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 それからあともヴァリニャーノ師とオルガンティーノ師は二人で何回か話し合っているようだったが、そのうちフロイス師が戻ってきて、ようやく安土協議会が開かれる運びとなった。

 結局オルガンティーノ師が総布教長にという話はどうなったのか、我われには正式には知らされていなかった。

 暦はもう七月に入っていたが、まだなかなか雨が続く日々は終わりそうもなかった。

 会議は安土の神学校セミナリヨの一室で行われた。長時間にわたるので椅子とターヴォロ(テーブル)の部屋でであった。参加しているのはヴァリニャーノ師はもちろんのこと、メシア師、フロイス師、オルガンティーノ師、セスペデス師とカリオン師、フルラネッティ師、フランチェスコ師、そして私の九人の司祭と、さらに特別にロレンソ兄も参加していた。

 この会議に修道士が、しかも日本人が傍聴ではなく正式に参加するのは初めてだった。隣にはフロイス師が通訳で付いていた。フロイス師はすでに臼杵の協議会に出ているので今回は通訳でということだったが、もちろん正式な参加者であり、発言権も有するということが最初にヴァリニャーノ師によって皆に確認された。

 さっそく会議が始まったが、まずは臼杵での第一回協議会の内容の伝達であった。特にオルガンティーノ師、セスペデス師、カリオン師、フルラネッティ師の四人は初めての協議会なので、彼らに向けての話だった。これがかなりの時間を要し、これだけで第一日が終わった。


 翌日は前の日にひと通り話された内容の中から、学院コレジオのことに話が絞られた。

 前回の協議会での議題の中心は学院コレジオの建設のことで、それを受けてすでに豊後の府内では学院コレジオが開校している。

 そして数日前のヴァリニャーノ師の自室での話でも出たことだが、本来ヴァリニャーノ師の構想をここではオルガンティーノ師が提案するという形で、将来的に都に大規模な学院コレジオの建設と、イエズス会の日本における活動拠点を都に置くという議題が出された。これに異論をはさむ者は誰もいなかったので、すんなりと決まった。

 そしてヴァリニャーノ師が次に提案したのは、日本人司祭の養成であった。現在ではイエズス会に入会する日本人がいても修道士か説教士にしかなれず、司祭への道は開かれていなかった。

 いや、これまではカブラル師が故意にその道を閉ざしてきたと言えないこともなかったが、ここでは誰もそれは口にしなかった。前向きに今後どうするかということに話の焦点は絞られた。

「毎年どんどん司祭や修道士が宣教師としてマカオから到着しますけれど、まだまだ数が少なく、人手不足です。現在安土や高槻を含む都、豊後、シモを中心に多くの教会ができていますが、まだ司祭が常駐せずに巡回教会となっている所も多数あるのを私はこの目で実際に見てきました。司祭の絶対数がまだまだ不足しています。その不足する司祭をマカオやゴア、ひいてはポルトガルから呼び寄せるなどということは物理的に不可能で、そこで司祭の数を増やすには日本人の司祭が誕生しなければならないのです。そして日本人は文化的で、利発であり、霊的にも高い次元にある民族です。今後日本国内の教会はすべて日本人司祭に任せるという時代もきっと訪れるでしょう」

 この発言に、全員が拍手をした。そこで私が手を挙げた。

「私たちは皆、生まれてすぐに洗礼を受け、家族も親戚も隣近所も町中、いや、国中の人びとが全員信徒という環境の中で育ちました。ここにおられるロレンソ兄イルマン・ロレンソはちょうど私が生まれた頃、若くしてザビエル神父パードレ・ザビエルの手から洗礼を受け、イエズス会に入会してからもう何十年もたっており、幼児洗礼の私よりもむしろ入信歴は長い先輩です。そのイルマンが私の説教を聞いて、どんなに自分が入信歴が長くても大人になってから洗礼を受けて改宗した自分は、幼児洗礼の人には逆立ちしたってかなわないと言ってくれました。しかしです」

 私はここで声を大きくした。

「私はイルマンの説教を聞き、逆にそれが日本人民衆の中に入り込み、完全に彼らの心をつかんでいると実感したのです。やはり同じ日本人同士でないと、微妙なところで通じ合えないところがあるようです。そこで、私の日本人司祭はどうしても早急に要請する必要があると思いますね。我われはこの国の生活や文化、風習に溶け込もうと努力してきましたが、どうしても限界がある。しかし日本人ならそれらを持って生まれてきている。その日本の生活や文化、風習の中で育った人が同じ日本人にキリストの教えを説くというのは、これ以上の最高の適応主義はないのではないでしょうか。そういった点でも日本人司祭が必要だということを、私ごとき若輩者がおこがましいのですが補足しておきます」

 これにも、拍手喝采だった。ヴァリニャーノ師が厳かに口を開いた。

「まあ、今の状況では日本に司教様をお迎えするのは困難ですが、いずれ将来的には日本にも司教座ができ、いつのことになるかわかりませんが将来的には日本人の司教がその座に就くというのも夢ではありません。私はそういったヴィザン(ヴィジョン)を持って、ことを進めていきたいと思っています」

 これにも拍手喝采だった。やはり雰囲気が有馬や豊後での会議とは全然違う。

「適応主義といえば」

 と、プロドゥットーレ・ディ・ウモーレ  (ムード・メーカー)  のオルガンティーノ師が口を開いた。

「皆さん、食事はちゃんと日本の食事を召しあがってますね?」

 と念を押した。セスペデス師、カリオン師、フルラネッティ師の三人は苦笑しながらもうなずいていたが、どうも怪しかったので、オルガンティーノ師もにやっと笑った。

「徹底しましょう。我われ司祭はもちろん修道士や神学生に至るまで、イエズス会員は全員食事は和食、食卓も畳にお膳。いいですね、ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノ

「その通りです」

 と、ヴァリニャーノ師でさえ苦笑していた。

「まあ、服装はスータンでいいでしょう」

 そう言うオルガンティーノ師に、セスペデス師はまたにやっと笑った。

「本当はオルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノとしては不本意でしょう? あなたは時々、テラの僧侶の服を着ておられる」

 オルガンティーノ師は高らかに笑った。

「ばれたか。本当は服装もそれをお勧めしたいのだけれど、そこまで他の皆さんにも強制したらちょっと行き過ぎだと思うのでスータンでいいと言ったのですよ。私は袈裟ケサを着たい。あくまで異教徒の服装ではなく、日本人の服装としてです」

 オルガンティーノ師とその他の人びとの笑い声の中で、和やかに会議は進んでいった。


 そして三日目の会議で、臼杵でも話し合われたことが再度持ち出された。

 日本を管区にするという話が出ていて、決定は巡察師に一任されているという話だ。

「これは司教着座が時期尚早なのと同様、まだ今の段階では無理しない方がいいでしょう」

 その意見はオルガンティーノ師からだった。初めて出た反対意見だ。そこでしばらく紛糾したが、とりあえず皆の意見を聴取した上で追って巡察師が決定するという運びになった。

「これで安土における協議会を終わりたいと思いますが、その前に、現在これまで総布教長を務めてくれたカブラル神父パードレ・カブラルが総布教長を辞任したことはご存じだと思います。早急に新しい総布教長を選出しないといけないわけですが、やはり筋として現在布教区長を務めておられる三人のうちのどなたかということになると思います。まず、この都教区の布教区長のオルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノからご意見を」

 私は注目した。先日のヴァリニャーノ師からの要請に対する答えを、ここでオルガンティーノ師は発表するようだ。そこで腰を下ろしたヴァリニャーノ師と替わって、オルガンティーノ師は立ち上がった。

「この件に関しましては、今の日本におけるイエズス会の現状を鑑みて、今日本に滞在している司祭、修道士は圧倒的にポルトガル人が多いですね。それを束ねるのですから、やはり同じポルトガル人がいいでしょう。この状況は打破しない方がよろしい。ポルトガル人がまとめてくれた方が何かとうまくいくと思います。それが均衡を保つ秘訣だと存じます。よって私は今後もこの都・安土教区の布教長をやらせてください」

 つまりは、拒絶だったのである。ヴァリニャーノ師はただうなずいていた。恐らく事前に話し合いで、二人の間ではこう結論づいていたのだろう。

 総布教長はポルトガル人がいいというのも先日のオルガンティーノ師の発言から考えれば矛盾するが、それはあくまでこの場に居合わせているポルトガル人への配慮からそういううふうに言うようにとヴァリニャーノ師から指示があったのかもしれない。

「では、豊後教区の布教区長のフロイス神父パードレ・フロイス

 ヴァリニャーノ師に指名されて、フロイス師はロレンソ兄への通訳を一時中断して、立ち上がった。彼ならポルトガル人である。

「実は私は、これからお願いしようと思っていた矢先だったのですが。私は今後、この国におけるイエズス会の活動の記録やローマの総長様への報告書などそういった面に専念したいと思っているのです。申し訳ありませんが総布教長どころか、現在の豊後教区の布教区長も私は辞任したいと考えております」

 これにはヴァリニャーノ師も驚いた表情を見せた。そしてしばらくは何かを考え込んでいた。そして、少し間おいてから、ヴァリニャーノ師はまた立ちあがった。

「分かりました。ただ、豊後布教区長の件はまた後日話し合うとして、とりあえず総布教長は辞退ということで」

 そうなると、残る布教区長はシモ教区のコエリョ師だけだ。彼もポルトガル人である。しかし彼は今は有馬にいてここにはいないから、意見を聞くことはできない。従って、この問題はまた保留ということになった。

 私としてはコエリョ師が総布教長にという流れに何か不吉な予感がしていた。どうもコエリョ師にはカブラル師と同じアウラを感じるのである。あの二人はつるんでいると思えて仕方がならない。

 だが、有馬を後にして以来コエリョ師とは会っていないので、不確かな記憶を頼っての感覚ではあったが。

 

 こうして安土の協議会は終わった。

 下に向かって出発するのは梅雨が明けてからにしようということになり、それからというものヴァリニャーノ師は書類上の仕事があるようで毎日部屋に引きこもりがちになった。セスペデス師とカリオン師、フランチェスコ師、フルラネッティ師はそれぞれ都および高槻へと帰っていった。

 我われはミサと聖務日課の他はやることがないので、湖畔を散策したり、神学校セミナリヨの授業を見学したりしていた。

 そうこうしているうちに梅雨も明け、本格的な夏の暑い日差しが降り注ぐようになった。蝉も鳴きだしている。

 思えばちょうど私が日本に来てから一年がたった。それなのに、一年前が遠い昔のようにも感じられる。あっという間のようでもあったが、やはり私にとってこの一年は長かったといえた。

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