Episodio 4 チーナの夜(Macau)

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 船はマカオに直接行くのではなく、一度マラッカという町に寄港するという。私はそこもポルトガルの領有する土地であることは聞いていた。マラッカまでの船旅は、モサンビーキからゴアまでとほぼ同じくらいの約一カ月だった。マラッカの街がある大地も平坦だったが、やはり若干の丘陵が視界の果てにはあって、少し小高い円錐形の山も遠くに見えたりした。

 マラッカの街はゴアと同じように城壁に囲まれていたが、規模はゴアよりもはるかに小さいようだった。だが、城壁はやたらと高い。海岸線も城壁に囲まれていたので、港も城壁の外であった。その点、川沿いには城壁はなく、ただ防波堤のみがあったゴアとは違う。だが、船着き場のすぐそばに厳しい砦のような門があり、上陸したらすぐに城壁の中に入る形になる。

 さらにゴアと違って、ここは東洋の街なのだという風が至る所に吹いていた。見慣れない簡素な民家が雑然と立ち並ぶ街の中央に小高い丘があり、その丘周辺と丘の上には若干ポルトガル風の建物があった。丘の頂上は要塞となっているようで、さらに白亜の教会堂が見える。

 それがサンパウロ教会であった。

 さほど大きい教会でもなかったが、この町の人びとの家から考えると、必ずしも小さな教会ではない。この高台からは街が一望でき、さらに眼下の海もよく見える。海の彼方は水平線で何も見えないが、実はすぐに陸地があって、ここは海峡なのだそうだ。

 その隣の修練院ノビツィアードに二晩だけ泊めてもらい、三日後にはもうこの町を離れて出航だった。

 

 船は左右両側ともにうっすらと陸地が見えるような海峡を通過してからはどんどん北上し、約一カ月で小さな島に停泊した。山がちの本当に小さな島で目立った建造物は確認できないが、ここがサンジョアン島だということだった。名前の由来は残念ながら私の保護の聖人の洗者聖ヨハネではなく、使徒聖ヨハネの方だ。

 そしてこここそが、フランシスコ・ザビエル師の終焉の地である。マカオまでの船旅の中継地でも何でもないのにわざわざここに寄港してくれたのは、船長カピタンの私どもへの心遣いだろう。

 かつてここはマカオにポルトガルの居留地ができるまで、ポルトガル船の入港地として栄えた港だ。だが、今やマカオにポルトガルが根をおろしており、この島の港はもはや用済みとなってポルトガル船が寄港することもほとんどないという。

 たしかに港町を見てみてもポルトガルを思わせるような建物も何もなく、往時の繁栄を偲ぶすべもない。港といってもそこに立っているのはこの島の原住民の民家ばかりだ。

 上陸したのは我われ聖職者のみだった。そして私はあることに気がついた。リスボンを出て以来数々の地点で上陸したが、ポルトガルの領有している地以外への上陸はこれが初めてだったのである。

 人々の顔はもはや黒くもないが、我われのような肌の白さではなく黄色がかっており、何よりも目を引くのはその髪の黒さだった。白髪化した老人以外は皆一様に黒々とした髪をしているのだ。瞳も黒い。顔は誰もが平べったい顔だった。鼻も低く目も細い。しかし、その服装から、庶民といえども決してそんなに文化水準は低くないように感じられた。

 港に上陸して左手の、北の方に小高い山が見えた。その山の方に向かって行くとすぐに港町は終わり、山の麓が海岸線となる。その海岸線に沿って約小一時間、もはや民家すらも何もない山の麓を歩いた所にザビエル師の最初の埋葬地があるという。同行しているルッジェーリ師も鼻の頭まで汗びっしょりで、くたびれてほとんど会話もなかった。

 そして、地元の案内人が指し示す所から汗だくになりながら少し山を登ると、そこに野ざらしになっている空の白い棺が置かれていた。これだけがザビエル師を偲ぶ唯一の遺品だった。墓も記念碑なども全くない。我われはそこで黙祷をささげた。

 振り返ると海が一望でき、正面は湾となっている海を挟んでこの島の南部、そしてその背後に隣の島が顔をのぞかせている。そして右手に目をやると、海の向こうのすぐ近くに丘陵が連なる大地が横たわっている。その大地はもはやチーナの国なのだ。ポルトガル語ではシーナという。今ではミングという王朝が支配しているが、チーナやシーナという呼称は大昔の、キリスト御降誕以前のこの国の王朝のチーンに由来するらしい。

 ザビエル師の時代は我われエウローパ人が足を踏み入れるのはほとんど不可能な国だったようだ。その広さは地図で見る限り、エウローパ全部を合わせたよりも数倍の広さである。

 我われはザビエル師のあとを偲ぶとすぐに、今やそのチーナの国に対して門戸が開かれたマカオへと向かうべく、また一時間ほど歩いて船に戻った。船はすぐに出港した。

 ここまでくれば、マカオはもう目と鼻の先だ。今夜一晩船中で寝れば、明日にはマカオ到着ということだった。私はもう、喜びにあふれていた。ヴァリニャーノ師はマカオにいるという情報を、すでにゴアで聞いている。ローマ以来の久しぶりの再会に、私の胸は躍っていた。

 

 翌日、七月二十日の月曜日、予定通りに船は帆にいっぱいの風を受けて陸地の建物が密集する地域へと近づいていった。そこが港のようだ。大地の遠くが丘陵になっているほかはほぼ平坦な土地だが、小高い丘が町の真ん中に二つあるのが見えた。

 この町も、城壁で囲まれていた。だがその城壁はゴアやマラッカのようなポルトガル風のものではなく、土と藁を固めて壁にしたような見慣れない城壁だった。ゴアと違うことはそれだけではない。その城壁の中に納まるように入っている町はリスボンのような町などではなく、ぎっしりと立っているこの土地の原住民の民家なのだ。これまでもモサンビーキやマラッカなどで原住民の民家は目にしてきたが、それらは我われの感覚でいえば申し訳ないが土人の民家というような感じで、お世辞にも高度な文化は感じられなかった。だが、この土地は違った。ポルトガル風の建築物は見られなくとも、それらの民家に彼ら独自の文化の香りが感じられた。屋根は瓦ぶきで、壁は漆喰を塗っているのだろうかどの家も白亜の美しい壁であった。そんな町に、人がうじゃうじゃとあふれている。文明的ではないような人もたくさんいたが、明らかに高貴そうなこの土地独自の文化様式のきらびやかな服を着た、いかにも貴人と思われるような人たちもずいぶんいた。

 港に出迎えに来てくれたのは、司教座からの二人の司祭だった。もしかしたらヴァリニャーノ師がと期待していた私だったが、今や昔のようなただの修練院ノビツィアードの教官ではなく、イエズス会総長代行の巡察師ヴィジタドールなのだ。立場が違う。いくら昔の教え子とはいえ、長年会ってもいない一助祭をわざわざ港まで迎えに来てくれるような身分の方ではないと、私は自分で納得していた。

 まずは司教様に到着のあいさつに、司教座へと向かった。司教座と大聖堂カテドラーレは民家の間を歩いてもすぐだった。狭い街なので、どこに行くにもそれほど時間はかからない。

 司教座の大聖堂カテドラーレはゴアのそれのようなのを期待して、というかそう思い込んでいた私にとって、「え?」という感じだった。石造りではなく、木と竹でできている。木で建物を造ってしまう、それも粗末な小屋ではなく大きな大聖堂を木で造ってしまう文化に私は驚いた。形こそ教会という感じだが、なんか違うのだ。大きさもゴアのそれとは比べようもない小ぢんまりとしたものだった。その司教座の大聖堂の周りだけ、申し訳程度にポルトガル風の建物がある。だが、いずれも小規模のものだった。その不思議な雰囲気の大聖堂で到着の祈りを捧げてから、我われは隣接する司教座に向かった。

 メルキオール・カルネイロ司教様は六十代くらいの丸顔の老人で、左右の耳のあたりと後頭部底辺以外は全く頭髪がなかったが、それでいていかにも元気そうな方だった。しかも、イエズス会会士だという。

「いやあ、遠路はるばる。ご苦労様でした」

 私とルッジェーリ師を含む宣教団一行にまずはねぎらいの言葉をかけた後、司教様は航海のこととかを丹念に質問されていた。そして、このチーナにおける福音宣教の様子、いかにそれが難航しているかを切々と語られた。

「あなた方はこれまでポルトガル国の領有している土地ばかりを経て、ここにたどり着きましたね。しかしここは異国の真っ只中です。ミングの朝廷の海賊討伐を手助けして、我がポルトガルはやっとここでの永久居住権を手に入れたばかりです。住まわせてもらっているだけで、領有してはいません。しかも、居住するために、明にまあ、家賃のようなものを毎年払っている状態ですよ。それでもここを足がかりにできることはありがたいことで、まさにお恵みですな」

 司教はそういって笑った。宣教団の司祭の一人が、この町の人口などを尋ねていた。

「八百人ほどですな」

 それを聞いて私は、ゴアと同じくらい聖職者はいるのかと思っていたが、その考えはすぐに打ち消された。八百人というのは商人を含めたこの町のポルトガル人全体の数だという。そうなると、聖職者はもっと少なく、十人ほどしかいないとのことだった。そして城壁の中はその数倍の数の原住民が暮らしているという。あの城壁はポルトガル人のための城壁ではなく、もともとのこの町の城壁だったのだ。

「しかし、これからは状況が変わりますぞ。皆さんはいい時に来られた。インジャ(インディア)管区の中でこのマカオが教区として認められてから三年、私が最初の司教とならせて頂いてようやく今年、マカオに司教区が設けられたばかりです」

 聞くと、これまでこの町はポルトガル商人たちの自治で、この町のポルトガル人のコムニタ(コミュニティー)は運営されてきた。だが、今はポルトガル船団の長であるカピタン・モールが行政の責を負っているという。まだポルトガルが領有していないのだから、総督などというものは存在していないのは当然だ。だが、今のカピタン・モールのレオネル・デ・ブリトという人は、今ちょうど日本へ行っていて不在だという。

「時に、助祭のコニージョさんはどなたかな?」

 急に司教が話題を変えて私を指名したので、私は一歩前へ出た。

「私ですが」

「あなたの使命は日本まで行くことですな。日本はこのマカオ教区の管轄の中に含まれています」

 とうとうそこまで来たかと、私は感慨深いものを感じた。もっとも、日本はインディア管区の中だから、管区単位ではすでに近くに来ていたことになるのだが。

「今年の日本行きの船は出たばかりだから、次に日本へ行く船が出るまで一年以上あります。あなたはまずはここで日本の言葉を学びなさい。福音宣教には何よりも言葉が大切で、これから司祭になっても言葉が分からなければ信徒となった人びとの告解を聴くこともできませんからね」

 ますます日本が間近になったのだと私は実感した。

「先に日本に行かれているヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノからも、あなた宛てにいろいろとことづかっていることもあります」

「え?」

 一瞬私は耳を疑った。実はこの町の港に着いてからというものずっと、私は抑えきれないある気持ちがあった。だが司教様相手にそれをぶつけるわけにもいかず、さっきからじれったい思いをしていたのだ、だがはからずも司教様の方から、私が気持ちを抑えきれずにいる相手の名前、ヴァリニャーノ師の名前が出た。それも、不本意な形で。

「今、司教様は、ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノがすでに日本に行かれたとおっしゃったのですか?」

 カルネイロ司教はゆっくりとうなずいた。

「ほんのすれ違いですね。二週間前です。実はあなたの到着をあの神父さんパードレは待っていたんですよ。でも、間に合わなかった。西から東への季節風が吹いているうちに出航しないと、また一年も待たなくてはならなくなる」

 二週間と聞いて、愕然とした。あと二週間早ければ、ここでお会いできたのだ。待っていてくれたと聞いただけに、心にぽっかり穴が開いたようで残念でならなかったが、同時に温かいものも感じていた。ヴァリニャーノ師は昔の教え子にすぎない私のことを覚えていてくれたのだ。しかも、マカオに向かっていることもご存じだった。何かそれがやけに嬉しく、また私が日本へ行けば必ず会えると自分に言い聞かせ、それが希望ともなった。

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