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 この日は木曜日、ちょうど信長殿がこのすぐ近くの本能寺の境内の屋敷で亡くなってから一週間目だ。

 あれからもう一週間かという思いと、まだ一週間しかたっていないのかという思いが私の中で交錯していたが、それは私だけではなくこの教会にいるだれもが感じていたことだろう。あまりにも我われの身の上にも世の中にもいろいろなことがありすぎて、あの事件が遠い昔のように感じる。正確には、あの事件の前の平穏な日々が遠くに感じられるのだ。

 昨夜はかなり激しい音が外でしていたので、かなりの量の雨が降ったようだ。あと少しで六月も終わるというのに、梅雨ツユというこの国の雨季はまだ終わりそうもなかった。

 朝には雨は上がっていたが、教会の庭はまだぬかるんだままで、水たまりもそのまま残っていた。


 そして昼前、授業もなく、することがないので外出していた学生の一人が駆け込んで戻ってきて我われのところに慌てふためいて現れた。

「バテレン様方、大変です。とうとう都に明智の軍勢が来ました」

 我われは一瞬身がまえた。ついに都を明智が占領するのか……だが都の治安を維持するようにという、帝の子である皇太子からの絶対命令も明智に対して出ていると聞く。まさか明智が都を焼き払うようなことはしないだろうとは思う。しかし、やはり明智殿は都に何をしに来たのかと気になるところである。

 そこに、小西殿ドン・ジョアキムが顔を出した。ちょうど司祭、修道士一同、司祭館の一室に集まっていた時だった。

「このたびはえらい難儀なことでおましたな」

 オルガンティーノ師の顔を見るなり、ほとんど泣き出さんばかりにドン・ジョアキムはオルガンティーノ師の手を握っていた。

「いやいや、ご心配をおかけしました」

「安土はどうどす?」

「ひどいものです。もともと新しい町ですからその住民は他から移住してきた人たちばかりです。だから、皆荷物をまとめて、安土に来る前にいた家に帰りましたよ。荷物をまとめられる人たちはまだよかった。中には着の身着のままで逃げだした人々もいて、そういう人たちが残していった家財道具目当てに盗賊が集まってきて、略奪や横行、ひどいものでした」

「そうどすか。それでですな」

 それまで立ち話していたドン・ジョアキムも、我われがいる部屋の縁側に腰を下ろした。彼とてまだ道がぬかるんでいる中を、わざわざ世間話をしに来たわけでもあるまい。しかも彼は我われにとっては貴重な情報源だ。だから、その次の言葉に我われは皆聞き耳を立てた。

「明智日向守の今回の上洛ですが、今朝着いてからすぐになんやらお公家くげさんのお屋敷ばかり回ってはるによって、おおやけに対する工作かと思うてたんどすわ」

 公家クゲとはミカドに直接仕える貴族の人たちだ。

「つまり明智殿は、帝の力で自分の地位の権威付けをしようとしているということですかね」

 オルガンティーノ師が尋ねると、ドン・ジョアキムは少し何か考えているようだった。

「どないでっしゃろ。確かに明智日向守はお公家さんがたには受けがいい。なんでも」

 ドン・ジョアキムは急に声を落とした。それは耳を澄ましていないと聞き取れないほどの小さな声だった。

「ここだけの話どすえ。上様は帝にご譲位をお勧め申し上げていたいう話なら聞いとりましたけど」

 ジョアキムの声が、さらに小さくなった。

「なんでも、上様は御皇家を廃されて、自らが帝王の地位に就こうと目論んでいたとかいなかったとか。いや、まさか、いくら上様でも、そこまで大それたことを、いや、まさかですわ。まさかですな、そないなことをお考えになっていかどうかは、そりゃわかりゃしまへん。でもお公家さんがたは明智日向守がその上様のお考えを知って、それを止めるために上様を討ったのではないかと噂しておりましてな。そうなると明智殿は御皇家と帝のお血筋、そして朝廷をお守り申し上げた実に忠臣ということで、それでもてはやされとるみたいどす」

 それはどうだろうかと、私は思っていた。

 はっきりとは分からないが、信長殿もそれなりにミカドという権威は敬っていたように思う。安土の城の中にはいつか帝をお迎えするためという屋敷も造り、そこは自分も使わずまた誰にも使わせずにいた。ただ、あの馬揃えの時のあの態度を思い出せば、思い当たらないこともない気がする。

「ま、そういうこともあるかもしらへんどすけど、とにかくお公家さん方に会うためだけに上洛してきたと思うとったんですわ。お公家さんがたも、これからは明智殿を中心にして天下は動いていくと、そう信じはってたようです」

「え? 違うのですか?」

 気が急いている私が、思わず口を挟んでしまった。ドン・ジョアキムはうなずいた。

「なんと、今朝方都に入った知らせでは、備中で毛利と戦うていた羽柴筑前殿がたちまち毛利と和を結んで、三日前にはご自分の城である姫路に帰らはったいうことどす。もしかしたらもう、こちらに向こうてはるかもしれませんわな。おそらくその知らせは明智日向守もつかんだようで、それを迎え撃つための準備として安土からこちらへ出てきたいうことも考えられます」

 これには驚いた。あの時の倫の話では、確かに明智殿は信長殿の家来や息子たちからの復讐を何よりも恐れているということだった。

 だが、まずは越前の柴田殿か、あるいは大坂の三七殿と丹羽殿かというところを想定しているようで、まさか羽柴殿がこんなに早く戻ってこようとは誰も思わないだろう。

 なぜなら羽柴殿はもう何年も続いている毛利との戦争で膠着状態であり、そのために信長殿に直々の出陣まで願っていたとも聞く。そんな状態の彼が、あっという間に長い間の敵と和を結んでこちらへ戻ってくるなどあり得ない。私だけでなく、誰もがそう思うであろう。

「あの羽柴殿が」

 と、私はつぶやいた。今いるこの中で、直接羽柴殿と話をしたことがあるのは私とロレンソ兄だけだと思う。小柄でひょうきんな、そして気さくなあの人がらは私の印象に強く残っていた。たしか農民の出身と聞いていたので、生まれながらの殿トノとは違うなあとあのとき感じたものである。

「だから三七殿は大坂から動かないのか」

 と、独り言のようにフランチェスコ師がイタリア語で言った。そのフランチェスコ師をオルガンティーノ師は見た。

「三七殿の軍隊はほとんど逃げ去ったといいますから、おそらくは羽柴殿の軍勢の到着を待って、合流して明智を討とうというお考えなのでしょう」

「羽柴殿はいつごろこちらに着くでしょうか?」

 と、私はドン・ジョアキムに尋ねてみた。

「それは分からしまへん。姫路に着いたいう知らせはありましたけど、姫路を発ったいう知らせはまだ来てませんし。まだ姫路にいてはるのか、あるいはもう発たはってこっちへ向こうとるけどその知らせがまだ届いてへんだけなのかわからへんどすしな」

「そうすると、ジュストも高槻に戻ってきますね」

 と、アルメイダ兄も言った。オルガンティーノ師はうなずいた。

「そうだ。ジュスト……」

「ほな、また情報があったら知らせにきますさかい」

 ジョアキムは立ち上がった。アルメイダ兄とオルガンティーノ師はポルトガル語で会話していたので、聞き取れないジョアキムには話の流れが見えていない。オルガンティーノ師は、

「オオキニ」

 と、言った。この地方の言葉で、ありがとうという意味らしい。


 ドン・ジョアキムが帰った後、コスメ兄はしきりに腕を組んで首をかしげていた。

「どうしました?」

 と、オルガンティーノ師が聞くと、コスメ兄は顔をあげた。

「どうにも早すぎるのです。備中のどこで毛利と戦っていたのかまでは知りませんけれど、少なくとも備中から播磨の姫路までは一日では無理です。どこか途中で一泊したのだと思いますけれど、信長殿が討ち死にした六月二十一日はこの国のカレンダーリョ《(カレンダー)》では六月二日、まさかその日のうちに備中まで知らせが行くとは思いませんから、いちばん早くて翌日だったとして、三日。そして姫路に帰ったのが今から三日前といいますから、今日、二十八日はこの国の暦では九日で、その三日前といえばこの国の六月六日です。だとすると途中で一泊したとして五日には備中を出ている。二日から五日までのたった二、三日でどうやって毛利と和議を結んだのでしょうか。あり得ない」

 つまり、コスメ兄の言葉通りだと、先週の木曜日に信長殿が亡くなり、金曜日に備中に知らせが届いたとして、しかし次の日曜日にはもう備中をあとにしている。

 たしかに不思議な話だ。つじつまを合わせようとすると、羽柴殿は信長殿が殺される前にすでに明智の謀反を知っていたということになる。それしか考えられない……その時ふと私はある父子の存在が頭をよぎった。もちろん会ったことはないが、その名は明智の城で何度も耳にした父子……だが、今はそんなことを考えている暇はない。

 それにしてもあの雨の月曜日、坂本城で倫は柴田殿や滝川殿がいつ復讐しに来るか怖いと怯えていたが、まさにその日に想定外の羽柴殿がもう姫路まで引き返してきていたとは、あのときは思いもしなかったことであった。

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