2
ルカスが首を横に振ったので、ヴァリニャーノ師は私を見た。そして、
「私が『ヨブ記』の話をしていちいち通訳してもらうのも大変だから、あなたが日本語でルカスに『ヨブ記』の解説をしてあげなさい」
と、私にイタリア語で命じた。通訳をしているフロイス師にではなく、私にだ。私が今「ヨブ記」のことを思い出していたのを、ヴァリニャーノ師は機敏に察したのだろうか?
急に振られて戸惑ったが、私はそこで座ったまま位置を変え、ルカスに向かって話し始めた。
「聖書には次のような話があります」
私はトスカネロ兄に頼んで、私の荷物の中から
「昔、ヨブという男がいました。その人は完全であり正しくて、『
私は時々
「ある日突然に盗賊に襲われたり、雷が落ちたりで、その家畜をすべて失ってしまいました。そして合わせて十人いた息子と娘も、ひと所で食事をしている時に大風が吹いて家が倒れて全員が亡くなってしまったのです。財産も失い、家族も失ったヨブはどう言ったと思いますか?」
「やはり『
「その通りです。自分は裸で生まれ、裸で死んでいく。すべては『
ルカスは大きくうなずいて、しかし黙って聞いていた。
「でもその後で今度はヨブの全身に腫れものができて、痒くて夜も眠れず、かきむしるので全身が血まみれになってしまったのですよ」
ルカスはさすがに顔をしかめた。
「ヨブの妻も『
その時私は、その場に居合わせたフロイス師が何か言いたそうな顔をしているのを察した。恐らく私が、「ヨブ記」の冒頭部分をかなり省略したことを訝しく思っているのだろう。
そのフロイス師の様子にははヴァリニャーノ師も気づいたようで、ヴァリニャーノ師はフロイス師を軽く手で制していたので、私は構わず聖書に目を落とし、ヨブをたしなめた友人の言葉である次の箇所を、そのまま日本語にして読んだ。
「――請う。想いみよ。誰か罪なくして亡びし者あらん。義者の絶れし事、いづくに在りや。我の観る所によれば、不義を耕し悪を播く者は、その刈る所もまたかくのごとし。災禍は塵より起らず、艱難は土より
「つまり、不幸な出来事には必ずそんげなる原因があんというこつじゃろかい? わいが子どんの時から聞いてきた、罪を犯せば罰が下るという因果応報の教えと同じですじゃろかい?」
「そうなのです。ヨブの友はそう言ってヨブを励まそうとしたのです。『
私は再び、聖書にあるヨブの言葉をそのまま訳して読み伝えた。
「我を教えよ。然らば我黙せん。請う、我の過てる所を知らせよ。正しき言は
私があまりにも聖書のラテン語の語句一つ一つをそのまま日本語に置き換えたので、ルカスはどうもよく分からないという表情をした。
「つまり、あなたの言葉は正しいかもしれないが、ただ私を責めているだけで何の慰めにもなっていない。口先だけで私を責めて、この苦しみのどん底にある私のこの悲痛な叫ぶも聞き流していると言っているのです。この友人の言わんとすることはもう十分に分かっている。分かっているけれど、とにかく今の自分は苦しくて仕方ない。それを分かってほしいということですね」
理解したというように、ルカスは大きくうなずいた。
「そしてもう一人の友達はこう言います。あなたの子供が罪を犯したのかもしれません。だからあなたが子らのために祈り、『
「でも、死んだ子は生き返らんやろ?」
「そうなんですよ。ヨブも言います。『
私はまた聖書に目を落として、その箇所を日本語に直して読んだ。
「われ、神に申さん。我を罪ありしとしたまうなかれ。何故に我とあらそふかを我に示したまえ。汝、虐遇をなし、汝の手の作を打ち棄て、悪き者の謀計を照すことを善しとしたまうや。汝は肉眼を有したまうや。汝の観たまう所は人の観るがごとくなるや。汝の日は人間の日のごとく、汝の年は人の日のごとくなるや。何とて汝わが
「そげんな昔は直接『
初めてルカスは口を開いた。
「ま、あとで直接『
「たしかに苦しみは、そん当事者でんと分からんじゃきね。そうじゃない人があれこれ言うても絵空事のごつ聞こえます」
ルカスは、ため息まじりになってきた。
「しかし、最後まで聞いてくださいね。『ヨブ記』はまだ終わりません。ヨブと友人の問答、いやもはやこれ以降は論争になっていきますが、まだ続きます。友人はヨブに、ヨブが信仰を棄て、祈ることをやめたと決めつけます。それこそがヨブに罪がある証拠で、ヨブが言った言葉がそれを証明していると。あなたは最初に世に生れたる人なのか、山よりも前に存在したとでもいうのかと言いますからヨブも、友人たちが自分を責めに来たと毒づきます」
「そりゃあ、そのヨブという人の気持ちも分かりますが」
「そうですよね。友人たちに、どうしてあなた方はまるで自分が『
そこまで話してから私は、自分自身で言ったこの「沈黙」という言葉が自分の胸に響いた。
ちょっと待てよ、という感じだ。
この感覚は私も他人事ではない。かつて、いつだったか、そう、マカオにいた時だったか日本に来てからだったか、同じような気持ちになったことがある。
いくら語りかけても『
「バテレン様」
私がしばらくだまってしまったので、ルカスが心配して声をかけてくれた。そこで我に返って、
「申し訳ない。それで、その友人はいったい誰が『
「まあ、そいもちっともぞなぎいこつやっちゃが」
「まあ、ヨブとてめちゃくちゃなことばかり言っていたわけではなくて、彼の心の奥には『
またもやルカスは、顔をしかめていた。
「ところがです」
私はルカスの暗い顔を慮って、わざと明るく切り出した。
「その場に居合わせた他の人びとが口を開いたのです。彼らは、まずヨブが傲慢にも自分の方が『
再び私の方が沈黙してしまった。ものすごい衝撃が、聖書を読んでいる方の私が受けたのである。もちろん初めて読むわけでもないし、何度も読んだことのある「ヨブ記」だ。ところが今はその「ヨブ記」のこの部分が、これまでになく私の腹中に、つまり霊魂に響いていた。
『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます