5

 その夜は、暑くて寝苦しかった。

 私は庭を散歩してみることにした。司祭館の建物の中をうろうろしていると、またどなたかの怒声とかが聞こえたりしたらいやなので、あえて外にしたのである。

 教会のすぐそばにまで水田―今日昼間に見た水面から生える稲の畑――が来ており、そちらの方からうるさいくらいの蛙の合唱だった。

 かなり遅い時間にならないと月が出ない頃なので、私は手に提灯チョーチンというこの国独特の照明器具を持っていた。紙でできた囲いの中に、ろうそくが入っているものだ。

 しばらく教会の庭を歩き、私は空を見上げた。まだ月が昇っていないだけに満点の星だ。正座の形は、エウローパと同じだ。夏の星座であるさそり座や、中天にははくちょう座、そして夏の大三角形も見える。

 そんな星をしばらく見つめ、そろそろ帰ろうかと思った時である。私の耳に、かすかな歌声が聞こえたような気がした。恐る恐る声のする方に近づいていくと、それはポルトガル語の歌詞の歌であることが分かった。男の声だ。どこかで聞いたような旋律だが、はっきりと思い出せない。歌詞こそポルトガル語だが、エウローパの音楽とは違うような旋律だ。

 私は提灯の灯りを頼りに、さらに歌声の方にそっと近づいていった。すると、教会の庭に小屋があって、歌声はそちらの方から聞こえてくる。私はかなり足音を忍ばせて歩いたつもりだが、それでも聞こえてしまったのか歌声はピタリとやんだ。私は好奇心にかられ、さらに小屋に近づいていった。

 何かが動いた気がした。

 私が提灯の明かりをそれにあてようとしたが、もう何もいなかった。しばらく沈黙の時が流れ、聞こえるのは蛙の合唱だけだったので、私は意を決して小屋をのぞいてみることにした。

 その時、背後に気配があった。

 振り向くと、瞬間それは提灯の明かりの中に浮かび上がった。

 見たこともない巨大な人影だ。まさしく巨人ともいえる黒い影がそこにあった。

 だが、提灯の明かりがそれを照らしたのは一瞬だった。私は恐怖のあまりに後ろに腰をついて倒れ、提灯を落としてしまったのだ。

 悪魔だ! と、私はとっさに思った。ふつうは目に見えない悪魔が、ついに形を現して教会の活動の邪魔をしに来たのだと思った。

 そうなると、もう恐怖は亡くなっていた。私には『天主様ディオ』がついておられる。イエズス様が常にともにいてくださる。聖霊に満たされている。そして守護の天使が守ってくださる。そう思うと今度は妙に落ち着いて、私は胸にかけた十字架を悪魔の方にかざし、一心に「天使祝詞アヴェ・マリア」をラテン語で唱え始めた。

Aveめでたし Maria聖寵, gratia充ち満てる plenaマリア. Dominus主 御身と共に tecumまします~」

 すると驚いたことに、悪魔の方も身をかがめ、私の「アヴェ・マリア」とラテン語で唱和を始めたのだ。

Benedicta 御身は女の tuうち inにて muliéribus祝せられet benedictus御胎内の fructus御子 ventrisイエズスも tui祝せられ Iesus給う.~」

 私は目を見開いた。その時になって私が落とした提灯の中のろうそくの火が周りの紙に引火して燃え上がり、あたりを煌々と照らしはじめた。

 それは巨人でも悪魔でもなく、体格は大きくてがっしりとしていたが、あくまで人であった。ただ、顔も上半身裸である体も墨を塗ったようにまっ黒だった。

神父様パードレ、なぜこんな時刻にこんな所へ?」

 と、黒い人はポルトガル語で身を屈めたまま、聞いてくる。しかも、笑顔だった。顔が黒いだけに白い歯がまるで宙に浮いているように見えた。

「い、いや、暑くて眠れなかったので」

「そうですか。たしかに、暑いので、私も小屋の外へ出ていたのですよ」

 場の状況と雰囲気にそぐわないような笑顔で黒い人は言ってから、明るく笑い声を挙げた。

 私はいくぶん心が和んだが、やはり先ほどの興奮がまだ残っていて、この場は立ち去った方がいいのではないかという気がしていた。

神父様パードレ。提灯が燃えてしまいましたね。ちょっと待って。私のを貸しましょう。明日の朝、返してください」

 そう言ってから黒い人は一度小屋に入り、自分のと思われる提灯を持ってきて、石で火をつけてくれた。

「ありがとう」

 と、私は礼だけ言うと、小屋を離れた。

 

 自分の部屋に戻り、床に入ってからも、私はしばらく眠れず、先ほどの黒い人のことを考えていた。

 あの黒い顔をしているような人びとには、見覚えがあった。そしてあの歌もだ。日本に来るまでにいろいろな国を回ってきた私だが、その一つ一つの記憶をひも解いてみた。

 ゴアの現地の人も黒い顔をしていたが、あそこまで真っ黒ではなかった。そして、真っ黒ということで思い出したのは、リスボンを出てからの初めての寄港地、モサンビーキ島の人びとが全くあの色と同じ真っ黒な肌をしていた。

 そういえばモサンビーキに寄港した夜、ある女がポルトガル語で歌を歌っていたのを聞いたことを思い出した。記憶が断片的でしかないが、たしかあの島で多くの男たちが奴隷として連れ去られたことを嘆くという、そんな歌詞の歌だったような気がする。

 はっきりと旋律を覚えているわけではないが、今日のあの黒い人が歌っていた歌はあの時の女の歌と似ているといえば似ているような気がした。

 翌朝、私はヴァリニャーノ師に昨夜見たことをすべて話した。するとヴァリニャーノ師は突然笑い出した。

「ああ、あの小屋に? 夜中に行けば怖かっただろうね」

 と、笑い続けている。

 そして朝食前に、私をその小屋へと連れて行ってくれた。

「ヤスフェ!」

 と呼ぶと、昨夜見た真っ黒な顔と肌の大男がぬっと顔を出した。

「こりゃ、神父様パードレ、おはようございます」

 今日もこの男は、白い歯を目立たせて笑っている。

「昨夜は世話になりました」

 と、そこで私も割って入った。そして、昨夜借りた提灯を返した。明るい中で見ると、昨日感じていた巨大感はあまりない。でも、やはり大きな体格で真っ黒なのだ。

「ヤスフェ。紹介しておこう。新しく来られた神父パードレだ」

 私は故国のやり方どおり、一応手をさし出してみた。ところが男はちゃんとその手を握り返してきて、握手は成立した。

「この男はヤスフェといって、モサンビーキの出身だ。ずっとゴアでもマカオでも、私のそばにいて私の身の周りの世話をしてくれた」

 この生身の男を悪魔だと思い、必死で「アヴェ・マリア」を唱え続けていたなんて、いつか必ず笑い話になるだろう。

 それからは、私とヤスフェは結構仲が良くなった。彼本人は自分のことを奴隷として連れて来られたと言っているが、ヴァリニャーノ師にとっては奴隷などではなく友人そのもので、接し方も友人という感じであった。

 

 そうこうしているうちに数日が過ぎ、八月も半ばとなった。

 私はその間、教会の司祭館から毎日神学校に通い、日本語の習得に力を入れていた。ちょうどこの時期、寄宿している学生たちは夏休みで、学校を出て帰宅する者はおらずそのまま学校の宿舎に寝泊まりはしているものの、授業はない状態だった。その間を利用して、私はバリオスけいより日本語を学んでいたのだった。


 かつてヴァリニャーノ師は、師の日本にける宣教方針に関して「どうもご理解いただけない司祭の方もおいでになる」と嘆くように言っていたが、その時は誰と名を挙げて指摘はなかった。だが、もう隠し立てするまでもなく、その「ご理解いただけない司祭」というのが誰なのか、ほとんど周知の明るみに出ていた。

 ヴァリニャーノ師と日本総布教長であるカブラル師との論争はもはや深夜に小声でこそこそという段階ではなく、白昼堂々と皆の前でというところまできていたからだ。

 ことの発端は、ある昼下がり、司祭館の一室でヴァリニャーノ師は私とロレンソ・メシア師、そしてトスカネロ兄と共にいた。メシア師がいるので、ポルトガル語だ。四人は木の床の上に足を投げ出して座っていた。

「今日、諸君を呼んだのはほかでもない。ゴアのことなんだ」

 それから師は、私を見た。

コニージョ神父パードレ・コニージョも、ゴアでの福音宣教にはいろいろと問題があるようなことを言っていたね」

「はあ、まあ」

 私は見たままを言っただけで、そのように問題視していったつもりではなかったが、師の難しそうな顔を見るとそれ以上は言えなかった。

コニージョ神父パードレ・コニージョの乗ってきた船でもたらされた報告書や書簡などを見る限り、ゴアにおけるイエズス会は今やぼろぼろだ」

 そして師は、年配のメシア師を見た。

「我われがゴアにいた頃はまだ何とかなっていたけれど、今は本当にひどいらしい」

ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノ。ここ数日お元気がないようでしたが、まさか」

「ああ、ずっと悩んでいたよ」

 メシア師の問いにヴァリニャーノ師は目を伏せてうなずいた。メシア師は困ったような顔で、トスカネロ兄を見た。

「まさかとは思っていたのですが、やはりゴアに?」

 恐る恐る尋ねるトスカネロ兄に、ヴァリニャーノ師はうつろな目を向けた。

「まだ決めかねているのだよ。祈っても祈っても主はお答えをくださらない」

 その時、激しい勢いで木でできた扉が横に開けられた。そこには眼鏡の奥の眼光鋭いカブラル師の姿があった。カブラル師は立ったまま、四人を見下ろしている。

「お話中お邪魔しますが、もうお答えは出ているのでは?」

 にこりともしない表情だ。

「あなたが来られてから、私のやり方にことごとくケチをつけられ、それだけならまだしもだいぶ私の批判をイエズス会本部に書き送っておられるご様子」

「まあ、カブラル神父パードレ・カブラル、落ち着いてください」

 自分の方が巡察師なのだから地位ははるかに上だが、それでもヴァリニャーノ師は自分より年配であるカブラル師を一応は立てていた。それをいいことに、カブラル師はイエズス会総長代行に向かってでさえ居丈高だ。

「あなたはこれまで長年にわたって私がこの国で培ってきた宣教方針を根底から覆そうとなさっている。だが、あなたが独自の現地に順応するなどという生ぬるいやり方を押し通そうとしても、あなたは巡察師だ。いずれ任務を終えられたらこの国を離れるのでしょう? 我われのように長くこの国での福音宣教に従事するために派遣されたものとは違う。だからあなたが何をどう主張されようとも、あなたが任務を終えてこの国を離れたら、あなたの考え方などはあなたの船と共にこの国を出て行って何も残らない。いずれそうなるのであればここであなたが頑張ってもみんな徒労です。だから、無駄な時間を労力を費やさずに一刻も早く、ここは私たちに任せてあなたはゴアに帰られるとよい。ゴアが気になるのでしょう?」

「だが、私は巡察師としての任務を終えてはいない」

「そのようなことはどうにでもなる。適当な理由をつけて報告すればよい」

 カブラル師を見上げるヴァリニャーノ師を見下ろしたまま座ろうともせず、すごい勢いで彼はそう言いきった。そこでヴァリニャーノ師は、

「あなたならやりそうなことだ」

 と、つぶやくように言ったが、カブラル師にはよく聞こえなかったようだ。

「今、何かおっしゃいましたか?」

「いや、別に」

「とにかく、ミヤコへの巡回も必要ありません。もし必要とあらば私が代わりにミヤコへも安土アヅチへもまいりましょう。これは私だけではない。コエリョ神父パードレ・コエリョも同意見です」

 それだけ言うと音を建てて扉を閉め、カブラル師は行ってしまった。

 ヴァリニャーノ師は苦笑めいた顔で、

「どうしようもないお方だ」

 と、小声で言った。

 足音が聞こえたからもう行ってしまってはいるだろうが、万が一立ち聞きなどしていると困るので、ヴァリニャーノ師は我われ三人をそばに寄せて声を落とした。

「あの方の報告書を調べたのだけれど、粉飾報告もいいところでしたよ。この国での福音宣教の成果は、ゼロを一つ多くくっつけていると言っても過言ではない。あ、いや、そこまで言うと大げさか。いずれにせよ、私はこの国に来る前にはあの方からの報告によってこの国での福音宣教は実に順調に発展していると思っていたけれど、ここまで『聞くと見るとは大違い』だとは思わなかった。ゴアもひどいけれど、この国の福音宣教も負けずにひどい」

 そしてヴァリニャーノ師は、そっと立ち上がった。

「主は答えをくださらないと言ったけれど、今はっきりお答えを下さいましたな。あのような方にこの国の福音宣教を任せることはできません。ゴアも気になるけれど、やはり私の巡察師としても使命を全うしましょう」

「私もそれに賛成です」

 と、メシア師もうれしそうにうなずいていた。

「あなたがここで日本を離れたら、日本のイエズス会は壊滅ですよ」

 私は何も口をはさむことすらできずにいたが、ヴァリニャーノ師が今すぐに日本を離れるという事態はとりあえずなくなったということで、内心ほっとしていたというのが正直なところだ。だがこの国の宣教は、この国の状況やこの国の人びとがどうのこうのという以前に、我われイエズス会の側にもまだまだ問題が山積みされているということを実感した出来事であった。

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