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 野村民部殿は義久殿とほぼ同年代と思われ、愛想のいい人だった。

「お寺はすぐです。あん丘の麓です」

 屋敷の裏手に確かにちょっとした丘がある。そちらに、野村殿に案内されてトスカネロ兄と共に徒歩で向かった。

 途中、野村殿は気さくに話してくれた。聞くと、キリスト教団にとても親しみを感じているという。

「アルメイダ様が三年前に来られた時も、拙者がといなして殿にお会わせ致したのです」

 と、そのようなことを言っていた。

 果たして五分くらいで寺には着いた。大きな屋根がいくつもある結構大きな寺であった。寺の名は福昌寺というらしい。その寺の入り口である玄関ゲンカンで、野村殿が案内を請うた。

 「玄関ゲンカン」という日本語は単に入り口という意味ばかりでなく、本来はこの禅の寺で俗世と聖域を分ける境界という意味なのだそうだ。

 出て来たのは白い着物の少年の僧であった。我われの教会でいうなら、同宿に当たるような感じだ。

 野村殿が来意を告げると、一度奥へ入った少年僧はすぐに出て来た。

「ほかならぬ野村様さあのご来訪じゃっどん、バテレンの方も一緒となっとご住職じゅっつあんむっかしか顔をされていまして、多用でんあっとで本日は失礼させっほしかとのことで、真に申し訳あいもはん」

 言葉つきは丁寧だが、早い話が日本語でいう門前払い《モンゼンバライ》、つまり門の前で追い払われ中にも入れてもらえなかったのである。

 帰り道、

忍室ニンシツ様がいらっしゃったときは、こげんではなかったのじぁっどん」

 と、野村殿は苦笑していた。忍室というのがザビエル師と昵懇だったというこの寺の先代住職らしい。

「寺のご住職じゅっつあんでありながいキリシタンの教えは素晴みごてと先代のお殿様とのさあの貴久さあの前で称賛して、そいで貴久様はそん後にアルメイダ様に城下での布教をお許しなったでん聞いておいもす」

 そういう人ならぜひ会ってみたいものだが、もうこの世におられないのなら残念である。

「もう亡くなってから、どれくらいたつのですかね?」

「ザビエルさあがこん地を離れてから、たしか四年後じゃったか」

「ちょっと待ってください。バテレン・アルメイダが初めてこの地を訪れたのは、バテレン・ザビエルがここで布教をしておられら十年くらい後ですよ。忍室様という方がバテレン・ザビエルがおられた時の四年後に亡くなっているのなら、バテレン・アルメイダはその忍室様にはお会いしていないのではないですか。殿が言われていたように、目の病を治して差し上げることも不可能ですね」

「はあ、果たしてご住職じゅっつあんさあとしか聞いていもはんでしたで、かった忍室様の次のご住職じゅっつあんさあかもしれもはんね。殿が勝手に忍室様だと勘違げしておられるのか。どうも記憶があいまいで申し訳なか。なにしろ昔のことですし、そん頃は殿も拙者も若うぐゎしたで」

 と、また野村殿は苦笑していた。ま、あとでアルメイダ師に会えたら、本人に聞いてみるのがいちばん早い。

「ところで、暗くなる前に、海の近くで桜島を見たいのですが」

 確かにもう、少し暗くなり始めている。

「桜島、よかですな。桜島は薩摩武士の誇りでごわす」

 野村殿は二つ返事で承諾してくれた。

 港は内城からだと福昌寺とは反対方向になるので、内城まで戻ってもその脇を素通りしてさらに十分くらい歩くと港に出た。

 この港に、ザビエル師も上陸したのだ。

 しかしその感慨よりも前に我われの目の前に立ちはだかる光景に息をのんだ。町のどこからでも見える山だったが、こうして海を挟んでその全容を見るのは初めてだった。

「ヴェズーヴィオ!」

 と、トスカネロ兄が突然叫んだ。確か阿蘇山を見た時にヴァリニャーノ師がそう叫んでいた。だが、トスカネロ兄の目は遠くを見つめたままさらに真剣だった。

ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノ阿蘇アソの山をヴェズーヴィオと言われましたが、いやいやいやいや、あの山こそが日本のヴェズーヴィオです。ここはナポリです」

 トスカネロ兄もヴァリニャーノ師と同じナポリ王国の出身だ。だからヴェズーヴィオ火山を見慣れておるのだろう。そういう人が言うのだから、本物のヴェズーヴィオ火山を見たことがない私にもたぶん間違いないと思う。

「阿蘇を見た時は高い山で火山であることからそう思いましたけれど、阿蘇は峰がいくつもある山でしたね。この山は峰がいくつもあるわけではない単独の山ですから、こちらの方がはるかにヴェズーヴィオに近い。そもそもヴェズーヴィオはナポリの市外から見ると、その間にナポリ湾が大きく湾曲して入りこんでいるので、まるで海の向こうにそびえているように見えるのです。そしてここもまさしく海の向こうです」

 海といっても実に狭い海峡である。それだけに山は目の前にどっしりと腰を据えているように見える。

 木々があるのは麓周辺のみで、山の上の方のほとんどが樹木はないようだ。開聞岳もその大きさに圧倒されたが、それでも頂上まで緑に覆われていたことを考えると、この山の大きさは開聞岳の比にはならない。

 高さ的には開聞岳よりもちょっと高いくらいかもしれないが、開聞岳がきれいな円錐であったのに対し、この山は複雑な形で横幅広く居座っているので余計スカーラ(スケール)が大きく感じられる。

 海は、その開聞岳のところから内陸に入りこんでいたその湾の奥だという。左手は遠くに湾のいちばん奥あたりがうっすらと陸地として見えるが、右手は水平線である。正面の桜島はここから反対側のところで地続きなのだというが、確かにここから見れば島に見える。

 ザビエル師はどんな気分で、この山を見つめたのだろうかとふと思う。

 野村殿は先ほどから私たちがイタリア語で会話していたので、何を話しているのか分からずきょとんとしていた。そこで、トスカネロ兄の感動を、私が野村殿にも話してあげてからふと見ると、トスカネロ兄は涙を流していた。

 望郷の念は誰でも同じである。トスカネロ兄はここをナポリと言い、堺ではそこが日本のヴェネツィアだと言っていた。

 そういった思い出す故郷がある人はうらやましい。私などローマ生まれのローマ育ちだから、故郷の風景は波のように重なる家々の雑然とした風景くらいだ。

 ここが日本のローマだと思えるようま場所は、今のところない。高槻がローマのようだとヴァリニャーノ師は言ったが、それは景色ではなく信徒クリスティアーニが多いということにすぎない。強いていえば都で信長殿が馬揃えをした広場で、ローマのチルコ・マッシモを思ったくらいだ。

 そんなことを考えているうち、宵闇が当たりを包み始めた。暗くなる前にと我われは内城に戻ることにした。


 宴では、参列している家臣たちが皆、やはりエウローパの話を聞きたがった。義久殿はアルメイダ師からある程度聞いているようであまり語らなかったが、多くの人が瑣末なことまで尋ねてきた。これもいずれ布教につながるかもしれないという思いで、私はなるべく丁寧に質問には答えていった。

 義久殿と語ったのは、主に桜島についてだった。

 今でも噴煙を上げる火山であるとのことだったが、大きな噴火はなかったのかと私は尋ねてみた。

「あいもしたとも。いや、今でも時々とっどっ炎を吹き上げ、もうそや日常茶飯事ですよ。さして驚きもはん」

 そう言って、義久殿は笑った。火山の麓に住んだことがない私にとってはその感覚は理解できなかったが、やはり慣れというものだろうかと思った。

「私の生まれた国の近くにもヴェズーヴィオという大きな、ちょうど桜島とそっくりな火山があります、こちらのイルマン・トスカネロの生まれた国です」

 私は義久殿にそう言ってから、トスカネロ兄へ同じ内容を小声のイタリア語で伝えた。トスカネロ兄は目をあげ、

「はい。ヴェズーヴィオは形といい、私の生まれたナポリからだと海の向こうに見えるという点といい、全く桜島サクラジマと同じです。今は火山活動も少しは収まっていますが、過去に最大なのは今から約千五百年前の大噴火で、麓にあった都市が一瞬にして火山灰に埋まって一万人以上の人が死んだと記録されています」

 と、言うので私がその言葉を通訳すると、義久殿は少し笑った。

「そげな千五百年前など、古すぎてそん頃はこん国がどうであったかは拙者にや分かりもはん。『日本紀ニホンギ』ちゅう歴史の本を見れば分かっかもしれもはんが、日本武尊ヤマトタケルちゅう英雄が活躍しちょった頃かな? 漢籍かんせきでいえば漢の時代じでくらいですか」

 ヤマトタケルという英雄の名前は、私は初めて聞いた。漢籍とはチーナの本という意味で、この国の人びとは知識人であっても、自分の国よりもチーナの歴史の方を詳しく知っているという不思議な現象があることは、私はこれまでもうすうす感じていたことだった。

「我われが信仰するキリスト・イエズスがこの世で人となられて教えを説いておられたのが、そのヴェズーヴィオ大噴火の五十年ほど前でした」

耶蘇ヤソとはそれくらいの人でござっか。釈尊の方がはるかにりのですな」

 また義久殿は少し笑った。この笑いはほんの少し不快だったが私はそれを呑み、

「桜島は、その時のヴェズーヴィオのような大きな噴火はありましたか?」

 と、話を元に戻した。

「こちらは今からちょうど百年ほど前でしたかな。と、ても当然拙者はまだ生まれっおりもはんのでよく知いまへんどん、文明年間に三回ほどとか噴火があったそうでごわす。溶岩が流出して、噴石や降灰でおの家が埋まり、多数の死者が出たちゅうこっですね。でも今から七十年ほど前に福昌寺の天祐ちゅうぼしが山ん頂上ちょっぺんに鎮火を祈願する真鍮しんちゅほこを立ててくれて、それ以来はんけ噴火は日常的にあったどんとか噴火は今のとこいあいもはん」

 ここで、そんな真鍮の鉾など迷信だと騒いでも始まらないで、それは聞き流した。

 そんな感じで宴は続いていたが、私はやはりこれは聞いておかねばと思うことを切りだした。

「この家の家紋は私たちの十字架クローチェと同じ形ですが、何を表していますか」

 私は自分の胸に駆けている十字架を、手に持って義久殿に示した。

「あれでごわすか。ちゃそれがしもよく知らんのでごわす」

「え?」

 この答えは意外だった。

「もう三百年も前から使こているとのことでごわす。家中の長老に聞いてん、二匹の龍が十字に組み合わさっているとか、二本のてもとだとか、厄除けの護符から来ちっとかいろいろなことをものがおりもす」

 やはりこの国にキリストの教えが入るはるか前から使っていたわけだが、この旗のことはどうしても気になってしまうのであった。

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