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 リスボンは、港町である。ローマよりも比べものにならないほど人びとの活気にあふれている。

 私とマテオが最初に上陸する時、それまで乗ってきた船は海に面する港に停泊するものとずっと思っていた。だが実際に錨を下ろした港はそうではなった。港は内陸に大きく入り込んだ入り江の北側にあり、外海は微かにしか見えない。対岸の陸地はすぐ目の前にあるが、入江の奥の方で面積は広がり、ちょっとした湖のようにも見える。

「これは川なんですぜ」

 荷物を積み下ろしていた船員の一人が、大きな箱を担ぎながら私とマテオにしたり顔で教えてくれた。

「川?」

「ずいぶん大きな川なんですね」

 私とマテオが驚きのあまり顔を見合わせてそんなことを言っているのを見て、船員は笑った。

「川は普通の川なんだけどな、海にそそぐ前に急に幅を広げて湖のようになって、そのまま海にそそぐってわけさ」

 だから、船も入って来られる。

 船員はイタリア語で言ってくれたが、そのあと街を歩く人々の言葉に二人とも緊張した。明らかに自分たちとは違う言語を彼らはしゃべっている。ここ外国なのだと、それだけで十分に思い知らされる。

 ただ、全く分からないわけではなく、ところどころイタリア語と似たような単語も混ざっていて、強引にいけば片言くらいはイタリア語とこの国の言葉であるポルトガル語とでも会話が成立してしまうこともありそうな気もする。そもそもがどちらも元がラテン語であるのだから当然だ。

 かつてのイタリア王国が約五百年ほど前に神聖ローマ帝国に包含されて以来、現在はイタリアという国は存在しない。だが、ナポリ王国、ローマ教皇領、ヴェネチア共和国、その他の小国家などイタリア半島に今ある国々の言語は、それをイタリア語と呼んで差し支えないだろう。


 上陸した我われは、すぐに教会へと向かった。サンロッケ教会は港から歩いてもそう遠くないところにあり、民家の間を細く続く緩やかな長い坂道を登って行けば、その白い正面ファチャータが民家の壁の間から見えてくる。

 町は太陽の光を浴びて明るく輝き、まぶしいくらいだった。港町らしく人々の活気にあふれ、解放感がみなぎっていた。言葉だけでなく、このような景色にも私は異国を感じていた。ごちゃごちゃごみごみしているローマよりもはるかに整然としており、緑も多く、輝いていた。そのような印象を私が受けた理由に、町全体が茶色っぽいローマと違って家々の壁が白いからかもしれないということもあった。白い壁とオレンジ色の屋根の家がどこまでも続く。そのあたりが、ローマとは異なる町の景観となっている。

 果たして教会も、白亜に輝いていた。我われの来着はすでに教会には知らされているようで、多くの司祭、修道士、神学生などが我われを温かく迎えてくれた。

 ローマのジェズ教会は、さほど大きい教会ではない。周りの民家よりかは少し大きいというくらいである…。だがこのサンロッケ教会はそれよりさらに一回り小さい。ここでもかろうじて、周りの民家よりは大きいという感じだ。


 リスボンの町は坂が多い。南の港から町全体がごくなだらかに北へと傾斜している。市内でも最も古い教会がリスボン大聖堂で、ここからもそう遠くはない。そして、町の中央の小高い丘の上がポルトガル国王の居城で、サンロッケ教会からも遠くにそれは眺められた。

 我われはこの町に、ふた月ほど逗留させられた。その間になすべきことといったら、まずはポルトガル語の習得だった。これから向かう東の国では、同じイエズス会士といえども多くの国々のメンブロ(メンバー)で構成されており、それゆえに互いが意思を疎通させるための標準の言葉はポルトガル語なのだそうだ。だが、私にとってそれはたいして難しい課題ではなかった。

 言葉を習得したら、この教会にいる年長の司祭たちとも会話ができるようになった。


 そしてリスボンに来てからひと月半ほどたったある日、一人のポルトガル人修道士が朝の食事の席で、我われが出発する日もそう遠くないことを我われに告げた。今回のアジア行きで我われが同行することになる助祭の方々が今日お城に呼ばれ、エンリケ一世国王陛下に謁見するのだそうだ。もちろん、神学生や修道士は留守番である。

 エンリケ国王陛下は現職の枢機卿でもあり、もう七十歳の老齢であるという。我われのリスボン滞在中にこの国は大きく揺れ動き、八月には異教徒のイズラム勢力との戦争で地中海を南に渡って親征した前国王セバスティアン一世陛下は、その戦いで戦死した。

 だからそのあとを受けて即位したエンリケ国王陛下はまだ新しい国王なのであるが、国王になるなど夢にも思っていなかった枢機卿時代からアジアへ派遣する宣教師を精力的にこのリスボンに集めていたと聞く。

 そんな国王に助祭の方々が今謁見していると話してくれた修道士は、だからこそ今日の謁見はいよいよ我われの出発を意味するのだと語り、

「あちらに行ったらヴァリニャーノ神父様パードレ・ヴァリニャーノにお会いすると思うから、よろしく伝えてほしい」

 と、温和な口調で笑みを含めながら言った。

 そのヴァリニャーノ師の名を聞いて、私は胸が躍った。なんと懐かしい名前なのか。それは、私がローマの修練院ノビツィアードで学んでいた時の教官だ。いや、ただの教官ではない。その情熱のすべてを学び取り、今の私があるといっても過言ではないだろう。年は私より十歳ほど年長なだけなのだが、人物としては私の何回りも大きかった。

「今、ヴァリニャーノ神父様パードレ・ヴァリニャーノはどちらにおいでなんでしょうか」

「ゴアに長くおられたようだが、もうマカオに移られただろう。いずれにしても間違いなく、日本に行かれるはずだ」

 そうなのだ。ヴァリニャーノ師はイエズス会総長代行として、東インジャ管区の巡察師ヴィジタドールとしてアジアの地に赴かれたのだ。それが二年前のことである。巡察師といえば東インジャ管区の宣教を統括する全権を委託されたことになる。いずれにせよ私は師と再会するはずなのである。


 「行け! 地の果てまで」と使徒たちを派遣したキリストは、「見よ、世の終わりまで常に私はあなた方と共にいる」と仰せになった。このみ言葉で、どんな天涯の地に行こうとも私は孤独ではあり得ないと自分を鼓舞しての旅立ちだったが、実際はこのような形で孤独から解放されることを主は御自身が「共にいる」と表現なされたのだなと、その時の私はそんなふうに観念的に考えていた。

 1578年3月21日、我われが同行する宣教師団の三人の助祭がサンロッケ教会から少し離れたリスボン大聖堂にて司祭に叙階され、私も参列した。ロドルフォ・アクアヴィーヴァ師とミケーレ・ルッジェーリ師、そしてフランシスコ・パシオ師である。

 アクアヴィーヴァ師は私とほぼ同世代、パシオ師に至っては少し若いようで、いわば年下の先輩だ。そしてルッジェーリ師だけが十歳ほど年上のように思われた。アクアヴィーヴァ師とルッジェーリ師の二人はナポリ王国出身、そしてパシオ師は私と同じ教皇領の出身だが、すなわち三人とも私やマテオと同じ言語を話すイタリア人であった。

 だがそれだけではなく、特にアクアヴィーヴァ師に関してはさらに親近感を持つ要素があった。

 彼の叔父も司祭でイエズス会のナポリ管区長の地位にあるが、その叔父はなんと学生時代にヴァリニャーノ師と学友だったということだ。

「私はヴァリニャーノ神父様パードレ・ヴァリニャーノを直接存じ上げないけれど、叔父からはよく話は聞いていたよ。でも残念ながら私は今回ゴア派遣だからたぶん今回も会えないね」

 そう言ってアクアヴィーヴァ師は笑っていた。パシオ師と、私にとって学友であるマテオも、同じようにゴア派遣だ。ルッジェーリ師はマカオ派遣で、この五人の中で日本まで行くのは私だけのようだ。


 そうしてその三日後、多くの船員や商人たちに混ざって我われ神学生二名と司祭三名、修道士八名の総勢十三人の聖職者を乗せた巨大なナウ船はリスボンの港で錨をあげ、入江の入り口のような川の河口から大海へと出て、帆に春の風をいっぱいに受けてまずは南へと針路を進めた。

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