、そんな嵐に遭ってはもう一艘の船はどうなったかという不安が一気に押し寄せてきた。

 だが、そのことは誰も口にしなかった。

 やはり船内はナウ船のように懐かしいというわけにはいかなかったが、だが少なくともこの空間は日本の空間ではない。ナウ船とも違うけれど、日本の船ともまただいぶ違う。船の中だけマカオという感じだった。

 大きさについてもナウ船よりもかなり小さいが、この船はマカオを共に出航した二艘のジュンカのうちの小さい方だということだったから、今行方不明になっているもう一艘の大きい方はナウ船と変わらぬくらいの大きさがあったかもしれない。

 ロペス師と数人の修道士に見送られて、船は長崎の港を出港した。カルセス船長以外の乗組員は、皆チーナ人だった。

 帆にいっぱい風を含んで、船は順調に大海原を滑った。

 長崎から続いている陸地を左に見て、半島の先端を大きく旋回する頃には、海の向こうに天草の陸地が横たわって見えてきた。

 夏の日差しの中で、すべてが明るく輝いていた。深い緑の海原には、時折イルカが水面から飛び跳ねてその姿を見せたりする。

 船は半島と天草の島との間の海峡へと進みすぐに舵を左へ切った。半島を回ったすぐのところが口之津の港なのだ。

 半島の向こうにはかつて見たあの雲仙という火を噴く山が少し頭をのぞかせていたが、陸地に近づくにつれて手前の山に隠れて見えなくなっていった。


 予定通り昼過ぎには口之津の港に入った。

「ここでは降りなくていいことになった」

 甲板で船から降りる仕度をしていた私の隣にフロイス師が来て、そう告げた。ニコラオ兄もヤスフェも、「え?」というような顔をした。

「ここでは準管区長だけが降りる。カピタンが、そのまま有馬まで船をまわしてくれることになった」

 どっちみち口之津の教会には一泊くらいですぐに有馬に行く予定になっていたので、これはありがたかった。

「有馬に船がつけられるのですか?」

 たしかにナウ船は長崎か口之津かのどちらかにしか停泊できない。

「この船なら大丈夫だそうだ」

 聞けば、このジュンカなら有馬の港に入ることもできるとのことだ。そうなると、マカオからの定期便がナウ船でなかったことがむしろ幸いしたことになる。

 港に出迎えに来た司祭たちとともにコエリョ師が行ってしまうと、船は再び帆を挙げた。しかも有馬までは、船ならほんの十数分で着いてしまう。

 すぐにお城のある小高い山が見えてきて、本来なら漁船くらいしかいないような有馬の港に船はゆっくりと入っていった。


 口之津の教会は港に面している高台にあるが、有馬の神学校セミナリヨは港から十分くらい歩く。

 私が初めて日本に来た時、最初に長く住んだのがこの有馬だった。ヴァリニャーノ師の帰国に際してともにこのシモ地区に来た時も最初に有馬に上陸したが、あの時は一日か二日くらいにしか有馬にはおらずに、私はすぐに長崎へ行くように命じられたのだった。

 それが去年の秋、まだ一年もたっていない。その後はずっと長崎にいて、今年になってから都、そして安土へと出発するまで一度も有馬には来ていなかった。

 だが、世の中も大きく変わった。

 この日本もそうだし、世界もまた大きな変動期に入っていることを遅ればせながら知った。

 そんな少しばかりの感傷にふけりながら、出迎えに来てくれた神学校セミナリヨの学院長であるメルヒオール・デ・モーラ師と再会を喜んだ後にともに神学校セミナリヨへの道を歩いていると、とにかく一人興奮してやまないのがヤスフェだった。

「うわあ、懐かしか。ほんなこつ、懐かしか」

 と、大声の日本語で叫びながら歩いている。たしかに彼にとって口之津が初めての日本であったし、ずっと長く、私よりも長く有馬に住んでいたのである。

 さらには、彼はヴァリニャーノ師の離日の時には安土にいてここには同行していないので、彼にとっては二年ぶりの有馬である。

 しかも、どんなに彼が騒いでも、この有馬の人々はすでに彼を見知っているので、誰も好奇の目を向けるようなことはなかった。

 神学校セミナリヨに着くや、私はすぐにもう一人の司祭、バルタザール・ロペス師へのあいさつもそこそこ、すぐに教場を見に行きたかった。バルタザール・ロペス師はかつて口之津にいたいわゆる小ロペス師の方で、今はこの有馬に異動になっているようだ。

 私はモーラ師の許しを得て、神学校セミナリヨの教室の方へと向かった。学生たちは夏休みも終わって、新しい勉学が始まったばかりだという。私らがかつて薩摩から連れてきた少年、鹿島ペトロの姿も見えた。

 私はこの有馬が懐かしいというよりも、神学校セミナリヨ自体が懐かしかった。安土の神学校セミナリヨの教室で、若い学生たちを相手に熱く語っていたあの日々、そう遠い昔ではないのにあの頃が最高の時だったように思われる。

 ここの学生も、あの安土の神学校セミナリヨの学生と本質的に何ら変わりはない。純真そうな笑顔は全く同じだ。だが、今や安土の神学校セミナリヨは跡形もなく、そこで学んでいた青少年たちはあるいは実家に戻り、あるいは狭い都の教会の集会室に押し込められている。高槻の新しい神学校セミナリヨの完成も間近で、そこでの新しい日々が待ち望まれるところだ。

 私はここでも学生たちの前に立ちたい衝動に駆られたが、ここにも数日しか滞在せずにすぐに都へと戻らなければならない身であることが惜しかった。

 私が教場を後にしようとすると、庭の方からヤスフェが、半ベソでこちらへと歩いてくるのが見えた。

「どうした?」

「私の小屋がない」

 私は思わず噴き出しそうになった。前にヤスフェがここにいた時は、庭の小屋に住んでいた。私が彼と初めて会ったのも、その小屋の前だった。

「あなたはもう立派な信徒クリスタンであって、もう奴隷ではないのだから小屋なんかに住まなくてもいいでしょう」

 ヤスフェの小屋はヤスフェがいなくなってからは、もう不要ということで取り壊されたのだろう。

「長崎でもそうだったように、ここでも司祭館に部屋が与えられると思う」

「そんな……」

 長崎はヤスフェにとって初めての場所だったからそんなものかと思って司祭館に住んでいたようだが、昔長く奴隷小屋に住んでいたここでは、司祭館に住むというのは彼にとって夢のような話なのだろう。

 夕食の席で、フロイス師は我われに

「明日、城に上がるといい」

 と、言った。つまり有馬の殿であるドン・プロタジオへの会見である。

「もう通訳もいらないだろうから、私は行かない。それと、ヤスフェも連れて行くといい。必ず話は信長殿の死についてになるだろうし、いちばん身近にいたヤスフェに語ってもらうのが一番だ」

 フロイス師にそう言われて、翌日朝から私とニコラオ兄、そしてヤスフェの三人で有馬の城へと向かった。

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