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 翌日からヴァリニャーノ師はその言葉通り、一室に完全にこもってしまった。よくあることで、また何か書きものをしているようである。

 そこに唯一出入りを許されたのが、日本人の修道士ジョアン・デ・トルレス兄だった。三十代前半と思われるトルレス兄は、ヴァリニャーノ師が何かを執筆しているその相談役か何かに選ばれたようだ。

 通訳は付いていなかった。トルレス兄は臼杵では唯一ポルトガル語に堪能で、あの高槻のジュストに負けないくらいであったからだ。彼は修道士でありながら、臼杵の城でドン・フランシスコのそばに仕えていた。

 そして三日後の土曜日の午後になって司祭館カーサ修練院ノビシャドのすべての司祭と修道士が司祭館の一室に集められた。ヴァリニャーノ師からの都地方での土産話だろうと、皆楽しみにして集まってきた。だが、人びとの前に立ったヴァリニャーノ師の表情は厳しいものだった。

 彼の手には、ここ二、三日ずっと部屋に籠もって書いていたものであろう書類があった。

「皆さん、皆さんは都や安土の話を聞きたいと今日ここに来られたかもしれませんが、その話は後にして、まず先にどうしてもお伝えしておきたいことを先にお話しします」

 彼は手の中の種類を示した。

「これは『日本の宣教の《Il cerimoniale per i 》ための形儀missionari del Giappone』(日本の風習と形儀かたぎに関する注意と助言)と題し、いろいろな注意事項やこうした方がいいという私なりの考えをまとめました。印刷機はまだ誰も日本に持ってきてはいませんから手で書き写して写本を作っておきました。一通はここに置いて行きますので、あとでじっくりお読みください。なぜこのようなものを私が書いたかと言いますと、我われはこれまであまりにも、日本人に着いて知らなさすぎた。私も含めてです。それがこのたび都や安土へ行って、思い知らされたからです」

 人びとは息をのんで、静まりかえってそれを聞いていた。

「私は日本に来てから、日本人の風習に合わせた現地に適応するという考えを貫きました。皆さんの中には、それに戸惑いを感じた方も多いでしょう。これまでゴアでもマカオでも、現地の人に我われの文化を押しつけ、そして教えを広めるのが普通でしたからね。たしかに日本でも殿トノと呼ばれる人びとにはそのやり方で、まず我われの文化に興味を持たせ、それを切り口にしていくという方法も効果を上げた場合もあります。しかし、一般の民衆にはそれでは難しいのです。ただ、一つだけ注意しておきますよ」

 ヴァリニャーノ師の声がひときわ高くなった。

「現地の文化に適応するというのは、決して妥協するということではありません。そこはお間違えのなきよう」

 たしかに、適応と妥協は紙一重だ。

 そして、ヴァリニャーノ師は元の口調に戻った。

「まずは、我われは清貧ということを基本に生活しておりますし、我が修道会の大切な精神であります。ですが、それが日本人の目から見てみすぼらしいと感じ、そんな人たちの言うことなど聞くに値しないと思われたら本末転倒です。いや、日本人は往々にしてそう思うのです。日本人は権威に弱いのです。もちろん我われにも上長がおり、司祭がおり、修道士がおります。ですが日本人の目から見れば一緒くた、さらに言えば聖職者ではない一般のポルトガル商人までもが日本人の目には全く同じ存在、彼らの言葉で言えば南蛮人ナンバンジンにしか見えないのです。そこで」

 ヴァリニャーノ師は一度言葉を切った。

「そこで、いいですか、決して清貧をやめて贅沢をしろと言っているのではないですよ。誤解しないでください。そうではなくて、彼らの前では貧の部分は出さないようにして、ある程度取り繕う必要があるということです。ですから、あまりみすぼらしい生活を彼らに見せ、みすぼらしい服装で彼らに接してはいけないのです。あくまで司祭は聖職者であるという権威を見せる必要があるのです。決して奢り高ぶれと言っているのではありませんよ」

 人びとは何か難しい哲学でも聞くような顔で、食い入るようにヴァリニャーノ師の顔を見ていた。

「清貧に徹している姿を見せながら、心は奢り高ぶっているようではだめです」

 人びとの中でカブラル師だけが、その眼鏡の奥から覚めた目で見ていた。

「権威ある服装や態度を示しながら、心の中は謙虚に、へりくだる、これが大事ですね」

 一度、ヴァリニャーノ師は息を継いだ。

「でもただ漠然と権威あるといっても、よく分からないでしょう。ですから参考にすべきが、この国のゼンという教えの組織です。禅は霊魂の存在や後の世、天国や地獄のことをあまり説かないという難点がありますが、その分、いやそれだからこそ悪魔崇拝の要素は一向宗や法華宗よりも少なく、個人の精神修養に重きを置きます。その禅の組織の中では我われの上長のような立場が五山ゴザンの長、そして司祭が長老チョーロー、修道士は首座シュザ、神学生が蔵主ゾースに当たります。それらの人びとの権威ある振る舞いをまねるべきです」

 ようやく人びとはどよめき始めた。

「ほかにも一般の日本人や信徒の日本人への権威ある接し方はこの書類に書いておきました。難しいことではありません。あくまで我われ聖職者と信徒の間には、けじめの一線を引かないといけないということです」

 あとはようやく高槻の復活祭の話、都の教会、安土でのことなどおもしろおかしく語った。ようやく人びとの緊張も解けて、和んできた。

 

 そして翌日は教会の隅の石ピエトラ・アンゴラーレの祝福の儀である。

 まずは旧御聖堂おみどうで主日のミサがヴァリニャーノ師の司式で執り行われた。そしてミサの後、引き続き隅の石敷設式ポザ・デラ・プリマ・ピエトラへと移った。

 ヴァリニャーノ師を先頭にすべての司祭と修道士がものすごい数の信徒クリスティアーニの中をゆっくりと行進し、ミサが行われていた旧聖堂を出て、新しい御聖堂の方へと向かった。

 この日は府内の教会からも多くの司祭や修道士がこちらに来て参列していたので、行列もかなり長いものとなった。そこにすでに「1581年10月」という日付と聖堂の名称が刻まれた直方体の石が置かれていた。御み堂は町の西側の川の方が入り口となる。隅の石ピエトラ・アンゴラーレが置かれていたのはその入り口に向かって右の角であった。

 本来ならまずこの隅の石ピエトラ・アンゴラーレを置くことから建物の工事は始まるが、日本の教会はすべて木造である。そこで外観ができてからの儀式となる。

 日本の建物は不思議なことに、床が柱に支えられて宙に浮いている状態だ。床の下には空間があるのである。

 浮いているといっても普通は三段くらいの階段で登れる高さであるが、高貴な屋敷ともなるともっと高い。教会堂とて例外ではなかった。

 外観は少しエウローパの教会堂に似せていはいるが、基本は日本式建築である。床はなく下は土間の教会もあるが、ここは靴を脱いで上がって、祭壇の前の礼拝堂は畳敷きである。従って隅の石ピエトラ・アンゴラーレはその床の下の角に申し訳程度に石が積んであって、その角に据える。

 行列はゆっくりとその隅のピエトラ・アンゴラーレを囲み、その周りをおびただしい数の信徒クリスティアーニが囲んでいた。その中でヴァリニャーノ師が聖書の朗読をし、聖水をかけ祝福した。

「我らは『天主デウス』と共に働くものなり。汝らは『天主デウス』の畑なり。また『天主デウス』の建造物なり。我は『天主デウス』の賜ひたる恩恵めぐみに随ひて熟練なる建築士のごとくもとゐを据ゑたり。しかして他の人その上に建つるなり。しかれども如何いかにして建つべきか。おのおの心してすべし。すでに置きたる基の他は誰も据うること能はず。この基は即ちイエズス・キリストなり」

 この聖パウロの書簡通り、この石がキリストとなって、この教会のかしらであり土台となる。

 その聖書が教会の角に埋められ、その上に隅の石ピエトラ・アンゴラーレが置かれるのだ。石はひと抱えあるからかなりの重さで、若いラモン師と府内から来ていたアントニーノ師の二人によって石はようやく持ちあげられ据えられた。

 こうして隅の石敷設式ポザ・デラ・プリマ・ピエトラも無事終わり、我われは翌日の九日の月曜日には海路を薩摩サツマ経由で、シモの有馬に向け出発することになった。

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