Capitolo 4 宣教の船旅(Crociera per la Missione)

Episodio 1 嵐と黒潮(Tosa)

1

 風は順調だった。船頭も信徒クリスティアーノということで、来た時の異教徒、しかも一向宗の門徒という船頭よりもかなり気が楽だった。小柄ながらも体格のいい若い男だった。まだ残暑きびしく、船頭は暑さに耐えきれずに上半身裸になっていたが、腕も胸も見事な筋肉だった。

 ただ、日本人は男でもほとんど胸毛が生えていない。それはこの国に来てから、教会でもろ肌脱いで鞭打ちの苦行をする信徒たちクリスティアーニを見て、すでに気づいていたことだった。やはり人種が違うと体質も違うのだろう。

 やがて行く手に大きな島が横たわった。それが淡路島アワジシマである。あまりに大きいので、それが島だとあらかじめ聞いていなかったら海峡の対岸の陸地だと思っていただろう。

 堺と陸続きの紀伊とその淡路島との間は狭い海峡だった。見送りの船団はここまで来ればもう海賊の心配はいらないと、船越しに挨拶の言葉を大声で述べてから舵を切り、我われの船から離れて行った。一旦は紀伊の港に寄ってから堺へ帰るのだろう。我われは皆、帽子カッペーロをとってそれを振った。

 淡路島の南端を大きく回ると、その向こうにはいよいよ別の陸地が横たわっているのが見えて来た。堺や都とは別の四国シコクという日本を形成する三つの大きな島のうちの一つで、瀬戸内海では対岸に見えていた陸地だ。かつて豊後から海の対岸に見えていた伊予も、この四国にあるという。そこの阿波アワの港で今宵は停泊するということだ。

「えろう申し訳ないことですけど、今回は日にちがかかりまっせ」

 と、本当に申し訳なさそうに船頭は言う。来る時は豊後から堺まで十日ほどだったが、それは奇跡的に順調な船旅だったことを今さらながらに実感した。なにしろ船は順風でないと航行できない。逆風の場合は風向きが変わるまで何日も港に停泊して待たねばならないのだ。しかもこの季節は、西風の日が多いとのことで、それでは逆風になってしまう。

 ちょうど今頃、一年に一度、マカオからの定期便が長崎に着くのもその西風に乗るためにこの時期なのであることを考えたら、この時期に船で西に行くのは日数をある程度覚悟しておかねばならないというのも道理だ。

 来る時は風がなければ櫓を漕いで航行したが、その時は漕ぎ手が三十人も乗っていたからで、今回は数人しかいない。

 まして今度は、来る時とは航路が違う。来る時と同じ瀬戸内海航路だとまた毛利領の近くを通らねばならず危険なので、今度は四国の南側、土佐トサという土地の沖を通る南海航路を行くのだという。土佐は長宗我部チョーソカベという殿の領地で、この殿と信長殿は一応同盟関係にあり、まさしく交戦中の毛利よりもまだ安全といえた。

 しかし、阿波の港では上陸して船旅のための宿に泊まったが、今後は夜は停泊している船の中で寝ることになるという。これから後船は土佐にさしかかることになるのだが、本来同盟関係であった信長殿と長宗我部チョーソカベとの関係が急にぎくしゃくし始めたので大事を取ってとのことであった。

 その件に関しては阿波の三好ミヨシ殿という殿との関係が影響しているとのことでその辺のいきさつを船頭が細かく説明してくれたが、なにしろそういった政治的動向に関してはしょせん我われは外国人であって、聞いてもよく分からにというのが正直なところであった。

 

 翌日は陸地に沿って南下し、一つの大きな岬を回って、船は土佐の領域に入った。岬の先端近くには、小さな島が二つほどあった。陸地の上には小高い緑の丘陵がずっと続き、その足元を白い波が洗っているのが見える。海と丘陵の間に平らな土地は全くなかった。やがて珍しくほんの少し平らな土地が見えて来たなと思ったら、それが甲浦カンノウラの港、この日の寄港予定の港だった。ここでは我われは、全員が停泊する船の中で寝た。

 翌日の景色は圧巻だった。

「ブラーヴォ!」

 と、ヴァリニャーノ師も船から身を乗り出していた。昨日も海に細長く突き出た一つ岬を回ったが、ここまで雄大ではなかった。ずっと海にそって続いていた丘陵の先端がそのまま海に突き出ており結構な高さである。海沿いの道すらなく、波は海の中から直接そそり立つ崖にぶつかって砕けている。そのすぐ上から丘陵のてっぺんまで、すべてが緑に覆われている。

 船が進むにつれて、岬はその先端を船に向けて来た。本当に鋭利な槍の先のような岬の先端で、船はゆっくりとそれを旋回する。

「バテレン様、あまり身ぃ乗り出すと危のうおまっせ」

 船頭が笑いながら、ヴァリニャーノ師に言った。フロイス師が薄ら笑いを浮かべ、

「危ないって言ってますよ」

 とポルトガル語で補足した。

「この国の自然は繊細で、本当に神々こうごうしい。まるで『天主デウス』様が特別に地球上にこのような美しい国を造ってくださったとしか思えない」

 ヴァリニャーノ師がつぶやいていると、

「ここから先は外海ですさけ、船もよけい揺れますさかいな」

 と、船頭はさらに言った。

 そのヴァリニャーノ師の言葉に、本当に『天主デウス』が最高の芸術品のようにこの国を創ってくださったのだとしたら、そこに住む人びとは当然霊性が高いはずだと私はふと考えていた。

 岬を回りきると、船は進路を北にとった。つまり今までずっと丘陵のある大地に沿って南下してきたが、今度はその丘陵の反対側を北上するのだ。これまでは海の向こうにうっすらと対岸の紀伊の大地が横たわっているのが見えていたが、いよいよ陸地の反対側は一面の大海原が水平線まで続いていた。

 この国に来てからも何度か船旅をしたが、久しぶりに見るずっと続く水平線といった感じだった。これまでは陸地の反対側を見ても遠くに対岸の陸地や島などが必ず見えて、水平線は景色のごく一部ということの方が多かった。

 岬を回ると急に風が強くなり、船のベロチタ(スピード)も上がり、船頭の言ったようにかなり揺れだした。来る時の瀬戸内海航路がいかに波静かな内海の航路であったかを思い知らされた。

 岬を回るまではさほど大きな追い風だったわけではないが、ここからは南風である順風を帆いっぱいに受けて船はすごい速度で海原を滑り出した。

 やがて丘陵の下にちょっと平らな土地があって集落が見えた。そこがこの日の寄港地で、名を室津ムロツと聞いた時に私は驚いた。それはかつて播磨で一週間も滞在したあの町の名だ。だが、ここの景色はあの室津ではあり得なかった。瀬戸内の海に面し、海の沖には陸地が見えたあの室津ではなく、ここは大海原の大洋に面している。

 船頭に聞けば、室津というのはありふれた地名で、あちこちにその名の港はあるという。そもそも地名の最後に「ツ」がつけば港町であることが多いという。「」とは古い日本語で「港」という意味だったのだそうだ。

 その室津に船は入って行った。その時までは、この港は単なる一晩の寄港地としか思っていなかった。

 当然長宗我部チョーソカベ領なので上陸はできず、船頭だけが何かの手続きのために上陸していったがすぐに戻ってきた。翌日はさらに北上するということで、停泊していてもかなり揺れる船内で我われは眠りに着いた。

 

 翌朝は一変して穏やかな海だった。穏やかとはいっても瀬戸内の海のように波もなく鏡のような水面というわけにはいかない。白波は船をも含めた港全体に向かって、防波堤にぶつかっては白いしぶきを上げながら何度も押し寄せていた。

 だが、風がない。ほとんど無風状態で、海を見ながら船頭は、

「こりゃあきまへんわ」

 と、言った。単に船を動かすのだけが船頭の役割ではなく、風の向きや海の荒れ具合などを判断し、その日の航程を判断するのも船頭の仕事だ。その点では、ポルトガル船のカピタンと同じである。

 船頭が船は出せないとい言った以上、この港で順風を待つしかなかった。

 こうして狭い船中に閉じ込められた日が六日ばかり続いた。航行していても船中に閉じ込められていることには変わりはないのだが、船が走っていれば変わりゆく景色などが目の楽しみにもなり、それなりに時間もつぶせて一日も割と早く終わる。だが止まっている船に閉じ込められるとなると話は別で、それがこんなにも退屈なものだとは思わなかった。

 一日の時間の流れの中でのエポカ(エポック)といえば食事と聖務日課の祈りの時間だけだが、あまりにも退屈なので次の聖務日課の時間になるのが待ち遠しかったりさえした。

 本来、聖務日課は聖職者だけが行えばよいのだが、退屈さは船頭やそのほかの数名の船員たちとて同じようで、彼らも全員祈りに参加していた。当然、全員が信徒クリスティアーニである。

 その六日間の間に日曜日があったので、船中で主日のミサを挙げることになった。ラテン語の祈りの言葉を全員で大声で唱えることも、聖歌を歌うこともはばかられるので、ひそひそ声でのミサという非常に奇妙な光景となった。

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