Episodio 11 満月と天主閣ルミナリア(Azuchi)

 そうして七月も末になってから、ヴァリニャーノ師はようやく安土を後にしてシモに帰る旨を発表した。

 同時に修道士のディオゴ・メスキータ兄にヴァリニャーノ師は、今年の末までには長崎に来るようにとの指示を与えていた。皆の前だからその理由を明らかにすることはなかったが、だいたいの察しはついていた。おそらくは彼の司祭への叙階とかかわっているだろう。だが、ほかの修道士の手前、皆の前では公言しなかったのだろうが私にはピンときた。

 それから慌ただしく支度をすると、八月に入ってすぐの頃に、ヴァリニャーノ師をはじめシモへと帰る顔ぶれで信長殿に暇乞いのため安土城にと登った。

 この日は天主閣の二階の、信長殿が常住する私的な部屋へと通された。本来そこはどんな重臣であってもめったに入ることは許されない部屋だということを、常に信長殿に付き添っている少年から耳打ちされた。

 この日も信長殿は上機嫌だった。私は前に高槻へ行く前に暇乞いに来た時以来だが、ヴァリニャーノ師はフロイス師が帰還するとすぐに、安土に戻った挨拶に来ている。そしてこの日もフロイス師が同行しているため、前回のように私が通訳ではないことで幾分気は楽だった。

「九州に帰るか。それは名残り惜しいのう。前にはいろいろと南蛮の珍しい品々をもらって痛み入る。真にかたじけない」

 信長殿は頭を下げているわけではないが、その気持ちは十分に伝わったので、かえってこちらが恐縮してヴァリニャーノ師は深々と頭を下げていた。

「それで珍しい品々に世の方ばかりが驚かされていたのでは不公平だからな、今度はこちらからバテレン殿方を驚かせよう」

 そう言って信長殿は、奥に人を呼んだ。すぐに何人かの若い武士サムライたちによって、紫色の布がかぶさった板状のものが運ばれてきた。かなりの大きさで重そうでもあり、それは縦になったまま我われの前に立てて置かれた。すぐに布がとられ、折りたたみになっているその板はゆっくりと開かれたが、平らになるまでは開かれず、わずかにジグザグを残したままだったのでそのまま我われの前に立ったままだった。

「ブラーヴォ!」

「グランジ!」

 と、我われは皆、イタリア人はイタリア語で、ポルトガル人はポルトガル語で感嘆の声を挙げた。

 それは絵画だった。

 だが、ただの絵画ではなく、そのもの自体が屏風ビョーブという部屋を仕切るために用いられる移動式の壁のようなもので、また仕切るだけではなく貴人が座る座の背後に置かれたりもする実用品なのだが、そこに描かれている絵からしてそれはもはや一つの美術品であった。

 全体に金色の地に極彩色豊かに風景画が一面に書かれているが、よく見ると湖に突き出た岬の山の上にそびえる巨大な城は、まぎれもなく今我われがいる安土城に他ならなかった。さらには城ばかりでなく町の様子もこと細かに、斜め上から俯瞰するようなアンゴーロアングルで描かれている。まるで今にも動き出しそうな絵であった。

「これを作らせるにはずいぶん時間がかかったよのう」

 信長殿も絵を覗き込んで目を細めていた。

「実はミカドもこの屏風のことをお聞きになってご所望なさってな、再三都から使いの者が訪ねて来たけれども、いや、たとえ相手が帝といえどもそうやすやすと手放せる代物ではない」

 そう言って信長殿が高らかに笑った後、ヴァリニャーノ師が恭しく頭を下げた。

「素晴らしいものを拝見させていただき、かたじけのう存じます」

 信長殿は、きりっと我われを見た。

「あなた方バテレンは遠い海の彼方からわざわざこの国に来て予の元にも訪ねてきてくれたばかりか、この安土の城下に長きにわたって滞在してくれた。そして間もなく九州に帰られるという。しかも聞くところによると、特にヴァリニャーノ殿は他のバテレンたちと違って視察の任を終えれば故国にお帰りになるとそうなので何か記念となる物をと考えて、予が最高に気に入っているこの屏風をそなたたちに贈ろうと思うのだがどうか? お気に召したのならぜひお国へ日本の土産としてお持ちくだされ。もし気に入らなければお返し頂いてもかまわぬが」

 この絵をわざわざ見せてくれただけでも信長殿の厚意と思っていたのに、まさかそれが贈与されるなど全くの予想外のことに、誰もがしばらく言葉を失っていた。

「どうだ?」

 信長殿にせかされて、ヴァリニャーノ師が口を開いた。だが、さすがにそのような込み入ったことは日本では話せないようで、ポルトガル語で言った。

「ぜひ頂戴したいと存じます。我われがいつか故国に帰った暁には、この城や湖畔の美しい風景について故国の人びとにも語り伝えたいと思っていました。しかし、この城の雄大さと美しさはいくら言葉で表現しても伝わらないでしょう。そこでこのような一目瞭然の優れた美しい絵画があれば、言葉で説明しなくても伝わります。ですから、これを戴けるというのは光栄の極みです」

「であるか」

 フロイス師の通訳を聞いた信長殿は、満足そうにうなずいていた。

「ただ、他にも下々の者でもこの屏風が一目見たいという者も多いけれど、そういう者たちをこの天主閣まで招いて見せるというわけにもいかぬ。だから、そなたたちが出発までの間、そなたたちの南蛮寺で人びとにこの屏風を見せてやってくれないか」

「もちろん、仰せのままに」

「ではこれは、あとで届けさせる」

 と、信長殿が言うと、屏風は再び折りたたまれて紫の布が掛けられた。

 それからはヴァリニャーノ師が摂津の教会を巡回した話、私の室津の話などを信長殿の耳に入れたりして、長時間があっという間に過ぎた。私は、室津のことに関してはただその風景のことだけを語るにとどめておいた。

 最後に信長殿はヴァリニャーノ師に、

「で、いつ出発か」

 と、尋ねた。

「三日後くらいには安土を離れて、都や高槻を経て九州に戻ります」

「いや、あいや待たれよ」

 信長殿は手のひらをこちらに向けて制した。

「あと十日、十日だけ出発を遅らせてくれ。今本丸に新しく御殿ができようとしておるし、それをぜひともお目にかけたい」

 これには、我われは互いに顔を見合わせてしまった。大幅に予定が狂うことになる。だが、信長殿の言うことに逆らうわけにもいかない。フロイス師もヴァリニャーノ師に向かって小さく首を横に振ったので、ヴァリニャーノ師は、

「仰せのままに」

 と、信長殿に頭を下げていた。

 

 翌日、早速屏風は神学校セミナリヨにと届いた。

 我われは信長殿に言われた通りに、神学校セミナリヨの玄関の、外から見える所にそれを展示した。そして神学校セミナリヨの入り口に大きな紙を張り、それが展示されている旨を書いた。

 すると半日もたたないうちにぽつぽつとそれを見るのが目的の人たちが神学校セミナリヨに現れ始め、夕方にはかなり多くの人が来るようになった。

 ところがその翌日からは噂が口づてに広まったのだろう、さらに多くの人が押し掛け、暑い中を炎天下でしばらく並んでもらってからではないと神学校セミナリヨに入れないくらいになった。

 このような時も驚いたことに、日本人はきちんと列を作って整然と並ぶのである。我が故国を含め、他の国では考えられないことであった。

 もちろん多くの信徒ではない人びとを自由に神学校セミナリヨの中に入れて勝手に見学させるわけにもいかないので、玄関では我われ司祭が交代で常に屏風のそばについていなければならなくなった。もし貴重な屏風が損なわれたり、あるいは盗まれたりしたら一大事である。

 ところが、屏風のそばで座っていた我われの誰もが、実際にただ座っているだけでよかったというのも奇跡的な国であることを実感した。


 そんなことで十日は瞬く間に過ぎていった。

 そろそろ信長殿から何か言って来ると思っていた頃に、城からの使者の武士サムライがやってきた。

「いや、真に申し訳ない。この暑さのせいで普請がはかどらず、本丸御殿の完成が遅れております。あと五日ばかりお待ち頂きたいとの、上様よりのお言付けでござる」

 その武士サムライは本当に申し訳なさそうだったので、応対に出たオルガンティーノ師が彼を十分にねぎらって城に帰ってもらった。だが天候のせいでは致し方ないが、やれやれと我われはため息だった。

 屏風見物の人も、十日もたったのでさすがに少なくなっていた。

 そんな時、また城からの使者がきた。やっとこれで旅立つことができるのかと思っていたら、その使者の口上は、

「真に申し訳ない。あと五日、五日ほど待って頂きたいとのことでござる」

 ということだった。使者の前であったが、我われは落胆の色を隠し切れなかった。

「なお、お持たせしたお詫びに、キリシタンの方々はいろいろと銭が必要であろうから、おっしゃって頂けたらいくらでも援助するとのことでもござる」

 これについては使者を待たせて、別室でオルガンティーノ師とヴァリニャーノ師、およびフロイス師で話し合っていたようだが、やがて階下へ降りてきたオルガンティーノ師が不要の旨を使者に告げた。

「ただ今は、差し迫って必要ではありませんので、ご厚意だけを頂戴いたします。」

 さすがはオルガンティーノ師で、日本人の特徴あるものの言い方をこ心得ていた。だが、私は不思議だった。くれるというのだからもらっておいても邪魔にはならないだろうと思うのだが、何か三人に深い考えがあるのかもしれないと、私はあえて口を挟まなかった。

「つきましては、我われはこの安土の地に正式な南蛮寺を建てたいと思っており、そのための土地もすでに上様より頂戴しております。ただ、いろいろと諸事情ですぐには着工できませんが、どうかその折りには上様のご厚意も賜って早期に実現させたいと思っております」

 やはり、今資金援助をもらうよりも、安土に教会を建てる時のために信長殿の厚意はとっておこうという感覚なのらしい。

「それよりも、巡察師ヴィジタドールはすでに九州へ帰る旅支度もすべて終わらせて、すぐにでも出発できる状態で、あとは上様ウエサマのお許しを待っているばかりなのです。何とぞ、一日にも早く出発のお許しを頂きたいと、そう上様にお伝えください」

 さらにオルガンティーノ師はそう付け加えていた。使者の武士サムライは何か奥歯にものが挟まったように、ただ日本人特有の愛想笑いだけを浮かべていた。

 使者が帰ってから、オルガンティーノ師は、

「信長殿は、何かたくらんでますな」

 と笑って言った。ヴァリニャーノ師も笑っていた。

「まあ、信長殿が何をたくらんでいるのかは分からないけれど、でもきっと『天主デウス』様はわれわれがすぐに安土を後にしない方がいい理由があって、信長殿を使って我われに足止めさせているのかもしれない。ここは素直にみ旨に任せよう」

 それは自明なことなので、誰も異存をはさむ者などいるはずもなかった。

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