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 次の日、ようやく風を得て我われの船は海へと滑りだした。もはや堺を出てからちょうど一週間、それなのに豊後までの全行程の四分の一も来ていないという。往路は豊後から堺までちょうど十日だったのを思い起こすと、この航海の難儀が身にしみる。

 船は順調に北上する。だが、風はいい順風なのだがおまけがついていて、とにかく波が荒く、船は大揺れだった。これには閉口した。最初にメシア師が体調を崩し、嘔吐を繰り返し寝込んでしまった。私とトスカネロ兄がいちばん若いのだが、私も少々まいっていた。ヴァリニャーノ師もあまり思わしくないようだ。メシア師と共に年長のフロイス師は至って元気なようだった。

 こうして船が揺れると、夜は停泊して昼だけ航行してまだ一週間というのに、あの何カ月も停泊なしで海を渡って来た時のことが思い出される。

 やはりポルトガルのナウ船はこの日本式の船と比べると天国だったとつくづく思う。あの時は四方どちらを見ても陸地など見えない太洋の真ん中を何カ月も乗りっぱなしだったのだが、それに対して今は陸地のすぐそばを航行している。万が一何かで船が転覆したとしても、なんとか泳ぎ着くか船の残骸につかまって漂っていればすぐに流れつけるほどの陸地の近さである。

 それでも、あの時はあの時でいろいろと困難があり苦しかったのだが、やはりナウ船での航海は天国だったと思う。

「どないに追い風があっても、やはり西に向かういうんは難儀ですわ」

 と、船頭は言う。海はただ水があるだけではなく、海の中にも川のような海水の流れがあるのだと船頭は説明してくれた。すなわち海流のことだと我われにはすぐに分かったが、このあたりは常に西から東へと向かう強い海流があるのだそうだ。それに逆らって航海しているので思うように速さが出ないのだと、船頭はさらに語ってくれた。

 ただ、そのお蔭でこのあたりはいい漁場になっているようだ。

 午後の遅い時間になった頃に、陸地は大きく湾曲してわれわれの行く手を遮るがごとく横たわるようになった。かなり海沿いの平らな土地も見え、山は海岸から遠くに遠ざかって行っていた。もはや岬ではない陸地が広がっているようだ。その海岸に沿って進むのだから、船も北上から西へと針路を変えた。だが、順風といっていられるうちはよかったが、次第に風は強くなり、順風どころの騒ぎではなく激しい追い風となった。船の速度は上がっていいのだが、あまりにも追い風が強すぎるとそれはそれで危険であるという。

 そんな追い風に背中を押されるように、夕方の暗くなる直前に船は予定していた浦戸ウラドの港へ入った。ここは長宗我部の殿が住む岡豊オコー城にいちばん近い港だというので、毛利領のようにここが織田家の敵地というわけではないが、それでも緊張が走った。

 まるで川の河口のような感じで陸地に入り江が深く入り込んでおり、船はその細長い入り江に入ると入り江の入り口すぐの左側の方へと向かった。小高い丘が続く岬が外海と入り江を区切っていたが、その岬の内側にさらに小さな入り江があって、その奥が港のようであった。その港の隅に停泊した船の中で、我われは文字通り身を潜めていた。

 入り江の入り口は狭いが、中は湖のように広く、さらに視界の向こうにまで入江は続いているようだった。

 

 翌日は前日にもまして大風で、海は大しけだった。とても出港できる状態ではなく、また一日船の中で暮らすことを余儀なくされた。室津の時は停泊しているだけに船はほとんど揺れなかったが、今日はたとえ停泊中とても波を受けて船はかなり揺れた。これでもここは入り江の中だけに外海よりはましだった。食事は船頭が上陸して、船宿あたりから握り飯や少しの料理を調達して来てくれた。毎日二食ほぼ同じものを食べているのだが、ヴァリニャーノ師は、

「感謝して頂きましょう」

 と言い、皆で食前感謝の祈りを唱えてからいつも頂くのであった。

 ところが翌日は打って変わって海も穏やかにはなったが、今度は完全無風状態だった。またもや足止めである。空はよく晴れていたし、暑い日差しが容赦なく船の中まで照りつけていた。風がないといいうことはただ湿気だけがこもることになり、噴き出す汗にスータンもびしょびしょになるくらいだった。


 その翌日は、ようやく風があった。

「先を急ぎまひょ」

 そう言って船頭は、ようやく船を出した。

 だが、まだ午前中のうちから雲行きがだんだん怪しくなってきた。西の方にどす黒い雲の塊が見えたかと思うと、どんどん近付いてくる。そのうち、雨も降りだした。かなり激しいスコールだった。風がどんどん強くなり、波も高くなって、船は大揺れに揺れた。何かにつかまっていないと海に放り出されそうだ。その風がまた、向かい風になっていっている。

「こらあかん。これ以上は進めん」

 船頭は叫ぶと、すぐに帆を下ろした。そして船員たちが櫓を漕ぎはじめ、船頭はうまく舵を操って船を陸地の方へと近づけていった。やはり陸地づたいの航行だと、こういう時に安心である。

 我われはひとかたまりになり、祈りを捧げた。そしてヴァリニャーノ師が船員たちにも向かって叫んだ。

「主は言われた。『なにゆえ臆するか。信仰薄き者よ』と。信仰あれば風も海も従う」

 同じ言葉をフロイス師が、日本語で彼らに伝えた。

「おお」

 船員たちもずぶぬれになって、揺れに揺れる船の上で「主祷文パーテル・ノステル」と「天使祝詞アヴェ・マリア」を交互に、繰り返しラテン語で唱えながら櫓を漕いでいた。

 このような状況だから外の景色を見る余裕などなかったが、浦戸の時と同じような入り江があって、その中へと船は進んでいるようだった。そしてこれも浦戸とほぼ同じような位置関係で、入江に入ってすぐの左側にさらなる入り江があって、ここでもそこが港のようだ。この小さな入り江は、浦戸よりは狭くて細長く、奥が深いようだ。

 港に着くと、村人たちが蓑を着て大勢出てきてくれた。そして我われの船を引いて岸に乗り上げさせるのだ。大風と横殴りの雨の中での作業で、蓑を着ていても皆ずぶぬれだ。

 我われは船の後部の、唯一屋根がある部分に入っていた。日本式の船は、いわゆる甲板がないのである。やがて船は陸に上がったようで、全く揺れがなくなった。そこに船頭が顔を出した。

「ここは漁村で、本来寄るはずやった所とちゃいますんで、船宿もあらしまへん。ともかくこのでかい嵐が収まるのを待つしかないですな。バテレン様方には難儀かけますわな」

「かたじけない」

 と、ヴァリニャーノ師が日本語で言った。

「なぜ船を陸に? 引いてくださった人たちには頼んでいたのですか」

 私が尋ねると、船頭は手を顔の前で横に振った。

「いやいやいや、寄る予定もなかった所の人に、どうやって頼みますんかいな。実はこういう嵐で船が港に入ってきたら、ああして村人総出で船を陸に上げたるんが普通です。この嵐の日に船を港に浮かべとったら、綱も切れて明日の朝にはどこにおるのかって感じで、船はのうなってしまいますわ」

 どこのどんな船かも分からなくても、こういった嵐の日などには村人はそれを救助するという美徳がやはりこの国には備わっているようだ。それが当たり前のこことして、皆が力を合わせて助け合っている。

 やはりこの国の人びとは、たとえ異教徒であっても霊性が高いと私は再度実感した。

「この夏の終わりから秋にかけて、この国にはこういった大嵐がようけ来まんにゃわ。心配しとったけど、やはり来よったで。まあ。何日も続くいうことはあらしまへんさかい、少しの辛抱をお願いします」

 船頭はそういうものの、確かに船は陸地に上がって揺れなくはなったが、容赦なく風は船にまともにぶつかってくる。そのために船の木材がきしむ。

 激しい轟音と共に雨が風と共にぶつかってきて、空にも風のうなり声がひっきりなしだ。その風で、船が揺れたりもした。大波による揺れとは全く違う小刻みな揺れ方だ。雨も滝のように降り、それが風で船べりに打ちつけられている。

 その夜はとうとうほとんど眠れなかった。ただ、嵐が猛り狂っていた時間はそう長くはなく、明け方近くになるともうすっかり雨も収まっていたので、それから少しだけうとうととした。

 翌日は驚くほど青空の快晴だった。ただ、風はまだ強く、海もしけており、船を出すのは無理なようだ。

 昨夜はあのような状態だったからここの景色など分からなかったが、確かに港と入り江との位置関係は浦戸とほぼ同じだ。だが岬の上の山は浦戸よりも高く、高いとはいってもそれほど本格的な山ではないが、そんな山に抱かれた麓に港はあった。港のある小入江は細長くて出口は見えない。

 やがて村人が、食料を持ってきてくれた。

「おまんさ方はどこまでお行きになるがか」

「豊後です」

 と、船頭が村人の相手をしていた。

「ほりゃあ遠い所まで難儀やき。この村でゆっくりしていっとおせ」

 この土地はまた言葉が堺や都とはだいぶ違っていて、何を言っているのかわからない部分もあった。

 我われは船の中に隠れ、なるべく顔が見られないようにした。もう長宗我部殿の岡豊オコー城からはだいぶ離れたという。でも、用心に越したことはない。

 しかし、何日も生活している以上、全く我われの存在が気づかれずに済むということは無理であった。時々わざわざ我われの姿をのぞき見しようとする村人が何人かいたことも、私は察していたが特に気にもとめていなかった。ここの村人たちは災難に遭うこの船を助けてくれた恩人であるという意識が強かったからだ。

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