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 信長殿とはこの国の皇帝というわけではなく、あくまで前大臣ミニストロであるという。それなのに権力は皇帝に相当するミカド以上である。しかし家柄からいえばその部下に当たる大納言マッジョーレ・カウンセーロアの方が格式は上なのだという。そんなエウローパではおよそあり得ない不思議な存在なのである。

 我われエウローパ人の感覚と常識では、とうてい理解の範囲を超えている。

 だから、その立場をどう表現したらいいのか分からない。ポルトガル語には適切な言葉がないし、もちろんイタリア語でも言い表せない。そんなことを口にしたら、オルガンティーノ師が、

「信長殿はいわば天下人テンカビトという日本語でしか表せられないでしょうね」

 と言った。たしかに、日本独特の不思議な存在を表すには、その日本語で言うしかない。「天下テンカ」とはこの人間世界。そのすべてを支配しているのが「天下人」だ。

 我われはその本丸の御殿と天主の間を通る形で、天主閣の入り口にたどり着いた。その時、

神父様方パードレス!」

 と、聞きなれた声が天主閣の入り口の方からした。そして次の瞬間には、なんだか黒い塊が出て来て我われの方へ歩み寄ってくる。

「ヤスフェ」

 たしかにその黒い顔と体格はヤスフェだった。我われは立ち止まった。ヤスフェはすっかりこの国の武士サムライの恰好であった。しっかりと二本のスパーダであるカタナも差している。

「おなつかしうございます」

 実は別れてから半月ほどしかたっていないのだが、確かにヤスフェの言う通り我われとても懐かしかった。

「どうだね。元気にしているかね?」

 と、ヴァリニャーノ師が声をかけた。

「はい。お蔭様で。皆さんも、ようこそおいでくださいました」

「今は、どうしているのかね?」

「上様の身の回りの世話などをしております。私はここで正式に武士サムライとなりました」

 案内の武士サムライと共に、ヤスフェは我われを天主の入り口にまで誘導してくれた。歩きながらも、

「夢のようです」

 と、ヤスフェは言った。

「もともとモサンビーキの漁師だった私がある日突然奴隷として狩りだされ、人間としての扱いは受けていませんでした。その存在はむしろ家畜以下でした。そんな時にヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノが私を拾ってくれてやっと人間らしい生活ができるようにしてくれて、この国にまでつれてきてくれました。そして今度は武士サムライにまでなれて、ここはまるで天国パライゾです。私のようなとるに足らないつまらない人間にも、『天主デウス様』はお恵みを下さいました」

「イエズス様は、ほんの安価で売っているような雀でさえ、『天主デウス』のお許しがなければ地に落ちることはできないと仰せになっている。こんなに小さな命にも、天の御父はお心にかけてくださるんだ。ましてやあなたは人間だ。『天主デウス』の御前では人に何の区別もない。すべての人が『天主デウス』の大愛に抱かれた神の子、みんな平等だからね」

 ヴァリニャーノ師はそう言うと、にっこりと笑った。だが、ヤスフェの目には涙がにじみ出ているようだった。そして我われは再び、今度はヤスフェも一緒に天主閣の方へと歩き出した。

「時に」

 少しして、オルガンティーノ師が歩きながら話に入った。

「あなたは日曜日に神学校セミナリオに来ることは可能ですか?」

 ヤスフェは、少し驚いたような顔をした。

「は、はい。上様がお許しくださいましたら」

「その点は私の方からお願いしてみよう。お城の家来たちケライス信徒クリスタンであって、日曜日に神学校セミナリヨに来ている人もいます」

「そうですか」

 ヤスフェの顔はぱっと輝いた。

「しかし、いつが日曜日だか。この国には曜日がないから、いつ日曜日かわからなくなります。今日は何曜日ですか?」

「今日は土曜日ですよ。日曜日は明日です」

「ああ、そうなんですか? 私の故郷のモサンピーキも曜日はありませんでしたけれど、ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノと出会ってからはすっかり私も曜日で生活していました。でも、ここにきてまた曜日とは無縁になりましたよ」

「ですから、お城の中の信徒クリスタンの人たちとよく連絡を取っていれば、教えてくれますよ。あとは自分で何かに印をつけておくのですな」

「でも、信徒クリスタンではない私が神学校セミナリヨに通ってもいいのですか?」

「だから」

 にっこりほほ笑んで、オルガンティーノ師は一度言葉を切った。

信徒クリスタンになるために、ですよ」

 そいってから高らかに笑い、オルガンティーノ師はヤスフェの肩をぽんと叩いた。

 ヤスフェは急に立ち止まり、今度は声を上げて泣き出した。そして地に跪き、手を組んで感謝と感動の祈りを捧げていた。

 

 ヤスフェがようやく泣きやんでから、我われは天主閣の中へ入った。

 中はひんやりとしていた。まだここは石垣の部分のようで窓はなく薄暗かったが、あちこちに照明の蝋燭がともされていた。

 そして小さな部屋の脇の廊下を進むと、我われの誰もが驚嘆の声を上げた。建物のちょうど中央は四階上あたりまでが巨大な空間の吹き抜けになっていたのだ。見上げると、それぞれの階の様子が手すり越しによく見える。吹き抜け部分の天井は恐ろしく高い。

 そしてもう一つ、あることに気づいて私を含めて皆が驚いたことがあった。これだけの巨大な建物だ。もちろんエウローパにもここれくらいの巨大な建造物は珍しくない。だが決定的に違うのは、この城はこれだけ巨大であって、なんとすべて木材でできていることだった。木でないのは石垣と瓦屋根だけだ。外から見ていた時は各界の外壁は下が黒で上は白いから、てっきり石造りか土を固め、表面の白い部分は石膏で固めているのだと思っていた。しかし、実際はすべて木造だった。

 木材だけでこれほどの巨大な建造物を造ってしまう日本人の技術と文化は、もう脱帽以外の何ものでもなかった。

 案内の武士は、我われを上の階へと導いた。

「上様はこの天主閣に住んでいます」

 ヤスフェがそう説明してくれた。だがそれを聞いても、だから何なのだろうと私は思っていた。ところがヤスフェのさらなる解説では、普通の城主は本丸ホンマルといわれる場所の御殿に住んでいる。ところが信長殿は本丸の屋敷ではなく、この天主閣の上の方の階に住んでいるとのことだった。


 やはり、この城の内部もことごとく清潔だった。階段はなぜか狭くて急で、ロレンソ兄にとってはひと苦労のようだ。一つの階段から上の階への次の階段までその階を少し見ることができるが、どの階も壁は見事な彩色の施された絵で飾られていた。外側から見ていた時は五階建てと思ったのだが、実際に中へ入ってみると地階スキャンティナートから六階セスト・ピアーノまでの七階建てだった。

 我われは最上階まで一気に招かれた。外から見ていたのと同様、一つ下の階は八角形で白壁に赤い柱であったが最上階はすべてが黄金で、まばゆいばかりだった。しかも、外周にはベランダ、すなわち外廻縁ソトマワリエンがあってそこへの出入り口が大きく開かれているので、外からの光で余計にまぶしかった。

 その部屋の中央に一段高く畳が敷かれ、そこが信長殿の座るところのようだ。ここも壁の内側には色とりどりの風景画や人物画が描かれ、そこに描かれているのはこの国というよりもチーナの景色や人物のようだった。天井までが赤や金などで幾何学的な文様が一面に施されている。

「上様がおいでになるまで、どうぞ外に出られて景色を堪能なされよ」

 案内の武士たちはそう言って、一礼して階下に降りていった。外側は壁も手すりも屋根の軒下もすべて黄金で、触ってみたい衝動にも駆られたがさすがに憚られた。だがよく見ると金属としての黄金で造られているわけではなく、あくまで木材で造られた上に金を紙のように薄く延ばした金箔ドラートをはりつけているようだ。

 また、眺めは絶景だった。東はこの山に隣接する別の山が同じくらいの高さで横たわり、そのほかの方角は足元の城下の町の周りにずっと平らな水田地帯が広がって遠くの山並みまで続いている。そして西から北にかけての視界の大部分が例の巨大な湖で、その対岸に長く横たわる山並みまでもが壮大なパノラミカ(パノラマ)だ。岬となっているこの山の、湖に突き出た先端部分も見下ろせた。湖の方からは絶えず強い風が吹き付けていて、景色はすばらしいがその風には負け、我われはしばらくしたら中に入って、信長殿の座の前に座って待つことにした。


 そこで私はフロイス師に、気になっていたことを聞くことにした。

「先ほど、あの寺を歩いている時に信長殿が比叡山という寺を破壊した話をされていましたね。前に都の教会でもその話を聞いたような気がしますが、どういうことなのでしょうか」

 フロイス師は座ったまま、体ごと私の方を向いた。

「ちょうど十年前でしたね。私が都の教会にいたときですけれど、比叡山という山全体が寺という巨大な寺院と信長殿は戦争になって、信長殿はその寺院を破壊した。ほら、都の教会から見ると、北東の方にちょっと高い山があったでしょ、あれですよ」

「ああ」

 たしかに、都のどこからでも見える高い山だった。ここに来る時に峠道を越えると、湖の上からはその山の反対側が見えたのを思い出した。あの山全体が寺だとすると、実に巨大な寺である。

「ただ単に寺というだけでなく、仏教徒にとっては一種の大学のような機能を果たしていましたね。しかし、最近は武装してほかのシロ殿トノと同じくらいの兵力で信長殿と敵対していたのですよ。あのときは、まだ早朝でしたけれどあの山の中腹から煙が上がっているのを、私もこの目で見ましたよ」

 私への話だったが、この部屋にいる者全員に聞こえていたので、ヴァリニャーノ師も耳を傾けていた。

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