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 同行してきたほかの新司祭たちは皆、この日本からマカオに叙階に行ってまた戻ってきただけに、やれやれという感じでくつろいでいる。

 だが、私だけが初めての日本ということで、

「どうです? 驚くことばかりでしょう?」

 と、畳の上に足を投げ出して座りながらアルメイダ師が聞いてきた。私は率直に、

「はい」

 とだけ、返事をした。

「もうかなり昔ですけれど、あなたを見ているとちょうどこの国に初めて来た時の自分のことを思い出しますよ。これを嫌悪するか、あるいは新鮮さを感じて溶け込んでいくかはあなた次第ですけどね」

 そう言ってアルメイダ師は笑っていた。

「たぶん、あとの方でしょう」

 と、私も笑ったし、他の新司祭たちもそれを聞いてほほ笑んでいた。

 さらに驚いたことに、この教会には修道士も若干いるようだが、その中にはこの国の、つまり日本の若者も多く出入りしていた。彼らはまだあどけない顔をしているのに、我われ一行が到着するとすぐに流暢なポルトガル語であいさつをしてくれて、旅の疲れを労ってくれたのには驚いた。思えば彼らはこれまでどの通過点でも接することのなかった現地の信徒クリスティアーノで、私は初めてこの地でそういった人々に接したことになる。

 そのほかにもとにかく驚きの連続で、いささか驚き疲れた。

 そこにヴァリニャーノ師が顔を見せた。どうも師だけは別に自分の部屋があるようだ。皆は一斉に立ちあがり、それぞれが託されてきた木箱を師に示した。師は日本人の若者――彼らはまだ修道士になる前の段階で、同宿ドウジコスと呼ばれているらしい。我われの国の教会には、該当する存在はない――に、それらを自室に運ぶように言いつけた。

「皆さん、ありがとう、感謝します」

 と、師は一同にポルトガル語で言ってから、私にだけおどけた笑顔で、

「グラーチェ」

 とイタリア語で言った。私も笑顔を返した。

 

 我われがくつろいでいる間に同宿の日本人の若者によって港から、我われの船に積まれていた物資が次々に運ばれてきた。また、この同じ丘の上に商人たちの居住館や倉庫などもあって、そっちの方も船から降ろされた荷物の搬入やらで大忙しのようだった。

 そのうちすぐに夕食の時刻となった。食堂はやはり畳の部屋ではあったが部屋いっぱいに畳の上に赤いじゅうたんが敷かれ、椅子とターベラ( テ ー ブ ル )が据え付けられていた。給仕しているのはいずれも日本人の中年女か老女で、彼女らはポルトガル語は全く分からない様子だった。だが、彼女らも皆信徒クリスティアーニなのだということだった。

 席には巡察師のヴァリニャーノ師をはじめ、この教会の主任司祭のアントニオ・ロペス師が上座に着かれた。私よりもほんの少し年長のようで、ポルトガル人だった。

 そして、港に着いた時に初めて案内してくれた同年代の司祭はクリストヴァン・デ・レオン師というスパーニャ人だということだった。ほかにベルヒオール・デ・モーラ師というこれまたちょうど私とほぼ同年代と思われる司祭がいてやはりスパーニャ人だった。

 これらの人びとに、今日到着した我われの一行六人が加わるとかなりの人数になったので、ヴァリニャーノ師とロペス師のターボラは別として、そのほかの人びとは二つのターボラに別れて座るしかなかった。

 料理は、ほとんどがこの国の料理のようで、魚などの海産物に、白い米の飯が出た。マカオでも少しは食べたことはあるが彼の地まではほとんどがポルトガルにいた頃と変わらない食事をしてきたので、このように現地の食事をとるのも初めてだ。

 やがてヴァリニャーノ師がにこにこして立ち上がり、話を始めた。

「皆さんはもう慣れていると思いますが、コニージョ神父パードレ・コニージョは日本が初めてですから説明しておきますと」

 皆にというよりもまずは私を名指しでの話で、私へと師は笑顔を向けた。

「これからはもう、パンも、肉も、スープも食べられませんよ。この国ではこの国の人びとと全く同じ食事をして頂きます。それが私の福音宣教の方針です。我われエウローパの人びとが優れていてこの国の人びとは文化が遅れた野蛮人だなどと見下した考えでは、御自らを万人に仕える者としてへりくだりなさったキリストの御心に反します。私たちは福音を告げ知らせて人びとの魂を救うために来たのであって、我われの文化を押し付けるために来たのではありません。福音を伝えるには、まずはその土地の人に心を開いてもらわないとできません。そのためにはその土地の文化を尊重し、我われの方がその土地の文化に溶け込んでしまう。そういったことが第一歩なんです。だから、食事もすべてこの国の人びとと同じものを食べることになりますよ。コニージョ神父パードレ・コニージョ、いいですかな」

 私への言葉だが、ポルトガル語だった。私はその言うことに大いに賛同できたので、大きくうなずいた。師も満足げにうなずいてから、笑顔のまま全体を見渡した。

「今後の我われの動きについてですが、皆さんはマカオに行かれる前にいたシモにとりあえず戻ってください。私も共にまいります」

シモ」というのがどこなのか、私にはさっぱり分からなかった。

「皆さんが前に住んでいた口之津クチノツまで、私は一緒に行きます。そのあとは有馬アリマに戻りますが。それと」

 ヴァリニャーノ師はそこで再び私に目を向け、

コニージョ神父パードレ・コニージョはしばらく私と行動を共にしてもらいますので、いっしょに有馬アリマに行きましょう」

 と言った。

「ただ、私は皆さんがもたらしてくれた書簡や書類に目を通してからにしたいと思いますので、それが終わるまでは皆さんはこの長崎でしばらく滞在していてください」

 どのくらいの期間かははっきりと言われなかったが、あの木箱の数からして、明日あさってというわけにはいきそうもなかった。

「どうぞどうぞいつまでも。そのほうがにぎやかでいいですからな」

 と、ロペス師は声をあげて笑った。

 それから食事となった。皆は器用にチーナやこの国での食事の道具である「ハシ」、すなわちバケッタを器用に使っている。そのバケッタを使えば、一切食物に直に手を触れることなく口に運ぶことができる。また、汁物ズッパも食器を直接手に持って口をつけて飲むのでクッキャーヨ(スプーン)も必要ない。マカオの人びとはバケッタとクッキャーヨ(スプーン)を併用していたように思う。こういうところまで、この国の清潔さは徹底しているようだ。

 またこの国の人びとは、手に持てる大きさの食器は、必ず左手に持って食べるというのも奇妙な風習だ。ただ、私はまだ慣れないだろうということでコルテーロ( ナ イ フ )クッキャーヨ(スプーン)が手渡された。たしかに二本の棒だけで食べ物をはさんで口に運ぶのは至難の技で、熟練が必要のような気がした。

 ローマやナポリの上流階級では肉などを切る時に左手で押さえる道具のフォルケッタ(フォーク)で食べ物を刺して口に運ぶ人々も出始めているらしいが、やはりそのまま手で食べるのが私には食べやすい。だが、いつまでもそういうわけにはいかないのでバケッタ、マカオでいう筷子ファイツすなわちハシを使えるように練習する必要がありそうだった。

 食事の後、聖務日課の時間を経て今日は早めの就寝ということになった。寝具はベッドではなく、畳の上に直接に布団を敷いて寝るというスティーレ( ス タ イ ル )だった。しかし、船の中の寝床のことを考えたらどこででも寝られるし、不平など言うこともできなかった。

 揺れない所で寝られるというのは天国で、この寝床も自分にはとてもありがたく感じられた。こうして、私の日本の国での第一夜は更けていった。

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