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 夕方には昨夜の大雨が嘘のように晴れ間が出ていた。そんなころに、再びドン・ジョアキムは現れた。

「明智勢は都に留まりませなんだわなあ。もうさっさと都から去って鳥羽というところに布陣したそうどすわ」

 そうなると、やはり公家相手の工作だけが目的の上洛ではなかったことになる。もしそうなら、どこかの寺にでも宿泊して、ゆっくりと交渉に当たるであろう。だが明智殿は、都に着いたその日のうちに都から去って行った。よほど急いでいるに違いないことが窺えた。

 同時にそのことは、明智殿にとっての事態はかなり緊迫していることを物語っていた。

 

 翌日は金曜日ではあったが、使徒聖ぺトロと聖パウロの祭日であった。この日はオルガンティーノ師が司式した。

 いつもはミサ中の第一朗読は『旧約聖書ヴェトゥス テスタメントゥム』だが、この日は「使徒行伝」であった。使徒聖ぺトロがヘロデ王の迫害を受け、とらえられた時の話である。その時ぺトロは天使によって救われた。

 私の頭の中に我われをあの賊から救ってくれたシモンの息子のトマスが天使に見えたことを思いだした。本当にまだ一週間もたっていないのに、遥か彼方の出来事だったようでもある。

 それに続く「福音書エヴァンジェリウム」の朗読も終わって説教台に立ったオルガンティーノ師は、まずは今日の朗読から日本語に直して引用した。

「今日の第一朗読、『我今まことに知る。主その使いを遣わしてヘロデの手、およびユダヤの民のすべて思い設けしことより、我を救いだし給いしことを』。私も私とともに安土にいた司祭、修道士たちとともにそれと同じ経験をしました。ご存じとは思いますが、我われは安土の近くの島へ渡ったときに賊に襲われ、馬小屋に監禁されました。しかし我々の状況も、この時のぺトロと同じです。まさしく天使に救われ、その天使は『天主デウス様』がお遣わしになったのに他なりません。まさしく、今日の朗読どおりです」

 私はしみじみと、オルガンティーノ師の言われる通りだったと実感していた。

「そして『主我とともにいまして我を強めたまえり。これ我によりて宣教の全うせられ、すべての異邦人のこれを聞かん為なり。しかして我は獅子の口より救いで出されたり』と。え? これ。誰が書いたのですかね? 聖パウロですか。あまりに状況が似ているので、これは私が書いたのかと……というわけはないですね」

 ミサに参列していたわれわれ司祭・修道士、そして神学生たちのほか、主日ではないけれども祭日ということで一般の信徒たちクリスティアーニの数も半端なかった。それがみんなでどばっと笑って、オルガンティーノ師も笑みを浮かべていた。いつもの明るく陽気なオルガンティーノ師だった。

「ただ、思いますのは、我われがあの小さな島で受けた仕打ちなど、ぺトロや初期の信徒たちがヘロデ王やローマ皇帝から受けた迫害、そして何よりも主の十字架の苦難に比べたらものの数にも入らない。あの時いた人なら聞いていると思いますが、『人もし我を責めしならば、汝らをも責めん』とキリストは言われた。あんな責め苦が物の数に入らないのなら、これからもっと大きな迫害があるかもしれません。脅すつもりはないのですがね、なぜなら信長殿という大きな庇護のもとで我われの福音宣教も最初の苦難を乗り越えてようやく順調に進んでいたけれど、でも今やその庇護がなくなった。これからこの国はどうなるか分からない。もう、我われを助けてくれた信長殿はいないのです。だからもっと大きな苦難の時代が来るかもしれません」

 にこやかに、穏やかに話される口調とは裏腹に、内容は身震いがするような話だ。その身震いがするような恐ろしい話を、オルガンティーノ師はにこにこして話される。

「この国はどうなるか分からない。つまり、闇です。でも闇は光によって消え去ります。その光とは、それは希望です。イエズス様は世の光と仰せになりましたよね。その希望の光で、闇を照らしていかなくてはなりません。そして今日の「福音書エヴァンジェリウム」の中で、イエズス様は第一使徒のぺトロに、岩の上に教会を建てよと言われました。実はぺトロというのは、岩という意味なんです。岩、すなわちぺトロの上に教会を建てよとは、ぺトロを教会の長とする、つまりイエズス様の後継者とするということです。さらにその継承者が、ローマにいらっしゃる教皇パーパ様なのです。そしてイエズス様は天国の鍵をぺトロに預けるといわれました。これは素晴らしいことですけれども、また怖いことですね。天国の鍵を預けられた、つまりこの地上における救いの権限を与えられた。つまりはこの時点で教会は『天主デウス』様やイエズス様の手を離れて、我われ人間に任されたのです。責任重大です。もし間違った方向に行ったとしても、自分たちで考えて修正しないといけないのです。もう一度鍵を預けた以上、口出しはせんぞよ、自分たちでやれよ、自分たちで考えろよと『天主デウス』様に言われたようなものですからね。ですから、今後のことも我われでよく考えなければいかないのです。これからよく話し合って、そういう時間を設ける必要がありますね」

 その日の、身をつまされるような説教はこれで終わった。

 そしてラテン語によるミサの式典に戻った。


 そして翌日の土曜日はまたもや雨だった。そんな雨の中を夕方近くになって、一人の武士サムライミノは着ているもののずぶ濡れになって教会を訪ねてきた。

 最初は警戒したが、その武士サムライの胸に蓑の藁の間から十字架が見えたので、我われは安心して彼を教会に招き入れた。

 明智の軍に見つからないように身をやつし、そして急いでやってきたその武士サムライは、その十字架がすでにその身元を物語っていた。はたして、高槻のジュスト高山右近殿の家来ケライ武士サムライだった。

「バテレン様。文をお預かり申してまいりました。まずは我が殿から、もう一通は高槻の南蛮寺のバテレン様からでござる」

 オルガンティーノ師の顔が輝いた。それは我われとて同じだった。安否を気遣っていた相手からの手紙が、ようやく届いたのである。

「ジュストはもう?」

 と、オルガンティーノ師が聞いた。

「すでに高槻に戻ってきております。詳しくは殿のお文の中にも書いてあろうかと」

 早速、まずはオルガンティーノ師が手紙を読み、すぐに次々に我われに回してくれた。教会のフルラネッティ師からの手紙はもちろんだが、ジュストからの手紙までもがポルトガル語だった。

 おそらく途中で万が一明智の手に落ちても、手紙の内容を読まれないためであろう。ポルトガル語で書けば、彼らにとっては一種の暗号になる。何しろ高槻と都とのちょうど真ん中に、今や明智軍は陣地を張っているらしい。そんな中を通り抜けてきたのだから、並大抵の苦労ではないはずだった。

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