私の毎日はほとんど学院コレジオの中で過ぎていった。

 マテオとアクアヴィーヴァ師、パシオ師はそもそもの目的がこのゴアの地とその周辺の海岸沿いの地域での福音宣教であったため、時々は同じ学院コレジオ内にあるイエズス会の宣教本部や、あるいは総督府まで出向いて布教会議などにも出席している。

 だから、ずっと学院コレジオの中にいる私を気遣ってか、ある日マテオは私を外に連れ出してくれた。別に勉学や祈りの合間に学院コレジオの外に出ることは自由なのだが一人ではなかなかそのような気が起こらなかったので、結果として私は学院コレジオに引きこもっているような生活になっていた。


 ゴアに来てから最初に行った大聖堂のあたりを歩きながら、どこまでも青い空を私は仰いだ。その青い空に大聖堂の二基の白亜の塔はよく映えていた。いくら教会が多く建てられているとはいえ、さすがにローマやリスボンのように一つの教会を出て道路一本挟んで別の教会というわけにはいかない。なにしろそれぞれの教会の敷地が広いから、その敷地内を歩くだけでもかなりの距離になるのである。

 マテオはこの町の中央部どころか、何度も城壁の外に行っているという。


「私には未知の世界だけれど、城壁の外って…?」


 歩きながら、思い切って尋ねてみた私に、マテオは笑顔を見せた。


「そう。未知の世界って君は言ったけれど、確かに、君が思っている以上に城壁の外は別世界だよ」


 私はその別世界に何度も行っているマテオがうらやましくもあった。


「城壁の中はまるでリスボンだけど、城壁を一歩出たらもうそこはリスボンではない。海岸は大部分がポルトガル領になっているとはいえ、そこに暮らしているのはまぎれもなくビヤープルに都を置くこの国の民だ」


「ビヤープルという都があるのか」


「ポルトガル語ではビジャープル」


 私は漠然と、この国はインディア、ポルトガル語ではインジャという国だとしか認識していなかったのだ。


「それで、そこでの福音宣教は?」


 マテオの顔が少し曇った。


「難しい。なにしろこの壁一枚隔てて、そこは異教徒のイズラムの世界なんだ。本来このインディアに根付いていたインドゥイズモ(ヒンズー)の教えも、今はほとんどイズラムと化している」


 我われローマで生まれ育ったものはそこには疎いが、スパーニャ(スペイン)ポルトガーロ(ポルトガル)の人びとにとっては、これまでも、そして今でもイズラムとの戦いに明け暮れた歴史といっていい。その相克が、このはるか天涯のこの地にまで持ちこされているようだ。


 また、そのようなことを抜きにしても、城壁の外は建物の建築様式から住んでいる人の人種、言葉、風俗習慣も全く違う異国が広がっているらしい。

 だが、実感がない。

 なにしろ、私はこの目ではまだそれを見ていない。もうまるでリスボンにいるのと変わらないこの城壁の中にいて、壁の外はどうなのかということについて話には聞き頭でも理解はしていたが、どうしても実感というのを持てずにいた。


「でも、いずれ主の栄光はこのインディア全体に及ぶだろうね。僕らがいる学院コレジオも、かつてはインドゥイズモの寺院があった場所だっていうからね」


 その時は、どういういきさつでインドゥイズモの寺院がなくなって自分たちの学院コレジオが建ったのか、そういった深いところまでは私は考えていなかった。

 そんな話をしながら大聖堂とは広場を挟んで隣接するフランチェスコ会の修道会と建築中の聖堂の近くまで来た時、その聖堂のすぐ近くにポルトガル風の大きな建物があるのを私は見た。それは教会の建物の一部でもあるようで、総督府のような政治的な雰囲気もする建物だった。

 正面には大きな扉が三つあった。


「あれは?」


 と、私はマテオに訪ねた。


「ああ、あれね。あれは聖なる家サン・カーサと呼ばれている」


 家というにはかなり大きな建物だ。


「ま、実はあれが異端審問所インクイジチオーネだよ」


 さらりと、マテオは言った。

 あれがそうかと、私はその建物を仰ぎ見た。総督府と並び、このゴアにおけるポルトガルの権威となっている機関だ。たしかにその建物は、町全体に無言の威圧を与えているかのようにも見えた。

 異端審問所といえばローマにもあるが、それは教皇様直属の部署で、我われ一神学生がその内情を知るすべもなかった。ただ、実際に行われたという具体的な話は聞いたことはないが、その異端審問所の断罪によって街頭で公開の火あぶりの刑も行われたことも昔はあったという。

 我われはその異端審問所の建物に近づいた。もちろん中へは入れない。そこでその周りを一周すると、建物から聖ラザロ広場カンポ・サン・ラザロに面したところに、円形状の特別な広場があるのが気になった。


「もしかして?」


 と、マテオに聞いてみると、


「そうだよ。ここが火刑場だ」


 やはりそういうことだった。

 私は無言で、その火刑場の前にたたずんだ。そう頻繁に火刑が行われているわけではないようだが、それでも確実にかつては使われていた。いや、今後も使われる可能性はないわけではないらしい。

 ここで、我われと同じ「人間」が火あぶりになり、その命を落としたのだ。


「ここの異端審問所はローマやスパーニャのものよりもずっと拷問は残酷で、火刑もしょっちゅうだって話だよ。でも、火刑が公開だってことのほかはすべて秘密裏にことは行われるみたいで、だから僕も詳しいことは聞かされていないんだ」


 私は万年夏の炎天下なのにうすら寒さを覚えた。

 だが、私が思い浮かべたのは、まだイエズス会ができるずっと前に行われていたと話には聞いたが、当然実際には見たこともないはずの昔の魔女狩りの火刑の場面だった。

 が、あえてその場はそのままにして学院コレジオに帰ることにした。


 学院コレジオで私は早速、司祭と話がしたいと思っていると、最初に出会ったのがパチェコ師だった。


パチェコ神父様パードレ・パチェコ、よろしいでしょうか」


 年はほとんど私と変わらないが、あくまで相手は司祭なので、神学生である私はへりくだって丁寧な口調で言った。


「なんでしょう?」


 私はパチェコ師と学院コレジオの教場の机を挟んで座った。


「こちらにも異端審問所があるようですけれど、やはり異端はこの地でもいるのですか」


 質問の内容が分かったようで、パチェコ師は笑みを崩さなかった。


「これだけの数の商人や軍人がポルトガル本国から来てここに住んでいますからね。中にはいろいろな人が混ざっていますよ。しかもこの町のポルトガル人たちは、どうも風紀が乱れています。それはあなたもご覧になって、感じませんでしたか?」


 そう言われても私はこれまでほとんど学院コレジオを出たこともなかったからはっきりとは答えられなかった。ただ、日々のミサはともかくとして、日曜日の主日のミサでもこの学院コレジオの聖堂でミサにあずかる人びとは聖職者のみであった。それは学院コレジオの中にある聖堂だから仕方がないと私は思っていたが、この時パチェコ師から聞いた話だと、街中の教会ですら日曜のミサに参列しているのは聖職者ばかりなのだという。


「ポルトガルの商人を装って、多くの新教やユダヤ主義者であるマラーノも入りこんでいます。それと、城壁の外には多くの異教徒がいる。だから、常に聖なる家サンタ・カーサが目を光らせておかないとね。今は総督府よりも、人びとは聖なる家を恐れています。もっともここでは教皇庁に属するローマの審問所と違って、総督府の建物といってもいいでしょうね。もちろん審問員は聖職者で、修道会に属さない教区司祭とドミニコ会から出ることになっていますけれど。それに、ここの審問所の権威はこの町にとどまらずに、その範囲はモサンビーキからマラッカ、マカオにまで及んでるんですよ。このあたりの地域で審問所があるのはここだけですから、その地域での案件はすべてここに来ますからね」


「異教徒も取り調べるのですか? きりがないでしょう」


 パチェコ師は、これには声をあげて笑った。


「異教徒は審問所の対象外ですよ。でもね、一度受洗して信徒になったにも関わらす棄教して自分の元の教えに戻ったものや、我われの福音宣教を故意に妨害したり、信徒の足を引っ張ってつまずかせようとした者などは、異教徒でも容赦はしないということです」


「容赦しない…とは…、それは、火刑ということですか?」


 それに対する答までには、少し間が空いた。師の顔から少し笑みが消えていた。


「まあ、そうなるでしょうかな。ただ、私がここに来てからはまだ一度も行われてはいないようですけれど」


「あの、もう一つ質問してもよろしいですか?」


 私は身を乗り出した。


「今、『まだ』とおっしゃいましたけれど、これから行われる可能性はあるのでしょうか」


「なんとも言えませんが、状況によっては。……でも、なぜそのようなことを?」


「あのう、火刑といえば人の命を奪うことですよね。十戒には『殺すなかれ』とありますけれど…」


 一瞬だけパチェコ師の顔が曇った。しかしすぐに笑顔を取り戻してパチェコ師は言った。


「十戒とは『天主デウス』が誰のためにモーセに授けたものですか?」


「まずはイスラエルの民…ですね?」


「そう、『天主デウス』の民、イスラエルの人びとに対しての十戒です。そして、今やイスラエルの民というのはユダヤ教徒を指すのではなく、主キリストの教会に集う我われのことです。ですから、異教徒や棄教者には適応されないのですよ。事実、『天主デウス』に逆らうもの、悪魔を崇拝する者たちは永遠にこの地上から滅ぼしてしまおうというのが『天主デウス』のみ意で、そのための道具として『天主デウス』は我われをお使いになることもある。実際、『旧約聖書アンティゴ・テスタメント』を見れば『天主デウス』が万軍を率いて異教徒を滅ぼしている様子など、たくさんあるではありませんか」


「はあ」


 私は言葉が出なかった。


「それでも悔い改めずに悪魔崇拝をするなら、それは悪魔です。人間じゃあない。だから、そういった人たちを火刑にしても、人を殺したことにはならない。その人が悔い改めてキリストを受け入れ、『天主デウス』と和解すればよし。そうでなければ、聖なる火に焼かれる永遠の滅びがあるのみです。それが悪魔に陥った魂を救うことにもなるのです。我われはそういった悪魔崇拝の、すべてのキリストに反する神殿も寺院も破壊しなければならない。事実、この場所にあったインディズモの神殿もことごとく破壊し、その上にできたのがこの学院コレジオです」


 マテオが言っていた、この場所がかつてはインドゥイズモの寺院があった場所だということも、そういうことだったのかと話がつながった。そうなるとまた、背中にうすら寒いものが走った。


「それから、言っておきます」


 パチェコ師は急に厳しい表情になって言った。私は全身を凍らせた。


「あなたは神学生としていろいろと疑問が出るのも当然だし、そうなったらこれも当然のこととしてどんどん質問をぶつけてくるべきです。ただし、この手の質問は少し控えた方がいいですね。あなたもイエズス会という一つの組織、ひいては主キリストの教会という共同体の一員なのですから。組織のすることへの疑問はまずは控えて、絶対的従順が大切ですよ。死人のごとき従順、そう教わってきましたよね? ローマでも」


「はい」


 私の返事は小声だった。たしかに正論で何も言い返せない。まあ、組織に入るとはそのようなものなのかと、その時の私はなんとか自分を納得させた。パチェコ師の言葉は、まだ続いた。


「神学生の方はどうしてもまだまだテスト(テキスト)の読みが浅い。書かれていることは限られていますから、そこでどう恩寵を戴いて、『天主デウス』のみ意はどこにあるのかを読み取る、そういった霊性を磨いて、己を高めなければなりません。そのためには自らがキリストと一体となる。キリストのみが『天主デウス』の直接の祭司であって、我われ聖職者はそれに奉仕するものにすぎないのです。キリストと一致し、教皇様と一致し、全教会と一致し、己の長上に一致して、決してそこから離れてはならない。そこから離れて独り歩きをしたら、それは傲慢に他なりません」


 パチェコ師の顔は元の柔和な顔つきに戻っていたし、口調も穏やかになっていた。そして、その話の内容も一応は納得できる話ばかりだった。しかし、同時に私はどうしても腹に落ちない何かがあるのを感じていた。それが何であるのかは、いくら頭で考えても答えは出そうもなかった。


 夜、自室に戻ってから、私は『福音書』をひもといた。

 それはローマから持ってきたもので、もう手垢でほとんどぼろぼろになっているものだ。


「あなたは人を裁くな。裁かれないためだ。人を裁けばそれと同じように自分も裁かれる」


 そんな主キリストの「山上の垂訓」の一節が目にとまった。異端審問は「裁き」ではないのだろうか? いかに『天主デウス』の御名によっての正義の審問でも、やはり裁きではないのだろうか。そして裁けば裁かれる……。

 私は祈った。答えを知りたかった。だがこの時もキリストは、ただ沈黙しておられるだけだった。

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