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 そうこうするうち、昼下がりには高槻に到着できた。

 今度は教会に近い北の門から城内へ入った。その門を入ったところで、ジュストはフルラネッティ師とともに我われを出迎えてくれていた。我われはそこで馬から降りた。

「いやあ、バテレン様方。お待ちしていました。約束を違えずにおいで頂いたこと、光栄です」

 前にもまして、にこにこと笑っている。こちらも一応愛想で笑みを浮かべてはいたが、あのようなことがあったばかりだからヴァリニャーノ師も心底笑ってはいないように私には感じられた。

 教会の前にはすでに聖体行列プロツェッシオーネの準備ができていた。教会の外壁もさまざまな文様やキリストのお姿が描かれたアラッツォがかけられ、入り口前にはすでに四本の棒で支えられる天蓋が置かれていた。天蓋の布は金色を基調にさまざまな色の糸で織りなされ、刺繍が施された美しい錦の彩だった。

 教会の前の道にもきらびやかなじゅうたんが長く敷かれていた。

 我われはそのまま司祭館の方でもてなしの用意ができていて、ジュストも同席するとのことだった。

 一度荷物を下ろし、ほんの少しくつろいでから、我われは食堂へと向かった。上席にヴァリニャーノ師とジュストが並んで座り、フルラネッティ師も同じ席にいた。まずは葡萄酒ヴィーノで乾杯だった。

 最初は我われが安土で見聞きしたこと、安土城の異様に驚いたことや、信長殿との会見のことなので話は弾んでいた。

 そしてその話も一段落した頃、ヴァリニャーノ師は遠慮がちに今日の出来事をポルトガル語でジュストに告げた。ジュストの顔色はみるみる変わった。そして一度立ち上がってヴァリニャーノ師の前に出て、ヴァリニャーノ師の方に向かって座り直したジュストは、床に頭をつけた。

「真に、真に申し訳ない。我が家中だったものがバテレン様方に対してとんだ御無礼を。どうか、どうかお許しください」

 この城の城主でもあり、この地域の領主でもある殿が我われの前で平身低頭しているのだから、我われの方もかえって恐縮してしまった。

「まあ、頭を上げてください。どうぞ、元の席へ」

 ヴァリニャーノ師に促されてかろうじてジュストはその通りにしたが、もうさっきの笑みは消えていた。

「私たちはそんな謝罪ではなく、少し話を聞きたいと思っているだけなのですよ」

 ヴァリニャーノ師の方が、かえってわざと笑みを浮かべていた。

オルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノが安土の祭り見物を口実に、若者たちを安土に連れて行ったというのは本当ですか?」

 ジュストはしばらく無言のままうつむいていたが、やがて顔を上げた。

「申し訳ございません。実はその口実を考えたのは私でして、オルガンティーノ様は安土に着いてから初めて、若者たちがそのように言われて安土に来たのだということを知ったのです。私はそのことでオルガンティーノ様から後で少し咎められましたが、若者たちは全員そのまま神学校セミナルヨ入学を快諾したので、まあ結果としてはいい結果になったと私のしたことは不問に付してくださいました」

「親御さんへの説得は」

「はい。私がしました。親たちの気持ちも分からないでもなかったのです。なぜなら私自身、将来の高山家を負って立つであろう若者たちが、異教徒の言い方で言えば出家したようなものですから、ほんの少し残念な気もしたというのが正直なところです。しかしすべて『天主デウス様』のみ意のまにまに、ましてやこの高山家の家中から将来日本人のバテレンが出たりしたらこれはもう高山家の誉れ、高槻の誉れと、その喜びをそのまま親たちに伝え、親たちも分かってくれたはずだったのです。しかし、甘かったのですね。結果として例の連れ戻し事件が起こってしまいました」

「それであなたは、その親御さんを追放したのですね」

「はい」

 という返事までには、少し間があいた。

「その親が憎くてとか怒りにまかせてとかいうことではありません。キリシタンの教えがまだまだ入ったばかりの我が国にとって、今はその土台のいしずえを築く時、お国のような民すべてがキリシタンであるという国と違って、これからキリシタンを根付かせようという日本では少しの妥協も禁物なのです。ここでその親を許し、ましてや子の連れ戻しを容認したとなってはそれが前例となってしまいます。前例はどうしても作りたくなかったのです」

 そこまでヴァリニャーノ師は黙って聞いていた。そしてジュストはさらに同じこともう一度、総て自らポルトガル語で繰り返した。やがてヴァリニャーノ師は、その顔に笑みを取り戻した。

「状況はよく分かりました。やはりいろいろと難しい問題があるのですね」

 この席でのこの話は、ヴァリニャーノ師のそのひと言で一応終わった。いくら一城の城主でこの地の領主とはいえども、ジュストはやはりまだ若いというのが率直な感想だった。

 だがそうはいっても、まだ私の心の中にはもやもやとしたものが残っていた。あの我われを襲った夫婦の敵愾心に燃えた目は忘れられない。

 この国に来て臼杵の殿のドン・フランシスコの元妻のジェザベル、田原シモンの実の父の柳原大納言に続き、私に憎悪に満ちた苦情を訴えてきた人はこれで三人目だ。その一人ひとりの言葉は、今でも私の脳裏に焼き付いている。

 親子の情、家族の情というのは、どこの国に行っても変わらない。その情でキリスト教団に敵愾心を燃やすからといって、それをすべて悪魔の仕業だで片付けてしまうのも乱暴なような気がする。やはり、まだまだ異教徒の国であるこの日本にキリストの教えを根付かせるのほど遠いと感じた。

 

 翌日の木曜日が、聖体の祝日コルプス・クリスティだ。早速この城内の教会でそのためのミサが執り行われ、この日ももう入りきれないほどの人びとが教会を訪れた。

 まずは朝のミサが執り行われ、そのミサの中の説教で司式のヴァリニャーノ師からキリストの御血と御体である御聖体についての話があった。

「イエズス様がミサのたびに行っている御聖体を制定されたのは、十字架にかかる前の晩の最後の晩餐の時です。実はその時の言葉はミサのたびに再現されるのですが、ミサ自体はすべてラテン語ですし、このただのパンとぶどう酒がイエズス様の御体と御血に変わる儀式は声を出さずに頭の中で唱えますので、背後の皆さんから見ればただ黙っているうち突然白いパンを高く掲げているように見えるでしょう。今日は特別に、その時どういうふうに頭の中で唱えているのか教えましょう」

 その話を、いつものフロイス師に代わって私がそれを会衆には日本語に通訳して伝えた。話はまだ続く。

「イエズス様は敵に渡される前の晩の食卓でパンをとり、弟子に与えて仰せになりました。『みんな、これをとって食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である』と。そして次にぶどう酒の入ったさかずきを掲げて『みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなた方と多くの人のために流されて罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である』と。そしてその後にこう言われたと、福音書エヴァンジェリウムにも書いてあります。『これを私の記念として行いなさい』。そのみ言葉の通り、我われはミサの中でその食卓を再現します。ここでいう『記念』とは単に昔起こった出来事を思い出すためということではなく、それは今この現在も行われている、そして未来永劫に行われるということを実感し、認識することに他なりません。そして一年に一度、それを再確認する祭日が今日の聖体の祝日コルプス・クリスティです。そしていのちのパンと救いの杯を受け、イエズス様の死を告げ知らせ、復活を讃えます。イエズス様が五つのパンと二匹の魚で五千人の人を満足させたように、多くの人の救いの糧となります。それは、イエズス様が再び来られるまで続きます。御聖体は一致の秘跡です。今日ここで御聖体を戴くことによって、我われは皆一人ひとりがイエズス様とひとつにつながり、キリストから『天主デウス』のいのちを受けるのです。それによって我われはキリスト者として生きることができます。そして一致するのです。我われは一致しなければなりません。分化対立ではなく、一致するのです。それをこの聖体の祝日コルプス・クリスティにあらためて考えましょう」

 引き続き、本来なら復活祭で行われるのが常だが、この年はこの日まで引き延ばされていた入門・改宗式が行われ、この日洗礼を受けた人の数は幼児洗礼を含めて千五百人に達した。洗礼式だけで相当な時間を費やし、いよいよ昼近くになってから聖体行列プロツェッシオーネが始まった。

 まず先頭は大きな十字架である。それに続いて信徒クリスティアーニの少年たちが白い侍者服で十名ほどが高らかに聖歌を歌いながら行進し、その次にいよいよ金の刺繍の天蓋の下、聖体顕示台オステンソリウムを胸にしたヴァリニャーノ師だ。

 聖体顕示台オステンソリウムとは円いガラスの容器に聖変化後のホスチア、すなわち御聖体を入れる。丸ガラスの周辺は太陽の光条を思わせる装飾がついており、さらにそれを下から支える台があって、その台の部分をヴァリニャーノ師は持って、沿道の人びとによく見えるように少し掲げながら歩く。

 その後ろを全員が祭服を着た我われ司祭団や修道士、そして一般信徒がそれに続く。聖体顕示台オステンソリウムを持つヴァリニャーノ師の上を覆う天蓋の四本の棒を支えているのは、その地方の領主という慣例に従ってジュストが前の一本を持ち、あとの三本もジュストの重臣であって信徒である武士サムライ肩衣カタギヌハカマという日本での正装姿で支えていた。ただ、ジュストを始め皆、首には襞襟ゴルジェーラを着けていた。

 復活祭の時の行進も空前絶後の大規模な人数だったが、今回もそれにはまさるとも劣らない規模であった。行列は花が敷き詰められた道をゆっくりと進む。行列自体もかなり長く、またその沿道で見物する人の数はおびただしものがあった。

 その聖歌は、いつまでも高槻の空にこだまし、行列は高槻城下の町を三時間ほどかけて行進した。

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