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 翌朝の週日のミサを終えてから、高槻への出発前に私は教会の二階のベランダに出てみた。

 都の南以外の三方を囲む山のうち、北東にぽつんと高くなっている山、それが安土で何かと話題に出ていた比叡山だ。信長殿があの山にある寺と戦争をした時は、あの山の上から煙が上がっているのをフロイス師は目撃したと言っていた。前にここにいた時にはそのようなことは知らなかったからただの高い山だなあくらいにしか思っていなかったが、今あらためて見るとなるほどあそこがそうなのかと思う。

 しかし、こうしてみる限りやはり緑に覆われたただの山であった。そして私は目を西に移した。西山の向こう、ほぼ西の方角に播磨はあるという。はたしてどのような土地なのだろうと空想を巡らせてもみた。


 そしてその後、再びセスペデス師に見送られて我われはすぐに都の教会を後にした。

 前にこの道を逆方向に歩いた時は春爛漫で、サクラの花が咲き初めていた頃だったのを思い出した。

 すでに五月下旬の今はもう初夏といえる陽気で、下手をすれば汗ばむことすらあった。

 もうここは信長殿が整備した街道ではないが、道は大きな川沿いを南下していた。左右に山並みが追って来るが、道自体は平らな田園の中を延びていた。

 ところどころに農民の家や、作業のための小屋がある。水田はまだ苗が植えられていない状態で、一面に水を張った池のようになっていた。

 そんな小さな作業小屋の前を我われが通過しようとしたときである。

 目の前をひゅっと何か飛来物が横切った。小さなそれはすごい速さで近くの田んぼの水面に音をたてて落ちた。一瞬何ごとが起こったかわからなかったが、続けざまに何かが飛んでくる。

 やがてすぐにそれは石だと分かった。我われは馬を止めた。近くの農家の作業小屋から、その石つぶては我われめがけて飛んできていた。

 石を投げているのはそう大人数ではないらしく、なんとかよけ切れていた。しかし、そのうちの一つがメシア師の額に当たり、メシア師はわずかだが血を流し始めた。

「やめなさい! 危ないでしょう!」

 私は小屋の方へ、日本語で大声で叫んだ。

「なぜこういうことをしますか!」

 そして小屋の方へ向かって馬を進めると、石が飛んでくるのはやみ、その小屋から転げるように飛び出した中年の男女が、みすぼらしい身なりのまま田んぼの間の道をかけて逃げて行った。私が馬で追うと時々振り返ってはそのへんの石を拾って私に投げて、

「出て行け。バテレンどもは、この国から出て行け!」

 と、狂乱して泣き叫び、そしてまた逃げていく。

 彼らははっきりと我われを司祭と認めた上で、投石という行為に出ていたのであった。つまり、司祭として我われは狙われたのだ。実際に彼らが投げていたのは石という当たっても痛いだけでけがをするくらいで済むものではあったが、私の心に受けた傷は大きかった。この国に来てはじめて、言葉だけではなくこのような攻撃という形での悪意に遭遇したのだ。

 もちろん、山賊に襲われたことはあった。だがそれは金品目当てで、司祭としての我われへの憎悪からではなかった。

 私は馬を彼らより先回りさせ、彼らの逃げ道をふさいだ。すでにヴァリニャーノ師たちも馬を進めてきており、彼ら男女は挟まれる形になった。そこで二人はへなへなと土の上に座り込み、大声で泣きながらも、すごい形相で我われをにらんだ。

 彼らを日本語で問い詰められるのは私だけだから、馬に乗ったまま私は彼らを見下ろす形で、

「わけを、聞かせてください」

 と聞いた。彼らはしばらくうなり続けていただけで、そのまま我われを睨み続けていた。

 そこで私は、馬から降りて、彼らの前にしゃがんだ。

 ようやく、その妻の方が重い口を開けた。

「息子を、返せぇぇ! 父祖の代からの高山家家臣の地位を返せぇぇぇぇ!」

 そうなると、今は農民の服装だが、かつては武士サムライだったことになる。そして仕えていたのが高山家ということのが、どうしても耳に止まった。高山家といえば、高槻の領主のジュストのことではないのか。そこで私は少し笑みを見せて、ゆっくりと言った。

「私は日本語が分かります。事情をお話ししてはくださいませんか」

 すると夫の方が横眼で我われをキッと睨んで、その妻に言った。

「バテレンどもなどと口きくな! 口が腐るで」

「いや、言うてやらんと、気が収まらんわ」

 妻はそう言ってから、また私を睨んだ。

「あんたらは人さらいやな」

「はい?」

「ひとの息子を騙して安土に連れて行きよってからに」

「安土に?」

「あの、顔の長いウルガンとかいうバテレンよ」

 オルガンティーノ師のことだ。息子を安土にということでふと思ったのが、神学校セミナルヨのことだった。

「息子さんは神学生なのですか?」

「知らんわい。殿様が勧めるから我われも洗礼を受けてキリシタンにはなったが、去年、バテレンのウルガンが安土から来て、若者を八人ほど集めたかと思うと、安土の祭りの見物に行こうと誘って連れて行ってそれっきりじゃ」

 去年のこととなると、オルガンティーノ師が言っていた神学校セミナルヨの最初の八人の学生のうちの一人が、この目の前に座り込んでいる中年夫婦の息子ということになる。今は数も増えているが、最初の八人は全員がオルガンティーノ師から紹介されたから、私は息子に会っているはずだ。

 でも、全員の名前を覚えていないので、名前を聞いたところで誰だかわからないだろう。

「あなた方も、キリシタンなのですね?」

「ああ、前はな。もうきっぱり辞めてやったわい」

 洗礼を受けたという事実は一生消えないので霊的には基本的に信徒クリスティアーノを辞めるということはできないのだが、現実問題としては信徒クリスティアーノとしては潜在化し、やがては異教徒と変わりない生活に戻る棄教ということも実際には起こっている。実質上の棄教である。特に、この国ではそれが多い。

「全部あんたらが来たせいや。あんたらが来て全部壊した。我らは今の殿様の父君の図書ズショ様がサワのお城にいてはった時からに仕えておったが、あんたらバテレンのせいで図書ズショ様も今の殿様もキリシタンになってしまい、我われ家臣団もキリシタンにと半ば強制やで」

「あなた方は強制されて、キリシタンになったのですか?」

「一応は自由な意思に任せるということやったけんど、殿様の言わはることには逆らえんやろが。あんたらさえ来なければ、図書様も殿様もキリシタンなどにはならず、わてらの家は殿様とは遠い親せきやしな、息子もずっと殿さまに仕えて立派な大将、行く行くは一国一城にあるじなったかもしれん。そのすべてをぶち壊したんが、あんたらバテレンや!」

 私は目を伏せた。一度はキリストと出会い『天主ディオ』の道を歩んだ人がこの状況であることが、私にはとてつもなく悲しかった。だから涙を浮かべながらヴァリニャーノ師にことのあらましを告げた。

「息子とは、そのあと会いましたか?」

 と、ヴァリニャーノ師は自身で日本語で聞いた。あの八人のうちの誰がそうであったとしても、皆神学校セミナルヨでは第一期生として他の学生たちの模範になるくらい立派に学んでいる。

「ああ、安土まで会いに行ったさ。その前に騙して連れて行かれた子の親たちは殿様に集められて殿様から説明を受けたけれど、殿様はただただ喜んでいてはって話にならん。それで安土まで行ったら、我が息子が坊主にさせられて変わり果てた姿で、牢獄のようなところに押し込まれて暮らしておった。わしらは息子を説得して高槻まで連れ帰ったんじゃ。そうしたら殿様が怒って、先代からの家臣で殿とは縁戚でもある我われの身分を取り上げた上で追放された。こないなあほな話、どこにあるかいな」

 私がヴァリニャーノ師を見ると、師は早口のイタリア語で、

「高槻に連れて行こう」

 と言った。私は夫婦の方を見た。

「いっしょに高槻に行きましょう。殿様には私たちから話をしてあげます。そうすれば大丈夫です」

「無駄や! 殿様は我われに会うてもくれん」

 と、夫の方が言った。

「しかし、うまくいけば」

 そこでしばらく押し問答が続いたので、ヴァリニャーノ師は静かに首を横に振った。

「気の毒だが、我われは先を急ぎましょう」

 そこで私は夫婦の頭上で十字を切り、

「父と子と聖霊の祝福があなた方の上にありますように、アーメン」

 とラテン語で唱えた。するとまた妻の方が目をむいた。

「今、呪いをかけたな! 我われが何もできないようにと呪いをかけたな!」

 それはもうほとんど悪魔の形相だった。だからこれ以上かかわらない方がいいと我われは急いで馬に乗り、その場を後にした。背後からはいつまでもすすり泣きの声が聞こえていた。


 それからというもの、誰もが馬上で無口だった。後味の悪い、それでいて悲しい出来事だった。

 しばらくしてから、ぽつんとロレンソ兄が、

「高槻の殿の父君の図書様、すなわちダリオ殿がキリシタンになったきっかけはバテレン様ではなく私だったのですがね」

 と、言った。だが、その言葉を詳しく聞きたいという気には、このときはなれなかった。それよりも、我われはこの日のうちにジュストと会うことになる。

「やはりジュストには、この件は言うべきでしょうね」

 馬を進めながら私は、ヴァリニャーノ師に尋ねた。メシア師の手前、ポルトガル語だ。

「あくまで高山の家の問題でもあるから、あまりに首を突っ込みすぎると内政への干渉になる。それは私が戒めてきたところだけれどね、でも…」

 ヴァリニャーノ師は言葉を濁した。なぜ濁したのか、私にもすぐ分かった。だが私よりも先に、メシア師が口をはさんだ。

オルガンティーノ神父パードレ・オルガンティーノのことは、どうも腑に落ちませんな」

 それは皆、同感だった。あの底抜けに陽気なオルガンティーノ師が、いくら神学校セミナルヨの学生を集めたかったからとはいえ、あのような騙し討ちみたいなことをするだろうか。

「やはり、ジュストにも聞いてみないわけにはいくまい」

 と、ヴァリニャーノ師は言った。

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