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 おそらく十五分は待たされたであろう。

 突然紙のドア――日本語で「フスマ」という――が開いて、「殿」がお出ましになった。私はヴァリニャーノ師から教わった通り、「殿」の気配を感じたらその姿を見ることなく、手を突いて額を畳にこすりつけ、「オモテヲアゲヨ」の言葉を待った。

 すぐに頭の上で声がした。

「バテレン様がた、どうぞ頭ば挙げてください」

 細い、女のような声であった。え? という感じで私はさっと頭を挙げたくなったのをかろうじて自制した。だが、そのか細い声が言ったのは「オモテヲアゲヨ」と言葉付きは違うが同じ意味の日本語だということは私も聞き取れたので、これも教えられた通りゆっくりと頭を挙げ、完全に頭が上がりきってからそっと正面の遠くに座っている「殿」を見た。

 またもや私は、思わず「あっ」と声をあげそうになってしまった。

 そこに座っていたのは一人の少年。いや、まだ子供だといってもいいかもしれない。だが、凛々しく堂々と座っているその姿に、子供っぽく見えるだけだろうかとも思ったが、やはりどう見ても本物の少年だ。ヴァリニャーノ師はそのような事実はひと言も教えてくれてはいなかった。おそらくそれは私を驚かせるためにわざとだったのだろうと思う。

「今日は一人の新しい司祭を紹介するために連れてまいりました」

 ヴァリニャーノ師はそのままポルトガル語で話し、バリオス兄が日本語に通訳する。バリオス兄の日本語も私には聞きとりやすかった。

「そぎゃんですか。ほんなこつ遠か遠か所をご苦労様です」

 殿の言葉は専制君主にありがちな居丈高という感じではなく、あくまで端正に礼儀正しく、しかも腰が低いものの言いようだった。すぐにバリオス兄がポルトガル語に訳してくれたが、町の庶民の女たちの言葉よりかは私が聞き取れる単語も多かった。

 ヴァリニャーノ師が目で合図するので、私は両手を前について少し身をかがめたまま、

「ジョバンニ・バプテスタ・コニージョと申すものでござる」

 と、それだけなんとか日本語で言った。もちろん、通じた。殿はあまり表情は変えず、ほんの少しだけ笑みを浮かべてうなずいている。よく見ると、殿の胸には首から下げた大きめの木製の十字架があった。それを見た私は、そのあとはさすがに限界だったのでポルトガル語に切り替え、

「このたびは、受洗、おめでとうございます」

 と、バリオス兄を通じて伝えてもらった。

「恥ずかしか話です。父は熱心なキリシタンでしたばってん、父が死に、兄も死んで私が家督を継ぐや、まだ幼かった私が何も分からないことをいいことに悪魔に心を奪われた家臣たちが私をそそのかし、私は領内のキリシタンをことごとく弾圧してきたとです。口之津でも教会ば焼き、十字架ば斬り倒し、多くのキリシタンに改宗ば迫り、受け入れんものは追放しました」

 そこまでの話をバリオス兄が通訳した時点で、ヴァリニャーノ師が話の腰を折った。

「そのことはもう殿は何度も罪を告白し、告解の秘跡によってその罪は許されました。ですから、もうおっしゃらないでください」

 通訳からその言葉を聞くと、殿は首を横に振った。

「でも、私は目が覚めました。今は『天主デウス様』と御子おんこキリストの教えを広めるための道具となりたいと思っております」

「『聖書』の中には使徒パウロの書簡がおびただしい量で載っております。それらは実は福音書よりも古い時代に書かれたものです。使徒ペトロと共に初代教会の礎を築いたその使徒パウロも、はじめはキリストの教えや信徒を激しく迫害していたのです。誰もその人の過去でその人を裁くことはできません」

「ちょうど私もそのパウロのように『目から鱗』が落ちたとです。竜造寺に通じる家臣が離反し、竜造寺によってこの城が包囲された時も、『天主デウス様』のご恩寵はこの城と共にありました。竜造寺は薩摩の島津の侵攻によってこの城にかまっとる場合ではなくなり、和平が成立したとです」

 殿は、そのあたりの事情を知らない私のために語ってくれているようだ。

「あのときは教会も私も一時天草へ避難するしかありませんでしたな」

 ヴァリニャーノ師はそう言って、笑顔でうなずいていた。

「今は和平となっておりますばってん、私は心底から竜造寺とよしみを通じるつもりはなかとです。だから、いつまた戦争になるかもしれんとです。この城が包囲されている時は、教会からの食糧の支援などを賜り、お蔭で生き延びられました。本当に、本当に感謝しています」

「感謝は一切をお仕組みくださったデウス様に申し上げましょう」

「もちろんです」

 殿はうなずいていた。そして言った。

「本当に、今後もどうなるかわかりません。ヤソ会の皆さんのご協力ご支援なくは、この身もどぎゃんなっとか。今後とも一つ、よろしくお願い致します」

 なぜかこの殿は、教会に物的支援を求めているようだ。そのために教会はあるのではないのだけれどと、私は内心思っていた。するとヴァリニャーノ師は、私に向かってポルトガル語で、

「こちらの殿は受洗以来領民たちも皆受洗するよう指示を出し、教会の司祭たちは公教要理カ テ キ ズ モの勉強会で大忙しです。もはや今年になってから五百人以上が洗礼を受けてキリストと出会った」

 と小声で言った。だが、殿が不快にならにようにと、その言葉までもをバリオス兄は日本語に通訳していた。


 それからしばらく会談は続き、やがて殿は、

「この城の頂上までご案内しましょう」

 と言って立ち上がった。

 殿が出ていかれてから、私は緊張が解けてため息をついた。そしてとりあえず玄関を出た所で殿と再び落ち合うことになっていた。

 玄関先で二、三人の従者を連れた殿と落ち合い、導かれるまま御殿ゴテン、すなわちパラッツォの裏手へと我われは歩いた。石垣に囲まれて一段高くなっている上にも、やや小さい御殿があった。その脇の石の細い階段を上る。先に登っている殿が振り返って、

「足元にお気を付けください」

 と言ってくれた。さらに石垣に囲まれた上へと階段は続き、やがて木々に囲まれたちょっとした広場に出た。

「ここがこの城のある丘の頂上です」

 と、殿は言った。蝉の声がけたたましい。

 たしかにここは見晴らしがよく、有馬の町も、海峡も、その向こうの天草の島もよく見えた。向こうが島だという知識がなければ、海峡は川だと勘違いするかもしれない。非常に巨大な島のようで、海峡が見えるだけで右も左もここからは外海は見えなかった。ほかの方角は山、また山で、どの山も深い緑の中にある。その山と山の谷間に集落があるという形だ。

 この広場は元もと広場ではなく、何か建物があったらしい形跡がある。

「ここは昔、エンノギョウジャを祀るホコラがありましたばってん、私が全部破壊させました」

 殿のその言葉はバリオス兄にとっても通訳が難しいようで、

「かつては悪魔崇拝の建物がここにあったのを殿が破壊したとのことです」

 という形で我われに告げてきた。

 さらに見渡すと、あの船の上で見えていた緑のない山が、丘陵の向こうにちょこんと頭を出しているのが見えた。見えたとはいっても、船の上で見たという予備知識があったからこそ分かったので、そうでないと気づかないくらい本当にちょこんと頭だけ出している。そこで私は、

「殿、あの全く緑に覆われていない高い山は何でしょうか。なぜあの山だけ緑がないのですか」

 と、殿に訪ねてみた。

「ああ、あれは雲仙でござる。緑がなかとは火山だからですね」

 その言葉の通訳に続けてヴァリニャーノ師も私に、

「この国は実に火山が多い。今でも煙を吐いて、時には噴火する恐れもある山だよ」

 と言って、笑っていた。

 

 城を辞して、再びあの幅広い石の階段を下りる頃には、空は少し薄暗くなり始めていた。

「どうだったかね。この国の殿トノは?」

 ヴァリニャーノ師はおどけて聞くが、私はそれなりに緊張していた。

 「いい体験だったと思う。まずはこの国の礼法を学んで、それに従うべきだね。たしかに我われの習慣とは大いに違うところがあるけれど、違うというのと劣っているというのとは違う」

「はい、たしかに」

「『ローマではローマ人のするようにせよ』というではないか。日本人の習慣を悪しざまに言う人が多いけれど、それを見習ってはだめだ」

「私自身がローマ人ですが」

「そうだったな」

 と師は笑った。 

 前に入ってきた城門を出て、城の外の道にまで戻ってきた。

「決して日本人を野蛮人、文化水準が低いなどと考えてはいけないと、これはもう聞いたよね」

 「はい。しかし今日の殿の様子や立派な御殿などに接しました以上、そのように思うことの方が不可能です」

 ヴァリニャーノ師は満足そうににこやかにうなずいた。

「でも、それだけではだめだ。我われの方が日本人から野蛮人、無礼者と思われないようにもしないといけないのだよ。お互いがお互いの習慣を尊重することによって心が開いてくる。そうなると、そこにキリストの教えがどっと入り込む余地ができる」

 もうかなり、あたりはうす暗くなりつつあった。

「日本人というのは、その文化を理解したならばとても楽しくつきあえる人たちだよ。日本人を理解し、日本人を満足させること、そうすることにとって彼らはキリストの教えを受け入れる。それが、この国での福音宣教の第一歩だ。それなのに」

 師はぽつんとつぶやいた。

「どうもこのあたりをご理解いただけない司祭の方もおいでになる」

 そしてため息をついた。具体的に誰とは言われなかったが、この時の師の顔は少しだけ曇っていた。

 その時ふと私の頭の中に、昨夜の深夜の怒鳴り合いのことが浮かんだ。昨日の怒鳴り合いも、このように日本の特殊事情による意見の相違だったのかという気がした。

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