本当ならその翌日にはすぐに出発したかったが、翌日の八月十五日は聖母マリア被昇天の祝日で盛大にミサを挙げるので、出発はさらにその翌日となった。

 被昇天のミサには日曜ではなかったがヤスフェも参列していた。ミサの後、ヤスフェはヴァリニャーノ師とそのまま御聖堂おみどうの中で語らっていた。

「出発の日にはお見送りすると言いましたが、明日はどうしてもお城から出られません。それで今日お別れに来ました」

 ヤスフェがそう言うので、そのまま我われは共に遅い朝食をり、いよいよ帰る時になって神学校セミナリヨの入り口でヴァリニャーノ師と私とで逆にヤスフェを見送った。

「本当に、いろいろとありがとうございました。ご恩は…ご恩は…決して…」

 その後は、ヤスフェは泣き崩れて言葉にならなかった。ヴァリニャーノ師の目にも涙が浮かんでいた。

「『天主デウス』のご加護があなたにありますように。西と東に分かれても、同じ『天主デウス』様の袖の内にありますから」

 そう言ってヴァリニャーノ師は手を差し伸べた。泣きながらその手を握り返し、そして急に日本語で、

「もったいない。もったいのうござる」

 と、ヤスフェは言った。そしてポルトガル語に戻り、

「ああ、この言葉はポルトガル語でどう言ったらいいかわかりません。モッタイナイと日本語でしか言えません。本来は奴隷の身分でしかなかった私が、こうして神父様パードレに握手をしてもらえるなんて」

 と言って、さらに嗚咽にむせんだ。

「あなたはもう奴隷ではありません。立派な日本のサムライです。そして立派なクリスタンです。あなたのことは忘れません」

「すべて神父様パードレのお蔭です。私こそ忘れません」

「『天主デウス』様に感謝しましょう」

 それからヤスフェは、私とも手を握り合った。私が彼と知り合ってからはまだ一年という短い時間でしかなく、私はヴァリニャーノ師のように何年も彼と接してきたわけではないが、それでも私にも彼とのいろいろな思い出がある。

「まあ、私はこれからもずっと日本にいますから、またお会いすることもあるでしょう」

 そう言う私も、もらい泣きで涙を浮かべていた。

 そうして、他の信徒クリスティアーノ武士サムライたちと共にヤスフェは城へと帰っていった。


 その日の夜は、我われは信長殿の三男である神戸三七信孝殿の屋敷に招かれた。彼も我われが安土を後にすることを知り、どうしても送別の宴を催したいとのことであった。明日は安土を離れる我われ五人とオルガンティーノ師、ロレンソ兄も含め、総勢七人で小舟はいっぱいだった。

 三七殿の屋敷は城内ではなく城のある山が岬のように湖に突き出たその麓の湖畔にあった。月も満月からだいぶ欠けており、甚だ治安のいい町ではあるがやはり夜道は危険だということで、神学校セミナリオの裏手から湖水を舟で行くことにした。それはバルカ(ボート)ともいえる手漕ぎの船で、船頭が船の後尾で立って櫓を漕いでいる。松明たいまつに照らされた湖水は、まるで金の粉を散りばめたように輝いていた。

 あの日、あれだけ夜の闇の中に光り輝いていた天主閣も、今日は昇ったばかりの少し欠けた月にわずかに照らされて、かろうじて闇の中に輪郭を表している程度だった。

 舟の上からヴァリニャーノ師が、じっとその天主閣を見ていた。私とて当分は見納めだが、またいつかここに来ることもあるだろう。だが、ヴァリニャーノ師にとっては本当にこれで最後なのだ。

 ほんの数分だけ湖水を滑っただけで、いくつかの松明が揺れて見える湖畔にと、小舟は近づいて行った。松明を持つ従者の間に、三七殿は立って我われを待っていてくれた。そして我われは舟から降りる時には、従者から松明を受け取って自ら我われの足元を照らしてくれた。

「出立間際のお忙しい所をわざわざお運びいただき恐縮です」

 三七殿は立ったまま腰を追ってお辞儀をした。その言葉はフロイス師がヴァリニャーノ師に伝えていた。我われも同じように、日本式に腰を折って頭を下げた。

「本日はお招きにあずかり恐縮です」

 事前にフロイス師かオルガンティーノ師からそう言うのだと聞いていたのだろう、ヴァリニャーノ師は見事な日本語でそれを言った。

「さ、さ、中へ」

 案内されるままに屋敷に入った。それほど大きな屋敷ではなかった。城内の、信長殿の長男の城介勘九郎殿の屋敷に比べたら、いや、比べるのが無駄であろうような小ささだった。それでも従者はたくさんいて、三七殿の信徒クリスティアーノである家来も姿を見せた。

 まずは屋敷であらためて三七殿に対面したが、驚いたことに彼は我われを上座に据えて、自分は下座に座った。信徒クリスティアーノである殿ならばこういう状況は時々あったが、三七殿はまだ信徒クリスティアーノではない。それなのに信徒クリスティアーノの殿と同じように我われの前にぬかずくのだった。

 まずは自分がキリストの教えに接していながらも、なかなか洗礼を受けるに至らないことの詫びから話は始まった。

「私は今、伊勢イセの国にある神戸カンベ城の城主ではありますが、その領地は北伊勢の二郡にすぎません。その神戸の城でも私はいきなり養子として送り込まれたので、神戸の養父や家臣たちからも疎んじられて、なじめずにおります。ですから伊勢ではない他の国を丸ごと領有したい。やはり一国を知行したいというのは、この日の本に生まれたものとしては当然の願いなのです」

 確かに、ただの武士サムライではなくあの信長殿のお子であるなおさらだろうと、私はそれを聞いて感じていた。その言葉をフロイス師の通訳で聞きながら、ヴァリニャーノ師もうなずいていた。

「すべては父の胸三寸にあるのです」

 急に三七殿の語調が低くなった。我われを上座に置いて、その前でまるで家来のような形で身をかがめて畳に両手を突き、頭を下げてこの二十代の若者はたどたどしく語っていた。顔は信長殿にそっくりだが、気性は全然違うようだ。

「お恥ずかしい話ですが、やはり父は恐い。私がキリシタンになりたいということを、やはりまだ父に話せずにいます。言いだして、父がどのような態度に出るかわからないからです。ましてや、父に内緒でキリシタンになるなど、到底できることではありません」

 答えるまでしばらくヴァリニャーノ師は間をおいて、そしてゆっくりと言った。

「焦ることはありませんよ。そのようなあなたであっても、『天主デウス』様は御大切に思っています。『天主デウス』様はあなたのお心の内まですべてご存じですから。まずは祈りましょう」

 フロイス師の通詞を聞いて、三七殿は涙ぐんでいるようだった。

 それから、明日出発である我われを長くひきとめてはいけないと、まだまだ多くを語りたそうな三七殿ではあったが、すぐに別室で我われの送別の宴となった。

 その席では、三七殿は手ずからヴァリニャーノ師をはじめ、我われ一人ひとりのサカズキサケをついで回った。口では我われを「バレテン様」と呼んではいるが、実の父の信長殿よりもむしろ我われの方をまるで自分の父親のように扱っているという印象を受けた。

 最初は少し緊張して硬くなっていた三七殿も、酒が入ると次第に饒舌になった。そして家来に銘じて細長い木の箱を持って来させた。

「バテレン様にこれを進呈しとう存じます」

 というのでヴァリニャーノ師が受け取って見ると、それは紙に黒い墨でこの国の文字を大きく書いたもので、装飾のある縁取りの少し硬めの紙に貼って部屋の壁に飾るいわゆる掛け軸カケジクというものだった。畳の部屋のいちばん奥の少し高くなっているところの壁に、よく飾られていたりする。

 時にはこの国の文字、とはいっても実際はチーナの文字なのだが、それが一文字だけ書いているものもある。しかし、三七殿が渡してくれたものにはかなりたくさんの文字が書いてあった。

「これはそれがしの手にございます。この神戸家の家訓を書に致しました」

 オルガンティーノ師が受け取って、それをじっと読んでいた。

「神戸家の家臣はカミホトケとは手を切り、正しく、徳の高い人物を目指すようにと、そういう意味のことですな」

 その内容を、ごく簡単にオルガンティーノ師はポルトガル語で言った。ヴァリニャーノ師はそれを巻き戻しながら箱に入れ、

「これはありがたく頂いておきます」

 と笑顔で言った。

「それから一つ、お聞きしたいことがあります」

 三七殿は自分の座に座ったまま、体だけヴァリニャーノ師の方を向いた。

「ウルガン様も、一緒に行っておしまいになられるのですか」

 それに対しては、オルガンティーノ師が直々に、

「いえ、私は堺まで見送りに行くだけで、またここに戻ってまいりますよ」

 と答えていた。三七殿は心から安心した様子を見せた。

「パードレ・オルガンティーノはこれから後も、安土と都の布教区の布教区長ですから」

 と、フロイス師が補足するように説明した。さらに三七殿はパッと顔を輝かせた。

「では、堺に行かれるのなら当然都を通りますよね。実は私の母は都におります。どうか私の母にも『天主デウス』様の話、ヤソ様の教えを説いていただけますでしょうか」

「分かりました。なるべくそのように取り計らいましょう」

 それからオルガンティーノ師は、三七殿の母親の名前や都での居場所などを聞いていた。

 そのうちある程度食事がすむと、我われは早々に神戸邸を辞去することにした。帰り際も三七殿は舟に乗る場所まで松明を持って見送ってくれた。もう月はだいぶ高く空に上がっていた。

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