Episodio 9 天草(Amakusa)

1

 翌朝、果たしてやはり『天主デウス』はご実在しておられるのがよくわかった。天気もよくぽかぽかとした陽気だが、風が全くない。

「今日は船は出せませんな」

 と、船頭は言った。

 朝食後、我われ一行は全員で、生糸を扱う丹波屋へと向かった。

 土地は広いが何か閑散としている港だった。あまり人がいない。町にも空き地が目立つ。

 この港は主にチーナのミングから生糸セタを輸入することで栄えているという。今はちょうど明船が入港していない時なので、町も閑散としているのかもしれない。丹波屋の主人のロレンソが長崎にいるということは、おそらくポルトガルとの交易に目をつけたのだろう。さらに長崎には教会もあって信仰生活をする上でも有益だから、彼にとっては一つの豆で二羽の鳩をつかまえるようなものだろう。

 屋敷についた。かなりの大きな店で、従業員の数も多そうだった。奥方は白髪の老婆ではあるが、引きしまった顔をしていた。主人不在の今、この奥方が店を取り仕切っているのだろう。そしてさらに、奥方の親戚という女と、その夫だというひと組の夫婦も洗礼を望んだ。

 例によってフロイス師が洗礼志願者と問答し、どれくらい公教要理カテキズモを身につけているか査定した。それによると、よほど夫が熱心に教えを説いたらしく、奥方もその親戚夫婦も問題なくほとんどの教理を身につけているという。

 午後には早速、ヴァリニャーノ師によって洗礼が授けられた。奥方の霊名はアポローニャが選ばれた。

 その夜は丹波屋において、我われを招いての夕食会が行われた。


 そして次の日、二十一日は日曜日だったので、丹波屋の一室を借りてヴァリニャーノ師の司式でミサが行われ、丹波屋の店の人はもちろん、近隣の町の人びとも参列した。中には物珍しさに来た者もいたが、真剣に教えを求めてきた人びとも多かった。

 そういった人びとがミサの後にヴァリニャーノ師の元へ押しかけ、自分たちも洗礼を望んでいることを告げた。だが、彼らはそこまで教理の理解は進んでいないようで、洗礼を授けるならば少なくともあともう一日は公教要理カテキズモを学んでもらってからでないとまずかった。

 だが、このミサの後すぐにこの阿久根を離れるということで、船頭と話がついている。本当は早朝出発の予定だったが、そこだけはヴァリニャーノ師が船頭を説得して待ってもらったのである。

 実はこの港が薩摩での最後の港になり、早くに出れば今日中に天草アマクサに着けるというので船頭も焦っているのだ。

「皆さん、たいへん名残惜しいのですが、我われは今出発しなければなりません」

 人びとの間で落胆のどよめきが起こった。

「でも、皆さんのお心は『天主デウス』はすべてご存じです。今は時期ではない。時が来たら必ず許されます。ここは天草からも近いとのことですので、いつかバテレンかイルマンを派遣しましょう。ただ、洗礼はバテレンかイルマンでないと授けられないというものではありません。キリシタンならだれでも、極端な話、キリシタンではない異教徒でも他人にキリシタンになるための洗礼を授けることができるのです。もっとも、そういった事例はまずほとんどないでしょうけれど。ただ、勝手にされても困りますので、必ず教会を通してください」

 ヴァリニャーノ師がそう言って、フロイス師による通訳を聞いても、人びとの間ではまだ落胆しているものも多かった。

 とりあえずはそのあとすぐに出港となり、ミサに参列していた人たち大勢で見送りにきてくれた。


 昨日とうって変わっていい風に船は順調に滑り出した。

 ミサを挙げてからの出発だったのでだいぶ時間は遅かったが、船頭は天草までそう時間はかからないから大丈夫だと言っていた。

 しばらくは右手に陸地を見ながらそれに沿って進んでいた。すると突然、陸地の奥にずっと続く海峡にさしかかった。海峡は実に狭く、言われなければ大きな川の河口だと思っていたかもしれない。海峡の向こう側の出口は見えず、山が横たわっている。

「この先は島じゃ」

 と、船頭は言うが、海峡で分断されている以外はそのまま陸地が続いているだけのように見えたので、島という実感がなかった。かなり大きな島らしい。ただ、海峡の手前まではそれほど高い山はなくほとんど平坦に近い土地であったのが、海峡一つ越えただけで山がちの、それもちょっとは高い山が乗っている大地となったので、島なのだと少しは実感できた。

 そもそも九州自体が大きな島であるし、日本全体もまた島なので、島か島ではないかということは大して意味をなさない思考かもしれない。

 その大きな島の岬が先方に見えて来た。そしてその岬をゆっくりと船が回ると、その向こう側にさらに横たわる別の陸地が見えてきた。岬を回るにつれ、その別の陸地は次第に全容を表しはじめた。

 同じように小高い山が横たわって続いている山がちな土地だ。そしてその手前は、先ほどよりもすっと幅の広い海峡で、今度はその向こうに水平線すら見えた。

「天草じゃあ」

 船頭の言葉に、いよいよかと思った。長く住んでいた有馬の地から、いつも海峡越しに対岸として見ていた島が目の前にある。つまり我われはようやく帰って来たのだ。

 その天草の島の西海岸沖を我われは北上しているのだが、ここも言われなければ島と分からないほどの大きな大地だった。

 高い山の乗る陸地は、岬と入り江の繰り返しで、海岸線は複雑だった。海岸からすぐに崖が切り立っているというわけではないが、平らな土地はほとんどなかった。

 そのいくつ目かの大きな岬を回ると、右手に奥深く入り組む入り江があって、船はその入江の中へと進んでいった。入り江の中にまた岬と入り江があるような大きな入江だ。かなり細長く陸地の中に入りこんでおり、奥まで行くと、周りの山も高いだけに湖のような気さえした。

 ようやく港が見えた。そしてそこに大勢の人だかりが見えた。我われの歓迎の人びとだろう。

 船が港に着くと、大いなる歓声が上がった。全員が村人で、全員が信徒クリスティアーニだった。

「この島の信徒クリスタンは一万五千人はいます。島の人口は一万六千人ほど。つまり、九割方が信徒クリスタンということですね」

 歩きながら、何気にフロイス師が私に耳打ちした。その割合には、確かに驚いた。

 上陸したところの村は本来なら閑散とした所なのだろう。いくつかの集落が集まっているだけでとても町とはいえなさそうだったが、それでもここは天草の領主で信徒クリスティアーノのドン・ジョアン=天草久種殿ヒサタネドノの城である河内浦カワチウラ城の城下なのだということだった。

 そして上陸して人びとの歓声の中を歩いていると、目の前に二人ばかりの司祭が見えた。その中に、懐かしい顔があった。

 もう六十代も後半にさしかかりすっかり老けていはいるが元気そうなアルメイダ師だった。

 皆とひとしきり挨拶をした後、共にマカオで叙階を受けた私の姿を見て、老人司祭は目を細めた。

「いやあ、お帰りなさい」

 と、アルメイダ師は私に言った。共に叙階した仲というのは、何か兄弟のような特殊な感覚になる。しかし、それだけではなく、豊後や薩摩のあちこちで嫌というほどその名を聞かされたアルメイダ師だ。そのアルメイダ師が現実社会の私の目の前にいるというのが不思議だった。

「お名前はあちこちで耳にしましたよ」

「おお、薩摩に行って来られたのですね。その話は後ほどゆっくりと」

 アルメイダ師はにっこり笑ってから、ヴァリニャーノ師を案内して進んだ。信徒クリスティアーノたちはまだ囲んで歓声を挙げているので、ヴァリニャーノ師は一人ひとりの手をとって祝福し、最後に手を振りながら我われはある建物に入った。

 白い壁の二階建ての建物で、これが河内浦の住院カーサだ。久しぶりに船宿ではなく我われイエズス会の所有の建物に泊まる。臼杵に着いた時もそう感じたが、なんだか我が家に帰ってきたという感じだ。

 アルメイダ師と共に出迎えてくれた司祭は初めて見る顔のような気もするがどこかで会ったような気もした。年の頃はヴァリニャーノ師と同じくらいに思えた。だが彼は私を一目見れすぐにイタリア語で、

「お久しぶりですね」

 と言ってくれた。そのとき、やっとそれが誰だか分かった。はたしてかつて口之津にいたジュリオ・ピアーニ師だった。ほんの数回しか顔を合わせたことがなかったので、すぐには思いだせなかったのだ。

 しばらくくつろぎながら、我われはアルメイダ師やピアーニ師を交えて、積もる話に花が咲いた。

 まずは私が鹿児島の様子をアルメイダ師に話した。

「なるほど。義久殿はポルトガルとの交易がしたくて、また我われと接触しようとしているのですな。私が前に行った時は冷たくあしらわれたのに」

「私としては」

 と、ヴァリニャーノ師が口をはさんだ。

「理由が何にせよ福音宣教に益があるのならば、薩摩との協力もやぶさかではありません。ただ、私はもうそろそろ日本を離れなければならない。薩摩に関することは、あとはアルメイダ神父パードレ・アルメイダにお任せしたいのですが」

「まあ、巡察師ヴィジタドールがそうおっしゃるのなら引き受けますが、ただ私の寿命もあとどれくらいあるか分かりません。最近、どうも弱ってきています。こればかりは『天主デウス』のみ旨ですからね」

「そんな、お気弱なことおっしゃらずに」

「いえいえ、元は医者であった私が言うのですから間違いない」

 アルメイダ師本人はそこで大笑いしていたが、妙に説得力があって我われはあまり笑えなかった。

 そこで、アルメイダ師が鹿児島ですでにその時点では亡くなっているはずの忍室に会ったと言っていることについて聞いてみようかとも思ったが、話をややこしくするだけのような気がして次の機会することにした。

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