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 ルカスが首を横に振ったので、ヴァリニャーノ師は私を見た。そして、

「私が『ヨブ記』の話をしていちいち通訳してもらうのも大変だから、あなたが日本語でルカスに『ヨブ記』の解説をしてあげなさい」

 と、私にイタリア語で命じた。通訳をしているフロイス師にではなく、私にだ。私が今「ヨブ記」のことを思い出していたのを、ヴァリニャーノ師は機敏に察したのだろうか?

 急に振られて戸惑ったが、私はそこで座ったまま位置を変え、ルカスに向かって話し始めた。

「聖書には次のような話があります」

 私はトスカネロ兄に頼んで、私の荷物の中から聖書ビビャを取り出してもらった。

「昔、ヨブという男がいました。その人は完全であり正しくて、『天主デウス』を畏れ、常に悪を遠ざけていました。かなりの財産を持っていました。遊牧民ですから、財産というのはおびただしい数の家畜です。ところが」

 私は時々聖書ビビャに目を落としながら、基本的にはルカスの目を見て話していた。ルカス夫妻も息を呑んで、黙って私の話を聞いていた。

「ある日突然に盗賊に襲われたり、雷が落ちたりで、その家畜をすべて失ってしまいました。そして合わせて十人いた息子と娘も、ひと所で食事をしている時に大風が吹いて家が倒れて全員が亡くなってしまったのです。財産も失い、家族も失ったヨブはどう言ったと思いますか?」

「やはり『天主デウス様』には感謝申し上げたんやろか」

「その通りです。自分は裸で生まれ、裸で死んでいく。すべては『天主デウス様』がお与えくださったのだから、『天主デウス様』がお取りになるのだ。『天主デウス』の御名は讚えられるべきだと」

 ルカスは大きくうなずいて、しかし黙って聞いていた。

「でもその後で今度はヨブの全身に腫れものができて、痒くて夜も眠れず、かきむしるので全身が血まみれになってしまったのですよ」

 ルカスはさすがに顔をしかめた。

「ヨブの妻も『天主デウス様』を呪うようなことを言いましたけれどね、ヨブはそれをもたしなめていました。でもあまりに痒くて、割れた陶器のかけらで全身をかきむしって、もう何もすることもできずに一日中座りこんだままという状態になりました。そんな時にその状態を聞いてヨブの三人の友人が駆けつけてきました。そうしたらさすがのヨブも弱音を吐くのです。自分は生まれてこなければよかった。今すぐにでも死にたいのに死ねずにいると。そこで友人は言ったのです」

 その時私は、その場に居合わせたフロイス師が何か言いたそうな顔をしているのを察した。恐らく私が、「ヨブ記」の冒頭部分をかなり省略したことを訝しく思っているのだろう。

 そのフロイス師の様子にははヴァリニャーノ師も気づいたようで、ヴァリニャーノ師はフロイス師を軽く手で制していたので、私は構わず聖書に目を落とし、ヨブをたしなめた友人の言葉である次の箇所を、そのまま日本語にして読んだ。

「――請う。想いみよ。誰か罪なくして亡びし者あらん。義者の絶れし事、いづくに在りや。我の観る所によれば、不義を耕し悪を播く者は、その刈る所もまたかくのごとし。災禍は塵より起らず、艱難は土よりでず。もし我ならんには、我は必らず神に告求め、我事を神に任せん――」

「つまり、不幸な出来事には必ずそんげなる原因があんというこつじゃろかい? わいが子どんの時から聞いてきた、罪を犯せば罰が下るという因果応報の教えと同じですじゃろかい?」

「そうなのです。ヨブの友はそう言ってヨブを励まそうとしたのです。『天主デウス様』に戒めてもらえる人は幸福だ。だからあなたは、全能者の戒めを軽んじてはならないって。でも、ヨブはこう答えたのです」

 私は再び、聖書にあるヨブの言葉をそのまま訳して読み伝えた。

「我を教えよ。然らば我黙せん。請う、我の過てる所を知らせよ。正しき言は如何いかに力あるものぞ。然しながら汝らの諌むる所は何の諌めとならんや。汝らは言を正さんと想うや。望みの絶えたる者の語る所は風のごときなり。汝らは孤子のために籤を引き、 汝らの友をも商貨にするならん」

 私があまりにも聖書のラテン語の語句一つ一つをそのまま日本語に置き換えたので、ルカスはどうもよく分からないという表情をした。

「つまり、あなたの言葉は正しいかもしれないが、ただ私を責めているだけで何の慰めにもなっていない。口先だけで私を責めて、この苦しみのどん底にある私のこの悲痛な叫ぶも聞き流していると言っているのです。この友人の言わんとすることはもう十分に分かっている。分かっているけれど、とにかく今の自分は苦しくて仕方ない。それを分かってほしいということですね」

 理解したというように、ルカスは大きくうなずいた。

「そしてもう一人の友達はこう言います。あなたの子供が罪を犯したのかもしれません。だからあなたが子らのために祈り、『天主デウス様』に許しを請えば、あなたの家はもとのように繁栄するでしょうと」

「でも、死んだ子は生き返らんやろ?」

「そうなんですよ。ヨブも言います。『天主デウス様』が一度怒れば、どんなに祈ってもその怒りを解くことはできない。ましてや自分は、そのような罰を受けるべき罪は何一つ犯していない。身は潔白であると。そしてとうとう『天主デウス様』に向かってこう言うのです」

 私はまた聖書に目を落として、その箇所を日本語に直して読んだ。

「われ、神に申さん。我を罪ありしとしたまうなかれ。何故に我とあらそふかを我に示したまえ。汝、虐遇をなし、汝の手の作を打ち棄て、悪き者の謀計を照すことを善しとしたまうや。汝は肉眼を有したまうや。汝の観たまう所は人の観るがごとくなるや。汝の日は人間の日のごとく、汝の年は人の日のごとくなるや。何とて汝わがあやまちを尋ね、わが罪を調べたまうや。されども汝はすでに我の罪なきを知りたまう。また汝の手より救い出だし得る者なし。汝の手、われをいとなみ、我をことごとく作れり。然るに汝、今われを滅ぼしたまふなり」

「そげんな昔は直接『天主デウス様』にお話しができたとですかね?」

 初めてルカスは口を開いた。

「ま、あとで直接『天主デウス様』は出てこられますけど、この時はまだ一方的に話しているだけですね。話すだけならいいのですが、恐ろしいことに、『天主デウス様』に直接文句をヨブは言っているのです。自分は罪もないのにこのような目に遭わされていると。ところがもう一人の友人は、自分が正しいというのならば、あなたは自然と『天主デウス様』に祈っているはずだと言います。でも、悪があるのならば、すぐにその悪を捨てなさいと。その友人としては慰めの言葉を言ったつもりなんでしょうね。でもヨブは、その友人たちが今は普通に生活しているからそのようなことが言えるのであって、今の自分と同じ立場に立ってみよと、まあ、そうはっきりとした言葉ではありませんが、そのような感じのことを言うのです」

「たしかに苦しみは、そん当事者でんと分からんじゃきね。そうじゃない人があれこれ言うても絵空事のごつ聞こえます」

 ルカスは、ため息まじりになってきた。

「しかし、最後まで聞いてくださいね。『ヨブ記』はまだ終わりません。ヨブと友人の問答、いやもはやこれ以降は論争になっていきますが、まだ続きます。友人はヨブに、ヨブが信仰を棄て、祈ることをやめたと決めつけます。それこそがヨブに罪がある証拠で、ヨブが言った言葉がそれを証明していると。あなたは最初に世に生れたる人なのか、山よりも前に存在したとでもいうのかと言いますからヨブも、友人たちが自分を責めに来たと毒づきます」

「そりゃあ、そのヨブという人の気持ちも分かりますが」

「そうですよね。友人たちに、どうしてあなた方はまるで自分が『天主デウス』になったように自分を裁くのか、責めるのかとなじります。自分がつぶやいているのは、人間に対してではないと。すると友人の一人は、人が『天主デウス』の役に立つことはできないと言いだします。自分が正しくても、それは自分のためにしかならない。人が正しい人であっても全能の『天主デウス』には何の歓喜でもない。だからあなたが『天主デウス』を恐れるから災難を下したのではなく、ただただあなたの罪によるものに他ならないと。ヨブの考え方は傲慢だと、たしかに責めていますね。そうしたらヨブも開き直って、今さら祈る気にはなれないし、それよりも『天主デウス』と直接談判がしたいとまで言いだします。それなのに『天主デウス』はひたすら沈黙を守るのみで、談判に応じてくれようともしない」

 そこまで話してから私は、自分自身で言ったこの「沈黙」という言葉が自分の胸に響いた。

 ちょっと待てよ、という感じだ。

 この感覚は私も他人事ではない。かつて、いつだったか、そう、マカオにいた時だったか日本に来てからだったか、同じような気持ちになったことがある。

 いくら語りかけても『天主デウス』は沈黙を守るのみで、何もお答えになってはくださらないと。

「バテレン様」

 私がしばらくだまってしまったので、ルカスが心配して声をかけてくれた。そこで我に返って、

「申し訳ない。それで、その友人はいったい誰が『天主デウス』の御前で正しいなどと言えるのか、人間から生まれた人間がどうして清いはずがあろうかと言います。もはや人間なんて、蛆虫のようだと言うのですよ」

「まあ、そいもちっともぞなぎいこつやっちゃが」

「まあ、ヨブとてめちゃくちゃなことばかり言っていたわけではなくて、彼の心の奥には『天主デウス』の絶対性といいますか、『天主デウス』が天地万物の創造主であり、死者の霊でさえその支配下にあることを讃えます。しかし、かつての自分の栄華と今の惨状を繰り返して述べ、もはや『天主デウス』は呼びかけにも沈黙し、その御手で自分を苦しめ、責め、そして今や命をも奪おうとしていると嘆き、その嘆きの声はやがて呪いにとも変わっていきます、もはやヨブの友人たちは返す言葉もなくなって黙ってしまいました」

 またもやルカスは、顔をしかめていた。

「ところがです」

 私はルカスの暗い顔を慮って、わざと明るく切り出した。

「その場に居合わせた他の人びとが口を開いたのです。彼らは、まずヨブが傲慢にも自分の方が『天主デウス様』よりも上になっていること、またヨブの友人たちもヨブが罪を犯していると言いながらも口をつぐんでしまったことに怒っていました。そしてその中の代表的な人が語り始めます。実は彼は聖霊に満たされていたのです。ヨブが『天主デウス』は沈黙しておられると言ったことに対しては、こう言います。『天主デウス』は沈黙しておられるわけではない。いろいろな方法で『天主デウス』は常に語りかけてくださっているのだけれど、人間の方がそれに気づかないだけだ。人が寝ている時の夢という形、幻想という形で語りかけ、警告し、人を悪から離れさせ、傲慢さを取り除き、魂を守り、滅びることがないようにしてくださる、と」

 再び私の方が沈黙してしまった。ものすごい衝撃が、聖書を読んでいる方の私が受けたのである。もちろん初めて読むわけでもないし、何度も読んだことのある「ヨブ記」だ。ところが今はその「ヨブ記」のこの部分が、これまでになく私の腹中に、つまり霊魂に響いていた。

 『天主デウス』は常に語りかけておられる。沈黙などしていない。時には自分で考えたと思えるいわゆる一瞬の「ひらめき」が、実は『天主デウス』のみ声であったりするのか…。何か全身が熱くなり、力が湧いて来たようにも感じられた。

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