Episodio 8 最初のクリスマス(Usuki)

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 待降節アッヴェントに入ると、寒さはさらに想像以上に増してきた。だが、この地はまだ日本の中でも冬が比較的温暖な地だというから驚きだ。

 そしてまず、司祭館が完成した。我われは早速まだ木の香りがする新しい司祭館へと移り、まもなく修練院ノビツィアートも完成するのでその開校式の日取りも決まった。

 十二月二十四日―すなわちヴィジリア・ディ・ナターレ( ク リ ス マ ス ・ イ ブ )の日であった。その日の昼のうちに修練院ノビツィアートの開校式が行われた。修練院ノビツィアートの院長は私と同世代のスパーニャ人で、府内フナイの教会にいたペドロ・ラモン師が任じられた。

 任じたのはヴァリニャーノ師だから、もちろんラモン師個人の才腕もあるだろうが、日本におけるイエズス会の要職の大部分をポルトガル人が占めていることに対して均衡を図るという意味合いもあったかもしれない。副院長は前から臼杵にいるポルトガル人のゴンサーロ・ラベロ師だった。

 入学する学生はポルトガル人八人と日本人十二人で、ポルトガル人の中には、私と共に日本語を学んだ若いジョアン・ロドリゲス神学生もいた。

 修道士たちはここでしばらくは語学の習得に努め、それが終わるまでは布教に従事することは控えるようにというヴァリニャーノ師の指示であった。

 本当ならばそこで宴を開いて新しい教会と修練院ノビツィアートの発足を祝いたいところだが、この日は大斎の日である。そのまま、食事もとらずに日没を迎え、ナターレ(クリスマス)の前夜ミサ、そしてすぐに深夜ミサへと移る。

 私が日本に来てから初めて迎えるナターレ(クリスマス)だ。リスボンを離れてから最初のナターレ(クリスマス)は船の中だった。次の年はゴアで真夏の気候の中でのナターレ(クリスマス)、そして昨年はマカオで迎えた。あまりにも寒いのは身に応えるが、やはりナターレ(クリスマス)は寒い季節でないと実感が湧かない。

 前夜ミサと、そのあとのメインである夜半ミサの司式司祭はやはりヴァリニャーノ師だった。御聖堂にもあふれんばかりの町の信徒クリスティアーニたちが参列し、静かな夜に厳かに主の御降誕を祝うミサは続いた。本当に外は静かだった。ローマやリスボンのお祭り騒ぎのようなナターレ(クリスマス)とはまるで違い、この国の信徒たちの素朴な信仰を垣間見るような気がした。

 ローマを離れてからいくつかの国を経てここにたどり着いた私だが、どこの国にいてもミサの時間だけは自分が故国にいるような感触があった。もの心ついてから毎週日曜日に、イエズス会に入ってからは毎日あずかってきたミサである。

 マカオで日本に来る直前に司祭になって、日本に来てからは当番制だったが自分が司式するようになってからは若干感覚は変わったし、日本式家屋形態の畳敷きの御聖堂でのミサはやはり少し勝手が違うところがあった。だがそれでも、たとえどんなに遠くに行ってもミサの時間だけは故国とつながっているという感覚はあった。

 聖変化の時に司祭は祭壇に向かってひざまずいて頭を垂れ、そこだけ小声で一般の会衆には聞こえないように祈る。昔、子供の頃の私はミサにあずかるたびに、そこで神父様は何と祈っているのだろうと気になってしょうがなかった。

 何か普通の人が知ってはいけないような秘密の呪文でも唱えているのかと、そのあとで侍者の鳴らす鐘の音と共に御聖体となったホスチアを高く掲げる神父様の背中を見ながらそう感じていた。

 今となっては秘密の呪文でも何でもないその祈りの言葉を知り尽くしているが、ふとそんな幼少期のたわいもない思い出が私の脳裏によみがえった瞬間でもあった。

 なお、私にとって日本で初めてのナターレで、不思議な光景を見た。ミサの後、エウローパのようなどんちゃかお祭り騒ぎではないが、やはりナターレということもあって教会の庭で宴が催され、多くの日本人信徒クリスティアーニが参加していたが、彼らはなぜか皆平包ヒラツツミという大きな四角い布に贈り物を包んで持ってきており、宴が始まると互いにそれを交換し始めたのだ。

 ナターレの宴でこのような贈り物を交換するという光景は私は見たたこともなく、どうも日本独特の習慣のようだ。だが、日本でナターレの祝いが始まってまだ三十年ほどしかたっていないはずで、それでもうこのような独自の習慣ができていることに驚いた。

 もしかしたらナターレ当日よりも年が明けてからの御公現エピファニーアの日に魔女ベファーナが子供たちにプレゼントを配るという伝説が変形して伝わったのかなとも思った。

 私も子供の頃、御公現エピファニーアの前夜は期待とともに靴下をつるして寝た。いい子であれば翌朝はお菓子が、悪い子には炭が靴下に入れられると本気で信じていたが、毎年靴下に入っているのはお菓子で安心したものだ。その真相、つまり誰がお菓子を入れているのかという真相を知ったのはずっと後、神学校に入る直前だったが、そんなことを思い出し、私は人々が贈り物交換している姿を見て苦笑した。

 ミサの最中といい、どうも今日は幼少時の思い出ばかりが頭をよぎる。やはりナターレだからだろうか。

 私はそばにいたメシア師に魔女ベファーナについてのそんな思い出を語ったが、メシア師は怪訝な顔をした。魔女ベファーナやそのような靴下にお菓子などという習慣については初耳だという。ポルトガルではナターレに日付が変わった瞬間に、親が子供に「赤ちゃんイエズス様ベベ・ジェズスからよ」と言ってプレゼントを手渡すという。どうも魔女ベファーナはローマやイタリア半島だけの風習のようで、やはりナターレのプレゼントに関しては国によっていろいろ習慣が違うようだ。

 だから子供たちにではなく、大人同士が大真面目に贈り物を交換している日本の風習もありだなと私は思っていた。

 

 この年は翌二十五日が日曜日だったので早朝ミサの後の主日のミサがナターレ(クリスマス)の日中ミサと重なり、このミサの中で洗礼式が行われることになっていた。御み堂の会衆席には臼杵の市民の一般信徒に混ざってドン・フランシスコが同じ列に座って参列していた。

 このキリスト教界以外の日本の一般社会では、領主と領民が同じ建物の中で同列に同席することなど絶対に見られないし、想像だにできない光景だろう。まさしく『天主ディオ』のみ前では総ての人は等しく神の子で、平等であるということの証であった。さらには、あのヤスフェさえも同じ堂内に同席していたのである。

 特に、今回ドン・フランシスコも参列したのは、その三男大友民部親盛オートモ・ミンブ・チカモリ殿が、今日、受洗するからである。あの有馬の殿のドン・プロタジオと同じ十三歳であった。今までずっと受洗できずにいたのはやはりその生母であるジェザベル(イゼベル)からの数々の妨害があったからであろうが、この日からは霊名でドン・パンタレアンと呼ばれることになる。

 さらにはこの臼杵ウスキの町の昔からの領主で、今は大友オートモ家に仕える臼杵殿ウスキ・ドノと共になんと一人の仏教のソー、すなわちミズティゴがここで受洗した。すでに七十は超えているだろうと思われる老人で、仏教では法印ホーインという高い位にある僧ということだった。はじめは僧衣を着てミサに参列していてそれが異彩を放っていたが、いざ洗礼式が始まって自分が受洗される番になると僧衣の一切を脱ぎ棄ててそれを足で踏みつけ、普通の着物姿になっていた。


 次に受洗したのは我われが有馬から豊後に来る途中に投宿した三重ミエという村のすぐそばの井田という所の領主だが、これがまたジェザベル(イゼベル)の妹婿だという。


 そして伊東イトー小右衛門ショーエモンという十歳の少年も受洗した。彼については事前にヴァリニャーノ師から経歴を聞いていた。伊東氏とはここから南の方の日向ヒューガという国の殿トノであったが、彼の父は彼がまだ母の胎内にいるときに病死し、三位入道サンミニュードーと呼ばれている祖父に養育されていた。

 伊東家は小右衛門ショーエモンの三歳上の兄の三左衛門サンザエモン殿トノとなっていたが、まだ若いので祖父の三位入道が実質上の殿であった。ところが大友オートモ薩摩サツマ島津シマヅとの戦争で伊東家は島津に攻撃されて、命からがら大友家を頼ってこの臼杵に逃げてきたという次第だそうである。

 この三左衛門と小右衛門の兄弟の母は、ドン・フランシスコの妹の娘、すなわちドン・フランシスコの姪だという血縁関係があったことも関係がしている。

 この話を私がナターレ(クリスマス)の数日前にヴァリニャーノ師から聞いた時、師はさらに、

「有馬で殿ドン・プロタジオの従弟の千々石ミゲルが洗礼を受けて神学校セミナリオに入ったときに、同じ年かっこうだからといって伊東マンショという少年を引きあわせたのだが、覚えているかい?」

 と聞いてきた。伊東マンショと聞いて、あのクリクリ頭をすぐに思い出したので私はうなずくと、

小右衛門ショーエモンはその伊東マンショの従弟いとこだよ」

 と言って笑っていた。

「祖父や兄は洗礼は受けないのですか?」

 と、私が素朴な疑問をぶつけたら、ヴァリニャーノ師は

三左衛門サンザエモンはいずれ、折を見て」

 と、言った。するとそばにいたフロイス師が、

三位入道サンミニュードーとかいうあんな頭が狂った老人は、放っておいていいのです」

 と、鼻で笑っていた。

 今日の洗礼式で小右衛門ショーエモンは、ジェロニモという霊名を名乗ることになった。賢そうな少年だった。

 以上、こういった人びとが新たにキリストと出会い、新しい信仰生活に入ることになった。


 ミサの後で私が御み堂を出ようとした時、そこにカブラル師がいた。カブラル師は私の袖を引き、入り口の外の脇の方へと私を引いていき、私の耳もとで、

「今日、洗礼を受けた人たちのメンブロス(メンツ)を見たかね」

 と囁いた。

「はい、まあ」

「どう思う?」

 いきなりそう言われても、私は何と返事をしていいかわからなかった。

「いいか。民部親盛ミンブ・チカモリすなわちパンタレアン、あれはあのジェザベルが生んだ子だ。井田殿イダ・ドノはジェザベルの義理の弟、そして法印ホーインという僧はジェザベルがずっと師と仰いでいた僧なのだ。だから私は反対したのに、ヴァリニャーノ神父は強硬にこの洗礼式を行った。もはや彼は私の言うことなど、風の囁きくらいにしか思っていない」

 カブラル師が何を言いたいのかすぐには分からなかったが、はっと気付いた頃にはカブラル師自身が話を続けていた。

「身辺に気をつけた方がいい。大変なことになるぞ。何せあのジェザベルが黙っているとは考えられない。ヴァリニャーノ神父に行っても聞く耳持たないから、君に言っておく」

 にこりともせずにそれだけ早口で言ってから、カブラル師はもう行ってしまった。

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