Episodio 8 羽柴筑前とその軍師官兵衛(Himeji)

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 その四日後、すなわち次の月曜日にヴァリニャーノ師は、ジュストの要請でジュストの領内に二十か所以上もある教会をすべて巡回するため、メシア師、トスカネロ兄と共に三人で出発することになった。

 そこで私とロレンソ兄もヴァリニャーノ師から命じられていた通り、ヴァリニャーノ師と同時に播磨ハリマに向かって出発することにした。

 ヴァリニャーノ師はとりあえず東に向かうということであったが、我われは都から川沿いに南下してきた道から離れてここからはほぼ真西に向かうので、行き先が近場のヴァリニャーノ師よりも早く、早朝にヴァリニャーノ師たちに見送られながらロレンソ兄とその介添えの同宿との三人で高槻を後にした。

 それは私にとって緊張の始まりの瞬間だった。同じイエズス会の聖職者とはいえ、やはりロレンソ兄は異邦人の日本人なのである。

 これまではどんなに異国であるとはいえ、ゴアでもマカオでも、そして日本に来てからも身近にはイエズス会の司祭たちが常にともにいた。ところがこの時から私は故国を離れて以来全く初めて、周りにエウローパの人が一人もいないという日本人の真っ只中にたった一人放り出されたのである。

 それはまるで四方に陸地が全く見えない大海の中を、たった一人の小舟で航行するようなものだった。緊張するなという方が無理だ。

 だが、ロレンソ兄がいるお蔭で、異教徒の中に全く一人というわけではないことだけが心強かった。普段は無口なロレンソ兄だったが、我われだけになると驚くほど馬上からもよくしゃべりかけてきた。

 日本語しかしゃべれないというのはちょっと不便ではあったが、それでも心配していたように気まずく無言のまま旅をするというような感じではなかったことにはほっとした。

 高槻を出てからしばらくは、ずっと平坦な道だった。それほど高くはない丘陵地帯が遠くに続いていて、我われを追って来る。もう五月も末なので気候もだいぶ暖かくなってすでに初夏であった。昼になると馬の上で汗ばむことすらあった。

 ロレンソ兄との話は、主に私がこの国に来てから体験したことが中心で、それをつらつらと私は語った。かなり日本語に精通してきたとはいえずっと日本語で話し続けるのはやはりまだ私には大変だったが、それでもやればなんとかなるものだ。ロレンソ兄との話は弾んだ。

 そしていいことばかりではなかった話も当然した。有馬や豊後での話で、豊後の殿のドン・フランシスコとのことやその家族のことで、特にドン・フランシスコの元の妻のジェザベル《(イゼベル)》と直接会話したことや、都での柳原大納言のことなど、自分にとって痛手でありトラウマとなりそうなことも全部話した。

「やはり相手を見て、相手に合わせて法を説くことだと思いまする」

 と、ロレンソ兄は言った。

「下々に対しては、彼らがこれまでとっぷりと浸かってきた仏法の教えから創造主に目を向けさせるため、キリストの教えはこれまでの教えとはちと違う、違うだけ真理なのだということを伝えていかなければならないでしょう。しかし大名となると話は別で、真っ向から仏法を否定したら彼らはついてこられない。禅であれ法華であれ真言宗、一向宗であれそれぞれのお家ごとのしがらみがありますからな。それよりも仏法の教えと我われの教えが何ら矛盾することがないことを示した方がよい時もあるのです。結局は元一つなのだと理解させた上で、キリストの教えを説き、全能の『天主デウス』のみ業を伝え、よき知らせを告げ知らせていく。そしてキリストによって救われ、罪の許しを得ることへとだんだんともっていくのですよ。だからそのためには仏法を頭ごなしに否定するのではなく、その前に我われがしっかりと仏典を学び、仏法にも通じておくべきことだと思いますがね」

「そのことはオルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノからも、再三聞いております」

 確かにそのことの必要性は、十分すぎるほど実感していた。


 そのようなことを話しながら我われは、夕刻になってたどり行いた街道沿いの村の中の、あの有馬から豊後に行く途中で泊まったような宿屋を見つけてそこに泊まることにした。もう寒くはないのだから野宿でもいいのだが、人間にとって寒くないというのは野獣たちにとっても同じことで、この時期はいちばんそのような野生の猛獣が夜になると出没して危険なのだという。

 ロレンソ兄は、これから私が福音を告げ知らせようとしている国の民である。年は私よりもはるかに上だが、地位的には司祭である私の方が上位にある。それでも、私はこの年老いて盲目で日本人の修道士からも、まだまだ学ぶべきことは多くあると実感していた。


 翌日は道の様子は、昨日とはうって変わって山道となった。山道といってもそんなに険しい山の中に入るわけではなく、遠くに見えていた低い丘陵の山間部を縫うように道は続くようになっただけである。

「だいぶ山がちになったでしょう」

 景色は全く見えないはずのロレンソ兄が、馬の上からそういうので驚いた。肉の目は見えなくても、心の目、霊的な目はしっかりと開いているのだ。

「左側にそびえている少し高い山の向こうは兵庫の港です」

 そこまで分かるのかと、まさしく開いた口がふさがらなかった。瀬戸内の海を船で堺に向かっていた時に、最後に寄ろうとした港が兵庫の港だった。そこで海賊船に追跡され、さんざんな目に遭ったのだ。たしかに兵庫の港の背後には山が横たわっていた。その山の裏側に今、自分たちはいるようだった。

 山間の道を抜けて平野部にちょうど出たあたりで、日が暮れた。そのあたりの町で、泊まることにした。町の真ん中を大きな川が流れ、その川の畔の小高い丘の上にシロがあった。城といっても堀や石垣、白い塀などはなく、ただ盛られた土地の上を柵で囲まれているだけで、天守閣のような建物も見当たらなかった。

 ここは都から有馬アリマという土地への街道の通り道だという。あの九州で私が数カ月暮らした有馬と同じ地名ではあるがこちらは温泉オンセン(スタツィオーネ・テルマーレ)で有名ということで、都からその温泉に行く人がよく泊まるという料理屋兼宿屋に我われも泊まった。

 その宿屋の主人の話だと、つい一年と数か月前までここで戦争が行われていたために温泉に行く人々の足はすっかり途絶えていたが、戦争も終わってようやく最近客足も戻ってきたという。

 戦争とはここの城と織田方との戦争で、織田方によるここの城への攻撃は武力によるものではなかったらしい。織田方は城の脇の川の水が堰き止めて城の周りを水浸しにし、城をまるで湖上に浮かぶ島のような状態にして孤立させたのだという。

 そうなると城に食料を運びこむのが不可能になり、城中に立て籠もった武士サムライたちや町の人びとの食料が尽きて、それは凄惨な様子だったということだ。その状態が二年近く続いたというのだから、どれだけの地獄図だったことか。

 最後はその当時の城の殿が自ら命を絶って城は明け渡され、戦争は終わったということだ。

 そしてその時、この作戦でこの城を攻めていた織田家の武将が、なんと我われがこれから会うことになっている羽柴筑前殿だったそうだ。筑前殿とはどんな人物か全く予想もできなかったが、ここでの話を聞くと冷酷非道な鬼のような男なのではないかと身震いをするような気分になった。

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