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 こうして今の教会のすぐそばの川岸近くに、修練院ノビツィアードの建築が始まった。木材もドン・フランシスコが提供してくれたし、大工はわざわざ都から呼び寄せてくれるという。

 そうなると実際の建築はその後ということになるから、まだ十日ほどありそうだった。

 その十日の間はちょうど雨が降り続き、しかもバケツで水をひっくり返したのではないかと思われるような大雨の日もあれば、さらに風も増して暴風雨の日もあった。

 聞くと日本では、だいたい九月から十月にかけて時折暴風雨の日があるのは年中行事だそうだ。だが、そんな大嵐の翌日は、あたかもノアの大洪水の後に『天主ディオ』は大いなる契約の虹を示されたがごとく、虹こそ出てはいないが必ず雲ひとつないような穏やかな晴天となる。たしかに今回の嵐では、あとから伝え聞いた話によるとここからずっと東の越中エッチューという所では大金貨船が氾濫し、富山トヤマという町のほとんどが洪水に流されてしまったとのことであった。

 そしてようやく雨が続くような日々が終わった頃に、修練院ノビツィアートの実際の建築が始まっていった。

 その時期に、ヴァリニャーノ師はとにかく日本語を完全マステリッザート (マスター) するよう私に命じた。ミサはラテン語で挙げればいいにしても、説教をしたり告解を聞くことは日本語が分からないとできないからだ。だからこそ私自身も、日本語がもっともっと上達しなければならないと実感していた矢先だった。

 そこで、修練院ノビツィアートの建設と競争する形で、私の日本語の特訓が始まった。講師は日本人の説教師で、養方軒ヨーホーケンパウロという七十二歳の老人だった。普段は府内にいるのだが、我われの日本語特訓と、さらにはヴァリニャーノ師の用事があるとのことで臼杵に呼び寄せられていた。もう信徒になってから十年たつという。そして日本語以外はほとんど話せないというのも、私にとっては語学の特訓のためにはうってつけの教師であった。

 私のほかにも数人、修道士が日本語を学んでいたが、その中でもいちばん若いジョアン・ロドリゲスという二十歳の神学生はこの年にイエズス会に入会したばかりだということだった。商人である父親に連れられて十四歳でポルトガルを離れ、ゴアやマカオを経て三年前に日本に来たが、都や府内で教会に通ううちに召命を感じ、イエズス会の門を叩いたのだという。もうかなり日本語に精通しているようだったが、私と共に養方軒パウロに鍛えられて、さらに日本語力を磨きたいとのことだった。

 マカオで日本語を学び始めてから一年以上になるが、やはり日本人から学び、日本語の中で生活していると上達は違う。ほかにも主日のミサの後などは、集まって来た臼杵の町の信徒クリスティアーニの日本人を積極的につかまえては会話をすることによって日本語力を磨いていったし、何よりもこの地方独特の言葉にも慣れなければいけないので、練習台がいるのはいいことだった。

 養方軒パウロは我われへの日本語特訓のほかの時間は、よくヴァリニャーノ師の部屋に赴き長時間出てこないこともしばしばだった。


 秋が深まっていくと、修練院ノビツィアートの建築もどんどん進んでいった。修練院ノビツィアートは三階建てで、この国では城の櫓以外は三階建ての建物というのはめったにないので町の中でもひときわ目立つ存在となり、その白い壁と窓をすぐ下を流れる川の川面に映していた。ところが驚いたことに、外観はエウローパの建物のように白い壁だが、総てが木でできた木造建築なのである。

 司祭館の方は全くの日本式建築であった。これまで長崎や有馬、そして府内の教会なども皆日本式建築だったが、それは既存の建物、例えば府内の場合は大友殿ドン・フランシスコの以前の屋敷の建物をもらったものだし、有馬はもともと仏教のテラだった建物をもらってそのまま使っていた。だから日本式建築でも仕方なかった。

 だが、ここ臼杵では全く新しく新築するのに日本式建築で、実はこれはヴァリニャーノ師の指示によるものだということだった。これまでゴアでもマカオでも、教会関係の建物はすべてローマやリスボンにあるのと同じ建築様式で、だからこそ遠いゴアやマカオにいてもリスボンと同じような建物で暮らしていたので違和感はなかった。

 だがここでヴァリニャーノ師がそのような指示を出したのも理解できる。徹底的に日本文化に溶け込み、適応し、それを日本での福音宣教の糧とするというのが師の考えだからだ。

 そしてなんと驚いたことに、我われが臼杵の城に登城した時にドン・フランシスコから日本のチャをふるまわれたあの茶室チャシツも司祭館の中には設けるという。茶室は日本においては客人をもてなす最高の設備だから、どうしてもなくてはならないということだった。

 ただ、御聖堂おみどうだけは妥協せず、エウローパのそれと同じ様式にした。建築している大工さんがたにとっては、自分が見たこともないものを作れと言われているわけだからさぞかしたいへんだっただろうが、文句も言わずに着々と工事を進めていってくれていた。

 ただ、床だけは畳敷きだった。これまでも仏教のテラだった建物を教会として使用することがあったというが、日本の教会ではその寺の本堂だった建物を御聖堂にするということだけは絶対にしてこなかったという。

 その頃、城の方から知らせが届き、十一月の中旬ごろにドン・フランシスコの長男が包囲していた安岐アキシロが降参し、反乱の張本人である田原親貫タバルチカツラは内陸の鞍懸クラカケの城まで逃走したけれど、結局その城も降参して親貫は死んだという。

 これで、昨年から続いていた一連の大友家への反乱分子は一掃されたことになる。臼杵も、そして府内も一応の平和を取り戻したことになるが、北からは竜造寺、南からは島津がまだまだこの大友家を狙っているので油断できないとのことであった。


 ヴァリニャーノ師は我われの前に、めったに顔を出さなくなった。その部屋に時々呼ばれて行っているのが養方軒パウロなので、ある日、日本語の勉強がてらに養方軒パウロに聞いてみた。

「ああ、ヴァリニャーノ様は、とても大きな事業をしようとされております」

 そう言って語ってくれたことによると、まずは「ドクトリーナ・クリスタン」と題して初心者向けの教材ともなるべく公教要理カ テ キ ズ モを分かりやすくまとめるという作業に入っているらしい。ヴァリニャーノ師が語ったことを通訳を通して聴き、それを養方軒パウロがきちんとした日本語の文章として書きとめているのだという。まだ日本語訳聖書もできていないのに、日本人信徒は非常に熱心に何か書き記された教義書を要求したからだということだ。

 また、我われにとっても、今後は福音宣教の過程で、日本の多くのほかの宗教の人びとと語り合う機会も必ずあるはずで、その時の指針ともなるべき書物ともいえた。今後は増えるであろう日本人の修道士が、キリストのみ言葉と教会の教義をよりよく知り、さらには新たなる信徒獲得のためよりよく教えられるようにするためのものでもあるらしい。

 たしかに日本語訳聖書は早急に実現させなければならない課題ではあるが、すぐには困難な以上、初期教会の聖ペトロや聖パウロがまだ福音書が書かれていない時点でも福音宣教を成し遂げたその心意気で、あらゆる工夫を講じないといけないと私も感じていた。

 さらにはヴァリニャーノ師は、我われのような在日外国人宣教師に対する福音宣教の指示、心得などの指令書も合わせて執筆しているという。さらには巡察師ヴィジタドールとしてイエズス会総長に対し、この国での福音宣教についての報告書もしたためなければならないはずだ。そうなると、ヴァリニャーノ師はほとんど寝ていないのではないかとまで心配してしまう。

 ヴァリニャーノ師がこうだから我われも当然のこととしてそれを手伝ったし、また時には教会の司祭の総力を挙げて取り込んでいるというような風景さえ感じられた。

 そうして修練院ノビツィアートが完成に近づいていったが、気候もどんどん寒くなっていき、町の周りの山々の木々の葉が赤や黄色に鮮やかに染まっていった。どこまで美しいのだこの国はと、感嘆の声を上げずにはいられなかった。

 だが、朝晩を中心とした寒さには閉口した。日本の冬がこんなにも寒いとは意外だった。なにしろこれまで二、三年の間、一年中が夏しかないような国で生活してきたのだから、余計にそう感じたのかもしれない。去年はマカオで久しぶりに冬らしい冬を越したが、それでもここまでは寒くなかった。

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